5 接触

 絵梨香達を載せた二機のUH─60JAブラックホーク多目的ヘリコプターは、既に目に見える範囲でゾンビの掃討を済ませた中学校のグラウンド上空で静止ホバリングした。そこから二本のロープを使い懸垂下降ラペリングで地上に降りる。ロープを二本使用するのは片方を腰のハーネスに通して万一の落下防止策兼制動器とするためだが、これにより絵梨香達のような一般隊員でも比較的楽に降下が行える反面、地上に降り立つとハーネスからロープを外す手順が必要な上、ロープ一組毎に一人ずつしか降下できないことから展開までに時間がかかるという欠点があった。それに対してファストロープと呼ばれる降下法は、一本のロープに手だけでぶら下がり文字通り素早くファスト降りるやり方だ。ただし、激しい摩擦熱を生じるので手袋の装着が必須で、腕力のみで支えることになるため熟練の技術を要する。倉橋小隊でその経験があるのは空挺隊員である富沢とレンジャー有資格者の倉橋二尉だけだ。そこでより堅実な懸垂降下が選択されたわけだが、そのため市街地からやや離れた場所に降りなければならなかった。

 ここから目的のビル街までは歩いて向かう。その間、可能な限りゾンビとの接触は避けることが言い渡された。既にレンジャー隊員のみで編成された部隊が適当なビルの屋上に降り立ち、建物内に安全な居場所を確保した上で囮役として周辺のゾンビを惹き付ける準備を整えているはずである。絵梨香達はその隙にビル街に潜入し、この後、大型輸送ヘリCH─47チヌークにてやって来る主力部隊に情報を送るのが役割だった。そうした各偵察隊からもたらされた情報を基に、主力部隊はできるだけ安全なルートを確保し、生存者の救助を行う。作戦通りに行けばそうなる手筈だった。あくまで計画に狂いなく進んだ場合は、である──。


 そこは小規模な会議場のような空間だった。絵梨香達が辿り着いた時には、誰かが生活していたらしき跡こそあったものの、既に無人の室内となっていた。現在、ここに立て籠っているのは絵梨香を含む武井班の木村、井上、長野の四人。倉橋小隊における最後の生き残りである。

 他の隊がどうなったのかまではよくわからない。だが、不意打ちに等しい攻撃を受けて壊走したのだ。到底無事で済んだとは思えない。こうなった原因は幾つか考えられるが、元からして実戦経験のない者が机上で作り上げた作戦は当初より目論見を大きく外していた。まずは上空から支援や偵察を行うべき航空戦力が思うように集まらなかったことがその一つ。これは事実上、地上を移動するのが不可能となり、各避難所や重要拠点を守備していた部隊を集結させるのと、彼らを作戦当該地域まで移送するのに搭載能力が高い汎用ヘリの準備を優先させたため、整備に手間のかかる攻撃ヘリや偵察ヘリが後回しになったことが理由として挙げられる。加えてパイロット不足もあり、攻撃ヘリの要員を動員してまで輸送ヘリを運用せざるを得なかったのも一因だ。また、これとは別種の問題も発生していた。この凡そ二ヶ月間の攻防において部隊毎における士気や練度、ゾンビの脅威に対する見解の差が著しく生じていたのである。それは壊滅寸前まで追い詰められた部隊がある一方で、山奥の施設など比較的安全且つ堅牢な場所を守護していたため殆ど交戦経験のないまま来てしまった隊があるといった具合だ。指揮する者の所属も階級もバラバラで、当然ながら連携が上手くいくはずもなく、辛うじて組織としての体裁を保っていたに過ぎない。連隊規模における統一感が最後まで持てなかったのはこのせいであろう。

 だが、これらのことも突き詰めれば瑣末な原因と言えた。彼らが犯した最大の過ちは過去に幾度となく繰り返されてきた如何にも日本人らしい、そのあやふやな責任体質そのものと言って他ならなかったからである。例えば作戦の主眼は市街地に取り残された市民の救出とは言うものの、何を持って完了とするのかさえ明確にされていなかった。要するに現場に与えられていたのは救えるだけ救って退却せよという恐ろしく場当たり的な内容でしかなく、救助対象者が最終的にどれほどの人数になるのかも不明で、作戦区域も断片的な情報から単に重要人物が潜んでいる可能性が高いという理由だけで選ばれたに過ぎない。その上、仮に作戦が失敗した場合、誰がどのような基準で撤退の指示を出すのかも実のところ、はっきりしていなかった。確かに現在の最高位にあるのは小山田一等陸佐だったが、本来後方勤務の彼は作戦の遂行には不慣れということで、全体の指揮を演習経験も豊富な特殊作戦群所属の二等陸佐に一任していた。この二等陸佐はさらに現場での指揮権を子飼いの部下である一等陸尉に与え、自らは他の幹部自衛官らと共に駐屯地内の仮設本部に身を置き、そこから指示を出すことにした。そのようにして作戦開始の命令は二等陸佐から一等陸尉に下され、各部隊を率いる中隊長達に伝えられたのである。ただ現場を任された一等陸尉にしても全ての決定権が自分にあるとは考えていなかった。そうでありながら避難者を巻き込む恐れがある重火器の使用については本部の許可が必要とした以外、専権事項がどこまで及ぶのかを明らかにしようとはしていない。少なくとも重要な決定──作戦継続や撤退の判断は本部に仰がねばならないだろう程度の考えしか持たなかった。一方で二等陸佐は指揮こそ引き受けたものの、作戦失敗の責任を自らが負うのは嫌だった。司令官はあくまで小山田なのだから帰するところの責任は全て彼が負うべきと思い、作戦の成否がかかる決断は任せる気でいた。その小山田は指揮系統の混乱を恐れ、門外漢を理由に一切口を挟まないことを決めていた。つまりはこの時点で信じ難いことに作戦全体の意思決定を誰が行うのか知る者は一人もいなかったことになる。小山田が二等陸佐に最後まで責任を持てと言ったことはないし、二等陸佐がいざという場合は現場の判断を優先させて良いとも明言していない。一等陸尉が撤退の指示は誰が出すのかと訊ねたわけでもなかった。

