10 決壊※

 やれることは全てやったので後は経過を観察するしかない、という由加里の言葉を信じて、智哉は一旦スーパーに戻ることを決めた。この場に居ても自分ができることはもう何もないと踏んだからだ。それに、優馬が心配だったのもさることながら、ここから彼らを脱出させるという約束を果たす義務もある。

 明日の昼頃にはまた戻る、と美鈴に言い残して、智哉が診療所を出て行った後、入院病棟は再び静けさを取り戻していた。気付けば日付も変わり、ベッドに横たわる加奈は処置が上手くいったのか、点滴を始めて一時間ほど経つ頃には呼吸も落ち着き、今は穏やかな寝息を立てている。その傍らで美鈴は粗末なパイプ椅子に腰を下ろしベッド脇に置かれた自家発電式のLEDランタンに照らされた妹の寝顔を静かに眺めていた。だが、気持ちはどこか別のところに飛んでいた。

 そこで美鈴は自らに向かい問いかけた。

 今も智哉を恨んでいるか?

 ──たぶんイエス。

 この先も智哉と一緒に居たいか?

 ──これも恐らくはイエス。

 それは生き延びることだけが目的か?

 ──きっとノー。

 一緒に居ることの一番の理由は?

 ──わからない。

 そんな風に列挙したところで何にもならないだろうし、何も変わらないとわかっていたが、自問せずにはいられなかった。そして、認めるのが怖いだけだろう、という自分の声を聞いてしまった。何を認めるのが怖いのか? どうして助けが呼べるとなった時、真っ先にそうしようとしなかったのか? 智哉とは救助の手が差し伸べられるまでの間、我慢して一緒に居るだけの間柄ではなかったのか? 果てしなく答えの出ない問いかけが頭の中をいつまでも交錯して、無為な時間だけが流れていった。ただ、美鈴が出て行かないと言った時の智哉の意外そうでどこか照れたような表情を思い出すと、それが見られただけで満足してしまいそうになる。そんな取り止めのない思慮に美鈴が耽っていると、ここで最初に遭った荻野という看護師がICUに顔を覗かせた。

「随分、落ち着いたみたいね」

 ベッドサイドから加奈の様子を確認しながら、そう声をかけてくる。体温を測定すると、大分下がってきているわ、と告げて美鈴をひと安心させた。

「色々と助けていただきありがとうございました」

 美鈴はそう言って頭を下げた。礼なんて別にいいのよ、これが仕事なんだし、と由加里は軽くはにかんだ。

「それよりもあんまり根を詰め過ぎると、今度はあなたが病気になるわよ。このところ看病し通しだったんでしょ?」

 先程既に互いの自己紹介は終えている。美鈴と加奈が姉妹であることも由加里は承知していた。智哉とは偶然、知り合ったのだと説明された。他にもう一人、小学校低学年の男の子がいて、残してきたその子の下に智哉が向かっていることも聞き及んでいた。

「それにしてもあなた達は本当に凄いわね。こんな風に外を行き来できる人なんて初めて見たわ。私が知る限りじゃ、みんな奴らにやられていたから。誰も辿り着けっこないと思っていたのよ」

 由加里は心底感心したという風に話した。それを聞き、美鈴は若干の気恥ずかしさと智哉への誇らしさを覚えた。

「あれは偶然、私達の居るところに化学防護服を着た人達が現れたからなんです。ゾンビに襲われない様子を見て、誰にでも効果があるのか試してみたら実際に避けられることがわかって。それで私や妹でも何とか外に出られるようになったんです」

 美鈴は智哉の秘密に触れないよう心がけながら慎重に言葉を選んで話した。

「試してみたって、やって来たって人達は教えてくれなかったわけ?」

「残念ながらその人達は話をする前に襲われて犠牲になりました。ゾンビが近くまで来てしまうと効果がなかったんです。ですから、幾らゾンビを避けられるといっても気軽に出歩くというわけにはいきません。私達が外に出るのは今回のようにどうしても必要に迫られた時だけです」

「それにしても大したものよ。それで水や食糧も手に入れたんでしょ?」

「本当に凄いのは岩永さんなんです。必要なものは食べ物でも服でも寝る場所でも全部独力で手に入れて、色んな知識もあって、一人でどこにでも行けてしまう。私なんて足手まといなだけで、指示に従うことしかできません」

 本当にその通りだ、と美鈴はやや自嘲気味にそう思った。例え智哉と同じ体質だったとしても自分達だけならここまで的確な判断を積み重ねて生き延びられたという自信はまるでない。長期的な計画など何もなく、その場凌ぎの行動に終始していて、いずれ行き詰っていただろう。そういう意味ではゾンビに襲われないことを内緒にしておくという智哉の判断は正しいのかも知れないと思い始めていた。智哉が言うように他人に知られたら何をされるかわからないというのもあながち大袈裟ではない気がしてくる。

 由加里は美鈴が一見、何の変哲もなさそうなあの男のことを心底信頼しているらしい様子を見て、一体どこにそこまで頼りにさせるものがあるのかと訝しんだ。あの余裕綽々な態度も本物の銃を所持しているが故と考えていたからだ。

「どういう人なの? その岩永さんって」

 幾許かの興味を覚えて由加里はそう訊ねた。

「どうって言われても……」

 改まってそう訊かれると、美鈴は何と答えて良いのか返答に窮した。客観的な視点で望めば、自分を蹂躙した相手であることは間違いない。それと同時に命の恩人とも言える。また時には料理の師であり、自動車運転の教官であり、様々な知識を与えてくれる教師であるとも捉えられよう。だが、こうなる以前の智哉については殆ど何も知らないことに美鈴は改めて気付かされた。結局、よくわかりません、と答えるしかなかった。あまり自分のことは話してくれない人なので。

