4 撤収

「何事だ、こりゃ?」

 五日ぶりに避難所に足を踏み入れた智哉が敷地内の光景を目にして、給水車の運転席から唖然とした声を上げた。出発した時とはまるで様相が違っていたからだ。あれほど目に付いた自衛隊員達の姿は殆ど見られず、代わって長く避難生活を続けていたと思われる薄汚れた民間人らしき多数の人々が建物の玄関付近に集まっている。よく見ると、出入口近くに陣取った連中と押し問答をしているようだ。検問所からその様子を確認した智哉は、出迎えた警備の自衛隊員に理由を訊ねたが、彼は説明をしているどころではないらしく、とりあえず中に入るようにとだけ促された。

「あんたが戻って来るかも知れないことは聞いている。あの騒ぎの理由は誰か別の奴に訊いてくれ。俺達も人手が足りなくなって、他のことに構ってはいられないんだ」

 それで一先ず智哉は湧き水で満杯の給水車を敷地内に乗り入れさせた。混乱のせいか智哉に気付く者は少なく、気付いても化学防護服姿にギョッとされるだけで誰も近寄っては来ない。どうやら本当にそれどころではなさそうだ。熱烈な歓迎を期待したわけではないが、一応は不可能と目されたミッションを達成したのだ。もう少し注目されても良さそうなものだが、正直言って拍子抜けした。

 それでも気を取り直し、給水車を降りて防護服を脱ぐと、人が集まっている方へと歩き出した。途中、押し問答をしている連中とは別の遠巻きに見守っていた者達の中に衛生班で顔見知りとなった男を見つけ、声をかけた。

「これは一体、何の騒ぎだ?」

 振り向いた相手は智哉を見て一瞬驚いた表情で固まるが、すぐに思い直したように応えた。

「あんたか。暫く見ないと思ったら外に出ていたんだって? まさか本当に戻って来るとは思わなかったよ。感染していないだろうな?」

「怪我はしていない。検査はこれから受ける手筈だったんだが……それどころじゃないみたいだな」

 智哉は騒ぎの方に目配せした。

「ああ、あれか。自衛隊と入れ替わりでやって来た連中だよ。人数が多過ぎて収容場所の確保が間に合わないもんだから外で待つように言ってたんだが、この寒空の下で丸一日近く待機させられて連中も我慢し切れなくなったんだろう。中に入れろと騒ぎ出したんだ」

「自衛隊と入れ替わり?」

 智哉はそう訊いた。男は、ああ、と頷いた。

「あんたがいなくなってすぐだよ。自衛隊が突然、撤収し始めたんだ。何でも上からのお達しがあったらしい。市長達が残るよう掛け合ったが、命令には逆らえないということで最低限の警備の人員だけ残して引き上げていったよ」

 それで隊員達の姿が消えていたのか。自衛隊については理解できたが、あの民間人達は一体どこから? 自力で辿り着いたとは思えない。あの連中はどうやって来たんだ? という智哉の問いに答える形で、男が説明した。

「自衛隊を迎えに来た、何と言ったかな、羽根が前後に付いた馬鹿でかいヘリコプターで運ばれて来たのさ。どうやら別の避難所に居たみたいだな。そこも守備していた自衛隊が引き上げるっていうんで閉鎖されることになったらしい。こっちの都合も考えずにまったく迷惑な話だよ」

 朧げながら状況は掴めてきた。理由は謎だが、何らかの事情で各地に散った残存部隊を招集しているようだ。そのため、幾つかの避難所を閉鎖せざるを得なくなり、統合しているのだろう。しかし、いきなりこれだけの人数を受け容れろというのは確かに無茶な要求である。

「何人くらいいるんだ?」

「さあな。少なくとも撤収した自衛隊員より多いことは間違いないよ。連中が残していったテントに納まり切らなかったからな」

 それ以上、詳しいことは彼も把握していないようだった。智哉は礼を言い、さらに混乱の現場に近付いて行った。予想していたことだが、押し留める側の先頭に立つのは友里恵だ。傍らには秘書の田岡の姿も見える。少し離れたところから三上がその様子を無表情に眺めていることにも気付いた。対して詰め寄る側には特定のリーダーらしき存在は窺えない。各自が思い付いたことを好き勝手に放言しているようだった。やがて、智哉の耳にも彼らの声がはっきりと届き始める。