 このようにして不測の事態にどのような対処をするのか曖昧なままで、作戦は決行された。それでも初期の段階から何もかもが破綻していたかといえばそうでもない。偵察隊が慎重に探索を進め、後方に続く主力部隊に情報を送るところまでは上手くいっていたのだ。後続部隊もゆっくりとではあるが、着実に前進していた。生存者発見の報告も無線を通じて徐々にもたらされるようになっていた。これには先行した別働隊がゾンビの潜んでいそうな建物出入口を片っ端から溶接するなどして封鎖して回り、外に出さないというアイデアが功を奏したのも大きい。当然ながら部隊の進攻は周囲の建造物からの視線に充分気を配り、特に低階層からは常に死角となる位置を選んで進んだが、この方法で万一発見されてもすぐに四方を取り囲まれる危険は少なくなったと言えよう。

 そうして若干とはいえ驚異の減った道路の端を倉橋二尉に率いられた小隊は三分隊に分かれて歩を進めていた。各分隊はそれぞれ二十メートルほどの間隔を開けて続いている。先頭を行くのは倉橋班で、その後ろを富沢班が続き、最後尾を絵梨香達の武井班が受け持つという布陣だ。各分隊の距離はビルの曲がり角や交差点などに差し掛かるたびに前後左右を隈なく安全確認するので、僅かながらに伸びたり縮んだりする。これまでのところ、発砲する機会は一度も訪れていない。発砲したからといって即座にゾンビが押し寄せるわけではないが──そうだとしたら自然音にも集まるはずである──目を惹きやすくなるのは確かなため、可能な限り使用は控えるに越したことはなく、そう命じられてもいた。それでも時折、聞き慣れた八九式小銃の銃声がどこかから聞こえるので、戦闘が行われているのは間違いない。絵梨香達もチャージングハンドルを引いて初弾を薬室内に装填済みの小銃を胸の前に掲げ、セレクターレバーを切り替えればいつでも発砲できる態勢を整えている。ちなみにレバーに描かれた表示はア=安全、タ=単射、レ=連射、3=三点射を意味し、八九式の前身である六四式小銃では三点射の機構はなく、その並び順から縁起を担いで「アタレ」と呼ばれていた。ただし、八九式小銃の切り替え順はセーフティーの状態から素早く制圧射撃が行えるようアレ3タで厳密には語呂合わせになっていない。使い勝手についてはレバーの位置が標準で右側にあること(切り替えに右手をグリップから放さなければならない)、逆方向に回せず単射の切り替えに時間がかかることなどから他国の制式小銃と比較して決して即応性に優れているとは言えないが、防衛を基本とする自衛隊にあっては安全性や堅実さを重視した結果と捉えられなくもない。この辺りはハンドガンとして回転式拳銃リボルバー自動式拳銃オートマチックのどちらが優れているかという議論にも通じるものがあり、絵梨香に言わせればどちらも一長一短で、そもそも使途の違うものを比べること自体がナンセンスということになる。

 やがてビル街を中心付近まで進んだところで、先を行く倉橋班と富沢班が角を曲がり、一時的に視界から姿を消した。その直後、絵梨香は奇妙な光景を目撃した。空からキラキラとした光の粒子が降りて来るように見え、一瞬粉雪でも舞い始めたのかと勘違いしかけたのだ。それがガラスの破片であるのに気付くのと、それらが地面に当たって砕ける音が響くのと、曲がり角の先から苦悶の呻き声が上がるのがほぼ同時だった。ガラス片は周辺のビルからばかりでなく、絵梨香達の頭上にも容赦なく降り注いだ。咄嗟に八九式小銃を頭上に掲げて身を護るが、落ちて来たのはそれだけではない。退避場所を探して周囲を見回した絵梨香の目前で、すぐ前を歩いていた小林の姿がいきなり消えた──ように見えた。何か柔らかいものが踏みつぶされるような音がして、足許に何かが転がっている。道端に押し付けられるようにして血溜まりの中に横たわるその人型の物体は手足がそれぞれ奇妙な方向に捻じ曲がり、しかも一人ではなく二人分あった。その意味を捉えるより先に、右肩の辺りを鈍器で殴られたような鋭い痛みが貫き、上空から何かが肩を掠めるように落ちてきたことを悟る。人間に見えたその落下物は、気付けば周囲の至るところで地面に激突していた。そのたびに鈍い音と、黒板消しをはたいたような埃が路上に舞い上がる。その光景が表す意味を漸く理解した途端、絵梨香は本能的な恐怖に襲われ、反射的に、逃げろ、と叫ぶと自分も駆け出した。落ちてきたのが人間だとすれば最低でも四、五十キロはあろう。そんなものを頭からまともに喰らえば大怪我で済んだらまだ良い方で、即死であっても少しも不思議ではない。現に小林が消えたように見えたのは落下をモロに受けた故なのは明白で、地面に打ち付けられた彼の頭からは脳漿らしき体液が流れ出ていてひと目で手遅れとわかる惨状だった。無論、落ちてきた方も只では済まないだろう。それが人間ならばだが。しかし、逃げるにしても狙って避けることは不可能で当たらないよう祈る以外どうしようもない。必死の思いで近くにあったビルの玄関口に向かった絵梨香は、あと数歩で軒下に逃れられるというところで、不意に足が動かなくなった。何かに引っかかったのかと下を向くと、地面に倒れ込んだ誰かが足首を掴んでいる。思わず声にならない悲鳴を上げた。

(こいつらはゾンビだ。ゾンビが降って来た。しかもまだ動いている)

 無我夢中でその手を振り解くと、漸くビルの軒下に駆け込むことができた。その間もゾンビの落下は止むことはなく、あちらこちらのビルの上階からガラス窓を突き破って飛び出してくるのが見えた。

(まさか待ち伏せアンブッシュされた……?)

