3 冬耕

 厚い雲間から時折覗く暖かな午後の陽射しが、暫し美鈴に今が冬の初めだということを忘れさせてくれる。だが、それも束の間で吐く息が白く曇るほどではないが、陽が翳った途端、容赦ない寒風が彼女の剥き出しの顔を突き刺し、化粧気のない頬や鼻を紅く染めているだろうことは鏡を見るまでもなく容易に想像が付いた。それでも美鈴は鍬を持つ手を休めることなく、土を掘り返す。そうしてできた長さ五メートルほどの畝が、等間隔で四つきれいに並んでいる。その隣ではやはり同じような作業をしていた大学生くらいの若者が、両手を腰に当てて大きく伸びをした。

「ちょっと休憩にしようか。疲れただろう?」

 先程からそれとなく見ている限りでは、休みたいのは度々作業を中断しては話しかけてくる若者の方ではないかと思えたが、美鈴は曖昧に頷いた。自分としてはこの程度の農作業はスーパーで日課にしていたことに比べればどうというほどではなかったが、無下にして気を悪くされても面倒である。それにあの頃は毎日が生きるために試行錯誤の連続だった。智哉は美鈴が言ったものを調達して来ること以外、一切を彼女に任せっ切りだったので、何もかも一人で考えて実践しなければならなかったのだ。今の季節にはどんな作物が育つのかという初歩中の初歩から始め、土作りの方法や水のやり方、肥料を与えるタイミング、病気や害虫対策に至るまで一つ一つ失敗を繰り返しながら、育てるものによっては芽を間引くことさえ知らなかった美鈴が漸く手応えらしきものを感じられるようになったのはつい最近のことである。今思うと、そんな責任を与えてくれたのは智哉が初めてだった気がする。例えそれが彼にとっては日々の安全な暮らしと引き換えの単純な労働に過ぎなかったとしても。だから成果が上がらない時は容赦ない叱責を浴びせられた。しかし、その分、上手くいった時の喜びはひとしおだった。それに比べてここでの作業は指示されたことに従うだけで済んでしまう。専門家の言うことなので間違いはないはずだが、同じことをしていても味気無さを感じるのはそのせいだろうか。今も新参者の自分が迂闊に口出すべきではないと思いつつ、どうしても気にかかることがあって、とうとう堪え切れずに言ってしまった。

「あの……その畝、もう少し高くした方がいいんじゃないでしょうか?」

「えっ?」

 美鈴にそう言われて、若者はぽかんとした表情を向ける。美鈴と若者が作った畝に一見違いはないように思えるが、よく見ると若干高さに差があった。美鈴のものに比べると、若者が作った方は五センチほど低くなっていたのだ。原因は側溝の深さの違いによる。

「うーん、そうかな。でも少しくらい差があっても変わんないでしょ」

 若者はそう言って、真剣に取り合う気配はない。美鈴は尚も繰り返した。

「でも、冬耕ならなるべく深く掘った方がいいんじゃないかと……」

「トウコウ? トウコウって何?」

「あ、冬に耕すと書いて冬耕。土を寒さに晒すことで殺菌や防虫をしたり、酸素を取り込んだりする土作りのことです」

「へえー、よく知ってるね。そんなこと」

 それは本で得た知識に過ぎず専門家には俄仕込みと笑われそうだが、確かにそのように書かれていた。感心と、やや奇特なものを見る視線に気恥ずかしさを覚えた美鈴は思わず顔を臥せた。その背後から別の男の声が聞こえた。

「あー、何だよ、これ」

 後ろから近付いて来るその人物は、高瀬という食糧自給班の班長だった。本職の農家だそうで、ここでの畑仕事の全てを取り仕切っている。この畝作りも彼の指示によるものだ。その高瀬が若者の作った畝を見ながら言った。

「おい、何やってんだよ。もっと深く掘らなきゃ意味ねえだろ。全部やり直せ……おっと、こっちはまずまずか。誰がこれ作った?」

 後半は美鈴の畝を見て口にした言葉だ。あの、私です、と遠慮がちに美鈴が手を挙げると、何だ、新しく来た子の方がひと月もやってるお前より上手えじゃねえかよ、と若者の尻を軽く蹴り上げた。