「──ですから、もう暫くお待ちいただきたいと申し上げているんです。こちらの受け容れ準備が整い次第、お知らせしますので──」

「そう言ってもう丸一日以上過ぎているじゃないか。一体いつになったら中に入れるんだ? 都合の良いことを言って本当は我々を締め出す気じゃないのか?」

「そんなことはありません。ただ、あまりに急な要請だったので、こちらとしても対応するのに時間がかかっているだけで──」

「そっちの事情は訊いていない。とりあえず大部屋を一つ用意してくれればいいと言っている。あとは我々でそれをどう使うかは決めるから、そちらの手は煩わせない」

「現在、空いている部屋は一つもありません。部屋を空けるとすれば、そこに居た人達をどこかに移す必要があるわけで簡単にはいかないのです」

「それはあんたらの都合だろ。我々は自衛隊に言われて仕方がなく元の避難場所を引き払って来たんだ。ここに来れば受け容れて貰えるというからな。それがずっと外に放置されて、体調を崩す者も大勢出てきている。これ以上は待てないんだよ」

「具合が悪くなった人は申し出ていただければ、こちらの医療班が対応します。ですが、重病者以外は建物内には入れません。軽度の場合は外の医療テントで手当てを受けていただくことになります」

「食事はどうなるんだ? あんたらには配給があるみたいじゃないか。俺達には飢え死にしろってことか?」

「食事は次回から皆さんにも支給します。ただし、皆さんがそれぞれお持ちになっている食糧はこちらに提供していただきたい」

「何だよ、それ。放り出した上、喰い物まで取り上げようっていうのか?」

「食糧を一元管理するためです。それで全員に公平に分配することになります。食事を支給する以上、こちらのルールに従って貰わないと──」

「だったら我々も中に入れろ。公平と言うが、そもそも平等に扱われていないじゃないか」

「先程から繰り返し申し上げている通り、現在担当の者が早急に皆さんを収容する場所の確保に当たっていますので、もう少しだけお待ちください」

 そう言って友里恵は横目でチラリと三上の方を盗み見た。居住スペースの割り当ては彼が代表を務める総務班の役割で何かしらの助け舟を期待したのだろうが、三上はわざと気付かないふりをして友里恵の視線を避けた。これでは本気で取り組んでいるのか、友里恵ならずとも不安に思わざるを得ないだろう。そうでなくとも要求は相当に厳しいもののはずだ。もはやこの建物に余剰空間は殆どない。新たに大人数を受け容れるとなると、今暮らす者達の居場所を削るしかないのだ。果たして皆がそれを大人しく聞き入れるだろうか。下手をすれば今度は元居た避難者達まで騒ぎ出しかねない。そうなれば友里恵の管理能力が問われることになる。彼女にとっては今がまさに正面場だ。しかし、こればかりは手助けしようにも智哉の手には余る問題である。

(自分のことなら何とでもなるんだがな)

「岩永さん?」

 不意に聞き覚えのある声が背後でして、智哉は振り向いた。そこには見慣れた姿の美鈴が立っていた。

「ああ、ただ──」

 ただいま、と言いかけて、智哉は美鈴の肩に置かれた手に気付いた。隣に恐らく美鈴と同年代と思われる背の高い男が寄り添っていた。その若者は智哉の方を何か言いたげな表情でじっと睨んでいる。二人の間で挟まれる格好になった美鈴は、所在無さげにじっと立ち尽くしていた。

(誰なんだ、こいつは?)

 お互い無言のまま十秒ほど睨み合った末に、とうとう堪え切れなくなった様子で美鈴が口を開きかけた。

「あの、この人は──」

「いいよ、美鈴は黙っていてくれ。自己紹介なら自分でするから。杉村弘樹と言います。岩永さんですよね? 初めまして」

 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、挑発的な構えを解く気はないらしい。どうやら智哉が快く思われていないことは確かなようだ。その理由に何となく察しは付くが……。

 智哉が黙っていると、杉村弘樹と名乗った若者は優位に立ったと見たか、さらに言葉を続けた。

「美鈴から大体の話は聞いています。俺がいない間に、随分と世話になったとか。それに関しては礼を言います。ありがとうございました」

「……別に君から礼を言われる筋合いはないと思うが」

 漸く智哉もそれだけを口にする。無駄話をするつもりはなかった。

「いえ、あります。俺と美鈴は幼なじみで、子供の頃から家族同然の付き合いをしてきました。それぞれの両親や妹の加奈のこともよく知っていますよ。避難する時も一緒でした」