 ゾンビにそんな知恵があるとは考えにくいが、何かの拍子で都合良く飛び出す奴がいて、他があとに続いたことはあり得たかも知れない。そうだとすればまさしく計ったように絶妙なタイミングでの不意打ちだった。低階層にばかり気を取られていて、高階層は無警戒だったことが悔やまれる。ゾンビといえども高所からの落下は忌諱するとの先入観があったのは否めない。それに加えて自分達の封鎖戦術が状況をより悪く上塗りした結果と言えるだろう。

 二キロほど離れた後続の主力部隊にも同様のことが起こっているらしく、オープンにした無線回線に混乱した声が続々と飛び込んでくる。その殆どがパニックに陥り指示を仰ぐ悲痛な叫びと、それに応じ切れていない上層部との無責任なやり取りを示す内容だった。ここに来て絵梨香は今度の作戦が如何に杜撰な管理下で実施されていたかを思い知ることとなった。

(上の指示は当てにならない。自分達で切り抜けるしかない)

 恐らくひと月以上にも及ぶ実戦経験と、この作戦が終われば部隊を離れる決意があればこその即断だっただろう。そうでなければ他の部隊と同様、慌てふためくだけで何一つ有意義な行動は取れていなかったかも知れない。良くも悪くも今の自分達は自衛隊という組織の枠組みから逸脱している。平然と脱走の企てを話していることからしてそうだ。ここで死んでは何のために密かに準備を進めたのかわからない。

 その頃になると他の班員達も続々と絵梨香の下に集まって来ていた。皆一様に血の気が失せた青白い顔をしていたが、小林以外は幸運にも大した怪我を負った者はいないようだ。その小林はといえば倒れた上からさらに別のゾンビが折り重なるように降り注ぎ、新たな衝撃を受けるたびにさながら濡れ雑巾を搾るが如く身体から残った血液を撒き散らしていく。その凄惨な光景を直視し続けるのが辛くなり顔を逸らしかけた絵梨香に向かい木村が、

「班長、あれを見てください」

 と言って別の方向を指差した。そちらに視線を転じると、何体かのゾンビが立ち上がりかけているのが目に入った。下敷きになった人間のように落下の衝撃で死ぬことはなかったものの、さすがに数十メートルの高さから地面に叩き付けられてはゾンビといえども五体満足とはいかなかったようで、大半は全身の骨が砕けたかして立ち上がることすらままならなかったが、そのうち道路がゾンビで埋まると今度はそれがクッションとなり、あとから落ちてきた奴の中には深刻なダメージを受けずに済む者が現れていた。しかも、その割合は確実に増加している。そいつらが立ち上がると同時に、辺りを見回し獲物を物色し始める。目に留まれば間髪入れずに襲って来るのは必至だ。かといって逃れようにも背後はゾンビに占拠されたビルの入口である。前方の道路に出るなら建物の傍へは近寄れず、落下するゾンビを避けようと思えば遮蔽物のないど真ん中を行くしかない。

「どうしますか?」

 木村の問いかけは一旦聞き流して、絵梨香は前方の曲がり角を見やった。やはり先行した二班の姿は確認できず、小隊内無線に切り替えて呼びかけてみるも応答はない。絵梨香は覚悟を決めて全員に告げた。

「ずっと道路に留まっていては危険が増す一方だわ。一先ず屋内に退避しましょう。安全な場所を確保した後、通りに取り残された味方の支援を行う。けど、このビルは駄目ね。未だにゾンビが降って来るのを見る限り、内部にどれだけ潜んでいるのか見当も付かない。まずは避難できそうな建物、つまり落下してくるゾンビが少ないビルを探すのよ」

 全員直ちに着け剣、と絵梨香は命じた。自らも腰に吊るした八九式多用途銃剣を鞘から引き抜き、小銃の先端に取り付ける。鍔にあるリング状の穴に銃身を通し、握り部分のアタッチメントを嵌めるだけなので簡単だ。他の班員達も皆それに倣う。

「十メートル以内に立ち上がるゾンビがいたら即排除。這って近付いて来る奴は弾薬節約のため極力銃剣で対処すること」

 そう言いつつ、辺りを警戒しながら周囲を見回した。退避場所に相応しそうな建物はすぐに見つかった。この場から三百メートルほど後方に、そこだけゾンビの落下が収まっているビルがあったのだ。元々潜んでいた数が少なかったのか、何らかの理由があって飛び出して来ないのかはわからない。内部の様子も不明だが、残された選択肢はなさそうだった。立地的にも後続部隊がもしこちらに向かって来れば支援しやすいはずだ。ただし、そうするには依然収まる気配のないゾンビのシャワーを掻い潜り、道路の真ん中で四方から狙われる危険を覚悟して向かわなければならない。だが、迷っている暇はなかった。今はまだ駆け寄るゾンビも少なく五人で何とか対処できているが、時間を追う毎に数が増えればそれほど長くは保たないだろう。携行する弾薬にも限りがある。絵梨香は眼前で立ち上がったゾンビの眉間を素早く撃ち抜くと、直ちに行動を開始した。

「今よ、走って」

 周囲の喧騒に負けないよう大声でそう叫び、真っ先に軒下を飛び出した。どうせ運任せになるのなら考えても仕方がない。半ば自棄で自分にそう言い聞かせる。木村達があとに続くのが気配でわかった。彼らに降って来るゾンビに当たらないよう祈れと言う必要はなかった。何故なら全員がとっくにそう願っていたからだ。


 そうして辿り着いたのが、六階建てほどの雑居ビル正面だった。だが、無事に到達したのは絵梨香と木村、井上、長野の四人で、最後尾にいたはずの北島の姿はない。誰もゾンビに襲われたところを見ていないので、恐らくは軒下から飛び出した直後に落下に巻き込まれたのだろう。それに気付かなかった自分のミスだ。しかし、今更何を悔いたところでもう遅い。引き返して生死を確かめている余裕はないのである。絵梨香は分隊長らしく冷徹な判断を下し、今いる者だけで先に進むことを決めた。入口の封鎖を苦労して解く。既にここへ至るまでにかなりの消耗を強いられていた。とても弾薬を温存しながら戦うなど不可能だったのだ。今やすっかり体臭の一部となった感がある硝煙の匂いが一層強く鼻腔を刺激する。さらに建物内に侵入してからも苦戦は続いた。どうやら建設途中のビルだったようで見取り図のようなものはまだなく、入り組んだ通路とどれも似たような空きテナント、さらにはそこかしこに積まれた工事用資材が邪魔をして、ゾンビに遭遇する機会こそ少なかったものの、いつどこから襲われてもおかしくない状況だった。全員が四方に神経を張り巡らせつつ慎重に奥へと歩みを進める。

