9 露呈

 結局、加奈は智哉が持ち帰った薬で一時的には快方に向かいかけたものの、翌日の昼過ぎに再び容態を悪化させ、しかも今度は三十九度を超える高熱を発した。

「薬を探しに行った先の病院で看護師に出遭った。顔は見ちゃいないが医者もいるらしい。これからそこに妹を連れて行く。もしそこで治療ができないようなら戻って例の通信機で助けを呼ぶ。それでいいか?」

 狼狽える美鈴を前に、智哉がそう告げたのはその日の夕刻近くだった。

「私も一緒に行きます」

 即座にそう返答した美鈴は、これだけはどうしても譲れないという表情で真正面から智哉を見据えた。駄目だと言っても聞き入れそうにない。だが、そうなると問題が一つある。美鈴は妹のことで頭が一杯らしく失念しているようだが。案の定、智哉がアニメを観ていた優馬を呼び寄せると、あっ、と小さく声を上げた。

 それには構わず智哉は姿勢を低くして目線を合わせながら優馬に話しかけた。

「いいか、よく聞け。今から俺達は加奈姉ちゃんを病院に連れて行かなきゃならない。外は危ないからお前はここに残れ。それでもし明日の夜までに二人共帰って来なかったら、これで助けを呼ぶんだ。通信機の使い方は教えただろ。憶えているな? 場所はこの紙に書いてあるから訊かれたらその通りに読めばいい」

 智哉は自衛隊の通信機を優馬の目の前に掲げる。優馬はそれを見てはっきりと頷いた。

「あの──」

 美鈴が何か言いかけるのを遮るように、急いで支度しろ、と智哉は命じた。それで美鈴も口にしかけた言葉を呑み込んで出発の準備に取り掛かる。自分で付いて行くと決めた以上、智哉が言うようにするしかないのだ。優馬を連れて行くことは危険性や負担を考えればできない。それを顧みなかった自分の迂闊さに呆れるが、気付いたとてやはり妹を放ってはおけなかった。外よりもここの方が安全なはずと無理矢理、自分を納得させながら後ろめたさには目を瞑る。だが、一緒に行くと言っても当然そのままというわけにはいかない。それは加奈にしても同じだ。まずは高熱で意識が朦朧としている妹に化学防護服を着せるところから始めた。酸素呼吸器を背負わせることになるので横向きの窮屈な姿勢で寝かせなければならなくなったが、そこはクッションを敷くなどして対応する。こんなことになるなら病院かどこかで隔離患者の搬送に使われる移送用陰圧装置アイソレーターを用意しておくんだった、と智哉は悔やむが、今からではどうしようもないので現状にあるものを最大限に利用していくしかない。何とか防護服を身に着けさせた加奈を美鈴と二人して苦労の末、駐車場に運んだ。車はいつもの軽トラックではなく、同じ軽ではあるがワンボックスタイプに乗り換えている。後ろのハッチから運び入れ、シートを倒してフラットにした後部座席に寝かせる。自分達も急いで戻って手早く防護服に着替えた。さすがに心細そうにしていた優馬だが、それでも最後まで気丈に振る舞い泣き言はまったく言わなかった。そんな優馬に後ろ髪を引かれている様子の美鈴はその手を握り、すぐに戻って来るから待っててね、と短く口にするのが精一杯のようだった。腹が減ったらここにある物は好きに食べていいが火は使うなよ、そう言い残して智哉達はその場を後にした。


「さっきは驚きました」

 診療所に向かう道すがら、ハンドルを握る智哉に助手席から美鈴がそう話しかけてきた。お互い化学防護服を着ての会話になるので、必然的に声が大きくならざるを得ない。何がだ、と智哉も美鈴に負けじと大声で返す。

「ユウくんがあんなにも聞き分け良く応じたことです。もっと子供らしく泣き叫んで引き留めてもおかしくなかったのに」

 僅か六歳かそこらの少年を一人きりで置き去りにしていくのだ。しかも電気も満足に使えず建物内外には危険極まりないゾンビがいるという状況にも関わらずである。本来であれば美鈴の言ったことが正しくて当然だろう。だが、智哉の見解はそれとは違った。

「子供だからって甘く見るな。あいつはあいつなりに今がどんな場合かをきちんと理解しているよ。生き残るためには何をしなきゃならないかもな。年齢は関係ない。お前よりも余程、自分の立場をわきまえているんじゃないか」

