2 定例会議
「それでは早速、いつものように現状報告から始めたいと思います。各班の代表者は順に報告をお願いします」
長机をロの字型に並べただけの簡素な会議室で、真正面に腰掛けた市長が口を開いた。どうやら彼女が議長と進行役を兼ねるらしい。当然と言えば当然だが、出席者は全員が顔見知りの様子で、自己紹介のようなものは行われなかった。さっき市長が入室して来た時、チラリと視線を交わしたが、特に智哉は話かけられもしていない。代わって智哉と共にドア付近の壁際に立った田岡が小声でそれぞれが誰なのかを耳打ちして教えてくれた。それによると、市長から見て左右のテーブルに二人ずつ互いに距離を置いて腰掛けている四人が、各班の代表者ということだ。衛生班の班長以外に会うのはこれが初めてだが、大半の者はリーダーに選ばれるだけあって実務に忠実そうで害のない者達に見えた。ただ、その中の一人、総務班の班長と教えられた男にはやや注意を払った。年齢は智哉より若干上になるだろう。一見すると穏やかそうな印象を受けるが、眼鏡の奥の目付きは鋭く絶えず辺りを窺っている感じだ。他人を信用しなさそうなタイプである。その視線が一瞬、智哉に注がれ、すぐに別の場所へ移っていった。今はまだ注意を払うべき対象とは見なされなかったようだ。元々は県の広報課職員だったらしい。その経験を買われて総務班の班長に納まったのだろう。もちろん、そんな経歴に興味や関心があるわけではなく、智哉が注目した理由は彼こそが市長と方針を異にする対立派の中心人物と聞き及んでいたからに他ならない。現状はお互いが何事もないかのように装っているが、既に避難者間でも噂になっているほどだ。ここに集う者が知らないはずはあるまい。全員が承知していると見るべきである。さらに市長と向かい合う形で、この場には些か不釣り合いと思える服装をした二人の人物が着座していた。一人はここに来てからしょっちゅう目にするようになった迷彩服姿の中年男性で、マリーンカットともアーミーカットとも称される両サイドを極端に刈り上げた坊主頭と、冬場でも浅黒く日焼けした肌から即座に現役自衛官だとわかる。実際に駐留部隊の中隊長である一等陸尉の彼は、現場指揮官という立場からオブザーバーとして会議に招かれているのだそうだ。その隣に坐るもう一方の人物は如何にも使い込まれた様子の白衣に身を包んだ四十絡みの痩せた男で、智哉も一度顔を合わせたことのある武藤という自衛隊の医師──つまり医官であるが、こちらは自衛官には似つかわしくないぼさぼさに伸びた髪型で髭も蓄えており、言われなければただの町医者にしか見えなかっただろう。無論、彼は医療班を代表しての参加ということになる。会議はこの七名が中心ということだが、それほど厳密に出席者が規定されているわけではないらしく、おのおのが別の人間を何人か引き連れて来ていた。もっとも随伴者にまで席は用意されておらず、それぞれが代表者の背後に付き従うような形で立っている。全体的に会議というよりは記者会見場のような雰囲気だった。これがいつもの光景なのだろう。おかげで新参者の智哉が壁際に控えていても目立つことはなかった。
「では、まず衛生班から報告します」
そう言って居並ぶ出席者の中では唯一、顔見知りである前橋という名の衛生班代表が報告を始めた。
「人手不足は相変わらず深刻な状況です。先週だけで四人が別の班に移りました。理由は例によって作業がきついというものです。それに対して新たに入ってくれた人は一人だけで、出て行く人の数に追いついていません。このままでは残った人の負担がさらに増すばかりです。そのため、班員達からはこれ以上仕事量が増えるならもっと配給を増やすようにという要望が出ています」
「ちょっと待ってくれ」
配給を増やせという言葉に真っ先に反応したのは、食糧自給班の代表を務める名を高瀬と教えられた若い男だ。恐らく班長達の中では最も年下で智哉と同世代のまだ三十代と思われる。彼は地元では経験は浅いものの研究熱心な若手農家として仲間内で知られる存在だったらしい。それが目に留まって今回、食糧自給班の班長に抜擢されたのだという。その高瀬が語気を強めて発言した。
「子供も年寄りも少ない食事で我慢している中、衛生班にはもう余分に配給されているだろ。それをもっと増やせって言うのか? 冗談じゃない」