「何かの訓練を受けていたとか?」

「軍隊とか格闘技とかそういうことですよね? それはたぶん、ないと思います。岩永さんの強さって、そういう目に見えてわかるようなことじゃない気がします。もっと何て言うか別の──」

「精神力みたいなこと?」

「ああ。そうですね。それに近いと思います。何事もにも動じないって言うか、自分の信念に揺るぎがないって言うか。あんな強さが自分にもあればいいといつも思わされます」

 それは単にゾンビに襲われないからというだけでは説明し切れない気がする。どこか達観した感じを受けるのは何故だろうと今更ながらに思った。もしかしたらそれはこれまでの彼の人生に起因することかも知れない。

(いずれそのことを自分が知る機会はあるのだろうか……?)

 美鈴はふと年老いた自分が縁側のような場所で智哉と二人きりで並び、昔を懐かしがっているような情景を思い浮かべた。理想通りの晩年とは言えないだろうが、その想像は決して嫌な気がするものではなかった。

「確かにちょっと話しただけだけど、彼って妙に自信たっぷりだもんね。遭ったのは一ヶ月半くらい前なんでしょ? その割には随分と信頼してるんだ」

「はい。さっきも言いましたけど、岩永さんがいなければ私も妹も、それからここには来てない男の子も生きてはいられなかったでしょうから。実は岩永さんと会う前は他の人達と避難していたんです。でも、その人達はみんな亡くなりました。偶然、私達だけが生き残ったところを岩永さんに助けられたんです」

 それはまだ二ヶ月足らず前のことなのに、随分と遠い昔の出来事のように感じられた。

「そうなの……それなら信頼するのも無理はないわね。羨ましい限りよ、頼りになる人が身近にいて」

 そうは言ったものの、実のところ、由加里は美鈴の話を全て鵜呑みにしたわけではなかった。まったくの出鱈目とは言わないが、少し優しくされただけでお姫様気分になって舞い上がる、思春期特有の思い込みが多分に含まれているのではと疑っていたためだ。だから、続く美鈴の発言はやや意外なものだった。でも時々不安に思うことがある、と彼女は洩らしたのだ。

「それって彼がいなくなるんじゃないかって心配?」

 それならば恋には付きもののよくあることとして受け流しておけば良い。心理療法は専門外だが、その程度のことは別に医療に関係なく、それなりに恋愛経験を積んだ身であれば誰でも察しが付くことだ。

「そうじゃないんです。私達は岩永さんに色んなものを要求しますけど、岩永さん自身は本当は何も求めていないんじゃないかと思えてしまって」

 どうして知り合って間もない相手にこんなことまで話しているのか美鈴は自分でも見当が付かなかった。本当はずっと誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。たまたまそれに見合った相手が現れたことで堰を切ったように喋っているのだろうか。もっとも理解はされないだろうという確信めいた予感はある。それにこれ以上は智哉の秘密にも触れかねないので、この辺りでボロが出ないうちに留めておくべきだろうと思った。

 どういう意味なのか、由加里にはよくわからなかった。こんな世の中でも現在の生活に満足しているという意味なのだろうか。だとすれば由加里がどうこう口を出せる問題ではない。もっと詳しく訊くべきなのか迷っていると、

「でも、荻野さんも凄いと思います」

 と、唐突に美鈴が話題を切り替えてきた。どうやらこの話はこれで終わりにするつもりらしい。由加里としてもあまり深入りするのは避けたかったので、その方が有り難かった。話を合わせるために、凄いって何が、と由加里は訊き返した。

「だって、こんな状況なのに沢山の患者さん達の面倒を見てきたなんて誰にでもできることじゃないですよ。私なんて自分や妹のことだけで精一杯でしたから」

 ああ、そういうことね、と由加里はどことなく他人事のように呟く。殆ど無意識に出た言葉だったが、素っ気ない言い方がどうやら美鈴には由加里が気分を害したと受け取られてしまったようだ。あ、ごめんなさい、何も知らないくせに偉そうなことを言って、と謝られてしまう。違う、違う、と由加里は慌てて手を振って否定した。

「勘違いさせたみたいね。こちらこそごめんなさいね。本当に思ってもみなかった言葉だったからちょっと面喰っちゃって。そっか、そうよね、今の状況だけ見たら凄いことのように思えるか。けど、私は自分が誉められるようなことをしているなんてこれっぽちも思ってないのよ」

 それって仕事だから患者を救うのは当たり前ってことですか? と美鈴が訊ねると、そうじゃない、と由加里は苦笑いしながら答えた。

「言葉通りの意味よ。私はあなたが想像しているような立派な看護師じゃないってこと」

 どういう意味、と美鈴が訊きかけたのを視線で制して、由加里はカーテンを開け放した窓の外に目をやると、暫く沈黙した後、再び口を開いた。

「まず、これまでに二人の患者を死なせているわ。詳しいことは守秘義務があるから省くけど、二人共重病ではあったものの、適切な治療さえ受けられればもっと長生きできたはずの人達よ」

「でも、それってどうしようもなかったことじゃ……」

 むしろ、この状況でまともな治療を受けられると期待する方がどうかしている。実際、先の加奈の診察にしても仮にこれが騒動の起きる前なら幾ら医療知識に乏しい美鈴といえど、怒り出していたに違いない。