 確認のため智哉が美鈴に目をやると、肯定するように頷いた。

「途中ではぐれてしまって、もう会えないかと絶望していたんですが……ここに連れて来られたおかげで、こうして再会することができて本当に良かった。お互いの両親のことは残念ですが、加奈も無事で何よりだった……」

 若者は心底、喜ばしげにそう語った。その言葉に嘘偽りはなさそうである。とはいえ、智哉にとってはどうでも良いことには違いない。それで? と冷たく訊ねた。

「それで、とは?」

 質問に質問で平然と返しておいて、若者は唇の端をやや吊り上げ皮肉な笑みを浮かべた。それには取り合わず、智哉はもう一度繰り返した。

「それで、何が言いたいんだ?」

「嫌だなぁ、まだわかりませんか? できれば察して欲しかったんだけどな。そちらから言い出してくれると助かったんですが。仕方がない、だったらはっきり言いますよ。これからは美鈴と加奈の面倒は俺が見るんで、あとのことは任せてこれ以上二人には関わらないで貰いたい」

(やはり、そう来たか)

 断固とした口調で言い切る若者に対して、智哉は内心、うんざりした気分でそう思った。

(付き合っている相手はいないと言っていなかったか? あれは嘘だったのか?)

 そんな疑問が頭に浮かぶ。だが、態度にはおくびにも出さず、智哉は美鈴に向かって訊ねた。

「お前はそれで納得しているのか?」

「もちろんです。だから俺が──」

「お前には訊いてねえよ」

 美鈴に代わり横から口を挟もうとした若者に、智哉は語気鋭く言い放つ。思いがけず激しい剣幕に、若者は一瞬たじろぎ黙り込む。美鈴はハッとして顔を起こすと真正面に智哉を見据えた。それから束の間、逡巡しているようだったが、やがて静かに頷いた。

「……そうか。だったらいいや。わかった」

 智哉はそれだけ言うと、若者に視線を移し替え、俺達が居た場所をそのまま使うといい、と告げた。

「俺は戻ったら別の部屋に移る約束になっている。責任者には話しておくからそうしたらいい。俺の代わりでなら一人くらいは中に入れて貰えるだろう」

「……折角ですが、それは遠慮しておきます。俺だけ抜け駆けするみたいで一緒に来た人達に申し訳ない。それに、どうせもうすぐみんな中に入れるみたいだ。そうしたら美鈴達と合流しますよ。御心配なく」

「……お好きに」

 荷物は適当に引き上げておく、と智哉は言い残して、その場を立ち去ろうとした。美鈴が若者を選ぶのなら、自分に何かを言う資格はないと思えたからだ。思いの外、あっさりとした別れになったが、いざ離れ離れになるとなればこんなものかも知れない。別れると言ってもどうせここからは抜け出せないのだから、嫌でも顔を合わせることにはなるだろう。そう考えると別段大したことではないと思える。

(要するに振り出しに戻っただけじゃねえか)

 美鈴は何かを言いかけて、結局何も言わないままに顔を臥せた。智哉が歩きかけたその時、ふと美鈴達の背後に別の誰かの気配を感じて、そちらに注意を向ける。灌木の隅に立っていたのは若い女だ。年齢的には美鈴や若者と同じか、それより少し上に見える。線が細く、暗い印象だが、美鈴とはまた違った意味で人目を惹きそうな顔立ちをしていた。美鈴が華やかな陽の美しさとするなら、その子はじっと見詰めているといつしか吸い込まれてしまいそうになる陰の美しさとでも言おうか。智哉の視線に気付くと、慌てて逃げ出すようにいなくなった。どうやら若者と関係がありそうだ。だが、いずれにせよ、もう智哉には関わりのないことに違いなかった。


 その日の夕刻、騒ぎが漸くひと段落したところで、智哉は友里恵に呼ばれた。既に大まかな報告を受けているらしい友里恵は執務室に智哉を迎えると、最初の時と同様に向かいの椅子を勧め、自らは立ち上がる気力もないようで深く坐り直した。その姿は傍目からでもはっきりと憔悴して見え、この数日間の苦労が偲ばれた。だが、気丈さは失われておらず、今も堂々とした姿勢は崩していない。

