6 救出劇
「これと同程度の食糧があと一回分はある。けど、それが正真正銘の最後だ。これ以上のことは期待しないでくれ」
智哉は食糧を搭載したトラックを前にして、出迎えた友里恵に対しそう言った。水汲みから帰還した後、再度外に出た智哉は非常用としてスーパーに残しておいた食糧の放出を決めたのだ。そうでもしないことには到底、この冬を避難所で乗り切るのは困難だろうとの判断だった。だが、そのせいで手持ちの食糧は粗方尽きることになる。休暇村を当面の活動拠点に定めた智哉にとってもそれはリスクの伴う賭けだった。新たに食糧を調達しようにも放置された店舗や倉庫の荒廃は智哉の予想を遥かに上回る速度で進み、思うように集まりそうになかったからだ。丁寧に探せば見つけられないことはないだろうが、それには時間がかかる。自分だけならともかく、七百人分の喰い扶持となるととても一人では賄い切れない。従って友里恵に言ったことはあながち嘘ではない。
「それでも助かるわ。他の人達も感謝するでしょう。みんなを代表してお礼を言わせて頂戴」
なるべく大袈裟にはしないでくれ、と友里恵には頼んでおき、それから程なくして智哉はもう一度街に出向いて、あるものを探した。それはスーパーの冷凍庫に保管してある肉や加工品を運び出すための冷凍車だ。寒くなったとはいえ、さすがに冷凍してあるものを普通のトラックで輸送するのは難がある。また、避難所での保管方法も必要だ。冷凍車なら運び込んで、そのまま冷凍庫として活用すれば良い。電源は太陽光発電で何とかなるだろう。一日中探し回ってある運送会社の車庫で漸く眼鏡に敵う冷凍車を見つけた智哉は、車両を点検しながらふと思い付いた。
(これならもしかしてゾンビを避けられるんじゃないか)
当然と言えばあまりに当然だが、冷凍車は荷室の温度を保つため、気密性が高くなっている。それを活かして食品だけでなく埃や外気に触れるのを嫌う精密機器や医薬品の運搬にも使われるくらいだ。また、時々伝わる冷凍車の荷台に隠れて密入国しようとした難民が大勢窒息死するニュースからもそのことは窺い知れよう。それほどに高い気密性なら僅かな工夫で化学防護服と同等の効果が得られるのではないか。しかも外から姿を見られることもない。問題は酸欠になる恐れがあることだが、人がひしめき合うほど詰め込んだのならともかく、荷室に数人程度が乗り込む分には即座に窒息することはないだろう。心配なら空気ボンベでも携帯させておけば良い。
(そういえば昔の映画で浮上できなくなった潜水艦に閉じ込められるってのがあったな。あれでも酸欠になるまで相当の時間がかかっていたはずだ)
フィクションが現実通りとは限らないが、少なくともそんな短時間で危険になるならもっと事故や事件が頻発していておかしくない。そんなことをつらつらと考えながら智哉は走行や保温に支障がないのを確認すると、翌日には早速冷凍車に乗り込み、大型車の運転にもすっかり慣れたハンドル捌きで道路に出た。スーパーで食糧を回収するのは後回しにして、気になっていた自衛隊の動向を探るべく、避難所に残った隊員から聞き出した駐屯地のある場所へ向かう。かなりの山の中らしく車で行くには結構な距離があったが、手前まで来た辺りで大規模なヘリコプターの編隊を見かけ、予定を変更して後を付けることにした。さすがにヘリはすぐに見失ったが、わざわざ目的地を偽装する必要はないだろうから同じ方角に向かえばいずれ彼らの行き先には辿り着くはずだ。そう思い、車を走らせていると、やがて智哉が訪れたことのない都市の中心部に近付き始める。途中からは例の如くあちらこちらで放置された車両に阻まれて冷凍車の乗り入れに手間取ることになったが、何とか通れる道を探して進んだ。既に近寄る前から戦闘が行われていることはわかっていた。遠くからでも断続的に銃声や爆発音が聞こえていたからだ。やっとのことで状況が掴めそうな場所まで辿り着いた時には夕刻近くで、まだビルの陰から幾筋もの煙が立ち上っていたが、音はとっくに鳴り止んでいた。直接戦いを目にしたわけではないが、双眼鏡で覗いてみれば何があったのかは一目瞭然だった。自衛隊は壊滅したのだ。