「俺、ホント言うと銃剣術なんて現代戦で何の役に立つのかってずっと思ってましたよ。特戦(特殊作戦群)じゃあるまいし、CQC(Close Quarters Combat=近接格闘)と言ったって自分達が使う機会なんてないだろうって。いやぁ、何でも習っておくもんですね」

 先頭を行く木村が曲がり角で立ち止まり、自前の点検鏡で通路の左右を確認しながらそう話す。真後ろにいる絵梨香にしか聞こえない小声とはいえ、戦闘中の私語が厳禁であることは変わりない。だが、恐らく喋っていないと緊張と恐怖に耐えられないのだろう。絵梨香は大目に見ることにした。もっともそう言う木村の銃剣はたった数度の刺突でゾンビの体液にまみれ、もはや使いものにならなくなっていた。銃剣が飾りと化しているのは絵梨香も似たようなものだ。さっきゾンビの側頭部を突こうとしたら血糊で滑り、危うく噛まれかかった。他の者にも注意を促す。

 それでも何とか途中のゾンビを退け、四階まで到達する。そこで小学校の教室を三つほど合わせた広さの会議室を見つけた。他のテナントとは違い、その部屋だけは廊下側に窓はなく、入口は一ヶ所のみで、奥に向かってテーブルと椅子が雑多に置かれている。突き当りはちょっとした演壇になっているようだ。扉は防音性らしく重く頑丈で、素手で殴った程度ではビクともしそうにない。一先ずそこを退避場所に選んで井上が扉をワイヤーで固定する間に、長野がテーブルと椅子を手前に積み上げて簡素なバリケードを築き始める。本来ならバリケードの奥には分隊支援火器SAWであるミニミを設置したいところだが、生憎と機関銃手を務めていた北島と一緒に失われてしまった。手持ちの八九式で対応するしかない。二人がそうしているかんに、絵梨香と木村は道路に面した窓際に近寄って、外を眺めた。先程まで自分達がいたビルの入口が見える。そこから視線を巡らせるが、北島の姿はどこにも見当たらない。代わって絵梨香達がここまで辿り着くのを手間取っているうちに、統制を失った本隊から散り散りに逃げてきたと思われる別の自衛隊員達がゾンビに追われているのが目に付いた。その中には絵梨香達と同じく屋内に避難しようとして入口の封鎖を解いた途端、建物内から飛び出して来たゾンビに蹂躙される者達も数多くいた。どうやら絵梨香達がそうならなかったのは単純に運が良かっただけらしい。そのことを知りゾっとしながらも胸を撫で下ろしているにも、隊員達は次々と倒れていく。ゾンビにやられるばかりでなく、見境のなくなった味方から撃たれる者も多い。絵梨香は大急ぎで二脚バイポッドを立てた八九式小銃を床に下ろすと、肩に掛けていた対人狙撃銃のスリングを外し、銃口を窓の下に向けた。ボルトハンドルを引いて射撃体勢を整えるもなかなか引き金が引けない。狙撃自体が難しかったわけでも銃声が轟くのを懸念したわけでもなかった。標的があまりに多過ぎて、どこから手を付けて良いのか瞬時に判断が付かなかったのだ。無闇に撃っていてはあっという間に五十発の携行弾薬を使い果たしてしまいそうだった。隣では木村が絵梨香に倣い八九式を構えるが、やはり躊躇している。照準器を覗いたまま小声で、どうします? と訊ねた。

「……ギリギリまで堪えて、隊員に取り付きそうな奴だけ狙い撃つ。そっちは無理をせず単射か三点射で確実に仕留められる場合のみ対処して。極力、無駄撃ち、誤射は避けること。その結果、助けが間に合わなくてもやむを得ない。責任は私が負うわ」

 了解、と木村が短く言い、絵梨香はリューポルドMK4のレティクルに最初の標的を捉えた。隊員に覆い被さるギリギリを狙い撃って命中を確認した瞬間、耳に装着した受信機レシーバーから聞き覚えのある声が響いた。

「──か聞こえるか? こちらは富沢。倉橋隊の誰か、聞こえていたら応答しろ」

 スナイパーとしては不覚にもスコープから視線を外してしまい、絵梨香は隣の木村と顔を見合わせた。慌てて胸に提げた端末の通話プレストークボタンを押して返答する。

「こちら武井。聞こえています。送れ」

「武井か。今、どこにいる?」

「襲撃があった地点から三百メートルほど後退した南東のビル内。四階から道路を見下ろす部屋です」

「そこは安全か?」

「今のところは。富沢さんはどこに?」

「俺達は最初の襲撃地点の近くから身動きできずにいる。そこからはビルの死角に入って見えないはずだ」

 確かに絵梨香達の位置から富沢を直接、視認することはできなかった。ただ、俺達ということは他にも無事な者がいるということだ。一瞬、安堵しかけた絵梨香だが、続く富沢の言葉に声を失った。

「こちらは小隊長を含む一班全員がやられた。一瞬の出来事だった。目の前を歩いていると思ったら、次の瞬間にはゾンビの下敷きになっていたんだ。二班も残っているのは俺と安田だけだ。三班は皆無事か?」

 絵梨香は内心の湧き上がる動揺を無理矢理に抑え込みながら答えた。

「小林と北島がいません。他は無事です。富沢さん、今から助けにいきます。待っていてください」

 思わずそう口走ってから、しまった、と後悔した。そんなことは不可能だとわかりきっていたからだ。いかん、その場を動くな。富沢にしては珍しく必死の口調でそう止めてくれなければ後味の悪い思いをしていただろう。

「俺は両足を骨折している。所謂開放骨折というやつだな。脛から白い骨が見えてるよ。今はもちろんだが、完治したとしてももう二度と歩けんだろう。安田も似たようなものだ。どの途、俺達はもう助からん。それよりも大事な話がある。後続部隊は壊滅した。しかも、それだけじゃない。個人的なルートから得た情報だ。本部のある駐屯地もゾンビに襲われているらしい。どうやら救助した人間の中に感染者が紛れ込んでいたみたいだな。小隊長が危惧していたことが現実になった。倉橋隊長は最低でも数時間は救助者をこの場に留め置き感染の有無を確認すべきだと進言していたんだが、その意見は通らなかったと見える。大方、ゾンビの脅威を甘く見ていた馬鹿共が手柄を自慢したくて移送を急がせたんだろう。いいか武井、よく聞け。組織としての自衛隊は終わりだ。これ以上、服務規定に囚われる必要はない。可能なら自力で脱出しろ。お前達だけでも生き残──」