「よく戻って来てくれたわね。早速、配給班が計算しているけど、これですぐに飲料水が足りなくなることはなさそうよ。本当に心から御礼を言うわ」

 そう言って、深々と頭を下げた。

「そっちも大変だったみたいだな」

 智哉は勧められたパイプ椅子に腰を下ろしながら、応えた。

 友里恵の説明によれば、新たに増えた避難者は約二百人に上るそうだ。元より居た者と合わせれば七百名を超えることになる。それでなくとも物資不足が深刻化していたところに、いきなり一・五倍近くにも人が増えればどうなるかは小学生でも見当は付こう。だからといって無理矢理送り込まれた彼らを放り出すわけにもいかなかった心情も理解できる。友里恵としても苦渋の決断だったのは間違いあるまい。落ち着いたところで自衛隊が突然、撤収した理由を智哉は訊ねてみた。

「司令部からの命令という以外、私達も聞かされていないわ。機密、というよりは指示を受けた彼らも知らされていないみたいね。もっとも撤収がここだけでないとしたら、自衛隊は何か大きな行動を起こそうとしているのかも知れない」

 その可能性は智哉も考えた。ただ、現時点では推測するにしても材料があまりに乏し過ぎる。近いうちに自衛隊の動向を探ってみた方が良いかも知れないと心の隅に書き留めた。

「ところで、折角水不足を解消して貰ってこんなことを言うのは気が引けるけど、恐らくあなたも予想はしているでしょう。人が増え過ぎて今やこの避難所の先行きは風前の灯と言っても過言ではない状況よ。こんなこと、他の人の前じゃ絶対に口にできないし、あなたも他言無用にして欲しいけど、残念ながらそれが現実ね。あなたがどうやって水を手に入れたかについては興味がないし、説明するのも面倒でしょうから訊かないわ。ですが、外に出て行って帰って来られる能力があることは認めます。その上で改めてお願いするわ。今後も継続して飲料水の確保と、できれば食糧の調達を頼めないかしら? もちろん、そちらが求めていた条件は全て呑むつもりです。他に必要なことがあれば何なりと申し出てくれて結構よ。可能な限り、応えられるようにします。出入りも自由にして貰って構わない。もっとも今となっては警備も手薄で人目を避けて外に出ることもさほど難しくはないでしょうけど」

「警備にはどれくらいの人数が残っているんだ?」

「十四、五人といったところかしら」

 十五人……ギリギリ四人で分隊を編成したとしても四組にも満たない計算だ。それで二十四時間の監視体制が敷けるのだろうか。不安はそれだけではない。いざゾンビが押し寄せてくれば、とても保ち堪えることなどできないだろう。

「あなたが危惧していることはわかります」

 智哉の表情の変化に気付いた友里恵が言った。

「我々としてもこうなったからには警備は自衛隊に任せるなんて悠長なことは言っていられないという結論に達しました。自分達の身は自分達で護るしかないと。そこで避難者から有志を募って新たに警備班を設けることにしたの。できればあなたにもそれに加わって貰いたい。班の作業から外すという約束を違えた上に、物資の調達と重複することになって申し訳ないんだけど」

「班長は決まっているのか?」

 智哉はイエスともノーとも返答せずに訊ねた。

「ええ。小野寺さんという去年まで警察官だった方にお願いしたわ。五十歳を過ぎて早期依願退職され、今は警備会社に勤めていらっしゃるそうだからまさに適任と言えるでしょう。それに警備と言っても主体はあくまで自衛隊で、彼らには巡回などで隊員をサポートし極力負担を減らすのが目的よ。武器を持たせるかもまだ検討中なの」

 少し迷った末、時間がある時はなるべくそちらにも協力することを智哉は請け負った。警備の人間と誼を通じておけば、今後何かと動きやすくなると思われたからだ。

 その後、約束通り、楓の間は智哉に明け渡され、銃も返却された。只でさえ各自の居住スペースが狭くなったところに、一人で個室を占有するのは些か気が引けたが、部屋といってもさほどの広さがあるわけではなく、詰め込んだとしてもせいぜい五、六人が限度で、元は三人で利用するつもりだったことを思えば大した贅沢でもないだろうと自身に言い訳した。場所も二階の隅で廊下をわざわざ突き当たりまで行かなければ見過ごされる位置にあり、そもそもが国会議員という立場を利用して便宜を図られていた部屋の主が誰に変わったところで、関心を持つ者は皆無に等しい。その日のうちに智哉は一人でそこに移った。大部屋に自分の荷物を取りに行った際、何故か不機嫌そうな加奈と顔を合わせたが、姉から事情は聞き及んでいたようで、咎められはしなかったものの、ただひと言「トーヘンボク」と罵られ、そこから先は一切口を利いて貰えなかった。智哉は構わず話した。