「まあ、そうかもね。でも、それは関係ないのよ。誰のせいとか何が原因だとか。立て籠りが長引くってわかった時点で、その二人はまず助からないだろうって私は予想していたの。複雑な投薬ときちんとした栄養管理が必要な患者さんだったから。とても残された物資や機材だけでは対処できないってね。だから、二人には内緒で食事の量を減らしたりケアする時間を削ったりしてその分他の患者さんを手厚く看護できるようにしたわ。治療も貴重な薬の使用は極力控えて、当たり障りのないものだけに限定していたのよ。私がそうするようにってさっきの研修医に頼んでね。わかる? 初めからその二人は見限っていたわけよ。理由はどうであれ、そんなことを家族が聞いたら絶対に許しちゃおかないでしょう。私だって自分の身内がそんな扱いをされたら我慢ならないわ。どう? これでもまだ私が立派な行いをしてきただなんて思えるかしら?」

 思いがけない告白を聞いて、美鈴は暫し押し黙った。ただし、それは由加里の行為に嫌悪感を抱いたからではない。何故なら他人に犠牲を強いるという意味なら美鈴自身が過去に直接手を下したこともある。金髪の若者を死に追いやった苦い経験が脳裏に甦ってきた。あの時は自分や妹達の身を護るために必死だったとはいえ、もしかしたら断末魔の直前で若者が口にした改心する気持ちは本当だったかも知れない。美鈴はそれが信じられずに見捨てた。そのことに後悔はない。百回同じことがあれば百回それを繰り返すだろう。が、だからといって罪の意識が消え去るわけでもない。それと比べたら由加里のしたことなどどうということのないように思える。少なくとも無理に病院を追い出したわけではないのだ。とても非難する気にはなれなかった。そのことをどう伝えたものかと美鈴が迷っていると、沈黙を嫌忌と受け止めたらしい由加里の方が先に話を続けた。

「呆れたでしょ? だから感心される資格なんて私にはないのよ。妹さんを受け入れたのだってもしかしたら見捨てた人への後ろめたさの裏返しだったのかも知れないわね。そんなことで罪滅ぼしにもなりはしないけれど」

 だとすれば、由加里の非情な決断に美鈴は感謝しなければならないだろう。そのおかげで加奈を受け入れて貰えたのだから。それに恐らく感謝すべきは美鈴ばかりではないはずだ。結果的に二人の患者は助からなかったとはいうものの、他の者は今もこうして生きている。大勢を生かすために少数の犠牲はやむ無しと言っているのではない。ただ誰かが決断しなければならないことをこの目の前の看護師は他人任せにして潔しとはできかったのだろうと思う。全ての決定とそれに伴う責任を智哉に委ねてきた自分とは大違いだ。そうしたことを踏まえて、いいじゃないですか、それで、と美鈴は独り言のように口にした。えっ? という表情で由加里が美鈴の方を振り向いた。

「亡くなった人達には気の毒ですけど、それが自分達が生き延びるには最善の方法だと荻野さんは判断されたんですよね? だったらそれでいいじゃないですか。何が正しくて何が間違っていたかなんて誰にもわかりませんよ。もし荻野さんがそうしなかったら全員が死んでいたかも知れないわけですし。その時、自分が必要だと思ったことをするしかないんじゃないですか? 例えそれが他の人を見捨てることだとしても。その亡くなった人達は気付くべきだったんです。自分達が生き残るには荻野さんに従っていたら駄目だってことに。その上で抗うべきだったのに、そうしなかったのはその人達に生き抜く才覚が欠けていたからだと言わざるを得ません。逆にその二人が生き延びるのに長けていたら今頃は荻野さん達の方が犠牲になっていたことも考えられます。そうなっていても私はその人達を責めることはしなかったでしょう。身勝手なのは今、生きている人全員に言えることではないでしょうか。ここまで生き永らえてきて誰の犠牲の上にも立っていないと胸を張れる人なんて一人もいないと思います。それは誰か一人が背負うべきものではないし、自分だけが逃れられるものでもないという気がします」

 まるで何年も人の生死に携わってきたベテラン医師に諭されたかと錯覚するような言葉に、由加里は正直、驚かされた。美鈴には言わなかったが、由加里が自身を卑下する発言をしたのにはもう一つ理由がある。患者はもちろん、こうなってからは先輩として慕ってくれているらしい日奈子や思いがけず頼りにされていることが判明した矢崎には悪いが、由加里は何もこれまで職業意識に突き動かされて責務を果たしてきたわけではないのだ。簡単に言えば、看護師という役割に徹している方が楽だったからに他ならない。少なくとも看護師でいるうちは患者のためという明確な判断基準があって余計なことを考えずに済んだ。二人の患者を見捨てたのもより多くの患者を救うという大義名分があってのことだ。だが、その立場を失くした途端、罪悪感に苛まれ耐え切れなくなることは目に見えている。それを由加里は何よりも恐れていた。看護師であることは由加里にとって自分を許す上での免罪符に過ぎなかったのである。だから、平気で医師の立場を放棄できる矢崎をある意味、羨ましくも思っていた。それは言ってみれば自分の役割に依存せずに生きていけることの証でもあるからだ。由加里には今更、看護師という立場を失くしたまっさらな自分自身と向き合う覚悟などなかった。その点、美鈴は今し方の発言からも知れるように自分より余程タフだ。恐らく高校生くらいであろうが、その年で一体どんな経験をすればそんな強さが身に付くのか由加里には想像も付かなかった。これもあの岩永という男の影響だろうか。そうだとすれば、やはり彼への評価を改めざるを得まい。由加里が答えあぐねていると、美鈴はこうも付け加えた。