すぐに暗くなったため、この日は無理をせず夜が明けるのを待つことにした。慌てたところで戦闘の結果が覆るわけではない。冷凍車の運転席でひと晩仮眠を取り、明るくなってから智哉は中心のビル街に徒歩で向かった。万が一、自衛隊の生き残りがいてゾンビに誤認され撃たれでもしては堪ったものではないので、殊の外、慎重に歩みを進める。ある意味、世界がこうなって以降、最も緊張した時間と言っても過言ではない。そうして街中を調べてみて、改めて自衛隊が壊滅かそれに近い被害を受けたのを確信する。乗り捨てられた戦闘車両はそれほど多くなかったが、至るところでゾンビになって彷徨う隊員を目撃したからだ。彼らから持てるだけの武器や弾薬、通信機などを回収した智哉は、まだ生存者がいるかも知れないという確認のため、試しに無線で呼びかけてみた。
驚いたことに即座に返答があった。しかも、聞こえてきたのは智哉が想像もしていなかった若い女の声だ。話してみて彼女が陸上自衛隊の一等陸曹であること、他にも仲間が三人いること、自分達以外の生き残りがいるかは彼らもわからないことを知った。感染していれば尚のこと、少しでも逆上した素振りを見せただけで見捨てるつもりであったが、話しぶりも落ち着いていて、状況判断も的確そうだった。そこで智哉は手助けを申し出てみた。彼らには内緒だったが、ちょうど良い機会なので冷凍車の効力を試したかったという思惑もある。首尾よく脱出できたとして彼らが仲間になるとは限らないが、その気があるなら避難所の警備の手薄さを解消するのにも役立つかも知れない。
そのための方法は至ってシンプルだ。彼らの潜んでいる場所にできる限り冷凍車を近付けて、あとは自力で辿り着くのを待つだけである。無事に到達できれば彼らを荷室に乗せてその場を立ち去る。智哉の考えが正しければ、密閉された空間にいる彼らをゾンビは追って来ないはずだ。予想が外れたり途中で行き詰まったりした場合は、残念ながらそれまでである。せいぜい自分達の不運を呪うしかあるまい。危険性は包み隠さず話した。伝えなかったのは智哉にとって彼らの生死がさほど重要な関心事ではないということくらいだ。それでもやると決めたのは彼ら自身である。そのことに智哉が責任を負う道理は当然ながらなかった。
「俺の姿は確認できたな。それじゃあ、ここで待つ。時間はそうだな……せいぜい十五分が限度ってとこか」
別に一日中、待っていても差し支えはないのだが、それでは怪しまれると思い、智哉はそう話した。通話の相手──武井絵梨香と名乗った一曹からは派手な蛍光色に彩られた化学防護服を着ているとしか識別できなかっただろう。それでも窓の外を覗けば迎えに来たことは充分に伝わったはずだ。彼らが潜むビルの玄関口からは三百メートルほど離れているが、これ以上近寄るには路面状態が悪過ぎて、スタックやパンクの恐れがあり困難だった。何とかその距離をゾンビの追走から逃れ切るしかない。
「それだけの時間があれば充分よ」
絵梨香は言い切った。どうせ時間がかかればかかっただけ脱出の望みは薄くなる。自衛官の立場としては民間人だという彼──岩永智哉と言ったか──をそれ以上、危険に晒しておくわけにもいかない。
「なら、タイミングはそちらに任せる。一応は、幸運を祈る、と言っておく」
