第三部 避難篇

1 休暇村

(……まったく。これだから今時の若い男は使えない)

 ひと回り近くも年下の秘書の報告を聞きながら、紺野友里恵は内心うんざりした気分でそう思った。もっとも若いと言っても友里恵からすればという意味で、世間一般の企業であれば、そろそろ中間管理職にあってもおかしくない年齢である。ただ政治の世界では今年四十六歳になる友里恵が未だ若造扱いで、漸く三十代も半ばに差し掛かろうかという目の前の相手、田岡雄介などは政治家の秘書としては軽く足を踏み出した程度に過ぎない。その証拠に東京大学文学部を卒業後、キー局のニュースキャスターを経て三十代で政界に転身し参議院選に初当選を果たした友里恵が、任期途中で首長選に鞍替えして四十代前半で市長となったのも女性としては歴代四番目の若さに当たるそうな。以来、年齢に似つかわしくないと評判の美貌とテレビで培った抜群の知名度を武器に、中核市を司る市政の顔として市長職を一期四年無事に勤め上げ、この春再選を果たしたばかりだった。それが現在は自らが開設した五百人ほどの生存者が集う避難所の運営責任者に納まっている。これも地方行政の長たる者の務めと言えなくもなかったが、僅か二ヶ月足らずの間にこれほどの変化があるとは、やはり隔世の感を禁じ得ない。

 その友里恵達が今、居坐る場所は元々が前市長の肝煎りで建てられた市民の福利厚生を名目とした便宜上、休暇村と呼称される宿泊所兼研修施設だったが、そもそもが無闇に税金を投入した挙句、実態は経営の素人である地方公務員の天下り先であったため、瞬く間に業績不振に陥り、市の財政を圧迫する温床となっていた。財政の健全化を謳う友里恵が市長になったのを機に民間への売却が決まったものの、折からの不況の煽りを受け買い手は見つかっておらず、取り壊すにも相応の費用がかかることから今もって年間馬鹿にならない維持費を払い続けている。そのことは嘗て新聞紙上やニュース番組を賑わせた政府主導の同種の例に違わず典型的な箱物行政の悪しき見本として前市長の責任を追及する声となり、結果、友里恵が当選を果たす一因になったほどだ。それが今や頼みの綱になっているのだから皮肉と言う外はない。