それは智哉も聞き及んでいた。例えば普段の食事は一人前のレトルトカレーのルーとご飯を二人で分け合うといったところに、衛生班だけは余分に乾パンが一枚付くという具合だ。従って衛生班には食べ盛りの子供を身内に抱える者が多い。智哉の場合、それが目当てではなかったが、同様に成長途上の中学生がいる身としては配給が増えるのは単純に有り難かった。ただ、配給を受け取る際に周囲の者から寄せられる羨望と諦めが複雑に入り混じった視線は確かに感じていた。成り手が少ない以上やむを得ない措置とはいえ、高瀬のように潜在的に不満を持つ者は少なくないと思われる。
「だったらどうすりゃいいって言うんだ? みんな辞めていくのを黙って見送ればいいのか? そんなことになって困るのはお前達だぞ」
やや向きになって前橋がそう反論する。それに対して高瀬も再び言い返した。
「糞を扱うんなら俺達食糧自給班も同じだって言ってるんだよ。けど、辞める奴なんて殆どいないぜ。衛生班に辞退者が多いのはやり方が悪いんじゃないのか? そんなんで優遇されるのは納得いかないね」
放って置けば二人の言い合いはさらに白熱し合うと見たのか、前橋が何か言いかけたのを制して市長が口を挟んだ。
「二人共、それくらいにしておいてください。実際のところ、配給の割り増しというのはどうなんですか? 白井さん?」
白井と呼ばれたのは調理配給班の班長で、市長を除くとこの場で唯一の女性代表者だった。とはいえ年齢も唯一人の五十代と最年長らしく、至って普通の主婦然としており、場が華やぐ雰囲気とは無縁である。元は学校給食の調理員だったようで、大人数の食事の提供には慣れていることから選ばれたそうだ。
その如何にもうるさそうな外見とは裏腹に、幾分押し殺した声で指名を受けた彼女は答えた。
「はっきり言って余裕は全然ないわね。市長からは最低限、あとふた月は保たせるようにって言われているけど、今の配給だとそれもままならないわ。もっと量を減らさないと。その上で衛生班に割増するならさらに他の人は厳しいことになるのを覚悟しておいて」
それを聞いた高瀬が、それ見たことかと言わんばかりに前橋を睨み付ける。前橋の方は目を逸らして気付かないふりをしていた。
「ついでに報告すると、もう皆さんの耳には入っていると思うけど、実は先日新しく来た人から個人的な食糧の提供があったの。それも保存食が百五十人分っていう結構な量よ。それで少しは楽になったけど、如何せん避難者の数とこの生活がいつまで続くかわからない現状を考えれば焼け石に水には違いないわね。自衛隊さんからの援助もここ暫くの間途絶えているし、その辺りのことはどうなのかしら?」
その言葉を受けて全員の視線が市長の真向かいに坐る一等陸尉に注がれる。
「どうですか? 緒方一尉」
市長の呼びかけに応じて、名前を呼ばれた相手が口を開いた。
「我々としても大変心苦しくはあるのですが、現在司令本部との定期補給便が滞っておりまして。次がいつ来るのか私達にもわからないのが実情です。また近くの店舗等に残された食料品を自主回収してはどうかという意見もありますが、以前にそれを行った結果、武器を携行する我々ですら甚大な被害を被ったということで現在は見送っています。よって何とか基地内の備蓄品を送るよう要請はしているのですが、他にもここと同様の避難所が幾つかありまして、実を言うとそれらの大半は皆さんほど落ち着いてはいない。そうした緊急性の高いところから優先的に配布せざるを得ない現状を重ねてご理解いただきたい」
暗にここはまだ余裕があると言いたいのだろう。他はもっと酷い状況に置かれているのかも知れない。補給に関しては市長の統制が行き届いていることが却って裏目に出た格好だ。自衛隊の言い訳自体は何度も聞いたものらしく、またそれか、という雰囲気が漂うのみで誰からも反論は出なかった。代わりに市長が突然、壁際で黙って成り行きを見守っていた智哉を指し示しながら別のことを口にした。
「皆さんには後ほどお伝えしようと思っていたのですが、ちょうど話題に出たので今御紹介します。先程の話にあった食料を提供してくれた方というのが、そちらにいらっしゃる岩永さんです。改めて全員を代表してお礼申し上げます」
不意に注目を集めることになり、智哉は慌てて手を振って大袈裟な謝意は必要ないことを示した。出席者の大半の者が感謝と多少の物珍しさを示す中、ただ一人ここまでひと言も発していない総務班代表の男が一瞬険しい目付きで智哉を眺めたことが気になった。どうやらこれで彼の意識に智哉の存在が刷り込まれてしまったようだ。それがこの先どのように影響するのかはまだわからない。
衛生班の要望は一旦保留ということになり、その後も細々とした報告が前橋の口から語られたが、大部分が智哉自身の所属する班だけにこれといって目新しい話はなかった。