「みんなを救えるなんて思うのは傲慢だって。これは前に岩永さんに言われたことの受け売りなんですけどね」

 これ以上、美鈴と接していると自分の不甲斐なさに居たたまれなくなりそうだったので、この辺で由加里は切り上げることにした。まだ巡回があるからそろそろ行くわ、妹さんをお大事に、そう言って立ち去りかけた時、ナース服のポケットにある物が入れてあったことを思い出し、足を止めた。一瞬迷ったが、職業意識を奮い立たせて由加里は美鈴に歩み寄り、事務的に切り出した。

「私の勘違いだったらごめんなさい。余計なことかも知れないけど、あなた達、避妊はちゃんとしている? こんな時だからこそ、しっかりした方がいいわよ。今の状況で万が一、妊娠したら困るでしょ?」

 突然の予期せぬ話題に美鈴は言葉を詰まらせた。何と言うべきだろう? セックスはしていないと正直に告白した方が良いのか、智哉とはそもそもそうした関係ではないと嘘を吐くべきなのか。美鈴が戸惑っている間に、由加里はポケットから掌に収まるほどの箱を取り出すと、はい、これ、と差し出した。見慣れぬパッケージであったが、直感的にすぐに避妊具、所謂コンドームだということは美鈴にも理解できた。無論、使った経験はまだなかったが。

「あげるわ。他の女の人にも渡しているから遠慮しなくて大丈夫よ。こういうことは男任せにしておくと碌なことにならないからね」

 そう言って、美鈴が何かを告げようとする前に強引に押し付けてICUを出て行ってしまった。美鈴は手の中に残された小箱を見詰めて、どうしたものかと暫く悩んだ。今のところ、智哉に約束を破る気はないらしい。当面はこれが必要になる機会は訪れそうになかった。当面、と無意識に考えていたことに気付き、そのうちならあるかも知れないと期待しているみたいに思えて、誰も見ていないにも関わらず美鈴は一人で頬を赤くした。いずれにしても絶対にないとは言い切れないので、念のために持っておいた方が良いだろうという判断を下した。智哉には貰ったことを内緒にしておけばこれまでと変わることはない。美鈴はそう考えてポケットにその箱をそっと仕舞い込んだ。


 智哉はスーパーの正面玄関前を走り抜け、立体駐車場の螺旋スロープを途中に設けた二ヶ所の防火シャッターを押し上げつつ上へと昇り、屋上から出入りするための鋼鉄製扉の前に到着した。そこまでは普段通りで特に何の異変も感じなかったが、その場に立った瞬間、急に不吉な予感に見舞われた。具体的に何がどう違ったというわけではないが、周囲の空気に含まれる微量な違和感みたいなものを感じ取ったとでも言えば良いのか。だが、それは美鈴や加奈が不在のせいだろうと強引に理由をこじ付けて、いつものように扉をノックする。暫く待つが中からは何の応答もない。優馬にも一応は誰かが訪ねてきた場合の対処の仕方は教えてあるので、反応無しというのは不自然だった。そこで漸く焦りを感じ始める。ただ、その時点でもまだ優馬が出入りの際のやり取りを忘れているか警戒しているだけだと自分に言い聞かせ、色めく気持ちを落ち着かせるようにして手持ちの鍵で扉を開けて中に入った。

 廊下に明かりはなく真っ暗で、冷んやりとした空気が頬を掠めていった。どうやら暖房器具は使っていないらしい。節約としてならまったくあり得なくはないが、昨今の気温からすれば珍しかった。優馬一人だから使用を控えるということはまず考えられない。そのために子供でも安全に使えるオイルヒーターをわざわざ用意してあったのだ。嫌な予感がもはや胡麻化し切れないほど膨らんでいくのがわかった。フラッシュライトを点灯して廊下を照らすが、特段に変わった様子は見られない。智哉はライトを点けたまま廊下を進み、優馬が居るはずの部屋のドアを開けた。そこでも室内の灯りは消えたままだった。普段は就寝時にも真っ暗闇にならないよう電池式のフロアライトを常夜灯として置いている。それすら消えているということは、寝る前に何らかの異常事態に直面したと考えるのが妥当だ。智哉は優馬の名前を呼びながら部屋の中を隈なく探して回る。しかし、いざという際はパニックルームとなる寝室代わりの小部屋はもちろんのこと、智哉専用とした部屋やトイレの中まで調べたがどこにもその姿を見つけ出すことはできなかった。それで智哉はより一層の深刻さを実感せざるを得なかった。

(まさか、下の階に行ったのか……?)

 そう考えて、一瞬で青ざめる。何故、という疑問は一旦脇に置いて、もしそうならすぐに連れ戻しに行かなければならない。問題はいつ出て行ったかだが、照明や暖房の状態からすれば明るいうちだった可能性が高い。それなら優に六時間以上は経過している。最悪の想像が脳裏を掠めるのを振り払い、智哉は急ぎ階下へ向かった。三階のバックヤードに下りると、大声で呼びかけるが何の返事も返ってこない。ますます焦燥感が大きくなっていく。ここでもないとすればさらに下の階に下りて行ったのだろうか? 息堰切って二階に移動したようとした矢先、突如フラッシュライトで照らされた眼前にゾンビの姿が浮かび上がった。当然ながら襲いかかっては来なかったが、いきなりのことで心臓が縮み上がる。

(どうしてこの場所にゾンビがいるんだ?)