「だって高瀬さん、いつも適当でいいって言って全然、具体的に教えてくれないじゃないですか」

 大袈裟に尻を擦りながら、若者がそう不満を述べた。

「実際にやって見せてるだろうが。いちいち何センチとか測ってられるかよ。文句ばっかり言ってねえでちゃんと覚えとけ。いいから隣見てさっさとやり直せ」

 それから美鈴の方を向き直ると、森田さんだったよね? もしかして農作業の経験があるの? と訊いた。

 ぶつぶつと言いながらも若者はやり直しの作業に取り掛かり、高瀬と二人で話すことになった美鈴は、以前に避難していた場所で家庭菜園の真似事をしていたと説明した。

「本で調べながらだったんですけど、少しだけ作物を育てていました。春になったら本格的に始めるつもりで、その腕試しの意味も込めて」

 それでか、と高瀬は言って、何となく表情が明るくなった。趣味の範疇とはいえ、農業に興味があると知って嬉しかったのだろう。暫く農家談義に花を咲かせることになった。これまでも食糧自給班に配属された美鈴を高瀬が何かと気にかけてくれていることには気付いていた。何しろ、美鈴が自分から言い出さなければ汚れるのは嫌だろうと土弄りも碌にさせて貰えなかったほどだ。以前は当たり前過ぎて気にも留めなかったそんな異性からの歓心も裡に潜む欲望や下心を意識するようになってからはやけに重荷に感じられる。素直に受け容れることが憚られた。これは成長の証と言って良いのだろうか? そんなことを智哉に言えば、己惚れるな、のひと言で片付けられそうだが、今はその冷淡さがどこか心地良く懐かしくさえあった。まだ智哉が出かけて行って丸一日も経っていないというのに、である。

 昨日、作業の合間に呼び出された美鈴は、智哉から出かけることを告げられた。飲料水の確保に出向くという。智哉の特異体質を知る美鈴はこれまでの経験もあって外に行くこと自体はそれほど心配しなかった。以前なら置いて行かれるのではないかという不安もあっただろうが、今ではそれもまずあり得ないと思える。その証拠に、もし俺がいない間に万が一のことがあれば屋上に避難して帰りを待てと言われた。どこで調達したのか謎だが、そのための屋上に出る通用口の鍵まで手渡された。そこならゾンビの侵入を防げるのは確認済みだそうだ。もちろん、籠城は外部からの救援がなければ意味のないことで、智哉の存在を知らない者が見ればお粗末な発案に映るだろう。当然ながら美鈴にその心配はない。それでも一抹の不安が残った。理由はよくわからない。行かないでくれと何度か口にしかけたが、その都度辛うじてその言葉を呑み込む。美鈴が反対したところで智哉が意思を翻すとは思えなかったし、彼がやると言うからにはそうする必要があるに違いないと思うからだ。ただ、それとは別にもし智哉が自分の意見を聞き入れて前言を撤回するようなら、それはそれで何故か失望してしまいそうな気がして怖かったのである。

「立ち入ったことを訊くようだけど、森田さんは御家族と避難しているの? あ、もちろん差し支えなければで構わなくて、無理に答えなくてもいいんだけど」

 何気ない調子で高瀬が美鈴にそう問いかけてきた。いえ、別に構いません、と美鈴は述べた。

「家族は妹が一人います。両親とは逃げる途中ではぐれてしまって……。今は前に居た場所で知り合った人と三人で避難しています」

 それって男、と言いかけて高瀬は口ごもった。恋人なのかどうかを測りかねている様子だ。関係を訊かれたら何と答えようかと美鈴が迷っていると、高瀬が何やら言い難そうに語った。

「誤解だったらごめん。その人とは元々の知り合いでも何でもないんだよね? 前の避難場所で偶然出会ったというだけで。森田さんはここに来てまでその人と一緒に居ることを納得しているの?」

「えっ? どういう意味でしょうか?」

「えっと、言い辛いことなんだけど、こういう状況だからね。望んでもいないのに無理矢理に寝起きを共にさせられているってことが結構あるんだよ。特に女性の場合。別の場所から一緒にやって来たってだけで彼氏面をするような奴が。ここじゃ誰かに頼る必要なんてまったくないのに。この前も女の子が別々に生活したいって言ってるのに、しつこく付き纏う男がいてね。まあ、そいつは俺らで締めたんだけど。それでもし森田さんが似たようなことで困っているんなら、力になれるんじゃないかなと思ってさ」

 要するに美鈴が無理矢理手籠めにでもされているのではないかと心配してくれているみたいだ。口ぶりからするともっと酷いこと──恐らくレイプや脅迫じみた行為まで勘繰られているのかも知れない。そうしたことは高瀬が言うように珍しくないのだろう。まあ、自分達にしてもあながち的外れとは言えないのだが……。