 そう言われて美鈴はややムッとする。これでも最近は素直に振る舞えるようになってきたと自負していたからだ。防護服のアイピース越しに表情をしかめ、僅かに頬を膨らませた。もっとも優馬に関しては智哉の言う通りなのだろうと思う。自分が一番、あの子をわかっていなかった。幼いというだけで耐えられないだろうと勝手に決め付けて、逆境に立ち向かうよりも困難から遠ざけることばかりを選んでいた。そんなことをしても自分が護ってやれるわけでもないのに、だ。一方で智哉は美鈴の知らないうちに、通信機の使い方を優馬に教えていたらしい。仮に一人になっても生き残れるようにするためなのは自明である。どちらが真に優馬のことを考えていたかは言うまでもないだろう。そんな智哉に美鈴は改めて畏敬の念を抱くと共に、心の奥底では未だ拭いきれないわだかまりがあるのも確かだった。セクシュアルな行為においては手ですることは言うに及ばず近頃は性器を口に含むことすら抵抗を感じなくなりつつあり、いつの間にか智哉の愛撫に身を任せるようになった今でも美鈴の方からそれを求めたことは一度もない。そうした恋人のような親密さに欠けるせいか、智哉の方でも美鈴の全身ありとあらゆる部分に口を付け、舌を這わせているにも関わらず、唯一唇にだけは触れようとしなかった。おかげで美鈴のファーストキスは未だに護られている。

(あんなことまでさせておきながら、今更、元に戻ったら全部無かったことにして普通に恋愛しろとでも言うのだろうか……)

 そういう意味で言うなら、確かに美鈴は純潔なままだ。智哉とのことも一時の緊急避難的なものとして割り切ろうと思えばそうできるのかも知れない。それが恐らくずっと一緒に居る気はないであろう智哉なりの、最低限の配慮と受け止められなくもなかった。化学防御服で顔が隠されているのを幸いに、美鈴は智哉に気付かれないようそっと隣を盗み見た。向こうの表情も付けている呼吸器の面体のせいでよく見えないが、ハンドルを握る姿からは真剣そのものの様子は伝わってくる。されたことは決して許すことはできないし、かといって自分から離れることも心底憎むこともできそうにない相手。いつか離れ離れになるかも知れない男の横顔──。

 突如、その視界が激しく上下に揺れた。美鈴は思わず、キャッ、と短く叫んでシートベルトにしがみ付く。クソッ、と智哉は悪態を吐きながらハンドルに手を叩きつけた。

「パンクだ。何かを踏んだらしい。見てくるから少し待ってろ」

 そう言って車を停め、車道に降りた。

 パンクした箇所はすぐに見つかった。左側の前輪、つまり助手席に最も近い位置のタイヤだ。道路は整備したとはいえ、邪魔な車両を片付けただけで、事故の後に散らばった破片や部品まで取り除いたわけではない。とても騒動以前のクリアな路面とは言えず、いつこうなってもおかしくない有様ではあった。だからパンク自体は起こるべくして起こったアクシデントと言えるが、問題はこの場所だ。

(よりによってこんなところで立ち往生するとはな)

 近くに比較的大きな駅が見える。こうした場所には通勤通学の習慣が残っているのか、徘徊型のゾンビが彷徨いていることが多い。今も少し離れた場所から何体かがこちらを窺っていた。まだ獲物と勘付かれたわけではないが、音か動きが興味を引いたらしくゆっくりと近付いて来ようとしている。もしバレればあっという間に取り囲まれるのは必至だ。何度も目撃してきた黒山の如く車に群がるゾンビの光景が甦る。すぐにこの場を離れるべきだが、余程鋭利なものを踏んだのか、タイヤは完全にバーストしていて、このまま無理に走り続ければ追いかけられた時、逃げ切れなくなる公算が大きかった。

(ここでタイヤ交換するしかないな。それまで気付いてくれるなよ)

 智哉は助手席の美鈴に向かって、身ぶりで窓を開けるように伝える。美鈴がそれに応え窓を開けると、落ち着いた口調で言った。

「タイヤがバーストしている。スペアに交換するしかない。お前はなるべく姿勢を低くして、外から見られないようにしろ」

「岩永さんは大丈夫なんですか?」

 そう語りかけてくる美鈴に、俺のことは心配しなくていい、それより妹を見ていろ、と言い置くと、智哉は急いで車の後部に回り、車体の下からスペアタイヤを取り出そうとする。だが、背中の酸素呼吸器が邪魔をして、なかなか車体の下に潜り込んでの作業ができない。その間にもゾンビが刻々と迫って来るのが見えない背中越しにも感じられた。