 そこで突然、通話は途切れた。以後、何度呼びかけても応答はない。作業を終えた井上と長野も合流して不安げに見守る中、絵梨香は木村に呼びかけを続けるよう命じておき、自らは富沢達がいる方角に最も近い部屋の隅まで移動して、少しでも彼らの痕跡を見つけ出そうと窓の外に目を凝らした。無論、そんなことで何かを発見できるはずがない。単なる気休めに過ぎないことは絵梨香自身が一番承知している。それでも諦め切れず窓から顔を覗かせていると、突然、向かいのビルから銃撃が始まった。思わず自分が撃たれた気になって首を竦める。改めてよく見直すと、絵梨香の位置から斜め下、対面に当たるビルの三階に二つの人影が確認でき、道路に向かってフルオートの連射を浴びせている。屋内に逃げ込めたのが自分達だけでなかったことにホッとしかけたのも束の間、すぐに彼らが冷静さを欠いていることに気付いた。何故なら僅か三秒ほどの瞬く間に三十連弾倉を撃ち尽くしてしまったからである。興奮した新兵がよく引き起こしがちなパニックだ。しかも碌に狙いを定めていないため、ゾンビに混じって逃げ惑う隊員達にも被害が及んでいる。さらにもう一度弾倉を交換して続けるが、そこで弾切れになったらしく漸く銃撃は止む。安堵して一旦目を離した次の瞬間、窓から白煙が立ち上るのが見えた。まさか、と思うが、見間違いようがない。一一〇ミリ個人携帯対戦車弾LAWのバックブラストであることは即座に理解できた。当然ながらこんな敵味方が密集した状態でLAWなど撃ち込めばどうなるかは火を見るより明らかで、一拍後には激しい爆発音に味方の悲鳴が重なる。絵梨香達がいる四階にまで濛々とした黒煙が舞い上がり、その僅かな切れ目から眼下の様子が垣間見えた。無残にもめくれ上がったアスファルトの残骸の隙間に、ぼろ布のようになって折り重なる無数の人影があった。それをオレンジ色の炎の瞬きが照らしている。目を凝らせば迷彩服とわかることも少なくないが、もはやゾンビとの区別は付きそうになく、それでも僅かに動いている者もいる。それらを蒼然として眺めていた絵梨香の視界の片隅で、またしても不穏な動きがあった。急いでスコープ越しに向かいのビルを覗き込む。その室内では二人の隊員が撃ち終わったLAWの使い捨て部分である発射筒を新たなカートリッジに交換しようとしていた。

(まだやる気か。止めないと)

 絵梨香は必死に窓から声を張り上げる。近くでは木村達もあらん限りの大声で叫んでいた。だが、先程の発射で鼓膜をやられでもしたのか二人がこちらの呼びかけに気付く気配はない。絵梨香は狙撃銃を構え直すと、スコープの中に二人の隊員の姿を収めた。そこから僅かに照準をずらし、彼らの頭上で天井からぶら下がる照明のガラスシェードに狙いを付ける。これで冷静さを取り戻すことを願いながら、引き金を絞った。突如、照明が砕け散ったことに二人は驚いた様子で辺りを見渡し、一人が絵梨香に気付くと、もう一人に向かってこちらを指差し何かを怒鳴っている。すると、あろうことか交換し終えたLAWを絵梨香達の方に向けた。どうやら本気で攻撃を受けたと誤解したらしい。それならこの距離で外すはずがないと混乱した頭には通じなかったようだ。最悪の方向に裏切られる結果となった絵梨香の行動だが、すでに射手の指は安全装置にかかる寸前だった。反射的にボルトを引いて排莢と次弾装填を同時にこなした絵梨香は、今度は確実に相手に狙いを定めた。もし先に撃たれれば狭い室内において助かる見込みは誰にもない。全員が確実に死ぬ、そう考えた時、腹は決まった。生きた人間を撃つのは無論、これが初めてである。スナイパーにとって最も重要な資質は殺人という禁忌を冒しても壊れない心、と陰で言われるように、多くの同業者が罪の意識に苛まれPTSD(心的外傷後ストレス障害)等を発症することも知っている。それでもこれ以上、仲間を失うよりはマシと絵梨香は思えた。壊れるなら壊れればいい、ただし、それは今であってはならない──。

 LAWの射手が引き金に指をかけたのと同時に、絵梨香は撃った。だが、狙いは頭ではなく、肩だった。確実を期すなら即死させるべきだが、そこが狙撃手としての絵梨香の限界点だったと言えよう。対人狙撃銃M24 SWSから放たれた秒速約八百五十メートルの七・六二×五一ミリNATO弾は、絵梨香が思い描いた通りの軌跡で、ほぼ正確にLAWを構えた隊員の右肩を撃ち抜き、右上腕関節とその後ろの肩甲骨を粉々に砕いて、この時点で彼の利き腕は二度と正常な機能を取り戻せないことを確定させていたが、本来なら脳の中枢神経を破壊して一瞬で筋肉への伝達を断ち切るべきところをそうしなかったため、後方に吹き飛ばされながらも僅かにトリガーを引く猶予を与えてしまっていた。もっとも砲口は既に絵梨香達から外れており、カウンターマスと呼ばれる金属粉を後方に飛ばすことで発射の反動を相殺された弾頭は、秒速にして約二百五十メートルを突き進むロケットブースターを点火させた直後、目の前の天井に着弾し、先頭のプローブを引き出さず建物等への榴弾仕様としていたが故、恐ろしい勢いで周囲に爆散すると、破片と圧力で瞬く間に二人の隊員をミンチ状に擦り潰して辛うじて崩れずに残った梁や床にびっしりと纏わり付かせた。当然ながらプローブを引き出して対戦車仕様としていても結果はさほど変わりなかっただろう。ただし、その爆発が向かいのビルに及ぼす影響はまた違っていたかも知れない。少なくとも今度に限れば全ての窓ガラスを粉々に粉砕して内側に撒き散らし、コンクリートの破片を流星雨のように打ち込むこととなった。それでも咄嗟に全員が床に臥せたおかげで、辛うじて被害を免れたことはまさに僥倖と言って良い。絵梨香に至っては粉塵と煤にまみれてこの日、何度目となるのかわからない悪態を吐く羽目にはなったが──。