「心配していただいて有り難うございます。でも大丈夫です。その人とは上手くやっていますので」

 そうなんだ、とあからさまにがっかりした態度を見せられて、美鈴は思わず苦笑しかかった。これが半月程前なら答えはまた別だったに違いあるまい。もっともその場合は智哉がここにいたかどうかは怪しいが。そう考えると、避難所生活初日に智哉へ語ったように、この数週間の自身の心境の変化には戸惑うことばかりだ。嫌々やらされていたはずの性的な行いも今では自分なりの愉悦が芽生え始めていることを渋々ながら認めざるを得ない。そして先日は遂に最後の一線まで越えてしまった。そのことに後悔こそなかったものの、この先智哉との関係性がどうなっていくのかはまったく予想が付かなくなった。智哉の方はどう考えているのだろうか?

(戻ったらそれとなく訊いてみようか)

 美鈴は密かにそう決意した。

 美鈴には目もくれられずに一度は落ち込んだ高瀬だったが、それでも、何かあったら遠慮なく頼ってよ、と男気を見せるのは忘れない。案外、良い人そうだ。異性としての興味はゼロだが、農作業のことでならいずれ相談に乗って貰う機会があるかも知れないと美鈴は思った。

 そこへ畝を直し終えた若者が戻って来て、それを機に高瀬とは別れ、再び作業に戻った美鈴は、夕方まで黙々と畑仕事に精を出した。午後五時を知らせる合図の鐘が鳴ってその日の作業を終えると、辺りはもう隣にいる人の表情もはっきりと識別できないほどの暗がりに包まれていた。電気の照明などは当然なく、周囲を照らす灯りと言えば所々に設けられた篝火に限られている。それも薪燃料節約のために、極力数を減らして必要最低限な分しか焚かれていないので、足許は覚束ない。夜は暗く危険な時間帯であることを人類は改めて思い知らされたと言えるだろう。

 その仄かな灯火を頼りに建物まで帰り着いた美鈴は、そろそろ夕方の配給が始まる時間ではあるが一旦大会議室の自分達の居住スペースに戻ることにした。調理配給班に入った加奈はまだ当分忙しく働いて暫く戻って来ないはずだ。その間を利用して今日学んだことをスーパーに居た頃から日課にしている作業ノートに書き記しておこうと考えたのである。頭の中で記録の内容を整理しながら歩いていると、薄暗い廊下の曲がり角で向こうから来た人影に気付かずぶつかりかけた。慌てて避ける。すいません、と反射的に頭を下げた先からどこかで聞き覚えのある声がした。

「あら、あなた、確かこの前会った──」

 顔を上げた美鈴の目の前に、作業着姿の紺野友里恵が立っていた。


 廊下をすれ違う人という人が美鈴達を見て怪訝な表情で通り過ぎて行く。中には振り返って凝視する人までいて、そのことが美鈴の心を一層落ち着かないものにしていた。さすがに並んで歩く友里恵の方は注目されることに慣れている様子で、ヒール抜きでも五センチほどは美鈴より身長が高いこともあり、如何にも堂々として見える。もっとも友里恵は友里恵で普段とは微妙に異なる視線の意味に気付いていた。それが隣にいる少女に向けられた羨望の眼差しであることは先刻承知済みなので、

(自分も三十年前なら負けていなかった)

 などと無用な対抗心をつい燃やしてしまう。

 こんな奇妙な組み合わせになったのは、偶然廊下で鉢合わせしただけの友里恵に、何故か急ぎの用事がなければ歩きながら少し話さないかと美鈴が誘われたせいである。友里恵は取り巻きもなく一人だった。以前なら考えられないが、ここでは当たり前のことらしい。断るほどの理由もなかったので、こうしてどこに向かっているのかもわからないまま付いて行く羽目になったというわけだ。

「えっと、岩永さんと一緒にいた、名前は……」

 友里恵は必死に記憶を手繰ろうとしているようだが、思い出せるはずがない。

「森田美鈴と言います」

「そういえばお互いにまだ名乗っていなかったわね。改めまして紺野友里恵です」

 美鈴の方は当然ながらその名前を記憶していた。それもここに来る以前から知っていたものだ。とはいえ、地元の新聞やニュースで取り上げられる以上の知識があるわけでもない。自己紹介が済むとすぐに気まずい沈黙が両者の間に流れた。元より接点など何もない二人である。