 実際に滞在し始めると、如何にも派手好きだった前市長の意向らしく過剰な設備投資の跡と、使う者をまったく意識していないチグハグさが際立つ施設だった。例えば豪奢な貴賓室や大小の様々な会議室、数十人が一度に寝泊まりできる大部屋が複数用意されているかと思えば、メインストリームとなり得る家族連れや少人数のグループで利用するのにちょうど良い小部屋が極端に少ないという有様だ。敷地内にはプールやテニスコートも併設されているが、宿泊とは別に割高な会員制だったため、一部の富裕層にしか利用されなかったらしい。それでも風光明媚な内湾を臨む半島の突端に位置し戦国時代の山城を思わせる小高い丘陵に建つ、周囲を断崖絶壁に囲まれたこの瀟洒なリゾート施設は、立て籠もるという観点からすれば最適な立地条件と言えただろう。友里恵が即座にここを対策本部に指定したのもそうした理由による。無論、建設を推し進めた当の本人はそのような利用のされ方など想像もしていなかったに違いない。何しろ、災害時の広域避難所と定められたのさえ売却が決まった後のことだ。それには3・11以降、こうした大規模災害への備えが地方行政の潮流の一つとなった側面が大きい。ただ問題はやはり物資の不足だった。当然ながら防災拠点としてそれなりの蓄えはあり、警備を担当することになった自衛隊からの提供もあるにはあったが、二ヶ月近くにも及ぶ長期の籠城はまったくの想定外で、さすがにそれだけで賄い切れるものではなかった。さらにここに来て自衛隊からの補給も滞りがちで、この先の見通しも立たないとなれば配給に歯止めをかけざるを得ない。特に水と食糧の制限は生活に深刻な影を落としつつある。同時に人々のストレスも相当なレベルに達しており、それには日頃見慣れぬ完全武装した自衛隊員達の姿が少なからず影響を及ぼしているものと推測された。現在、ここには陸上自衛隊普通科中隊の約百二十名が駐留している。それはそれで有り難かったが、迷彩服姿で銃を携える隊員が周囲を慌ただしく走り回る様子は大勢の避難者に不安を抱かせるには充分な光景だったのである。また、友里恵達自治体職員を中心とした管理・運営組織と自衛隊との間でどちらが主導権を握るのかという問題もあった。まさか自衛隊が指揮を民間人に委ねるはずもなく、かといって市民が自衛隊の命令で動くことにも根強い抵抗感があったため、結果として建物外の敷地に関しては人の出入りを含め自衛隊が管轄し、建物内の生活全般については友里恵達が意思決定を行うという取り決めがなされた。原則として隊員達は敷地内に設営した野営テントで寝泊まりし、建物には極力立ち入らないことも確認された。避難者に必要以上の威圧感や心理的圧迫を与えないための配慮であるのは言うまでもない。その上で事前に作成されていた避難所運営マニュアルに基づき管理組織内に総務、衛生、調理配給、食糧自給の各班が作られ、子供と高齢者や病人など動けない者を除き原則として避難者はそのいずれかに組み込まれることになった。そうでもしないと圧倒的な人手不足が解消されなかったのだ。班分けが少ないのは臨時編成の組織をあまり細分化しても機能し辛いと考えられたためである。そのうちの総務班は主に避難者の人的整理に当たり、名簿の作成や個々に割り当てられるスペースの確保、傷病者の有無の確認、その他細かな日常的なケアを担当する。この中で特に重要なのが場所の割り振りだ。個室の数が限られている都合上、大半の避難者は大部屋や会議室を間仕切って使用しなければならない。誰にどの場所を割り当てるかというのは不公平感が生まれないよう非常に神経を使う作業となる。今居る人間だけでなく、新たな避難者がやって来ることまで考慮するとなれば尚更だ。今のところ、個室が割り当てられているのは執務室を兼ねた友里恵と一部の例外を除けば隔離が必要な伝染性の病気が疑われる場合といった特殊な用途に限られてはいたが、それとて一歩間違えれば騒動の火種になりかねない。故に総務班への配属には企業の人事担当経験者や管理職だった者らが当てられた。彼らなら調整役としてうってつけというわけだ。一方、衛生班は避難者の出すゴミや汚れ物の処理とトイレの清掃といった施設の衛生管理を担う。だが、特に水道が止まってからは生ゴミとトイレの汚物収集が中心となり、誰もやりたがらなくなったために食糧の配分を割増するなどして何とか人員を確保しているのが現状だ。調理配給班はその名の通り避難者への食事の提供が基本的役割となる。そこには食材を含むあらゆる物資の管理も含まれるので、最も重要な部門と言っても差し支えないだろう。最後の食糧自給班は籠城の長期化を見込んで最近になって新設された班である。備蓄された食糧だけではいずれ底を尽くのは目に見えていることから、そうなる前に自給自足の実現を目指すのが目的だ。具体的には農業経験者を中心にして畑を耕し作物を育て、将来的には畜産も行いたい。現在は規模も小さく、とても全員分の糊口を凌ぐには至っていないが、これから徐々に拡大していければと考えられている。また、これらとは別に医療班もあるが、そちらは医者が自衛隊に随行してきた武藤祐樹医官だけなので、必然的に独立した扱いとなった。なお、間もなく四十に手がかかろうかという彼自身は医師であると同時に一等陸尉というれっきとした自衛官でもあるが、例外的に建物への自由な出入りが認められており、施設内の医務室が職場として与えられていた。もっとも終日をほぼ白衣姿で通す彼を自衛官と認識している者は少ないだろう。実はこうした班以外に治安維持や防衛を自衛隊だけに任せるのではなく独自の自警組織を作ってはどうかという意見もあったが、友里恵は即座に却下している。慢性的な人手不足を理由としたが、只でさえ建物を一歩外に出れば武装した自衛隊員達の姿を否が応でも目にせざるを得ないのだ。この上、建物内まで武器を手にした人間に伸し歩かれては堪ったものではないという思いの方が強かった。現実問題として素人の付け焼刃が役に立つのかということもある。さらに武器を手にすることがある種の特権階級意識を芽生えさせないとも限らない。避難者間に上下関係ができることは避けたかったのが友里恵の本音だ。