奇妙な励ましの言葉に、絵梨香は、おかしな人だ、と思う。只の一般人と言いながら、自分達はほぼ全て彼の指示で動いてしまっている。具体的な方法も彼からの提示によるものだ。それも冷凍車で脱出という荒唐無稽とも思えるやり方だったが、彼が口にすれば不思議と説得力があった。
(他に手立てがなかったのも確かだけどね)
絵梨香は密かに胸の裡で呟く。この方法で全員が助かる見込みはどれくらいあるのだろうか? さっぱり見当が付かない。ただ、ここで断ってもそう都合良くまた外部から救いの手が差し伸べられるとは思えず、これが最初にして最後の機会と捉えるべきだろう。それを見逃すわけにはいかない。木村達もそれは十二分に承知しているからこそ、おざなりな計画でも反対せずに絵梨香の判断に従っているに違いない。今も黙々と準備に余念がなかった。
「じゃあ、始めるわよ」
絵梨香のその言葉をきっかけに、井上が扉の封印を解く。まずは木村が先頭で廊下に出て、絵梨香がすぐ後ろに続いた。通路の左右に素早く展開し、ゾンビの姿がないのを確認すると、ハンドサインで長野と井上に先へ行くよう指示を与える。その二人が絵梨香達のカヴァーする射線に被らないよう注意しながら廊下の曲がり角まで進み、安全を確認したのち、絵梨香達も前進する。それを繰り返して、来た時と逆のルートを辿りながら下へ下へと移動して行く。途中で出喰わしたゾンビは木村と長野がそれぞれ単射と三点射で退けた。銃の使用は極力控えるように言われたが、こればかりはどうしようもない。むしろ、狭い廊下での発砲は鼓膜を傷めることを懸念しなければならないが、音が重要な情報源である以上、訓練時のように耳栓やイヤーマフに頼るわけにもいかず、無事で済むことを祈るより外なかった。世界的に見て兵士に難聴が多いのはこのせいである。
だが、その程度の傷病で済めば良い方と言えよう。幸いにもビル内では他にゾンビは現れず、殆どが逃げて来た隊員達を追って外へ飛び出して行ったものと思われた。そうして玄関口まで到達した絵梨香達は、付近にゾンビがいないことを確認して用心深く路上に出る。階上から確認した場所に停車しているはずの冷凍車を探す。しかし、そこに目的の車は見当たらなかった。
(そんな。約束の時間にはギリギリで間に合ったはず。もう置いていかれた……?)
一瞬、何かの陥穽に嵌ったのかと思うが、
「班長、あそこに」
と井上が指差した方向を見やると、元の位置から交差点を挟んだ反対側に車両が移動しているのに気付いた。何故わざわざ遠くなるように仕向けたのか訝しみかけたその時、耳許の
「遅いぞ。予定は変更だ。その先にある地下道を潜れ。通路にゾンビがいないことは確認してある」
そう言われ、位置を見て納得した。確かに全体の行程としての距離は伸びたが、地下道の入口までなら退路は逆に短くなる。地下の通路に入ってしまえば出口までは一本道なので、左右から狙われる恐れはなくなり、後方から追いつかれる心配だけをすれば良い。実際、銃を使ったせいなのか地表では予想以上にゾンビの姿が増えていた。真っ直ぐ車両を目指せば正面から向かって来る奴にも対処しなければならないところだった。それを避けられるだけでも地下道を使うメリットは大きいと言えるだろう。冷凍車が移動した先は、その地下道の出口がある場所だった。
「奴らは獲物へ一直線に向かうことしか頭にないから通路を反対側より辿るなんて器用な真似はしないだろうが、念のため出口は俺が見張っておく。階段を下りたら足許に気を付けろ」