(何だか妙なことになってしまった)

 早くも美鈴はよく考えもせずに付いて来たことを後悔し始めた。

「あの、それでどういった御用件でしょうか……?」

 堪らずそう訊ねる。

「ああ、説明不足でごめんなさい。岩永さんのことをお聞きしたかったの。今、彼が何をしているのかは御存知?」

「はい、一応は。飲み水の確保に行くと聞きました」

「その通りよ。私は無謀だと言って止めたんですけどね。彼は自信ありげで聞かなかったわ。あなたも心配でしょう?」

 何と答えるべきか美鈴は迷った。もちろん、智哉の秘密は誰にも打ち明けるつもりはない。その点を避けながら今の自分の気持ちを上手く表現できるだろうか? 考えても埒が明きそうになかったので、美鈴は秘密が洩れない範囲で思い付くまま話すことにした。

「心配かと言われたら……確かに心配には違いありません。でも、あの人の場合、たぶん大丈夫です」

「どうしてそんな風に言えるの?」

「あの人……岩永さんは自分が英雄になろうなんて考えはこれっぽちも抱いていません。自己犠牲で他人を救うなんて崇高な精神とは程遠い人です。岩永さんが何かをするとしたらそこには自分にとっての利益があるからで、間違っても無理なことをやるとは言いません。誰かのために命を投げ出すなんてあの人の一番嫌うところですから。裏を返せば岩永さんがやれると言うからには実現可能な算段が既に付いているということなんです」

「そうなの……それは意外ね。もっと自己顕示欲が強い自分に陶酔しているタイプかと思ったわ。目立ちたくてスタンドプレーに走っているわけじゃないのね。あなたも冷静に彼のことを見ていて少し驚いたわ。盲目的に従っているというわけではなさそうね」

「私も初めのうちは信用していませんでしたから。何度も帰って来ないだろうなと思うことがありました。でも一緒に生活しているうちに、岩永さんの行動には一つ一つに裏付けがあるんだってことが段々わかってきて。問題はその説明をなかなかしてくれないので勘違いされやすいということなんです。もっとも岩永さんにしたら誤解したければ勝手にすれば良いということになるんですが……」

 何となくだが、美鈴の言わんとすることは友里恵にも伝わった。自己中心的で傲慢な男の典型には変わりない。ただし、結果だけはきっちり出してくるという、部下や同僚にすると最も扱いにくい相手に違いないだろう。友里恵は執務室で智哉と交わした短い会話を思い出した。同行者を付けると言うと、智哉は即座に断った。あの時、他人の巻き添えになりたくないと主張しただけなら単なる自意識過剰な大法螺吹きの戯言と切り捨てていたかも知れない。だが、彼は他人を巻き込むのも御免だと言ったのだ。これは失敗する可能性をも視野に入れ、そうなった場合の責任は自分一人で負うことを意味している。つまりは自身の能力を過信しているわけではないということだ。そのことが友里恵の判断に幾許かの影響を及ぼした点は否めない。それでもまだ信じられるとは到底言い難かったが。

「あなたの考えはわかりました。私にはとても納得できることではないけれど。身内のあなたにこんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、やはり無事に帰って来るとは思えないわ。自衛隊でも避けているようなことですからね。許可しておいて何ですけど、少なくとも誰かを一緒に行かせるべきだったと後悔しているわ」

「でも、それは岩永さんにとっては迷惑だったんじゃ……」

「彼にも同じことを言われたわ。理由は足手まといになるからということだったけど、本当にそれだけかしら?」

 美鈴は以前に自分が同様の疑問を感じた際、智哉がした説明を友里恵にも話して聞かせることにした。

「前に岩永さんから聞きました。ゾンビの目を胡麻化すには防護服を着る他にちょっとしたコツがいるんだそうです。でもそれは説明したところで誰にでもおいそれとできることではないし、練習して鍛えられるものでもないと言ってました。具体的には恐怖心を失くすことらしいです。ゾンビは相手が動揺したり怖がったりすると反応しやすいみたいで、この距離なら絶対に襲われないと信じていない限り避けるのは難しいそうです。当たり前ですが、普通の人には頭では理解していてもそれができない。岩永さんの場合、偶然に確信を持つきっかけがあったらしくて、それで怖れずに動けるんだとおっしゃってました」