 それにしても自分の許に上がってくる要望はどうしてこう無理難題ばかりなのだろうと些か辟易する。やれ人手を回せだの、優先的に設備を使わせろだの、人にしろ物にしろ限られた資源リソースしかないのだからその中でやり繰りする以外にないのだが、文句を言えばどうにかなると思っているらしい。中にはあからさまに個人を名指しして何故自分がそいつの下に就かねばならないのかといった呆れるような抗議内容まで含まれていた。大概そうしたことを言い出すのは、地元有力企業の社長や重役だった連中が多い。本来ならこうした要望や陳情は友里恵の目に触れる以前に秘書の手によって決済を仰ぐべきものと事務レベルで処理できるものとに選別されて届けられるのだが、秘書としての経験が浅い田岡ではその判断がまだ無理なのだ。こんな時、彼がいてくれたらと友里恵はある人物の顔を思い浮かべた。その男とは国会議員時代の第一秘書であり、市長になってからは私設秘書という名目で仕えてくれていたベテランの側近で、友里恵に就く以前は二十年以上にも渡りとある大物代議士の政策ブレーンとして活躍したその筋では知らぬ者はいないとされる存在だった。派閥の先輩に当たるその政治家に頼み込んで譲って貰ったという経緯がある。しかし、もはや彼に頼ることはできない。既にこの世にはないからだ。正確には肉体は今もどこかを彷徨っているだろうが魂は抜け落ちている、友里恵にはそう思えた。よって田岡を補佐役とするしかなかったのだが、未熟な彼に任せて重要な案件を見逃すよりはマシということで、全ての報告を耳に入れざるを得なくなっていた。先程の思わず湧き出た胸の裡の愚痴はそのためだった。

 それでも何とかそれぞれの案件に必要と思われる決済を下しながら──その殆どはなるべく善処するという通り一遍の回答だったが──漸く田岡の報告を聞き終えた友里恵は、最後に彼の口からこの日初めての良い知らせを聞いた。先日、自衛隊の救難ヘリで連れて来られた新たな避難者の中に医師や看護師がいて、医療班への協力を求めたところ、一緒に運び込まれた病人の看護と並行してならという条件付きで了承が得られたというのだ。限られた医療スタッフで昼夜休む間もなく診療に当たっていた武藤医官は大助かりだろう。報告によればそれと共に救出先の病院から薬や医療器具もかなりの量が持ち込まれたそうである。ただし、これにはちょっとした悶着も含まれていた。その医療関係者と同行して来た者の中に本物の銃を所持した民間人がいたためだ。対応した自衛隊を通じて友里恵の許に施設内への持ち込みを求める申請があった。念のため違法なものではないかと確認してみると、銃はピストルではなくクレー射撃用の散弾銃が二丁で、本人は正規の手続きを経て所有していると主張しているそうだ。だが、本来銃の携行に必要な所持許可証は避難している途中で紛失してしまったとのこと。それでも自衛隊からの報告に格別危険視するような姿勢が見受けられないのは、絶えず銃を携行するのが当たり前となった彼らにとって、今更散弾銃を持った人間が一人、二人増えたところで問題にならないからだろう。ただ、友里恵からすればおいそれと認めるわけにはいかなかった。心情的には銃の持ち込みなど容認したくはなかったが、ここに来て友里恵もある程度の自衛の手段は必要との認識に改まりつつある。自警団気取りの若者が手製の槍や金属バットをかざして我が物顔で闊歩する姿には耐えられそうもないが、自衛隊員の屋内への立ち入りを制限していることもあり、いざという時、身近に武器の扱いに長けた者がいれば心強いのは確かだからだ。迷った末に、友里恵は直接、相手に会ってみて決めることにした。もし信用するに足りないと判断すればその場で断れば良い。そう考えて面会したその男は、友里恵の予想に反して至極ありきたりな人物に映ったのだが──。


「初めまして。私が一応、ここの責任者ということになっている紺野友里恵です」

 自衛隊が設営した天幕の中で腰掛けていたパイプ椅子から立ち上がったその男は、自分は岩永智哉と名乗った。年の頃は二十代後半から三十代前半といった辺りで、想像していたより幾分若い。取り立てて特徴的な容姿というわけではないが、年齢の割に落ち着き払った物腰がやや気になるところではある。言葉少なな雰囲気で、そうかと思えば初めてここに来た者が例外なく見せる安堵と不安の入り混じった表情も浮かんでいるようには見えない。

(虚勢を張っているのだろうか? それとも本当に……?)