 その疑問は直ちに解消された。目の前に立ち塞がるゾンビを押し退けて二階に下りた智哉は、そこで売り場とバックヤードを隔てるスイングドアが開いているのを見つけた。向こうから相当強い圧力が加えられたらしく、落とし棒が折れて蝶番が捻じ曲がっている。そうなった理由は一つしか考えられない。誰かがここにやって来て、それを見つけたゾンビが大挙して押し寄せたからに相違ない。その誰かとは言うまでもなく優馬であろう。こうなることを畏れて三人には余程のことがない限りバックヤードには立ち入らないよう言い含めてきたのである。どうして優馬がその言い付けに背いたのかは定かでないが、今はそれを推量している場合でないことは確かだ。優馬がゾンビに襲われたことがほぼ確実となったからには無事でいる確率は極めて低いと思わざるを得ないが、それでもまだ一縷の望みは残されている。バックヤード内には以前に化学防護服の検証に利用した食品作業室を始めとする内側から鍵の掛かる小部屋が幾つがあり、そのいずれかに逃げ込んでいれば助かる見込みは大いにあり得たからだ。智哉はその僅かな希望に賭け二階の探索を慎重に進めた。しかし、そこでは優馬を発見できなかったので、引き続き一階も同様に調べるが、やはりバックヤードには見つからなかった。こうなった以上、覚悟を決めて売り場側を探すしかないのだが、そこで初めて智哉は躊躇した。知りたくない現実に直面することを畏れてだったのは言うに及ばない。できることなら目を瞑ってやり過ごしたかった。無論、そんなわけにいかないことは十二分に承知している。智哉は二階に戻ると、意を決して破壊されたドアから売り場側へと足を踏み入れた。ともすれば重くなりがちな足取りを何とか奮い立たせて、フラッシュライトの明かりを頼りに店内を見て回る。そうしてフロアを半分ほど進んだところで、遂に目当てのものを見つけた。こちらに背を向けているが、背格好や見憶えのある服装から優馬に間違いなく、商品棚の前に蹲るようにして屈んでいた。一見したところ、何の代わり映えないように思われる。だが、その脇をゾンビが悠然と歩いていることが全てを物語っていた。もはや疑いを挟む余地のない光景を目の当たりにして、智哉はその場で膝から崩れ落ちそうになる虚脱感に懸命に耐えねばならなかった。単に立っているだけのことが、これほど長く苦しく労力を要させたのは初めてだった。今すぐにでも立ち去りたいという気持ちを必死になって抑え付け、智哉は近寄ってその肩に手を掛ける。恐らく機械的に振り向いたに過ぎないであろうその顔を見て、とうとう堪え切れず智哉は膝を折って床に坐り込んだ。

(こんな無残な姿に──)

 その幼い顔からは下顎の大部分が引き千切られており、辛うじて喉の奥にへばり付いた舌があたかも別の生き物をぶら下げているように見せていた。これまでどんな凄惨な現場に立ち会っても目を逸らさず観察し続けることを己に課してきた智哉が、思わず顔を背けたほどの惨たらしさだ。視界の端に映ることにも耐え切れず、ライトを消して真っ暗な中、力なく項垂れた。どれくらいそうしていたのか。ほんの十分足らずであった気もするし、何時間も経過したようにも思える。やっとのことで気を取り直した智哉が再びライトを点灯させると、目の前にいたはずの優馬の姿が消えていた。ただし、今度はさほど労せずすぐに見つかる。周辺にライトを巡らせると、少し離れた場所でぼんやりと佇んでいた。その虚ろな眼から意志の光は微塵も感じさせない。

(……このままにしておくわけにはいかないな)

 よろよろと立ち上がると、自分が優馬にしてやれる最後の務めを果たすべく、智哉はゆっくりと傍らに近寄った。隣に立っても優馬は相変わらず何の反応も示さない。

(こんな時、どんな言葉をかけたら良いんだろうな。映画や小説じゃ主人公が気の利いた科白の一つでも言うんだろうが、俺には思い付かねえよ。悪いな)

 そう胸の裡で呟き、腰に吊るしたナイフへと手を伸ばす。その柄を静かに引き抜いた。


 翌日の昼過ぎになっても智哉は診療所に戻っては来なかった。その頃には加奈も意識を取り戻し会話ができるくらいまでには回復していたので、粗方の事情は説明してある。ここまで来ればひと安心とのお墨付きを得たことで気が抜けたのか、どっと疲れが押し寄せて来るのを美鈴は感じた。由加里が気を遣って開いた病室を用意してくれたので、そこで休ませて貰うことにした。妹に何かあればすぐに起こしてくれるよう日奈子に頼んで、美鈴は病室のベッドで横になる。それにしても智哉の戻りの遅いのが気がかりだった。一瞬、見捨てられたのだろうかという考えが頭をよぎるが、智哉に限ってそれはないだろうと思い直した。何も自分達がそこまで大事にされているという自負があるわけではない。むしろ、智哉のことである。不要と判断されれば美鈴達を見限ることに躊躇いはしまい。ただし、その場合は面と向かってはっきりとそう告げるに違いないはずだ。こっそりと逃げるように姿を消すなど智哉らしくない。だから遅れているのは何か別の理由があってのことだろうと美鈴には思えた。それが何かを考える前に美鈴はいつの間にか睡魔に支配されていた。