 今ではそれが全て出鱈目だったことを美鈴は承知している。しかし、当時はそう言われて何となく納得したものだ。そうせざるを得なかったと言い換えても良い。何しろ、仮に疑っても確認しようがないのだ。ゾンビを目の前にして恐怖を感じないことがそもそも無理だし、万一そういう人がいたとしても心の中まで見透かすことはできないのだから内心動揺して襲われたのだと言われればそう思うしかなかった。どう転んでも確証を持たれない上手い言い訳だと秘密を知った後で美鈴は思っていた。

 そこまで友里恵が思い至ったのかどうかは不明だが、それ以上彼女から追及されることはなかった。友里恵は話題を変えて別のことを訊ねてきた。

「彼から見返りの要求があったことは知っている?」

 いいえ、と美鈴は首を振った。でも最初に言ったように、あの人ならそうするでしょう。

「何かを得るには相応の対価が必要、というのが岩永さんの口癖ですから」

 あなたも対価を要求されたのかと訊きかけて友里恵は寸前で思い留まった。見たところ、二人の間には現状、良好な関係が築かれている模様だ。ならば以前に何かがあったとしても、わざわざ掘り返して波風を立てるような無粋な真似はしたくない。それに避難者間の個人的な事情にはなるべく立ち入らないというのがここでの友里恵の政治的信条でもあった。

「あれ、お姉ちゃん、何してるの?」

 唐突に背後からそう呼ばれて美鈴は振り向いた。

 加奈が不思議そうな表情で姉とその横に立つ人物を見比べていた。

「加奈?」

 美鈴も反射的に声を出す。配膳用のコンテナを押していることから、仕事の途中だと思われる。美鈴が事情を呑み込んでいる間に、加奈の方は思い直した様子で友里恵にぴょこんと頭を下げた。当然、妹も隣にいるのが誰かはわかったはずだ。この二人が何故一緒にいるのかは疑問に思ったに違いないが、仕事中だから、と美鈴に言い残して手を振って去って行く。

「妹さん、元気になられたみたいね。良かったわ」

「あ、はい。おかげ様で……ありがとうございます」

 どうして妹が病気だったことを知っているのか一瞬訝しんだが、そういえば自衛隊のテントで話したことを思い出した。

「妹さんは調理配給班に入ったのね。中学生くらいかしら? あんな年の子まで働かせてしまって申し訳ないと思っているわ」

 そう言われても美鈴は曖昧に頷き返すしかなかった。自身の感覚では子供だろうと生き延びるためにやれることをするのは当然だと思っていたし、ここでの事情も理解しているつもりだったからだ。

「そういえば、あなたはどの班に?」

 食糧自給班に入ったことを美鈴は告げた。以前の避難場所では屋上菜園の真似事をしていたことも話した。

「それなら心強いわね。是非ともその経験を役に立てて頂戴」

 考えてみればその言葉は何の取り柄もなく、智哉の交換条件の要求にも泣く泣く身体を開くしかなかった自分がやっとのことで誰かに貢献できるようになったという証である。そうさせたのが当の智哉本人であることに若干の皮肉めいた思いを感じずにはいられなかったが、まさかそこまで計算の上だったとはさすがにあるまい。

「お時間を取らせて申し訳なかったわね。色々と参考になったわ」

 友里恵はそろそろ切り上げ時だと判断してそう言った。この娘には気の毒だが、話を聞いても半ば以上の確率で戻っては来ないだろうという考えに変化はない。そんな友里恵の心中を察したのか、これだけは伝えておきたいというような真剣さで美鈴は訴えた。

「あの……岩永さんは一見、身勝手に見えますし、実際にその通りなんですが、今まで他人を踏み台にする行動を取ったことは一度もありません。一番は自分のためだとしてもあの人のやることは他の人にとっても有意義なものであるはずです。それだけは信じてあげてください」

「……随分と信頼しているのね」

「それはもう。岩永さんと会わなければ私も妹も無事ではいられなかったでしょうから」

 それは紛れもない事実だ。優馬の死についても智哉は自分を責めているが、美鈴にはそうと思えない。

「もしあなたの言う通りなら、私としても願ったり叶ったりです。ですが、いずれにしても彼が何事もなく帰って来たらの話です。今はそうなることを祈りましょう」

 そう言って友里恵が別れの挨拶にと右手を差し出そうとした時、突然、廊下の奥が騒々しくなった。何事かと首を伸ばした二人の耳に、誰かの切迫した声が届いた。

「大変だ。自衛隊がいなくなる」

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