続いて食糧自給班の報告が高瀬の口から語られ、現在はジャガイモと茄子の収穫を終え、まもなく蕪と南瓜が採れるだろうとのことだった。今後はビニールハウスを建てて、冬野菜の栽培に備えるそうである。ただし、規模はさほどでもないらしい。大々的に始めるには春の到来を待たねばならないが、そのためには現在の自衛隊の野営地を使う必要があるというのが彼の意見だった。それは翌春までに結論を出すという方向で落ち着いた。
ここで漸く総務班の番となり、初めてあの男が口を開いた。名前は三上というそうだ。前回の報告から新たに増えた人数──これは智哉達のことのようである──を始め、最近あった喧嘩などの避難者間のトラブルや私物の盗難といった犯罪の発生件数、そして亡くなった人の数──ただし、死因はゾンビによるものではなく病気や自然死──などが、具体的な数値として淡々と語られていく。全体としては処理に困るような大きな問題は起こっていないというのが彼の総括だった。智哉の目には市長の方針に異議を唱える対立派の立場でありながら、結果的にその管理能力を認めるような報告に終始しているのが却って不気味に映った。果たして本心からの発言だろうか? もっともそれは智哉が穿ち過ぎと言えるかも知れない。幾らやり方が意に沿わないといっても自分達が生き延びることが大前提という点で両者の主張に隔たりはなく、意見が合わない者同士でも協力し合うのは当然には相違ないのだから。
最後に調理配給班からの報告があったが、食料に関しては先程の話で要点は殆ど出尽くしていたようで、あとは具体的な数値が示されるのみだった。深刻なのは食べ物よりも飲み水の方である。生活用水に関してはプールの水でどうにか賄えている様子だが、飲料水は市が用意した給水車は既に空となり、水道の供給が途切れる以前に溜め込んだ分も残り少なくなっていると語られた。それが無くなると残されているのは災害用に備蓄されたペットボトルが数日分のみということになるらしい。それまで放出すればいよいよ後が無くなり、その事態は可能な限り避けたいところであろう。幾ら堅牢な居住地でも水や食料無しで留まることは不可能だ。いずれは犠牲を覚悟の上で外に出て行かざるを得なくなる。今のままでは数週間と経たないうちにそうなる公算が大きかった。
「水源自体はプールがあります。あれなら雨水も溜められますし、樋などからも流れ込むように工夫すれば良いでしょう。現在は上澄みを掬ってトイレの排水や洗濯などに使っていますが、何とかあれを飲料水に転用できないかしら? 自衛隊の方でそのような装備はお持ちじゃありませんか?」
「我々が持ち込んだ中ではせいぜい個人携行の浄水キットしかありません。これだけの人数を継続的に賄うとなるととても足りませんな」
「聞くところによると──」
緒方一尉の説明にそう声を上げたのは三上だった。片手を軽く挙げる仕草で市長に発言の許可を求めると、話し始めた。
「自衛隊には確か大掛かりな浄水装置があったはずです。海水からでも真水が作れる優れものだと聞いた覚えがある。それは一体どこに?」
その装備の存在なら智哉も災害関連の本を読み漁って知っていた。そのものずばりの浄水セットと言い、一日に淡水からなら約七十トン、海水からでも約三十トンの水を飲料用として濾過する機能を持ち、俗に三トン半トラックと呼ばれる大型トラックと一体化され、荷台に電源やポンプなどの必要機材一式を搭載して道路のある場所ならどこにでも行けるという自衛隊自慢の装備だったはずだ。どこにあるのかという疑問は三上のみならず智哉も気になっていた。
「確かにそういった装備を自衛隊は有しています。ただ、絶対数が不足していまして。何しろ、これほどの規模の災害……と呼んでいいのかはさておき、被害は自衛隊でも想定はしておりませんでした。また車両の通行は現在、非常に危険が伴うことは皆さんも御存知でしょう。そうした事情から全ての避難場所に配置することは不可能となっています。この場に無いのは運がなかったと思って諦めていただきたい」
「そうですか……自衛隊も存外、当てになりませんな」
三上は話を聞き終えると、最後にそう言って嫌味で締め括った。言われた側の緒方一尉はややムッとした表情を見せたものの、反論はせずに黙り込んだ。代わって隣の武藤医官が発言した。