 ──そこから優に丸一日以上は経過している。あれほどの犠牲を払ったにも関わらず、もはや通りに生きた人間の姿はどこにもなく、新たに葬列に加わった者を含め、還る場所を持たない僅かな死者だけが未だに外を彷徨き回っている。一方で絵梨香達には立ち上がる気力すら残されていなかった。全員で床にどっかりと腰を下ろし、口数もめっきり減っている。それも無理からぬことと言えた。何しろ、貴重な弾薬を粗方消費し尽くしてまで撃ちまくったのに、目前で助けられた仲間は一人もいなかったのだ。その上、救助した者の安否も定かではない。この戦闘に本当に意味があったのかと嘆きたくもなる。さらに作戦終了後、落ち合う手筈だった航空科の隊員とも連絡が付かずにいた。彼らだけで逃げたのか、あるいは何らかの事態に巻き込まれたのかは不明だ。本部との通信も途絶えたままで、これだけ待って何の救援も送られて来ないところを見ると、富沢が告げたように駐屯地もやられた可能性が高いと思わざるを得ない。その富沢には自力で脱出しろと言われたが、目下のところ、目処はまったく立っておらず、今や絵梨香達は敵地の真っ只中に身一つで投げ出された孤立無援の存在と呼んで一向に差し支えなかった。

「──『状況開始』で良かったのかな?」

 唐突に長野がポツリとそう口にし、俯いていた他の者達は反射的に顔を上げた。突然の言葉に真意が掴めなかった絵梨香は、何のことか、と問い質した。まさか長野までおかしくなったとは考えたくない。

「大したことじゃないんですけど、そういえば作戦が始まる際の合図を聞きそびれたなと思って。この中に誰か聞いた人、います?」

 長野以外の全員が首を横に振る。それがどうしたんだ? と木村が皆の疑問を代弁して訊ねた。

「少し前にネットで議論されていたんですが、よくアニメや映画に出てくる自衛隊って実際に戦闘を始める時、『状況開始』って言うじゃないですか。それがおかしいんじゃないかって」

「別におかしくないだろ。俺達だって普段、使っているわけだし、合っているんじゃないか?」

 木村がやはり意味がわからないといった風に応える。『状況開始』や『状況終了』は作戦の始まりや終わりを示す意味で使われる自衛官にとっては馴染み深い用語だ。特に疑問に思う理由が見当たらない。

「それって演習ではってことですよね? 状況には実戦形式の訓練とか練習といった意味合いがありますから、それは間違いじゃない。けど、逆の見方をすればフィクションとはいえ本当の戦闘を行うのに『状況開始』はないだろうってことです」

 なるほど、そういうことか、と絵梨香も得心がいった。本番の戦いに演習の開始を告げる合図はおかしいというわけだ。だったら何と言えば良いのだろう?

「『作戦開始』が正しいんじゃないかって意見がありますね」

 だったらそうなんじゃないですか、と井上が口を挟んだ。

「ところが、そうでもない。状況とは予め定められた行動という意味もあるから、実戦でも『状況開始』は間違っていないという主張もあるんだ」

 現役自衛官と称する人達の間でも意見が割れていた、と長野は付け加えた。確かにそう言われると、絵梨香にもどちらが正しいのか判断が付かない。ただし、この話の主眼はそこではないだろう。要するに過去において自衛隊は一度として演習以外の目的で作戦の遂行を命じたことがないという事実を表しているのだ。現に命令を聞く側の自分達でさえ誰も実戦がどのような形で始まるのか知らなかった。

「考えてみたら俺達ってそんなことが議論されるほど平和な時代に生きていたんだよな」

 木村が沁み沁みと思い返すように言った。その言葉に釣られて一同が頷く。

「……でも、それはもう過ぎた過去の話よ。どんな合図だったかはさておき、命令は下されて私達は戦い生き残った。そして今も生きている。少なくともまだ考えられるだけの頭と時間は残されているわ。それをみすみすどぶに捨てる手はないわね」

 話しているうちに、絵梨香は失った気力が僅かながらも取り戻せたのを感じた。意味がないと思われた長野の話もあながち無駄ではなかったようだ。

(そうだ。どうせ死ぬなら最後まで悪足掻きしてやろう。達観したふりをして潔く死を受け容れるなんて自分には似合わない)

 無様に這いずり回った挙句、みっともなく死んだのであれば先に逝った仲間達も納得して迎え入れてくれるのではないか、そんな気がした。似たような思いは全員が抱いたようだ。今まで顔を上げるのも億劫そうにしていた木村が、やるだけやってみますか、と真っ先に応じた。

「それぞれの持ち弾は?」

 絵梨香が全員にそう訊ね、残り十、と銃から取り外した弾倉を眺めて木村が言う。八九式の弾倉には元々側面に残弾確認孔があって外側からでも装填された弾数を確かめることが可能だ。もっとも埃や虫が入り込むトラブルを嫌い、わざわざテープで孔を塞ぐ隊員もいるほどだからさほど役に立っているとは言い難い。

「自分もそれくらいです」

 続いて井上もそう申告する。長野はそこまで逼迫していなかったが、二人に回せるほどの余裕があるわけでもなかった。絵梨香は自分の八九式から殆ど使わなかった弾倉を取り外すと薬室内の一発も抜き、まとめて木村に渡した。井上には最後の予備弾倉を与える。