 次に美鈴が目を開けた時、真っ先に飛び込んで来たのは窓から射し込む月明かりが照らす無機質な病室の天井だった。どうやら夜まで寝入ってしまったらしい。慌てて起き上がろうとして、ベッドの脇に誰かが居る気配に気付いた。視線だけを動かして確認すると、いつの間に戻っていたのか、智哉が昨晩ICUで美鈴がしていたようにパイプ椅子に腰掛け、どこか思い詰めた表情でじっと窓の外を眺めている。目を醒ました美鈴に気付くと、こちらに向き直って言った。

「やっと起きたか。相当に疲れが溜まっていたようだな。無理をし過ぎだ」

 気を遣われているのか、叱られているのか、よくわからない言葉がかけられる。もっとも憎まれ口は今日に始まったことではないのでさらりと受け流しておき、美鈴は上半身をベッドに起こしながら智哉に訊ねた。

「今、何時ですか?」

 八時を少し回ったところだ、と智哉は即答した。ついでに、妹は心配ない、さっき病室を見舞ってきたが経過は順調そうだ、と教えられる。

 そうですか、と美鈴は安堵した表情を浮かべる。ということは今し方戻ったばかりなのだろう。そのことを訊ねると、智哉は頷いた。

「遅くなって悪かったな」

 そう応えた智哉に対して美鈴は軽く頭を振ってみせることで、気にしなくて良い、という意を伝えた。それから一番気になっていることを口にする。

「それでユウくんはどうしてましたか? 淋しがってはいませんでしたか? ご飯はちゃんと食べたんでしょうか?」

 矢継ぎ早に質問が重ねられた。それが智哉にとって最も答えにくい話題であることには気付かずに。しかし、いずれは話さなければならないことだ。ここで胡麻化しても知るのが早いか遅いかの違いでしかない。どう伝えるべきか、今の今までずっと悩んできたが、結局、言い方を変えたところで受ける衝撃に違いがあるわけではないと考え、ひと思いに告げることにした。

「優馬は……死んだよ」

 そう智哉が発した途端、えっ、と言ったきり美鈴は言葉を失う。

 元より聞いて即座に事態が呑み込めるとは智哉も思っていない。美鈴が智哉の伝えた言葉の意味を充分に理解し尽くすまでじっくりと待つつもりでいた。五分ほどして漸く美鈴が、どうしてですか、とか細い声で絞り出すように訊ねてきた。智哉は戻った先で見たことをできるだけ詳しく美鈴に話して聞かせた。智哉が語り終えるまで、美鈴は身じろぎ一つせずに無言で耳を傾けた。

「それじゃあ、岩永さんが帰った時にはもう……」

「ああ、手遅れだった。憶測だが、俺達がスーパーを離れてさほど経たないうちに襲われていた可能性が高い」

「どうして下の階になんて行ったんでしょうか? 絶対に駄目だって何度も言い聞かせていたのに。今まで言い付けを破ったことなんて一度もなかったんですよ。そんなに欲しい物があったんでしょうか?」

 美鈴は俯いて、両手でシーツを握り締めた。言葉の端々から悔恨と自責の念が滲み出ている。

「さあな。本当に欲しい物があったかどうかもわからない。単なる好奇心からかも知れないしな。どちらにしても今更考えても仕方がないことだ」

 実際にその通りだった。だから智哉も理由を考えるのは止めた。

「このことを妹にはもう話しましたか?」

 いや、まだだ、と智哉は首を振る。加奈には何も伝えていなかった。それなら妹には私の方から教えるのでそれまで黙っていて欲しい、と頼まれた。

「わかった。そうしよう。それで……お前の方は大丈夫なのか?」

 やけに冷静に受け答えする美鈴を見て、智哉は却って不安を募らせた。もっと取り乱すようなことがあってもおかしくないと考えていたからだ。それは美鈴自身も不思議に感じていたようで、さっきからずっと変なんです、という言葉で返された。

「おかしいんですよ、私。ユウくんが死んだって聞かされて、それを疑っているわけでもなく、話の内容が理解できていないわけでもないのに、あまり悲しくならないんです。どうしちゃったんでしょう? 普通なら泣き喚くとか岩永さんに当たり散らすとかしそうな場面じゃないですか。それなのに全然そんな風になれなくて。頭の中が自分じゃないみたいにしんと静まり返っているんです。何だかんだ言っても所詮は血の繋がらない赤の他人だからでしょうか?」

 美鈴は夢から醒めて間もないような、あるいは一度起きかけたのに再び夢の世界に舞い戻ってしまったかのような、焦点の定まらない視線を宙に漂わせながらそう言った。

 そんなことはない、と智哉はそれまでの口調を一変させて答えた。

「昨日まで元気一杯に走り回っていたんだ。それが急に死んだと言われても実感なんて湧かないのは当然だ」

 智哉にしては珍しく力を込めてそう話す。だが、美鈴の方は相変わらずぼんやりとした表情で、そうなんでしょうか、と小声で応えるのみだ。暫くしてから、本当に狂っているのかも知れません、と呟いた。