「何を怒っているのか知らないが、これだけは伝えておく。これは二階の突き辺りにある俺の部屋の鍵だ。スペアを一つ、お前に預けておくから俺が居ない時でも好きに使っていい。姉ちゃんにもそう伝えておいてくれ。ただし……あのボーイフレンドには黙っておけ。話がややこしくなりそうだからな。それじゃあ、俺は行くが、姉ちゃんにあまり面倒をかけるなよ」

 それだけを一方的に話し終えると智哉は鍵を置いて去りかけた。終始そっぽを向いていた加奈の表情は智哉からは読み取れない。そういえば退院してから優馬の死についてひと言も触れていなかったことを思い出し、改めて護れなかったことを詫びようかと考えたが、無言で何かを訴えているような加奈の背中を見ているうちに、次第にその気が失せて結局は何も言わずに立ち去った。


(こんなにもあっさりと解消されるものだったんだろうか?)

 美鈴は未だに現実とは思えないぼんやりとした意識を抱えながらそう思った。全ては自分で招いた結末とはいえ、あまりに容易で呆気ない終わり方ではないか。だが、それも仕方がないことだと言える。

(こんな優柔不断な態度じゃ、見限られて当然だよね)

 智哉が出かけて行った翌々日。突然、敷地内に舞い降りたヘリコプターから出てきた人々の中に弘樹の姿を見かけた時は、確かに歓喜の余り息が詰まりかけた。まさか生きて再び会えるとは夢にも思っていなかったからに他ならない。急過ぎて事態がすぐには呑み込めず、咄嗟に声をかけるのも忘れていたほどだ。それは美鈴を見つけた弘樹の方も似たようなものだったらしく、二人して暫し茫然と見詰め合った挙句、どうかしたのか、と知り合いに肩を叩かれるまで我に返れなかったことが驚きの大きさを物語る。その時点では単純に再会を喜び合うことしか頭になかった。美鈴は高瀬に断って作業を抜けさせて貰い、新旧の住人が入り混じってごった返すその場を離れると、弘樹と二人きりで落ち着いて話せる場所を求め、敷地の隅の静かな一角に移動した。そこにあったベンチに腰を下ろす。

「これって夢じゃないよな? 本当に生きていてくれて……良かった」

 弘樹は感極まった様子で、それだけを噛み締めるように呟くと、涙ぐんだ。美鈴も今の気持ちを表す言葉が見つからず、ありふれた言い方しかできないもどかしさを味わった。それでも二人共、それ以上の会話は必要ない気がした。言葉を交わすほどに嘘臭くなりそうで、今はお互いの存在を身近に感じられるというだけで充分に思えたからだ。

 そうしてやがて落ち着きを取り戻すと、どことなく気恥ずかしさを覚え、どちらからともなく照れて笑った。それから弘樹は自分とはぐれた後、どうなったのかを美鈴に訊ねた。

「おじさんとおばさんは?」

 美鈴は力なく首を振った。それで全てを察した様子の弘樹は黙り込んだ。暗くなりかけた雰囲気を吹き飛ばすように、努めて明るく美鈴は言った。

「妹は……加奈は元気よ。口の悪さも相変わらずだから弘樹も覚悟しておいた方がいいわよ。あとで会わせるわね。そっちは? 御両親は一緒じゃないの?」

 この場に姿が見えないということは大方の予想は付いていたが、確認しないわけにはいかなかった。案の定、思った通りの答えが返ってきた。

「親父達とはあれ以来、会ってないんだ。俺は一人で避難していた。けど……こうして美鈴とも会えたわけだしさ。親父やお袋もどこかで無事にいるかも知れないって希望が湧いてきたよ。これも美鈴のおかげだな」

 弘樹は精一杯、前向きな発言をした。何事にも挫けない以前の力強い意志が失われていないことを好ましく思いながらも美鈴はどこかで微かな違和感を抱く己に気付いた。両親の生存をとっくに諦めてしまっている自分とは大違いだ。これも徹底したリアリストを貫く智哉の影響だろうか……?