足許? と絵梨香は反射的に思うが、問い返している暇はなかった。絵梨香達に気付いたゾンビの群れが一斉にこちらへ向け動き始めたからだ。絵梨香は他の三人に、走れ、と告げると、自らも彼らの後を追って全速力で駆け出した。四方八方から包囲を狭めながら殺到するゾンビの様は、上空から見れば巻き網漁で追い込む船団のようなものだったろう。その中心にいる絵梨香達はさながら網に掛かった小魚だ。最も近いゾンビの先頭集団と地下道入口までの距離はほぼ変わりないように見えた。自分達が入口まで辿り着くのが先か、ゾンビが追いつくのが先かのチキンレースのようにも思える。ただし、このレースには途中でリタイヤする方法は用意されていない。何があろうと走り続けるしかなく、ゾンビに先回りされたら即ゲームオーバーだ。そうであるにも関わらず、地下への入口まで残り五十メートルほどを切ったところで、絵梨香の前を行く井上が不意に速度を緩めた。どうやら正面から差し迫るゾンビの勢いに気圧されて銃口を向けようとしているらしい。構うな、と絵梨香は背後から怒鳴った。そんなことをしている猶予はない。それで一体二体斃せたところで到達が間に合わなければ同じことだ。怒鳴られた上に後ろから来た絵梨香に追い抜かれそうになって井上は慌てて再び全速で走り始める。それを見て絵梨香もさらにピッチを上げようと試みた。今や四人は訓練で身に付けた兵士の走り方を完全に忘れている。その姿はまさしく最も過酷な陸上競技とも言われる四百メートル走ランナーのそれだ。その中で一番の俊足だった長野が真っ先に地下道に辿り着くと、乱れた呼吸を整える間もなく銃を構え直して中に入った。続く木村も迷わず階段を駆け下りて行く。二人にやや遅れて井上と絵梨香も何とかゾンビに立ち塞がれる前に到達したが、階段を下りながら一瞬背後に視線を転じた絵梨香が目にしたのは、今にも掴みかからんばかりの距離に迫ったゾンビの姿だった。このままでは階段を下りた先で追いつかれると唇を噛んだ絵梨香の耳に、班長、目の前、という木村の声が届いた。ハッとして前を向くと、視界に「ロープ、跳べ」という文字が飛び込んでくる。階段の壁にスプレーで落書きしたように大きく描かれていた。文字に続く矢印が指し示す場所には、暗くて見えづらいが膝ほどの高さで手摺の間にロープが張られているのがわかった。智哉が気を付けろと言ったのはこれのことだったらしい。打ち合わせになかったのは、この場で急遽思い付いたトラップだからだろう。前を行く井上も気付いて不格好ながらにどうにか跳び越えると、続く絵梨香もハードル走の要領でジャンプするが、ここまで全力疾走してきたツケが回って来たのか着地に失敗して転倒してしまった。急いで立ち上がりかけたその背後で、バタバタと続けざまに何かが倒れ込む音が響く。振り向かずともわかった。後を追って来たゾンビが狙い通りロープに引っかかり将棋倒しになっているに相違ない。この機会を逃すまいと体勢を立て直し起立しかけた絵梨香だったが、突然、その背中を何者かに引っ張られた。振り返ると、幾人ものゾンビが折り重なるように倒れ下敷きになった中で、そのうちの一体が伸ばした手に背中で斜に掛けた対人狙撃銃の銃身が握られてしまっていた。さらに別のところから突き出た腕に危うく顔面を掴みかけられる。辛うじて身体を捻って逃れると、スリングを肩から外し、立ち上がって九ミリ拳銃をホルスターから抜き差しざまに撃ち込んだ。だが、動きはそれで止まったものの、一旦掴んだ銃は手放しそうにない。その頃には転倒から立ち直りかけているゾンビもいて、やむを得ず絵梨香は狙撃銃を諦めた。再び出口目指して疾走し始める。直後には後を追う足音が背中から聞こえてきたが、今度は振り向かない。地下道の先、出口に続く階段の手前で木村が八九式小銃を膝射の姿勢で構えているのが見えた。その銃口の先端には細長い小型のロケットのようなものが取り付けられている。絵梨香達陸自隊員ならひと目でそれとわかる〇六式小銃擲弾だ。これは陸上自衛隊が小銃手に配備する弾頭と一体になった