「えっと、岩永さんとおっしゃったわね。申し訳ないけど、あまりのんびりと話していられる時間はないのよ。こんな場所でも……いえ、こんな場所だからこそ、やるべきことは山ほどありますからね。ここに留まるということならあなた達にもいずれ働いて貰うことになるけど、それはさておき、早速本題に移らせて貰うわ。単刀直入に訊くけど、本物の銃を所持しているそうね。それはあなたの物?」

「そうです」

「持ち始めたのはいつ頃から?」

「まだ一年にも満たない。この騒動が起こる半年ほど前に許可を得た」

「何のために?」

「クレー射撃を趣味で始めようと思って」

「今までに人に向けて撃った経験は?」

「ない。奴らを人と思うなら別だが」

「つまり、彼ら……ややこしいわね、世間に倣って私達もゾンビと呼びましょう。ゾンビは撃ったことがあると?」

「何度も」

「それは何故?」

「身を護るために」

 澱みない受け答えを聞いてまたしても友里恵は意外な印象を持った。普通、初対面の目上の者を前にして、こうまで堂々と話せるものだろうか。多少は委縮しても良さそうな気がする。それがまったく動じる様子は見られない。かといって虚勢を張っているわけでもなさそうだ。実に自然体と思える。あたかもこちらの質問を見透かしたかのような反応に、まるで試されているのは友里恵の方であるかのような錯覚さえ覚えた。これが今から避難所に受け容れて貰おうという者の態度なのか。もしかしたら平時における行政の対応に慣れ過ぎていて、こんな世の中になっても同様の助けが受けられると勘違いしているのかも知れない。そんな時期はとっくに過ぎ去ったというのに。幸いこの避難所ではまだ誰もそうなってはいないが、コミュニティーにとって危険だったり足手まといだったりする者は容赦なく切り捨てるべきという意見も一部では出始めているのだ。今後は誰も彼も無条件に受け容れるというわけにはいかなくなる可能性も大いにある。それを知ったらどう思うのか? ふと友里恵は意地悪な質問をぶつけてみたくなった。

「身を護るためなら他の人にも銃を向けるのかしら?」

 そう問うと今度は予想外の質問だったらしく一瞬沈黙した後、それでも即座に、そうなる、というきっぱりした答えが返ってきた。続けて、これは銃の持ち込みを認めるかどうかの審議だと思っていたんだが、というやや皮肉めいた調子の言葉が投げかけられた。

「それともここでは人に銃を向けなければならないようなことでもあると?」

 逆に訊ね返されたその質問には答えず、友里恵は、これが最後と前置きした上で言った。

「ここへはどういうつもりで来たの?」

 当然、助けを求めてやって来た、そういう回答を期待していた友里恵は男の次の言葉を耳にして呆気に取られた。

「助けが必要だろうと思って」

 物静かな、それでいて臆することのない態度で男は言い切った。この凡庸そうにしか見えない相手の一体どこからそんな余裕が生まれてくるのか不思議だったが、もしその自信の根拠が手持ちの銃にあるとしたら思い違いも甚だしい。そんなものは警護に当たる自衛隊が腐るほど所持している。これまでの避難生活なら重宝したかも知れないが、ここでは誰も有り難がったりしない。どうやら独り善がりの正義感を振り回す自己中心的なタイプと判断して、やはり持ち込ませるべきではないと友里恵は半ば決断を下しつつ、考え違いを諭す意味で問い返した。