「あんな小さな子が死んで悲しくならないなんてやっぱりまともじゃないですよ。ずっと、この世界で過ごしているうちにおかしくなったんだと思います。もう普通の感情なんて残っていないのかも。さっきは肉親じゃないから悲しくならないのかもなんて言いましたけど、実際は妹が死んでも同じことかも知れない。そういえば父や母についても本当はもう生きてはいないだろうって心の中ではずっと思っていたんです。でも、それを口にするのは見捨てるような気がして……言わなければそうならないなんて都合が良過ぎますよね。私がどう思おうと現実は変わらないのに。しかも、それすら両親の死を悲しめないことを胡麻化すためだったんじゃないかって今、気付いちゃいました。岩永さんが帰って来られる前、ここの看護師さんと少し話したんです。その時、私、生意気にも看護師さんに、生き残るために必要だと思うことをやるしかない、死んだ人はそれができなかったんだ、みたいなことを言ってしまって。今、考えると血も涙もない冷酷な発言ですよね。誰だって死にたくて死んだわけじゃないのに、私は──」

 もういい、止めろ、と智哉は語気を強めて言った。他に遮りようがなかったためだ。何かを言うべきなのだろうが、何を言ったら良いのか思い付かなかった。それでも何とかひと言ひと言を胸の奥から紡ぎ出すように、智哉は美鈴に向かって懸命に喋った。

「悲しくならないなんて嘘だ。俺にはわかる。お前はちゃんと悲しんでいるよ。確かに打算のない人間なんてこの世にはいない。だから、お前が言うように本当は悲しくなんてないのに体面や世間体を気にして悲しむふりをすることだってあるだろう。そもそも人の死は無条件に悼むべきものだっていうのも疑問だ。会ったこともない奴が何千人何万人死のうとも関係がなく、身近なたった一人の存在を失う方が遥かに辛いっていうのが人間じゃないか。人は元来、身勝手なものなんだよ。それは変えようがないことだし、他人は胡麻化せても自分には嘘を吐きようがないからな。そういう意味じゃ、お前の感じ方は間違っていないとも言える。優馬や両親が死んでもさほど悲しくないっていうのは、お前にとって彼らがその程度の存在だったってことなんだろう。けど、その前によく思い出してみろ。何故、優馬の面倒を見ようと思ったんだ? 自分のことだけを考えるなら足手まといにしかならなかったはずだ。お前にとってどんなメリットがあった? 正義感からか? それとも見捨てることに罪悪感を覚えるためか? そういう側面がなかったとは言い切れないかも知れない。だが、本当にそれだけか? 両親についても同じだ。泣き叫ぶことだけが大切な存在だったという証か? 俺が言えるのはそこまでだよ。あとはお前が自分自身に問いかけるしかない。それでやはり何も感じないというならそれはそれで仕方がないことだ。俺の見立てが間違っていたんだろう。確かに狂っているには違いないが、それは何もお前だけじゃない」

 何か切迫した思いに突き動かされて、ひと息にそれだけ喋ってしまうと、智哉は続く言葉が見つからずに黙り込んだ。病室内に重苦しい沈黙が圧し掛かる。やがて、思い出したように美鈴が訊ねた。

「……それで、ユウくんはどうしたんですか?」

 奴らに喰わせるような真似はしていない、とだけ智哉は答えた。それで意味は通じたはずだ。考えてみれば世界がこうなって以降、誰かを正式に弔ったのは初めてだ。ただ埋めただけではどこからかゾンビがやって来て掘り起こしてしまう恐れがあるので、埋葬するには一度荼毘に付す必要がある。その手間が面倒でこれまでに始末した遺体は全て放って置いてゾンビの餌にしてきた。冷酷さで言うなら先だっての発言にあった美鈴の比ではないが、それだけに自分で設けた基準は何が何でも守り通すつもりでいた。そうでなければ本当に僅かに残る人間らしさまで失いかねない気がしたからだ。にも関わらず──。

「何が契約だ」

 思わず智哉は吐き捨てるように洩らした。その声を聞いて、何のことか、という表情で美鈴が智哉を見た。

「……憶えているだろ? いや、忘れるはずがないよな。俺はお前に取引だと言って性的な奉仕を強要した。その代わりにお前達を助けてやると約束してな。それが契約だと。お前は屈辱に耐えてそれを守ったのに、俺の方はとんだ嘘つきだ。もっと責めたっていいんだぞ。お前にはその権利がある。優馬が死んだのは俺のせいだ。少しばかりゾンビに襲われないからっていい気になって、単に幸運に恵まれていただけのことを自分が優秀だと勘違いした結果がこうだ。こんな奴に今まで頼ってきたのかとお前も呆れただろう。その通りだから返す言葉もない。俺にはもうお前達に何かを言う資格はないし、指図できる立場にもない。だから、これからのことはお前が決めてくれ。ここの連中はさっき俺が渡した自衛隊の通信機で連絡を取っていたよ。明日の朝、ヘリが迎えに来るそうだ。どこかに避難キャンプが設けられていて、そこまで安全に送り届けてくれるらしい。一緒に行きたければそれでも構わない。妹もまだ完全に治ったわけじゃないしな。万全を期すならその方が良いだろう。俺に残れと言うならそうするし、付いて来いと言われればそれに従う。念のため、準備はしてきた」

「準備……?」

「必要となりそうな着替えや日用品を用意しておいた。それと保存が利く食糧も運べるだけ持ってきたから、向こうで何かの交換材料にでもすればいい。荻野って看護師にも薬や医療器具なんかはできるだけ持って行くように勧めた。新参者が手ぶらじゃ何かと肩身が狭い思いをすることになるだろうからな」