(どうする……このままじゃ間に合わないぞ)

 智哉は久方ぶりに焦りを感じた。しかし、急ごうとすればするほど手許に狂いが生じて上手くいかなくなる。額から汗が吹き出てフェイスマスクに滴り落ち、只でさえ見えづらい視界をさらに曇らせた。

(駄目だ……)

 一瞬投げ出しかけた智哉の脳裏に、美鈴達が襲われ、ゾンビに引き裂かれる姿が思い浮かんだ。それだけは絶対に見たくないと強く自覚した。何故かは自分でもよくわからない。他の者なら平気で見過ごすことができるのに。だが、今は理由を詮索するよりも先にすべきことがある。それにはこのままの状態では無理だ。こうなったら成るように成れ、そう思うと、智哉はその場で防護服を脱ぎ始めた。胸元の緊急脱出エマージェンシー用テープを引いて、誰の手も借りることなく瞬く間に陽圧された気密服から抜け出す。背中の呼吸器も肩から下ろして身軽になったところで、もう一度車体の下に腕を突っ込んで何とかスペアタイヤを取り外すことに成功した。それを持って左前輪に向かって一目散に走る。助手席のすぐ脇に片膝を付いて屈み込んだ智哉の姿を見て、美鈴が防護服の中で息を呑んだのがわかった。すぐに「岩永さん!」と悲鳴に近い声を上げた。ゾンビに襲われると思ったのだろう。確かに普通であればそうなってもおかしくない距離にまで迫って来ている。それにも関わらず一向にゾンビに変化は訪れない。相変わらずゆっくりとした足取りで接近して来るだけだ。遅ればせながらそのことに気付いた美鈴が、これは、と言いかけて絶句する。その言葉尻を奪い取るようにして、智哉が早口で捲し立てた。

「言いたいことはわかる。後できちんと説明するから今は作業に集中させてくれ」

 智哉の必死さが伝わったのか、美鈴はそれきり黙って作業を見守った。智哉は強引な手付きでタイヤからホイールを引き剥がすと、四ヶ所のナットをレンチで緩め、車載ジャッキを車両の下に潜り込ませて車体を持ち上げた。五センチほど地面との隙間ができたところでナットを完全に取り外して破裂したタイヤを引き抜き、スペアに交換する。そこまでの工程をかってない素早さで実行してみせた智哉は助手席の美鈴に向かって声をかけた。

「運転席に移ってエンジンをかけろ」

 美鈴は言われるままに防護服を着た不自由な格好で何とか車内を移動し運転席に移ると、エンジンを始動させた。まだ公道を走ったことは一度もないが、智哉の教えにより一応の操作方法は身に付けている。

 エンジンをかけたことで、ゾンビの注意を一層引くことになったようだ。最後のナットの仮締めを終えた智哉はジャッキを下げるのももどかしく、思いっきり蹴り倒すと、手早くナットを本締めし、脱ぎ捨てた防護服と酸素呼吸器を拾い上げて、助手席に飛び乗った。出せ、と美鈴に叫ぶ。美鈴が慌ててアクセルを踏み込んだ。マニュアル車なら確実にエンストしたであろう乱暴な運転で車は急発進した。

「どこへ──」

「そのまま真っ直ぐ行け」

 診療所に向かうにはその先の交差点を曲がるのが本来の道順だが、智哉は敢えてそのように指示した。運転初心者の美鈴にあれこれ道案内をするより、まずはこの場から離れる方が先決と考えたからだ。後ろを振り向いて、ゾンビが追って来ないのを確認すると、速度を落とすように美鈴に言う。暫く走って開けた場所に出たところで、周囲にゾンビがいないのを確かめた上で車を停めさせた。

「……運転を代わろう」

 智哉は助手席のドアを開けて、車から降りた。美鈴はさっきと同様に車内をゴソゴソと移動して助手席に戻ると、表で交換したタイヤをチェックしてから無言で酸素呼吸器や化学防護服を着け直している智哉を眺めた。その眼には未だに驚愕の思いが色褪せていなかった。先刻の智哉は確かにゾンビの目前で化学防護服を脱いで見せた。それでいてゾンビは無反応のままだった。ということは最初から着ている意味はなかったということになる。そのことから導き出される推論は美鈴が思い付く限り一つしかない。しかし、そんなことが本当にあり得るのだろうか……。