「あなたが私達を助けてくれるというの? 凄い自信ね。ここには五百人ほどの人が居るけど、失礼ながらあなたがその誰よりも優秀とは思えないわ。それに物資に余裕があるわけじゃないのよ。あなた一人が増えればその分、他の人の割り当てを減らさなくちゃならないことをおわかり? 大口を叩くならせめてそれに見合った働きを見せてからにして欲しいわね。断っておくけど、ゾンビを防ぐ備えなら間に合っていますから。見ての通り、この場所は戦いの専門家である自衛隊に護られている。彼らを前に素人のあなたが出る幕はないわ。あなたが何者か知らないけど、ここで暮らすつもりならもう少し謙虚さを身に付けるべきね。今のところ、あなたは只喰い扶持を増やすだけの厄介者だということを忘れないで頂戴」

 言い終わると、友里恵は男の反応を待った。だが、男に代わって口を利いたのは、それまで自分の管轄ではないと一歩下がった場所から素知らぬ様子で二人のやり取りを見守っていた下士官らしき自衛隊の担当者だった。

「その物資の件なんですが……」

 担当者は遠慮がちに口を挟んだ。

「実は彼から提供の申し出がありまして。持ち込まれた食糧、ざっと見積もっただけですが、レトルトパウチなどの非常食が約百五十食分ほどになります。それを全てこちらで自由に給して貰って構わないそうです」

「えっ? 百五十食分……?」

 それは男が自分一人で喰い繋ぐだけなら優に数ヶ月は保つ量に相当しよう。それを惜しげもなくあっさり供するというのか。無論、それだけあっても全員に満足に行き渡らせるには足りないが、今は僅かな食糧でも有り難い。それだけの物資をどうやって集めたのかは興味深い謎だが、自衛隊の態度がやけに男に好意的だった理由はこれで解けた。唖然とする友里恵を尻目に、男は特にそのことを誇示するでもなく、淡々と話を聞いていた。一先ず礼を言うべきだろうかと口を開きかけたところで、天幕の外から呼びかける声がした。自衛隊の担当者はその声の主に心当たりがあるようで、入って貰っても構わないかという表情で友里恵の方に視線を送る。友里恵が頷くと、出入口の布地を持ち上げて高校生くらいと思われる一人の少女を招き入れた。今になって男もそうであることに気付くが、避難者にしては珍しくこざっぱりした服装をしている。さすがに化粧まではしていなかったが、普段、追従混じりとはいえ容姿を褒められることも珍しくない友里恵をして一瞬、嫉妬を覚えさせるほどの整った顔立ちをした美少女だ。男性なら尚のこと、目が離せなくなるに違いない。来訪者がいるとは予期していなかったのだろう。男の脇に立つ友里恵に気付き驚いて立ち止まると、慌てて頭を下げた。友里恵も釣られるようにして軽く会釈を返す。

「すみません。お話し中だとは思わなかったものですから。あの、お邪魔なら外に出ていましょうか……?」

 少女がそう言って出て行こうとするのを友里恵は引き留めた。

「構いません。もう話は終わりました。彼に何か用があるのでしょう。気にせずに伝えたら?」

 そう言われて少女は少し迷ったようだが、若干遠慮しがちに男へ話しかけた。

「加奈はもう暫く様子を見るそうです。こちらのお医者様が言うには処置に問題はなかったとのことです。念のための経過観察だからたぶん心配ないだろうって。荻野さん達が付いていてくれるそうなのでお任せしてきました。それと私達はまだ当分、留め置かれるそうです」

 友里恵には聞き慣れない名前ばかりだったが、医者というのは恐らく武藤医官のことだろうと理解できた。何しろ、他に医者はいない。その彼が心配ないというのなら大事には至るまい。

 少女の報告に無言で耳を傾けていた男は、聞き終えると、そうか、とだけ告げた。友里恵にはやけに素っ気ない反応に思えたが、少女の方は特に気にする素振りもなさそうだった。随分と慣れたやり取りのようだ。まるで半世紀以上も昔の古い日本映画に出てくる家族を見ているみたいだと思った。ちょうど友里恵の母に接する時の父親の態度がそうであったように。それを見て銃の処遇について友里恵は漸く決断を下した。