「自作で浄水器を作るという方法もある。濾材は布や綿や小石、活性炭でもあればベストだが、ここにある物だけでも何とかなるだろう。もちろん、濾過した後に煮沸消毒による滅菌処理は最低限必要になる。ただし、それだけでは鉄やマンガン、砒素や鉛など取り除けない重金属、化学物質もあるので完全に無害とは言えない。あくまでも最終的な手段となるが、用意しておくに越したことはないだろう」
それには燃料がネックになるわ、と調理配給班の班長である白井が指摘した。
「只でさえ燃料は不足しているのよ。今でもできる限り、使っていない家具や備品を薪代わりにして節約しているくらいですからね。それももう限界。粗方燃やせる物は燃やし尽くしてしまったわよ。その上、これから本格的な冬を迎えるに当たって暖房をどうするのかということもある。煮沸消毒と簡単におっしゃいますけど、お湯を沸かすのだって気軽にできないわ」
「暖房に関しては総務班にも多くの避難者から要望が寄せられている。せめて各部屋にストーブ一台くらいは置いて欲しいというものだ。これからもっと寒くなることを見越して節約しているので今は我慢してくれと説得しているがね。実際のところ、暖房器具そのものも足りていないのではないか」
三上のその言葉に、やはり危険を冒してでも外部から入手するしかないんじゃないか、と言ったのは食糧自給班の高瀬だ。この中で一番若い故なのか、慎重さよりも強気な発言が目に付く。
「それについては先程緒方一尉も言われたように、外に出るのはリスクが高過ぎるということで意見統一されていたのではなかったかしら? それに誰が行くのかということもあるわ。自衛隊ですら尻込みするんですからね。それこそ衛生班に人が集まらないどころの話じゃないでしょう」
市長の反論に高瀬がさらに喰い下がる。
「外に出ないと決めたのはまだ物資に余裕があった頃の話だろ。俺もその場にはいなかったしな。その時とは状況が変わってきている。こうなったからには危険だからとか悠長なことは言っていられないんじゃないか。どの途、今のままじゃ近いうちに奪い合いが起こるぜ。それともみんなで仲良く飢え死にするか?」
私も彼と同意見だ、と三上が応えた。
「ここで少数の犠牲を恐れて手をこまねいていれば彼の言うように全員が手遅れになりかねない。慎重さも結構だが、時には果敢な行動を起こすこともリーダーには必要な資質だと思うのだが違いますかな、市長? それとも差別的なことを敢えて承知で言わせて貰えば、やはり女性には犠牲を強いる決断は荷が重いのでは?」
ここに来て漸く三上が反市長派らしい意見を口にしたことで、会議の場は一気に緊張感が高まった。どうやら今までは自分以外の誰かが市長に異を唱えるのを待っていたようだ。直接的な非難を避け、自身はあくまで同調しただけという名目を得たかったのだろう。かなり狡猾なやり口と言える。だが、市長の方もこうなることを予期していたのか負けてはいない。
「犠牲が少数とは限りません。出て行った人が誰も戻って来ないということも充分あり得ます。そうなれば犠牲を払っただけで結局は何も手に入らないことに変わりはあません。誰かを危険な目に遭わせること、それを果敢な決断と呼ぶのなら確かに私は苦手です。ですが必要とあれば行う覚悟はあります。ただし、やる以上はリスクに見合う成果が確実に得られるようにすべきでしょう。だからこそ慎重な判断が必要と訴えているのです。闇雲に探しに行くなど論外よ。それに──」
チラリと智哉の方に視線を投げかけてから市長は続けた。
「その前に確かめたいこともあります。この件を議論するのはそれからでも遅くないと思いますがいかがでしょうか?」
そう言われて三上も高瀬も一旦は押し黙った。だが、二人共納得していないことは明白だった。あやふやな態度で胡麻化そうとするなら再び追及するという姿勢を崩していない。当の市長は智哉の方を向き直ると、改めて声をかけた。
「岩永さん、あなたはここに来られる前は御自身で身を護り、食べ繋いで、ゾンビを斃した経験もお有りだとか。参考までに意見をお伺いしたいのだけど、まずは確認したいことがあります」
わざわざこの場に呼ばれたからには礼だけで済むはずはないと思っていたが、ここで話を振られるとは予想していなかった。ただ、ある程度の覚悟はしていたため、意外ではあったがさほどの驚きはない。しかし、他の出席者達は違っていたようだ。会場内の空気が一瞬、ざわつく。智哉が食糧だけでなく、銃や化学防護服まで持ち込んでいることを知らなければ無理もない。たまたま喰い物を見つけられた幸運な奴程度にしか思われていなかったのだろう。その方が智哉としては何かと都合が良かったのだが──。
「宜しいかしら?」