「だったら今は加奈と二人きりってことか……そうだ、なら合流しようぜ」

 唐突にそう言われて、美鈴は面喰った。そこまでのことはまだ何も考えていなかったせいである。おじさんやおばさんだってその方が安心するに違いないと言う弘樹に対して、美鈴は口ごもる。その態度を不審に感じたらしい弘樹は、何か都合が悪いことがあるのか、と訊ねてきた。

「別にやましいことを考えているわけじゃないぜ。加奈だっているわけだしな。ただ昔はよくお互いの家に泊まりに行ったりしていただろ。あの頃みたいに一緒に過ごす方が心細くないと思うんだよ」

「……二人じゃないの」

 美鈴は思い切って打ち明けた。えっ? という驚きの声を上げ、弘樹は一瞬言葉に詰まる。じゃあ、一体誰と? と探るような口調で訊いてきた。

「ここに来る前に避難していた先で……助けてくれた人がいるの。今はその人と三人で生活している」

 それから美鈴は智哉と知り合った経緯いきさつやその後の成り行きを大まかに話して聞かせた。無論、性的な関係については伏せていたが、弘樹がどこまで勘付いたかはわからない。

「だから、その岩永って人と一緒なわけか」

 話を全て聞き終わると、弘樹は怒りを押し殺すような表情でそう口にした。事情が事情だったとはいえ、美鈴が他の男と一緒だったという事実が面白くないようだ。暫く膝に置いた自分の手の甲を眺めながら考え事をしている風だったが、やがて何かを決意したように顔を上げ、美鈴に向かって言った。

「その人とは別に何かを約束したわけじゃないんだろ? 偶然、避難先で知り合って助けて貰ったってだけなんだよな? だったらずっと一緒に居る必要はないわけだ。俺が話して別れて貰うよ。その人だって赤の他人の面倒なんてできればみたくないんじゃないか。助けた行きがかり上、放り出せないでいるだけでさ。本当に邪魔になれば見捨てられないとも限らないだろ。俺は違うぜ。はっきりと言われたわけじゃないけど、おじさんから美鈴のことを頼まれたと思ってるからな。今度もし会うことができたら絶対に護ると決めていたんだ。美鈴だって関係のない人に迷惑をかけるよりはその方が良いだろう?」

(関係のない人……やはり、そう思われるのだろうか?)

 弘樹の言葉を聞き、美鈴は智哉との関係性を今更ながらに意識した。これまで美鈴は智哉本人からあれこれと言われることはあっても他者から荷物だと指摘されたことはない。しかし、客観的に見れば確かに美鈴達は足手まとい以外の何物でもないだろう。改めてそう言われても返す言葉が見つからなかった。だが、せめて結論を出すのは智哉が帰って彼自身の口から意見を聞いてからにしたい。そう言おうとした矢先、弘樹、と控え目に呼ぶ声が少し離れた場所から届いた。

「七瀬……」

 美鈴が声のした方を振り返ると、隣から殆ど聞き取れないような音量で弘樹が呟いた。そこには自分達よりやや年上とおぼしき二十歳前後の若い女性が顔を覗かせていた。どうやら美鈴には気付かず声をかけたらしい。美鈴の姿を認めると、慌てた様子で、みんなが呼んでいる、とだけ告げて弾かれたように引き返して行った。一人でいると思って探しに来たところに、予想外の相手が一緒だったため驚いたみたいだ。

「今のは……?」

「ああ。藤川七瀬って言ってここへ連れて来られた仲間の一人だよ」

「追いかけなくていいの? 呼んでいるって言ってたけど」

「俺も代表者の一人に選ばれているからな。でも慌てなくていい。今は美鈴とのことの方がずっと大事だ」

「そう……」

 どことなく気まずい雰囲気が漂いつつ、それでも積もる話を続けた。暫くすると、さすがにそろそろ行かないと拙いな、と弘樹が言って立ち上がった。

「ごめん。また後で話そう。今度は何があっても絶対に離れないからな」

 そう言い残し、建物の方向に戻って行く。

 一人になった美鈴は先程の弘樹との会話を思い返しながら、本当に彼の提案に沿って智哉と別れることになるのだろうか、と考えた。そして今までは自分達が智哉と出遭わなければどうなっていたかということしか念頭になく、智哉が自分達と関わらなければどうしていたかなどこれっぽちも省みなかったことに気付いた。智哉のことだから当然、生き延びはするだろう。たぶん今頃は他の生存者のことなど気にもせずにスーパーで悠々自適な生活を送っていたのではないかと思う。何だかんだ言ってここまで智哉を引っ張って来たのは、他でもない美鈴自身である。もはや成り行き任せだったとは口にできそうにない。