「そちらの話も終わったようなので結論を言います。建物内への銃の持ち込みについては許可します。ただし、保管は私が使っている部屋で行うこと。恐らくあなた方は大部屋で他の人との共同生活になるでしょうから、さすがに人目に付く場所に置いておくわけにはいきません。片時も肌身離さずというわけにもいかないでしょう。私の部屋なら貴重品ロッカーもありますし、盗難の恐れも減ります。鍵はスペアをあなたにもお渡しするので、いざという時に持ち出すのに支障はないはずです。ただし、当然ですが、弾は抜いておいてください。保管も銃とは別の容れ物にしてそれも一緒に預かります。これが私が出せる最大限の譲歩です。入館できるまでにはもう少し時間がかかるでしょうから、それまでに決めておいてください。もし条件が気に入らないようなら──」

 それで構わない、と男はその場であっさりと了承した。友里恵からすればやや拍子抜けする反応だった。食糧の提供を盾にもう少し頑強に抵抗するかと思ったのだ。落としどころも予め心得ていたということか。どうやら見た目の雰囲気だけでは推し量れない種類の人間らしい。友里恵はこの男に俄然興味を抱き始めた。ただし、今日のところはこの後の予定が詰まっていて、残念ながらこれ以上関わっている暇がない。

「今日は時間がなくてこれで失礼しなければなりませんが、あなたとはいずれゆっくりと話してみたいものです」

 そう言い残して友里恵は退席した。あれから四日。

 忙しくてその間に話す機会はまだ訪れていない。部屋に銃を預けに来た時も対応したのは田岡で、友里恵はその場に居合わせなかった。避難所に順調に馴染めていれば今頃はどこかの班に入って仕事を与えられているはずだ。あの男の妙に泰然とした様子を思い返しながら、もしかしたら食糧や銃の他にも何か役立つ情報を知っているのではないかという考えが頭をもたげる。そうとでも捉えなければ男の余裕綽々な態度はどうにも腑に落ちない。今日は月曜だ。避難所では基本的に曜日に沿った休みはないが、週の感覚を失わないためにも毎週月曜と木曜には定例会議が開かれる。各班の代表者が集まり、問題点や今後の方針を話し合うのだ。どうせならあの男にも意見を聞いてみたいと思った。彼により持ち込まれた大量の食糧が話題になるのはわかっていたし、まだ礼も述べていない上、入手経路についても問い質したい。友里恵はその旨を本人に伝えるべく秘書の田岡を呼んだ。