再度、問われて智哉は不承不承頷くしかなかった。注目されるのは不本意だが、こうなったからには逃れようがない。
「あなたが持ち込んだ大量の食料品、災害用非常食が中心だそうだけど、どこから入手したのか差し支えなければ教えてくださる?」
差し支えなければ、と言っているが、どうせ拒否すれば拒否した理由が訊ねられるに決まっている。別に秘密にしておく理由もないことから、正直に打ち明けることにした。
「偶然だがスーパーに立て籠ることができた。そこで見つけたものだよ」
マジかよ、と高瀬が驚嘆の声を上げた。
「俺達のグループもここに来る前はそうしようと思っていたんだよ。映画じゃ定番の隠れ場所だしな。けど、すぐに諦めた。現実では籠城するのに不向きだって気付いたからな。何しろ、出入口や窓は大きく取ってあってとても全部は塞ぎ切れないし、そもそも店内にゾンビがいたんじゃ商品には手が出せない。あんたはよくそんなところに立て籠もることができたな」
運が良かったんだ、と智哉は答えた。偶然知り合った仲間に元従業員がいて、人の出入りがない倉庫の存在を知っていた。普通は気付かないだろうという抜け道を使って何とかそこに逃げ込むことができたおかげだ、そういうことを掻い摘んで話した。
「しかし、聞くところによると君らは病院で救助されたそうじゃないか。そこまでどうやって行ったのかね? 我々でもヘリを使う以外に移動手段はないというのに。例の化学防護服が関係していると見るが、詳しく説明してくれないか?」
これは武藤医官から出た質問だ。そういえば彼の医療班には現在、荻野看護師達がいるのを思い出した。恐らく彼女達からある程度の事情を聞いたに違いない。
「化学防護服?」
智哉が口を開く前に、緒方一尉が思わずといった調子で訊ねた。
「おや、御存知ありませんでしたか? ここに来た際、彼が持ち込んだ所持品の中に含まれていたそうですよ。その後の所在が気になったので受け容れ担当者に聞いてみたところ、暫く預かっていたらしいのですが、本人が受け取りに来たから渡したと言ってました。彼はどうやらそれでゾンビを避けてきたらしい」
預けっ放しだった化学防護服を引き取ったというのは本当だ。さすがにあんな派手でかさ張るものを大部屋に持ち込むわけにはいかなかったので、今は許可を得て衛生班の控え室の片隅に置かせて貰っている。同じ班の連中には悪臭を防ぐための大袈裟な道具としか思われていないようだが。
「どういうことですか?」
さすがにゾンビを避ける手段があると聞いては堪え切れなかったのだろう、静観する態だった市長自らが智哉に質問してきた。智哉としても殊更隠す気はなく、自身の秘密に触れない範囲で話して聞かせる。
「スーパーに立て籠もっていた時、同じものを着た二人連れが訪ねて来たんだ。もちろん、地上を通ってね。詳しくはわからなかったが、どこかの研究員のようだった。どうやらゾンビは目で見て獲物を認識する以外に、人体から発散される何かしらの成分を感知して襲って来るらしい。それがどんなものかは知らないけどな。つまり、完全に外気と遮断して防護服内から汗や呼気が洩れ出ないようにすればゾンビは視覚情報に頼るしかなくなる。実際に防護服はそのように改造してあった。そしてゾンビの視覚は嗅覚ほど優れてはいないみたいだ」
「それでゾンビを避けられるってことか? すげえ発見じゃねえか」
興奮を隠し切れない様子で声を上げた高瀬とは対照的に、緒方一尉と武藤医官は何やら真剣な表情で話し合い出した。他の者は概ね半信半疑といった感じで事の次第を見守っている。
「その訪ねて来たという人達は今、どこにいるのかね?」
武藤医官との会話を終えた緒方一尉が皆を代表する形で訊いた。
「死んだ。二人共」
智哉の言葉にその場にいた全員が一様に息を呑んだ。
「……死んだのは何故だ? ゾンビは避けられるんじゃなかったのかね? 念のために訊いておくが、まさか君が手を下したとは言わないだろうな」
緒方一尉の智哉を見据える目付きがスッと鋭くなる。智哉は瞬時に背筋が凍り付く気分を味わった。不良学生のヤマグチ達などとは比べものにならない本物の迫力だ。目を付けられると厄介なことになりそうだと思いながら、再び智哉は口を開く。
「当然、彼らを殺したのはゾンビだよ。誤解のないようにはっきりと言っておくが、化学防護服の効果は万全じゃない。あくまでゾンビに気付かれにくくするというだけのことだ。近寄られれば顔を隠していても何らかの理由で見破られる。七、八メートルが限界というところだろう。彼らはその距離感を見誤ったせいで接触する前にゾンビに襲われた。だから直接、話を聞いたってわけじゃない。もし対話ができていたらもっと有益な情報が聞き出せたかも知れないがね。今、話したことは全て彼らの行動とその装備品から推測したに過ぎない」