「撃て!」
絵梨香の絶叫に近い声がコンクリートの狭い通路に木霊した次の瞬間、銃声が鳴り響き、僅かに遅れて後方で爆発が起こった。身体を持ち上げられるほどの衝撃と爆風に包まれた絵梨香は、激しい耳鳴りで一時何も聴こえなくなった。それでも意識を途切れさすことなく、自分の装備ベストからレモン型のM26手榴弾を取り外すと、安全ピンとジャングルクリップと呼ばれる安全装置を抜き、駄目押しとばかりに振り返りざま粉塵で先のまったく見えなくなった通路へ放る。直ちに、階段を上がれ、と叫んだつもりだったが、その声は遥か遠くの方で聞こえる他人のもののようでしかなく、自分が発したという感じはまるでしない。それでも臥せていた木村達には充分伝わったようで、急いで全員が起き上がり、階段を上がって転がるようにして地上に飛び出た。刹那の空白ののち、二度目の爆発が起こる。今し方這い出たばかりの出口から白い粉塵が噴き出し、路肩へと舞い上がった。
「こっちだ。急げ」
やっとのことで耳鳴りが鎮まりかけてきた絵梨香にも辛うじて聞き取れたくぐもった声にそちらを見やると、オレンジ色の防護服を身に纏った相手が手招きしていた。大型アイピースから覗く表情は呼吸器のフェイスマスクに覆われて殆ど見分けが付かない。ただ、話を聞いた時点では半信半疑だった防護服の効果だが、ここまで無事でいるということは本当にその姿ならゾンビを避けることができるようだ。ならば冷凍車の話もまったくの当て推量ではあるまい。向こうは車両の背後に立ち、観音式のリア扉を開けて待ち構えている。絵梨香達はよろめきながらも冷凍車に近寄り、最後の気力を振り絞って荷台によじ登った。
「息苦しくなったら前の壁を叩け」
そう言われても絵梨香は荒い息遣いを続けながら頷くので精一杯だった。恐らくは密閉された空間である荷室内は窒息の危険があるということなのだろう。しかし、それを今更知ったところで引き返すわけにもいかない。もう走ることは疎か、歩くことさえままならなかったからだ。外に出られる安全な場所まで室内の酸素が保つことを願う外ない。しかも扉が閉められれば外の様子はまったくわからなくなる。こうなったら絵梨香達の命運は出会ったばかりのこの相手、智哉に託すしかなかった。
その智哉は扉を完全に閉め切ると、周囲を見渡し誰も見ていないことを確かめた上で化学防護服から上半身を露出させた。実際には使っていなかった呼吸器の面体も顔から外す。それらは本来、智哉にとっては無用のものだ。その姿で暫く辺りの様子を窺い、ここまで隊員達を追って来たゾンビの動きに獲物を見失ったかのような緩慢さが戻ったのを見届けると、納得した表情でおもむろに運転席に乗り込み、ゆっくりと車を発進させた。わざとゾンビの間を縫うように車を走らせてみるが、真横を通り過ぎてもこれといった反応はない。どうやら冷凍車の荷室にはゾンビを避ける一定の効果があることは証明できたようだ。もちろん、密閉されていない運転席はこの限りではないので、智哉以外の者がこの方法で移動しようとしても依然としてリスクを抱えることに変わりないが、それでも大いなる進展と呼んで差し支えないだろう。危険を承知の上でなら運転者に化学防護服を着せることで他の者でも多人数の移送が可能となるかも知れない。避難所を脱出しなければならなくなった場合に備え、時間があれば何台か用意しておこうか、智哉は道すがらそう考えた。無論、そんなことにならずに済むならそれに越したことはないが──。