「けど、それじゃあ、班長が──」

 お役御免となった八九式に一瞬だけ名残惜しげな視線を向けてから、木村がそう言いかけたのを遮るように、私にはこれがある、と絵梨香は対人狙撃銃を掲げてみせた。

「五発しか入らないじゃないですか。ボルトアクションだし」

薬室チャンバー内を入れたら六発よ。それと──」

 キューミリ、と絵梨香はレッグホルスター(正式には足首などに着ける物と区別するため、太腿を意味するthighからサイホルスターと称される)に納めた自動拳銃を軽く叩いた。これは自衛隊内では九ミリ拳銃と呼ばれ、スイスのSIG社と当時その傘下にあったドイツのザウエル&ゾーン社によって開発された軍や法執行機関向けの自動拳銃SIG SAUER P220を国内でライセンス生産したものだ。その呼称が示す通り自衛隊では9×19ミリパラベラム弾と同等の弾薬が使用されるが、マガジンの装弾数は九発と採用から三十年以上を経た現代では物足りなさを感じる。しかも本来オリジナルのP220がアメリカ市場を意識して.45ACPモデルを想定していたため、シングルカラムでありながら日本人にはややグリップが大き過ぎるという問題があった。そのため国内ライセンスモデルは小型の形状に改められているのだが、それでもまだ日本人の手には余りがちだ。どうせ馴染まないならダブルカラム方式で装弾数が十五発に増えた後継のP226を初めから採用していれば良かったのにと絵梨香は常々思っていた。ちなみにP220は機関部側面などに設けられた切り替えレバーでトリガー機構をロックするマニュアルセーフティーを持たない自動式拳銃である。代わりに起こした撃鉄を安全にハーフコック位置までリリースするためのデコッキングレバーが採用されている。特に日頃、銃を扱い慣れていない日本人にはよく勘違いされがちなことではあるが、外部安全装置エクスターナル・セーフティーの一つであるマニュアルセーフティーやサムセーフティーは銃を無害なものにするための装置ではない。危険のない状態で銃を携行するなら薬室を空にし、弾倉を抜けば済むことだからである。マニュアルセーフティーには使用者の意図しない暴発を防ぐと同時に、必要な瞬間には直ちに発砲できる状態を保持するという目的がある。それ故、現在主流のダブルアクション式の銃では不要との捉え方もできた。何故かと言うと、ダブルアクションではそもそも一種のセーフティーである撃鉄が下りた状態ハンマーレストで携行するのが望ましいとされているためだ。そこからでも薬室内に初弾が装填されていればトリガーを引くだけで撃鉄は連動して起き上がり撃発は可能で、即時性が失われることもない。即ち、暴発を防ぐ意味でのマニュアルセーフティーは殆ど無用となる。回転式拳銃にマニュアルセーフティーを持たないものが多いのも同様の理由だ。ただし、この状態からの使用は撃鉄を同時に動かす分、初弾の反応が遅く狙いも荒くなるのは確かで、銃によってはSAO(シングルアクションオンリー)だったりダブルアクション機構を持ちながらも標準でマニュアルセーフティーを備えていたりといったものも少なくない。いずれにしても外部安全装置エクスターナル・セーフティーだけでは不十分で、内蔵安全装置インターナル・セーフティーとの併用が重要だ。例えば今、絵梨香が携行する九ミリ拳銃は一旦遊底スライドを引いて薬室に初弾を装填した上で、デコッキングレバーの操作で撃鉄ハンマーをハーフコック位置に戻している。この状態からならトリガーを引き切らない限り、まず暴発の恐れはない。仮に銃を落とすなどして何らかの衝撃が加わり撃鉄が落ちても内部構造のハンマーブロックに阻まれるし、そのハンマーブロックが破損したとしてもAFPB(Automatic Firing Pin Block)によって肝心のファイアリングピンは動かないからだ。この状態をコンディション2と呼ぶ。これよりも即応性を高めた形態が撃鉄を起こコッキングしてマニュアルセーフティーをかけたコンディション1で別名コック&ロックとも呼ばれるが、暴発の危険も増すため扱いには習熟が必要で、ダブルアクション・オートでは殆ど採用されていないのが実情だ。なお、コンディション3は撃鉄が下りて薬室内が空のより安全性が高い状態を指す。

「でも、九ミリパラの豆鉄砲じゃ余程上手く当てないと、奴らには致命傷にはならないですよ」

 その木村の言葉に、私を誰だと思っているのかと絵梨香は軽口で応じた。とはいえ、木村の言うことは正論である。絵梨香も拳銃で本当に身を護れるとは思っていない。徒手よりはマシだろう程度の認識だ。その代わりというわけではないが、どうせこの先は使うまいとM24からスコープを取り外し、丁寧に緩衝材に包んでポケットに仕舞い込んだ。これで多少は取り回しやすくなる。長距離狙撃銃であるM24にアイアンサイトはないが、勘だけでも何とかなるだろう。どうせ近距離の照準合わせなどしていない。

「さて、これで一応態勢は整ったわね。整ったと言えるほど万全じゃないけど。犠牲になった隊員達から装備を回収できれば良いんだけど、彼らもさほど余力は残していないだろうし、無理をしてまでやる価値があるかどうかは考えどころだわ。いずれにしても脱出を図るには何もかも心許ないと言わざるを得ない。このまま救援を待つこともできるけど、現状ではそれも望み薄だと思う。どう見ても八方塞がりよ。言っておくけど、この状況で一発逆転のアイデアなんて期待しないで頂戴。そんなの無いから」

 わざとおどけた調子で言うと、安心してください、幾ら男勝りの班長でもそこまで期待してませんから、と木村がニヤリとして答えた。そうそう、たまには女子扱いしてあげないと、と長野もそれに追従する。この場にいる最年少の井上までが、このままだと嫁の貰い手がなくなりますもんね、と口にし、男三人で笑い合う。暫く男共を睨み付けていた絵梨香だったが、やがて相好を崩すと釣られて自身も苦笑いした。

「とりあえずヘリは無理でも車は必要になるわね。どこに向かうとしても」

 笑いが収まったところで絵梨香は再び現実的な話に戻った。

「本隊のいた場所まで行ければ高機動車くらいはあると思うんですが、たぶん道中はゾンビだらけでしょうね。こうなると装甲戦闘車両AFVが持ち込めなかったのは痛い」

 木村がそう話すと、例の一六式機動戦闘車が来てたらなぁ、と長野が現在配備が進む最新の装輪装甲車の名を挙げて悔しがった。これは戦車のような大口径の主砲を備えながら履帯クローラーではなくタイヤで走行する戦闘車両で、空挺戦車を持たない自衛隊の被空輸性や路上機動性の不足を補うために開発されたものだ。