「それでもある程度の効果はあった。だから移動もできた。こういうことね?」
市長が訊き、智哉が頷く。智哉に関しては別だが、美鈴達についてはその通りだ。
「特に車での移動なら出合い頭の接触にさえ注意していれば、問答無用で襲われるということはなかったよ。試すのに勇気はいったがね。もっとも奴らはどこにでも潜んでいるから常に危険と隣り合わせであることに変わりはない」
「でもよ、それにさえ気を付けていればいいんだろ? だったらそれを着て物資の回収にも行けるんじゃないのか?」
そんな高瀬の意見に智哉は敢えて口を噤んだ。そもそも効果は説明したものの、実感としてあるわけではない。化学防護服を利用したのはあくまでゾンビに襲われないという特異体質を隠蔽するための口実に過ぎなかったのだから当たり前だ。そうでなけば例え防護服を身に着けていたとしても外に出るのは二の足を踏んでいたに違いない。実際はその程度の信頼性しか置いていなかった。だが、それを智哉自身の口から語るのは憚られた。それなら何故平気なのか、という疑問を持たれかねないためだ。無謀な男が度重なる強運に恵まれて今日まで生き残った、そういう印象でいられるのが最も良い。それには余計なことは言わないに限る。幸いなことに智哉が何か発するより先に、緒方一尉が会話に割り込んだ。
「それは難しいんじゃないのかね? 外でならともかく屋内となると七メートルもの距離を常にゾンビとの間に保ち続けるのは訓練を受けた者でも相当厳しいだろう。それに仮にそうできたとしても我々にはもう遅いが」
「遅いとはどういうことでしょう?」
市長が緒方一尉にそう訊いた。一尉は苦々しげな表情でそれに答えた。
「この被害が拡散し始めた当初は、それが空気感染によって起こる可能性も否定できなかった。そのため多くの部隊で化学防護服の着用が義務付けられ、その後知っての通り彼らの大半は戻って来ていない。つまり、化学戦の装備自体が殆ど失われてしまって残っていないんだよ。恐らく消防などでも同様だろう。その証拠に我々がここへ派遣される際には一着も支給されなかった。まあ、その頃には空気感染の恐れは殆どないことがわかっていたから誰も気にしなかったがね。そんな使い途があると知っていればもっと大事に扱っただろうが、今となっては後の祭りだ」
「もし大量に残っていたらゾンビもやっつけられたってことか?」
高瀬が期待と失望の入り混じった声でそう問う。それは無理だ、と今度は智哉があっさりと否定した。
「どうしてだ?」
「さっき緒方一尉が言った通りだよ。ゾンビを避けて動くのは至難の業ってことだ。特に一人や二人でならともかく、集団で見つからずに済むなんてまず不可能だ。ましてやあの格好だ。只でさえ動きが制限される上に目立つことこの上ない。匂いを隠せるだけで気配が消せるわけじゃないからな。音にも反応して注目を集めるから銃も基本的には使えない。そしてもし誰か一人でもゾンビに正体がバレて興奮させたら周囲にも伝播するぞ。たぶん、昆虫で言うところの集合フェロモンみたいなものを撒き散らすんじゃないか。そうなれば終わりだ。次から次へと奴らは集まって来る。化学防護服を着ていることに意味がなくなるどころか、逆に足枷になるだろうな」
「要するに防護服によるカモフラージュの効果を期待するには単独、もしくは極めて少数でなければならないということだな」
緒方一尉の言葉に頷きながら、智哉は付け加えた。
「それも運が良ければの話だ」
例えば君のようにかね? と訊かれ、こればかりは智哉は嘘を吐いた。
結局、智哉の話は興味深く聞かれはしたものの、現在この避難所を取り巻く諸問題の解決にはならないと判断された。智哉がそうなるように敢えて否定しなかったという点が大きい。物資不足については明確な対策が立てられないまま会議は午後になって散会した。三上や高瀬は市長のリーダーシップについて疑問を投げかける発言をしたが、彼らとて有効な案があるわけではないので、必然あまり強くは出られなかったようだ。
「先程の話だが──」
智哉はスチール製のありふれた事務机に向かう目の前の人物にそう切り出した。本来ならもっと上等なデスクが用意されて然るべき相手だろう。だが、訊けば元々部屋にあったマホガニー製の執務机はとっくに燃料として供出してしまったのだそうだ。そう言われると、この部屋に木製の調度品は一つもない。その無機質な部屋の主である友里恵は続く智哉の言葉を書類から顔を上げることなく聞いていた。