 食糧にしろ医薬品にしろ、あり過ぎて困ることはないだろうから邪険な扱いにはならないはずだ。それだけを智哉が話すと、美鈴はじっと何かを考え込む顔つきになった。恐らくはどうするべきか迷っているのだろうと智哉は推測した。残ってこれまで通りスーパーで三人暮らすか、他の生存者と合流して協力し合うか。智哉としてはさっき告げたようにどちらでも構わなかった。自身の去就を含め、美鈴がしたいようにさせるつもりだ。だが、次に美鈴が口にしたのはそのどちらでもなく、智哉が思っていたものとはまるで違う言葉だった。

「ズルいですよ、岩永さんは。今頃になって自信を失くしたみたいなことを言うなんて。私も加奈も、それにユウくんだってそんな弱音が聞きたかったわけじゃないはずです。大体、資格とか立場って何ですか? ユウくんが死んだのは岩永さんのせい? そんなことを言われても、はい、そうです、なんてことにできっこないじゃないですか。私が無理を言って付いて来たりせずに残っていればこんなことにならなかったのは考えるまでもなくわかります。加奈だってこのことを知れば自分が病気になったせいだって思うに決まっています。この先ずっと、そんな後悔を抱えていかなきゃならないんです。自分だけが悪者になったら済むなんて思わないでください。そんなことは仮に私達が認めてもユウくんが許してくれません。本当ならお母さんに一番甘えたい年頃なのに泣き言なんか全然言わずに耐えてきたんです。そんな子を死なせて私や妹だけが恨まれないわけがありません」

 美鈴の言う通りだと智哉も思った。だから何も言えなくなってしまった。智哉が無言でいると、唐突に美鈴が妙なことを切り出した。

「……これからのことは私が好きに決めていいんですよね? だったらもう一つ、約束を破ってください」

 約束とは何を指しているのか、智哉にはピンと来るものがなかった。何のことだ、と訊こうとして、それを遮るように差し出された美鈴の掌に何かが載せられていることに気付いた。煙草の箱をひと回りほど大きくしたようなパッケージだ。即座にはわからなかったが、暫くしてコンドームの箱だと見当が付いた。それを見せながらギリギリで聞こえるような音量で、

「使ってみませんか?」

 そう口にした美鈴の表情はこれまでに一度も見せたことがないほど真剣そのものだった。


 思いがけず言ってしまったものの、果たしてそれが正しい選択だったのかどうか、正直なところ、美鈴にも明確な判断が付かなかった。たぶん、一生わからないのではないか。少なくとも身近な者を亡くしたばかりの身では不謹慎との謗りは免れまい。それでもそうしたいという気持ちに偽りはなかった。と同時に自分から告げた以上はおいそれと取り消すわけにはいかず、引っ込みが付かなくなったのもまた事実だ。

「あ、タオル……」

「えっ?」

「下にタオルを敷いてください。シーツに血が付くと面倒なんで……」

 辛うじてそんな心配を口にして不安を紛らわすのが精一杯の強がりと言えた。命じられるままに智哉は荷物から特大サイズのバスタオルを取り出してベッドに拡げた。敷き終えると、美鈴がそこへ横になる。

 すっかり覚悟を決めた様子の美鈴に対して、逆に智哉の方が戸惑っていた。

「本当にいいのか? 別に今こんなことをしなくても──」

「散々、私を弄んだ人が今更何を言ってるんですか。怖気付くなんて岩永さんらしくありませんよ」

 そう言われては智哉に立つ瀬がなかった。言葉に詰まる智哉を見て、美鈴が仄かな微笑を浮かべる。

「自分で決めたことですし、気にしないでください。それとも私なんかじゃそうする気になれませんか?」

 どのような心境の変化でそうなったのか智哉には計り知れなかったが、美鈴がそのつもりなら無論、断る理由などない。

(据え膳喰わぬは何とやらと言うしな)

 ありがちな科白を心の中で呟いてみる。

「言っとくが途中で気が変わっても止めたりしねえぞ」

「なるべく……痛くしないでください」


【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】


 それにしても結果的にはこれも女の武器を使ったことになるんだろうか? そんなことをふと思いながら智哉の腕に抱かれつつ美鈴は改めて訊ねた。

「これからも一緒に居てくれるんですよね?」

「ああ。お前がそれを望むならな」

「避難キャンプに行くとしても?」

 そうしたいなら好きにすればいい、と智哉は答えた。俺に遠慮する必要はないとも言った。

「そろそろ潮時とは思っていたからな」

 潮時? と美鈴は鸚鵡返しに訊いた。

「他の生存者と関わらずにいることがだ。元より俺達だけでずっとやっていけるとは考えちゃいなかったが、加奈が病気になって改めて痛感したよ。やはり、この面子だけでは限界があるってな。医療だけじゃない。今は水や食糧も店頭から回収した分で賄っているが、いずれは自給自足を目指すことになる。そのためにも専門家がいた方がいい。他の生存者と合流すれば勝手気ままな振る舞いはできなくなるかも知れないが、受けられる恩恵はそれなりのものだろう。そう考えれば避難キャンプに行くのも悪くない選択だ。いざとなれば抜け出せば済む話だしな。まあ、その分、人目を避けてお前を抱くのには苦労しそうだけど」

 智哉がそう言うと、幾分頬を赤らめた美鈴が腕をつねった。大して痛くはなかったが、その腕を大袈裟にさすりながら智哉は密かに胸の裡で思った。

(本当にそんな機会があってくれればいい──)

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