「そんな贅沢は言わない。この際、軽トラだってオート三輪だって有り難い──」

 木村が真剣な表情でそう言い終えようとした時、

「あー、誰か聞いているのか? おーい?」

 と突然、無線に間の抜けた声が飛び込んできた。明らかに交信規則を無視していることから、部隊内無線とは考えられない。咄嗟に全員が顔を見合わせ、代表して絵梨香が呼びかけに応じた。

「聞こえているわ。そちらは誰?」

「その声は女か。念のため確認するが、あんたも自衛隊員なのか?」

 砕けた物言いに、やはり民間人だと絵梨香は直感した。ただ、使われているのは暗号化されていないとはいえ、一般には非公表の秘匿周波数帯だ。偶然の混信とは考えにくい。どこかで自衛隊員の通信機を手に入れ、呼びかけてきたと見るのが妥当だろう。問題は何のためにかだ。それが判明するまでは迂闊なことを口にできない。絵梨香は慎重に答えた。

「ええ、そうです。陸上自衛隊一等陸曹……といってもあなたには何のことかわからないでしょうけど、一応は自衛官よ」

 ちょっとした鎌掛けのつもりだったが、この相手には通じなかったようだ。

「一応ね……階級を聞いてどう応じるか試したのか? まあ、別に隠す必要はないから教えるが、俺は民間人だよ。民間の中にも任期自衛官と職業自衛官の違いくらいわかる奴はいる。ついでに言うと無線は落ちていたのを拾ったものだ。そんなわけで交信のルールがわかっていないのは勘弁してくれ。それで、あんたは一人か?」

 この質問には一瞬、返答を躊躇する。これが通常の戦場であれば得体の知れない相手に戦闘の有利不利に直結する部隊の人数を洩らすなど考えられない。が、この状況で自分達をどうにかしようと考える合理的理由は一切なかった。それなら進退窮まった自分達の助けになるかも知れないという一縷の望みを託して正直に答えた方が良さそうだと絵梨香は判断した。

「私を含めてこの場にいるのは四人よ。全員が同じ部隊の仲間ね」

「あんたが代表して話すってことは、それ以上の階級の者はいないということだな。曹士だけか。分隊規模の生き残りって感じか? まあいいや。その中に怪我をした者はいるか? 奴らに噛まれたり引っ掻かれたりした奴は?」

 やはり鋭い。言うだけあって自衛隊についてもそれなりの知識はあるようだ。わざわざ感染の可能性を訊ねてくる辺り、何かしらの腹積もりがあると期待して良いのだろうか……?

「感染を疑っているならそれはないわ。ここに籠城してから二十四時間以上は経過している。その間、ゾンビとは接触していない。自衛隊の見立てでも私の経験上からも感染していれば症状が現れていると断言できる。そうじゃなくて?」

 それに対する直接の回答はなかった。その反応に絵梨香はひょっとしたらそれ以上の潜伏期間もあり得るのだろうかと、ふと気になった。正体不明な相手に考えが先走り過ぎている気がしなくもなかったが、何となく無線の先にいる人物は絵梨香達よりゾンビに詳しい感じがする。そう思わせるこの男は一体何者だろうか……? だが、相手が誰であれ目的が何であれ今はすがるしかない。その絵梨香の心中を察したかのように、向こうが問いかけてきた。

「単刀直入に訊くが、助けは必要か?」

 必要と言ったら助けてくれるのか、と言いかけて、止めた。理由がどうだろうと手を差し伸べてくれようとする相手に無礼な気がしたからだ。ここは素直に認める。

「ええ。私達だけではどうにもならなくなっていたわ。正直に言って誰の手でも借りたい心境よ。助けてくれるなら有り難いけど、本音を言えば当てになるのかと疑ってもいる」

 そう答えると、フッと鼻先で無線の向こうの相手が笑ったような気配が伝わってきた。どうやら本心を曝け出したことが好評価だったらしい。とはいえ、現実としてみれば民間人にできることなど知れているのは確かだ。過分な期待はすべきでないだろう。

(せめて車でも用意してくれたら)

「疑うのは当然だろうな。けど、助けるなら俺の指示に従うことが条件だ」

 相手がそう言う。どうするつもりなのか教えて欲しい、と絵梨香は訊いた。まだ全面的に信用したわけではないのだ。

「まず身体をできるだけ覆え。露出を極力少なくしろ。ゾンビは身体から出ている匂いのような成分を感知するんだ。テープでも何でもいいからとにかく隙間を埋めろ」

「でも、完全に気密はできないわ。バイオハザードスーツのようなものでもあれば良いけど」

「わかっている。防護服は俺が着ている分しかない。今言ったことは気休めみたいなものだ。何もしないよりはマシってだけだな。効果は端から期待してねえよ」

「だったら、その後はどうするの?」

「冷凍車に乗り込んで貰う」

 冷凍車? と絵梨香は思わず頭の中で繰り返した。そんなものに乗り込ませて、どうしようというのか? まさか氷漬けにしたらゾンビも食べないとか言い出すのではあるまいな。

「今いる場所を聞いたらなるべく近くまで迎えに行くから何とかして辿り着け。それくらいは自分達で何とかしろよ。こちらの戦闘力は当てにするな。無事、冷凍車まで来られたらあんたらを荷台に乗せて俺が運転し脱出する。上手くいけば襲われないはずだ」

 どうやら本気で言っているらしい。冷凍車の荷台に乗ればゾンビを寄せ付けない、などという話はこれまで一度も聞いたことがない。

「それって間違いないの?」

「さあな。一応は密閉された空間だからな。扉を閉じれば外に空気が洩れ出ないって理屈なだけだよ。実際に試したことはまだない。不安なら断ってくれ」

 絵梨香は部下達の顔を見回した。こんな不確実な提案にも先程までの諦め半分だった表情が皆一変している。それを見て彼女は決意した。

「お願いするわ。そちらの言うことには従うから」

「もう一度言うぞ。どうなるかは保証できない。俺の身まで危なくなったら置いて逃げ出す。それでもいいんだな?」

 少しでも助かる見込みがあるのなら、と絵梨香ははっきりした口調で告げた。

「それに賭けてみる」

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