「──水不足の件、何とかできるかも知れない」
会議が終わった後、友里恵が自室に戻ったのを見計らい、智哉は一人でこの部屋を訪ねて来ていた。約束はしていなかったが特に面会を拒まれることなく、あっさりと目の前に通された。ただし、アポイントメント無しで会うのは今回限りで、話を聞くのも五分だけ、しかも他の仕事をしながらという条件付きだった。それでも智哉に異存はなく、事務机を差し挟んでの会話となった。無用な挨拶などは省いて早速本題に入った次第だ。
本当なら、できるかも知れない、ではなく、してやる、と言いたいところだが、あまり自信過剰に見えて不審がられても困るので、ここでは幾分トーンダウンしてそう告げる。友里恵は読んでいた書類から漸く顔を上げ、胡散臭いものを見るような目付きで智哉を一瞥した。
「あなたが? どうやって? これまで誰も有効な手立てを思い付かなかったのよ」
そう言われると予期していた智哉は、用意していた答えを口にする。
「周辺で飲料用の水が汲めそうな場所は事前に調べてある。井戸があったり湧き水が出たりするところだ。表の給水車は使えるんだろ? 外に出る許可さえくれれば俺が行って汲んで来る」
「随分と用意周到なことね。こうなることは予め見越していたということかしら? ゾンビに対する見識といい、水不足への備えといい、本当にあなた、何者なの?」
只の民間人だよ、と智哉はとぼけた。
「備えはあんただって充分にしていただろう。水道が使えるうちに可能な限り溜めさせていたのはそのためだったはずだ。慌てて対応していたんじゃこの避難所の落ち着きぶりは考えられない」
「でも、水源の確保までは頭が回らなかったわ」
(俺だって自由に外を動き回れなかったら思い付かなかったさ)
無論、その言葉は自分の胸の裡だけに留めておく。
「話にあった化学防護服を身に着けていれば安全というわけ? でも絶対じゃないことはあなた自身が語っていたのではなくて?」
「確かに危険は大いにある。確実に戻って来られるという保証はどこにもない。けど考えてみてくれ。仮に失敗したとして、あんたが失うものは空になった給水車と無謀な避難者が一人だけだ。俺ならむしろ、そんな危険人物は早々にいなくなってくれた方がホッとするね」
冗談めかした言い方だったが、友里恵はクスリとも笑わずに真剣に考え込んでから言った。
「……その決意が本物なら私から自衛隊に護衛を頼んでみてもいいわよ。その防護服とやらは一着だけではないんでしょ?」
「それは必要ない。行くとしたら俺一人で充分だ。他の人間に付いて来られても却って足手まといになる」
「随分な言い草ね。彼らは日頃から訓練を受けている人達よ。あなたの方が頼りになるとは思えないけど」
そう言われても智哉は特に気にしなかった。その通りに違いないと自分でも思うからだ。ただし、今度の場合は頼りがいがあるかどうかは関係ない。
「戦闘しに行くわけじゃないんだ。会議でも言ったが、人数が増えればそれだけリスクも高まる。この方法では一人で行動するのが最も安全だ。今までもそうしてきた。まさかそのまま逃げ出すなんてことを疑っているわけじゃないだろうな」
「愚問ね。そんな心配はしてないわ。だったら初めからここに来なければいいだけだし、食糧を差し出した意味もない。あなたがとんでもない慈善家でない限りね。それに、ここにはあの娘も居るんでしょ? だったら当然、戻って来るわよね」
あの娘とは美鈴のことのようだ。恋人同士のように思われているのならそれは誤解だが、わざわざ解いてやる必要もない。好き勝手に思わせておけば良い。
「とにかく行くなら俺一人でだ。他の奴を巻き添えにするのも、巻き添えになるのも御免だね」
「……いいわ。それについてはあなたの意見を尊重しましょう。でも、どうしてさっき会議の席でそのことを言い出さなかったの?」
「不毛な対話に付き合う趣味はない。どうせあの場で言ったら長々と愚にも付かない話し合いをするんだろ? 悪いが他の奴の意見はどうでもいい。あんたの決裁さえあれば問題ないはずだ」
「一応、ここも民主主義に基づいて運営されているのよ。私が独断で物事を決定しているわけじゃないわ」