 智哉がその呼び出しを受けたのは、衛生班に充てがわれたバックヤードの一角にある従業員控室に戻った時だった。紺野友里恵が執務室としている部屋で一度だけ顔を合わせた田岡という秘書が伝えに来ていた。顔にタオルを巻き、ゴム手袋をした智哉を見ると、一瞬嫌そうな表情を浮かべたが、瞬時に何事もなかったかのような顔に戻る。無論、智哉がそれを見逃すはずはない。とはいえ、その気持ちが理解できなくもなかった。何故なら智哉がたった今まで行っていたのが他人の排泄物が入り混じった汚物の運搬処理に他ならないことは、ここで暮らす者なら誰もがひと目で気付くに相違ないからだ。もちろん、表立って嫌悪感を露わにする者は少ない。利用可能なトイレの確保は避難生活における重要課題の一つと言って良く、皆もそれはよく心得ている。トイレが気軽に使えなくなれば排便を我慢するために水分補給や食事を控えることになり、ひいては栄養状態の悪化や所謂エコノミー症候群を引き起こす恐れが生じる。また不潔であればそれだけでストレスを感じる要因になるばかりでなく、感染症や害虫を発生させる原因にもなりかねない。幸いなことにここではプールの溜め置きが生活用水として使えたので、汲んでトイレを流すことはできた。ただし、紙などは詰まらせる原因になるので、別に回収しておき、まとめて運び出すという手段が取られていたのである。それを行うのが衛生班の役割というわけだ。自分ではやりたくないが、誰かがやらなければならない以上、無下な扱いができないのは当然であろう。運び出した汚物は敷地の片隅に自衛隊によって掘られた穴へ捨てに行く。智哉はこの班に加わってから積極的にその仕事を引き受けてきた。新参者という負い目があったわけではない。今のうちにこの避難所の全容を掴んでおきたかったというのが主たる理由だ。その点、この仕事は建物内外を自由に動き回れる上に、顔を隠していても不自然ではなく、話しかけて来る者もいないので、目立つ心配もない。人目を避けて行動するのに持って来いと言えた。智哉が真っ先に衛生班を希望したのはそのためである。散々、死体の処理や腐敗した食品の始末を行ってきた智哉が、今更その程度の汚れ仕事を尻込みするわけもなかった。ただ、ひと通り各班の説明を受けて、入るなら衛生班が良い、と智哉が口にした時の担当者の意外そうな表情はよく憶えている。余程、成り手が少ないと見える。だからであろうが衛生班の班長と紹介された四十絡みの痩せた男は、智哉と会うなり泣き出さんばかりに歓迎してくれた。今も定例会議に智哉が呼び出されたのを知ると、自分も出席者なので一緒に行こうと誘ってくれた。だが、智哉はその誘いを先に寄りたい場所があるからと丁重に断った。本当は誰からも距離を置いた上で参加者をチェックしておきたかったのである。ここにやって来て、智哉はまず避難者達に思いの外混乱が少ないのに驚いた。それというのも管理体制がしっかりと行き届いているからだろう。それはやはりあの市長の主導の賜物と考えられる。当然ながら彼女のことは智哉も新聞やニュースで見聞きして知っていた。最初に会った時、それを言わなかったのは単に必要ないと思ったまでで取り立てての他意はない。その上でしっかりしたルールに基づき運営されていることは、到着した直後からヒシヒシと伝わってきていた。その一つの現れがすぐに屋内に通されなかったことだ。智哉達はヘリから降ろされると直ちに銃を持った自衛隊員に促されるまま天幕の一つへと案内され、そこで男女別に分けられて感染の原因となる怪我の有無を調べられた。ここに来た誰もが受ける検査だという。智哉に対してはその場で二丁の散弾銃と、今後の活動のために持ち込んだ化学防護服を預けるように言われ、無論、素直に従った。化学防護服を見た検査員からは怪訝な顔で見られたが、質問などは特になかった。それから病人達は医療班が引き取り、天幕に残された智哉達は最低十二時間、自衛隊の監視下で過ごすよう指示され建物へは近付かないよう警告を受けた。十二時間の根拠は不明だが、どうやらその間に変化がなければ感染はシロということになるらしい。そこに訪問して来たのが件の市長だったというわけだ。

 面会はしてみたものの、警備体制を目にした瞬間から正直言って銃の持ち込みが許可されるとは思っていなかった。市長に指摘されるまでもなく、防衛力として当てにされないことは一目瞭然だったからである。だから手許にはなくとも建物内に置けるという彼女の申し出はむしろ、意外だったと言える。智哉にすれば願ったり叶ったりだった。その後、無事に入館を許可されて、同一世帯となる者の構成を訊ねられた。避難所では基本的にその単位で扱われるそうだ。智哉と森田家の姉妹は一つの家族として届け出た。これについては美鈴と相談した上で決めたことだ。その場で患者に付き添うという荻野看護師達とは別れ、一先ず二人きりになった智哉と美鈴は総務班の担当者という女性に案内されて、ドアに大会議室という金のネームプレートが掲げられた大部屋に連れて来られた。そこは部屋全体が別のところから持ち出したと思われる遮光カーテンで二メートル四方ほどの空間に仕切られており、ちょうど壁際の一角が智哉達に与えられた居住スペースになるらしい。災害備蓄用と書かれた毛布が一枚だけ手渡された。食事の配給は朝夕の二回で、消灯時間は午後八時ということらしいが、停電してからはそもそも関係なくなったみたいだ。他に必要なものがあれば出入口付近にいる係の者に申し出るよう言われた。とりあえず礼を言い、智哉達はそこに落ち着くことにする。意外にもカーテンや段ボールで視界は遮られているので、音さえ気にしなければそれなりのプライバシーは保たれているようだ。少なくとも着替えなどで周囲の視線を気にする必要はなさそうである。もっともそのせいで何人ほどが生活しているのか正確には掴めなかったが、どうやらこの部屋だけで二十世帯は寝起きしているものと思われる。元居たスーパーから着替えなどと共に持ち込んだ簡易マットレスを床に敷き、二人でその上に腰を下ろすと、壁を背にした美鈴が智哉の肩に頭を預けてきた。これまで幾度となく嗅いだシャンプーの芳香が漂う。さすがにこの状況では何もされないと安心し切っているのか、それとも念願だった他の避難者と合流できたことに安堵したのか、これまで以上にリラックスした雰囲気で、一つの毛布に包まりながら智哉と目が合うと美鈴は話しかけてきた。