それからほぼ半日をかけて以前に智哉が根城としていたスーパーに到着した一行は、その案内で一先ず居住スペースに落ち着いた。美鈴達と使っていた頃に比べれば幾分埃っぽくはなっていたが、室内の様子はまったく変わりない。優馬が遊んでいた玩具や落書き帳もそのままで、微かに胸の奥が疼いたが、それを表面に出すことはなかった。その気なれば今からでも元の生活に戻れそうではあるが、それも今日までのことだ。
「これを? 全部あなた一人で?」
「俺一人でというわけじゃない。一緒に暮らしていた仲間がいる。そいつらと協力してのことさ」
その辺りのことをあまり深く勘繰られたくない智哉は、そう言ってお茶を濁した。向こうもそれ以上のことは訊いてこようとしなかった。いずれにしても食糧を運び出してしまえば、もうここに戻る理由はなくなる。
「この場所ならずっと暮らしていけそうだなぁ」
助け出した四人の中で最も年若いと思われる井上と名乗った陸士が溜め息混じりにそう洩らした。既にここへ至る途中、換気のために立ち寄った車庫内でお互い型通りの自己紹介は済ませてある。彼らを率いる武井絵梨香という
「食糧は明日、全て運び出す予定だ。喰い物がなけりゃ定住は難しいだろう」
智哉はそう言って、井上の言葉を否定した。無くなるのは食糧だけではない。太陽光パネルや発電機など使えそうなものは可能な限り避難所に持って行くつもりだ。
「道中で簡単な説明は受けたけど、この後は避難所に戻ることになるのね?」
絵梨香が改めて訊ねてくる。智哉は頷いて、そういうことだ、と言った。
「そっちがどうするかは明日までに決めておいてくれ。この場に残る気なら部屋にあるものは好きに使ってくれて構わないが、今も言ったように食糧や設備は残しておけない。何しろ、避難所では七百人の人間が飢えに苦しんでいるからな。四人でどこかに向かうならそれも止めやしない。車はどれでも勝手に選んで乗って行けばいい。ガソリンも満タンにする程度なら持って行って構わない。こちらで拾い集めた武器や弾薬も少しなら分けよう。残る選択肢は俺と一緒に来るということだが、その場合はあんたらの扱いは別の人間が決めることになる。たぶん、運営組織と警備に当たる自衛隊との話し合いになるだろうが、その結果にまで俺は関与しない。どちらにしても今日は休め。只のプラスチックの水槽だが、風呂として使っていたものがある。雨水を濾過した水もまだ残っているからそれを沸かそう」
智哉は言いながら腰を浮かしかけた。その智哉に向かって絵梨香は尚も会話を続けた。
「お風呂は有り難く頂戴するわ。でも、その前に言っておくと、結論ならここへ来るまでに全員で話し合ってもう出ているのよ。避難所に同行するわ。原隊への復帰はもう無理そうだし、元々行くつもりだったところには私達だけじゃ辿り着けそうにないしね。それに、現段階で最も生き残る確率が高いのはあなたに付いて行くことだと、これはみんなの意見が一致した見解でもあるのよ」
「そうか。なら好きにすればいいさ」
それだけ言って智哉は今度こそ立ち上がる。ところで喰い物は誰も持っていないんだよな? と訊ねると、全員が揃って頷いた。絵梨香が代表して答える。
「戦闘に直接関係のない装備品は脱出の際に全部放棄したから。少しでも身軽に走れるようにね。その中に戦闘糧食──つまり我々の非常食も含まれていたのよ。でもお気遣いなく。食糧は貴重なんでしょう? この程度の空腹には慣れっこだから音を上げる者なんて誰もいないわ」
俺が喰いたいんだ、と智哉は絵梨香の言ったことには構わず告げた。
「避難所が食糧不足なのは確かだが、ここで数食分消費したところで大して変わらんさ。それにあんたらのお仲間から頂戴したその戦闘糧食とやらもある。次にいつ物が口にできるかわからないんだ。喰える時に喰っておくのが賢い選択だと思うがね。それでも遠慮するというなら無理に勧めはしないが」