「けど最終的な判断を下すのは市長、あんただ。会議を見ていてそれはわかった。他の連中に責任を負う気はないよ。確かに勝手に決めて失敗すれば責任を問われるかもな。あんたに懐疑的な意見を持つ連中を勢いづかせることにもなりかねないだろう。だが、上手くいけばそいつらを黙らせることもできるんじゃないか?」
「来て短期間なのにやけに詳しいわね。それに意外だわ。そういう政治的駆け引きには関心がないかと思ったわ」
「関心はないさ。俺としちゃ誰が主導権を握ろうが知ったこっちゃない。市長派だろうと反市長派だろうと。こちらのささやかな要求を聞いてくれさえすればな」
元々すんなりと外に出ることが目的だったが、この際なので求めるものは全部言ってしまうことにした。
「……条件付きということなのね?」
政治家らしい油断のない顔つきになって、友里恵がそう確認する。
「その方がそっちにとっても安心できるだろ? 只というほど信用できない取引はないからな」
「その点は同意するわ。政治の世界では、無償という言葉は見返りに際限がないことと同義ですからね。いいわ、要求を聞きましょう」
部屋が欲しい、と智哉は言った。それほど広くなくていい、三人で寝泊まりできる個室に移らせてくれ。
「それは……無理よ。見ての通り、空いている部屋なんて一つもない。本当に水問題が解決するならここを使わせてあげたいくらいだけど、それでは私の仕事に支障が出るしね。他の個室は大部屋に入れられない感染症の疑いがある人達が使っているわ。まさか病人を追い出せとは言わないでしょう」
楓の間、と智哉は短く呟いた。それを聞いて友里恵はハッとした表情を浮かべた。それだけでどうやら意味は通じたようだ。
「……あの部屋を明け渡せということ? あなた、あそこに居るのが誰だかわかっているの? 元環境大臣で衆議院議員の鳩村秀郎先生とそのご家族なのよ。私が国会議員時代から散々お世話になっている人で、国政の重鎮と言われる方よ」
「そんなことはどうでもいい。ここに来てからずっと観察してきたが、あの家族は何の役にも立っていない。どの班にも所属してないだろう? あんな連中に使わせるのは勿体無い。とっとと追い出して俺に明け渡せ。あんたにそれができないと言うのならこの話はなかったことにしてくれ。俺も見返り無しで命を張るほどお人好しではないんでね」
それは智哉にとっても賭けとなる言葉だった。もし友里恵が智哉の提案を端から相手にしていなければ、あるいは多少の期待はあってもそれ以上に権力におもねる人間だったら、これまでの交渉は全て水泡に帰すことになる。対立派の三上に同様の話を持ち込んで強引に外出を認めさせるという手が残っていないこともなかったが、今一つ信用できないあの男と手を組むのはなるべくなら避けたい。となると、外に出るための方法をまた一から模索し直す必要がある。果たしてその結果は──。
「…………わかったわ」
十秒ほど黙考した挙句、友里恵はそう口にした。
「もし本当に水を運んで来られたならあの部屋をあなた達が使えるように手配しましょう。鳩村先生には私からお願いして出て行って貰います。たぶん絶縁されるでしょうけど、それくらいで済むなら安いものね。他の人から文句は出ないでしょう。で、要求はそれだけかしら?」
「もちろん、預けた銃は持って行かせて貰う。ついでに個室に移れるとなれば帰った後でそのまま俺が保管しても問題ないはずだ。それと班の作業の免除と今後も自由に外に出られるようにして欲しい。それには定期的な水の確保も含まれると思って貰って構わない。できる範囲で良ければ食料も調達して来よう」
「自由に外にですって? 呆れたわね、散歩でも日課にするつもり?」
「無謀だと言いたいんだろうが、今までもそうして生き延びてきた。口だけかどうかは結果で示す」
「好きにするといいわ。とりあえずは無事に水を運んで来ることね。そうすればあなたのその向う見ずな自信も含めて認めてあげる。帰って来なければ厄介者が一人減ったと思って、ここでの会話は一切忘れることにするわ。それから戻った際は毎回、規定の検査は受けて貰うわよ。これだけは例外を認めるわけにいかない」
「妥当だな。これで決まりだ。準備を整えたらすぐに出発するからそっちも手配を頼む」
それだけ言って立ち上がると、智哉は部屋を出て行きかけた。その背中越しに友里恵が声をかけた。
「もし生きて帰って来たら直ちに報告して頂戴。アポイントメイトはいらないわ」
その言葉に智哉が振り向くと、もう友里恵は書類仕事の続きに戻っており、こちらを顧みることはなかった。
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