「何だか不思議な感じがしますね」

「どういう意味だ?」

 智哉が訊くと、美鈴は軽く脇腹に肘を押し当てるようにして答えた。

「岩永さんとこうしていることがです。ついこの前までは考えられませんでした。何て酷い人だろうってずっと思ってましたから」

「今だって酷い人には変わりないだろ。夕辺だってそうじゃないか?」

「はい。それは……まだ痛いです」

 言葉の割にさほど辛そうには見えない。我慢しているだけかも知れないが。翌々日には無事回復を果たした加奈も合流して、本格的に新生活が始まった。

 そして智哉は衛生班の一員となり、目立たぬように施設の内外を調べて回った。それにより判明したのは、まず敷地の周囲は急造されたと思われる高さ三メートルほどのフェンスでぐるりと取り囲まれていることだ。上部は有刺鉄線となっており、外からの侵入者を防いでいる。もっとも怪我や痛みに無頓着なゾンビにどれほどの効果があるかは疑問だ。それでいて今日まで無事でいられたのはフェンスの向こう側は三方までが絶壁となっていて、基本的に正面玄関方向にしか侵入路がないせいだろう。住宅街とも距離があって付近を彷徨くゾンビの絶対数が少ないことも挙げられた。フェンスの切れ目となる唯一の出入口には検問所のようなものが設けられ、昼夜を問わず最低四名の自衛隊員が歩哨に立つ。はっきりと確認できたわけではないが、ゲート脇の詰め所の中には機関銃らしきものも置かれているようだ。

(さすがに今まで持ち堪えてきただけあって警備は厳重だな)

 弱ったことに、それが目下における智哉の悩みの種となっていた。フェンスの有刺鉄線はゾンビに対しては不充分でも生きた人間には効果抜群だ。到底、無傷で乗り越えられるようなものではない。詰まるところ、入ったは良いが外に出るには正面玄関を通るしかなく、当然そこに待ち受ける自衛隊の誰何は避けられないことになる。事実上、許可なく出入りは不可能ということだ。隙を見つけて外部と行き来しようと考えていた智哉にとっては痛い誤算である。

 実はスーパーを出るに当たり、智哉は一応の保険を残してきていた。大半の食糧を眠らせている業務用大型冷凍庫は太陽光発電に繋いで、無人でも電力が途切れないように工夫してある。ただし、故障や天候不良が続けばどうなるかはわからない。そのため、定期的に確認に行きたいのだが、この状況では難しそうだ。何とかこっそり外に出る方法はないかと探っているのだが、今のところ妙案は見つかっていない。

(手際が良過ぎるのも考えものだな)

 また、それとなく避難者達の話を聞いて、これまでにとりわけ大きな問題は起きていないことを知った。電気や水道が途切れるまでにかなりの猶予があったとはいえ、余程、手回しが良くなければそうはなるまい。ここでも市長の手腕には素直に感心させられた。だが、どうやらその立場は安泰とばかりも言っていられないようである。原則として全ての生存者を受け容れる方針の市長に対して、一部の避難者からは他は見捨てででも自分達が生き延びることを最優先にすべきという意見があるのだという。現状では市長に失策らしい失策がないため大っぴらな非難は鳴りを潜めているが、陰では対立派が追い落としを画策しているとの噂だ。今後、何か問題が起これば一気に表面化するのではないか、というのが大方の見方だった。

 こうしたこれまでに収集した幾つかの情報を頭の中に携えて、智哉は会議に赴いた。

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