「あの──」

 突然、思いがけず近くから声をかけられ、美鈴は自分の思考に没頭するあまり、誰かが脇に立つまで気付かなかったことを悟った。顔を上げると、先刻引き返して行ったはずの若い女がこちらを見詰めている。名前は確か藤川七瀬と言ったか。弘樹がいなくなったのを見計らって声をかけてきた様子だ。どこかで見ていたのだろう。

「さっきはごめんなさい。てっきり彼一人だと思っていたから、驚いて挨拶もせずに逃げてしまって。美鈴さん……ですよね?」

 唐突に名前を呼ばれて、当惑しつつも美鈴は頷いた。

「やっぱり。ひと目でわかりました。いつも弘樹が話していた通りの可愛い人だったので」

「えっと、藤川さん……で名前、合ってますか?」

「あ、七瀬でいいです。その方が呼ばれ慣れてますから。私も美鈴さんと呼んでいますし」

「その……七瀬さんは弘樹とは前の避難場所で知り合いになったとか?」

「ええ。私、一緒に避難しようとしていた家族とはぐれてしまって。避難先で一人で心細い思いをしていたら、彼が自分も似たような境遇だからって色々と手助けしてくれたんです。彼の方が年下なんですけど、私も何かと頼ってしまって……」

 色々とはどういう意味だろう? 自分と智哉の関係もあってか、つい余計なことまで勘繰ってしまう。それにしても話しかけてきた理由がよくわからない。弘樹には自分がいるから近付くなとでも言うつもりだろうか……?

(もしそうなら何と答えるべきか? 弘樹とは幼なじみであって恋人ではないと言えば納得して貰えるのだろうか?)

 そんなことを考えて黙っていたが、心配は杞憂だったらしく、藤川七瀬は意外なことを口にした。

「あれこれ気にかけて貰ってはいたんですけど、本当は彼、すごく落ち込んでいて。私に親身になってくれたのも見過ごせなかったというより何か辛いことから目を背けたくてという感じでした。一時は自暴自棄になりかけて他の人達からも孤立しがちだったんです。その理由が幼なじみの好きだった女の子を護れなかったことにあるとある時聞いて……ずっと彼はそれを後悔し続けていました」

 そう聞いて美鈴は思わず息を呑んだ。自分は弘樹のことを忘れかけていたにも関わらず、弘樹は一人で苦しんでいたというのか。申し訳ないと思うと同時に、今頃になって何故よりにもよって初めて会った相手から彼の気持ちを知らされるのかという複雑な心境が入り混じり、嬉しさよりも戸惑う感情の方が大きかった。

「でも、私を好きだなんてこと、今まで一度も──」

 伝えられたことはない、と言いかけて美鈴は言葉尻を濁した。それは自分も同じだったと思い返したからだ。それを知ってか知らずか、藤川七瀬はずはりと核心を言い当てた。

「それは二人のそれまでの関係を壊したくなかったからだと思います。直接、彼からそう聞いたわけじゃないけど……想いがはっきりと伝わってしまえば上手くいってもいかなくても今までのようには振る舞えなくなってしまうわけでしょ? そのことを畏れていたか、あるいは無意識に避けていたか。よくある恋愛話には違いないけど、当人にとっては深刻な問題であることに変わりないですよね。それこそ世界が一変するのと同じくらいに」

 それだけのことを話すと、また会って色々聞かせてくださいね、と言って藤川七瀬は立ち去った。結局、何を言いたかったのかよくわからないまま再び弘樹と会った美鈴が明確な態度を決めかねているうちに、半ば強引に同居を前提として話が進んでしまった。そして帰って来た智哉とのやり取り。あの中で自分は密かに引き留められることを期待していたのではないか。智哉がそんなことを言うはずがないとわかり切っていたのに。ただ美鈴の返事を聞いた智哉が最後に浮かべた淋しげな表情だけは見間違いでなかったと信じたい。

 今はそれだけが美鈴の願う全てだった。

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