その智哉の言葉を聞いて、絵梨香は顎に人差し指を置き、暫し考え込む仕草をしてから、それもそうね、やはり私達にも頂けるかしら? と口にした。元よりそのつもりだった智哉は頷くと、荷物の中からレトルトパウチに入った人数分の食糧を持って来た。俗に戦闘糧食Ⅱ型と呼ばれるものだ。普通野外での調理では付属の使い捨てカイロ型発熱剤や加水型加熱剤を使って温められるようになっているが、ここではカセットコンロと薬缶でペットボトルの水を沸かし、その中でまとめて湯煎にかけた。充分に温まったところで取り出し、食器は使わず袋から直接食べる。その方が片付けが楽だからなのは言うまでもない。沸かしたお湯は粉を入れてお茶にする。当然、全員が米粒一つ残さずきれいに平らげた。その後、一人ずつ順番に風呂に入る。テレビとブルーレイレコーダーに興味を示した井上と長野が、自分達の番が来るまで映画を観てもいいか、と訊き、智哉が、自由にすればいい、と言ってやると、二人は相談の上、海外の有名なSF映画を観ることに決めたようだ。
「少し話をしてもいいかしら?」
レディファーストで真っ先に入浴を終えていた絵梨香が、たった今、風呂から上がったばかりで部屋着に着替え頭を拭いている最中の智哉の下に来て、そう訊いた。構わない、と智哉は答えると、床に敷いたラグに直接腰を下ろす。絵梨香もそれに倣って向かい側に坐った。化粧をしていないのは入浴前と変わりないが、ショートカットの濡れた髪の毛をフェイスタオルで包んで、埃まみれだった戦闘服は脱いで畳んであり、今は美鈴が着ていたスウェットの上下を借りて身に着けている。こうしているとますます自衛隊員とは思えなくなってくる。決して砕けた物腰とかではなく、よく見ると整った顔立ちで美人と言えなくもないのに冷たい印象を受けないのは、無理に女らしさを強調しようとしたり、媚を売ろうとするようなところがないからだろうと智哉は推察した。並んで坐っているのが美鈴でないことに不思議な感慨を覚えたが、どことなく新鮮な感じがして、自然と華やぐ気分になった。
「どうして岩永さんは危険を冒してまで私達を助ける気になったの?」
真正面から智哉を見据えてそう話す。床の上で崩した脚の先、スウェットの裾から引き締まった足首が覗く。ペディキュアを塗った形跡もなく、ストッキングも履いていない。それでいて妙に艶かしく見えるのは、久しぶりに女っ気のない生活に戻ったせいであろうか。鍛え上げている割に決して筋肉質とは言えないその脹脛辺りの曲線を眺めていると、胡麻化すのが色々と面倒になり、可能な範囲で正直に答えることにした。別に彼らを助けたことが検証のついでだったと知られてもこちらに不都合はない。
「自衛官なら助けても損はないだろうと思ったからだ。それと冷凍車の効果を確認したかったというのもある」
「冷凍車の効果……」
絵梨香が呟くのと同時に、それって実験台にされたってことですか? と少し離れた場所でそれとなく話を聞いていた木村が口を挟んだ。そうだ、と智哉が悪びれることもなく答えると、途端に不愉快そうな表情を浮かべた。俺達はモルモットかよ、と小声で吐き捨てた。
「危険性は話したはずだ。別に騙したわけじゃない」
「実験だとは言いませんでしたよ。他にもっと堅実な脱出方法があったんじゃないですか?」
ない、と智哉は断言した。
「あれば話している。信じる信じないはそっちの勝手だが、あの時点では他に思い付く方法はなかった。俺が言えるのはそれだけだ」
全員助かったんだからいいじゃないですか、と長野がその場を執り成すように発言した。井上が風呂に入っている間、一時的に映画の鑑賞を中断して会話を聞いていたのだ。ちょうどその時、風呂から出た来た井上だけが、会話の輪に加われず怪訝な表情で突っ立っていることになった。
「馬鹿、そういう問題じゃない。危うくゾンビの餌にされかかったことを言ってるんだ。もし俺達が全滅していてもこの人は、ああ、実験が上手くいかなかった、で済ませる気だったんだぞ。お前はそれを許せるのか?」
「許せるも許せないも他に方法はなかったと言ってるんだし、俺は助かったんだから不満はないですけどね」
長野が木村にそう反論する。そんなのわかるものか、と木村は尚も怒りが収まらない様子だ。
「自分は化学防護服を着て安全だったわけだからな。本当に上手くいくなんて考えてなかったかも知れないだろ。成功したことがむしろ、予想外だったんじゃないか? 実は今だって内心じゃ俺達を目障りだと思っていて、またぞろ実験台にするつもりじゃないとどうして言えるんだよ」
止めなさい、言い過ぎよ、とさすがに絵梨香がたしなめた。智哉は黙って聞くに留めた。そんな気はない、と言っても証明しようがないからだ。それに予想外とまではいかなくとも確証がなかったのは確かで、木村の指摘もまったくの事実無根とは言い難い。ただ、気に入らなければ断ることもできたのだから智哉が責められるのは筋違いというものだろう。もっとも木村にそう言われてもさほど腹は立たなかった。誰だって自分が実験に使われたと知れば面白くないのは当然である。木村にしても恐らくは助かったという安堵感で一時的に気が緩み、感情を昂らせているに過ぎないのだ。明日になればバツが悪そうにしているのではないか。その木村が突然、無言で立ち上がった。どこに行くんですか? と長野が訊ねると、風呂に決まってるだろ、先に入らせて貰うぞ、と素っ気なく言い捨てて衝立の向こうに消える。それを見送った絵梨香は改めて智哉の方に向き直ると、苦笑いを噛み殺すような表情で言った。
「部下の非礼な態度は謹んでお詫びします。ああは言ったけど、彼も助けて貰ったことには感謝しているのよ。もちろん、私を含めて全員が同じ気持ちです。ただ、差し出口と承知の上で言わせて貰えば、岩永さんも自分から敵を作るような発言は控えて欲しいものね。ああもはっきりと実験だったなんて言う必要はなかったんじゃなくて?」
少しくらい自己弁護したってバチは当たらない、という言い方が、長年の友人からかけられたもののようで、智哉はドキリとした。それに、と絵梨香は言葉を続けた。
「あの場で岩永さんに従うとの決定を下したのは私です。もしそれが間違いだとするなら責めを負うべきは私であって岩永さんじゃない。それを部下に徹底させられなかったのは私の落ち度です。本当に申し訳なかったわ」
別に気にしていない、と智哉は答えた。他に言うべきことが見つからなかった。絵梨香の方もそれ以上、特に話すことはなさそうで、
「明日は荷物を運び出す予定なのよね? 全員で手伝うから遠慮せずに何でも申し付けて頂戴」
がらりと口調を変えて明るくそう言うと、口許を手で覆い隠しながら大きな欠伸をした。どうやらここに来て彼女も緊張が解れてきたようだ。疲れているようだから眠った方がいい、智哉がそう言ってやると、じゃあ、お言葉に甘えて先に失礼するわ、とその場でブランケットに包まり横になった。そこから一分もしないうちに静かな寝息が聞こえてくる。気付けば映画を観ていたはずの井上と、まだ風呂に入っていない長野までが居眠りを始めていた。この後、木村が風呂から出て来れば起こして入らせるだろう。智哉はと言えば一日中運転して身体はクタクタに疲れ切っているはずなのに、久しぶりに他人が傍で眠るという緊張のせいか、その夜はなかなか睡魔が訪れる気配はなかった。
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