 美鈴が考え込んでいる間に、智哉が運転席へ乗り込んで来る。防護服を身に付けてはいるが、呼吸器のマスクは外して、上半身は露出させたままだ。それでも問題がないということなのだろう。重苦しい雰囲気の中、智哉が一言一言噛み締めるように語り始めた。

「運転しながら話そう。さっき見た通り、俺はゾンビに襲われない。何故かとは訊くなよ。俺にも理由はよくわからん。前にゾンビに噛まれたことがあって、たぶんそれが原因なんじゃないかと思う」

「ゾンビに……噛まれた?」

 全て聞き終えるまで質問はしないでおこうと決めていた美鈴だったが、あまりに突拍子もない内容に堪え切れず思わず訊き返してしまった。

「そうだ。どういうわけか発症することもなく奴らの一員にならずに済んだのさ。怪我も大したことなかったのが幸いだった。頸動脈でもやられていたら発症する以前に死んでいただろうからな。それ以来だよ、俺がゾンビに襲われなくなったのは。仲間にでも見えているのかも知れない」

 言われてみれば思い当たる節が幾つもあったが、何といっても自由に外を出歩ける点が最大の謎だったと言って良い。何らかの手段でゾンビを回避しているのだろうとは思っていたが、聞いてみると正体は恐ろしく単純明快だったというわけだ。今にして思えば化学防護服の実験に美鈴を立ち会わせたのも自分では効果を実感できなかったからに違いない。

「他にもそういう人はいるんですか?」

「俺が知る限りでは遭ったことはない。ニュースや新聞でもそれらしい内容は見たことがないな」

 簡潔に智哉は答える。質問してみたものの、その答えに美鈴はさしたる関心を持てなかった。それよりも──。

「……ずっと騙していたんですね。好き好んで危ない目に遭っているわけじゃないとか、命懸けだとか、散々言っておきながら。あれって全部嘘だったんですね」

「労力を費やしていたのは本当だ」

 そんなことが言い訳にならないのは百も承知だが、後ろめたさ故に遂、弁解じみた主張をしてしまう。

「随分と責められました。憶えていますか?」

 ああ、と智哉は頷いた。それを口実にして美鈴には到底受け容れ難かったであろう理不尽な要求を突き付けたのだ。忘れるはずがない。ただ智哉の方にもそれなりの言い分はある。過程に嘘があったとはいえ、食糧や安全を提供したという事実が確かである以上、取引自体の正当性が失われたとは言い難い。美鈴もそのことを直ちに蒸し返す気はないようだ。

「何故、今まで隠していたんですか?」

 代わってそう訊ねてきた。誰にも悟られるわけにいかなかったからだ、と智哉は正直に答えた。

「どうして? そんな能力があるならもっと大勢の人が救えるかも知れないのに」

 美鈴は非難する目付きで智哉を見た。救う? 一体どうやって? と智哉は言い返した。

「そんなことは俺だって言われるまでもなく考えたさ。けど、さっきのことを思い出してみろ。俺が何のために必死になっていたと思う? 俺自身に危険はなかったんだぞ。危害を加えられるのはお前達だけだ。だからと言ってあの数のゾンビを俺一人で喰い止められると思うか? そんなのは銃を使ったとしても無理に決まっている。急いで修理を終えてあの場から逃げ出すことが精一杯だ。ゾンビに襲われないといってもやれることなんてせいぜいその程度なんだよ。テレビや漫画なら一人のヒーローが世界を救うことも珍しくないんだろうが、現実はそんなもんだ。自分だったらみんなを助けられるなんていうのは傲慢に他ならない」

 自分達のために必死だった、と言われれば美鈴もややトーンダウンせざるを得ないが、それでも納得するには程遠く、再び語気を強めて言った。

「でも、食糧を届けたりとかはできるんじゃ……」

「その食糧はどこで手に入れる? スーパーやコンビニの在庫だって無限じゃないんだぞ。それに集めたとして一人一人の手許にどうやって行き渡らせる? 俺が朝から晩までずっと配達して回ってりゃいいのか? そんなのはお断りだが、百歩譲ってそうしたとしよう。それで一体どれくらいの人数が救えるっていうんだ? 百人か? 二百人か? それにあぶれた連中はどうする気だ? どうやって助ける側と見捨てる側に振り分ける? どの途、全員は救えないことに変わりない。だったらわざわざ教える必要なんてないさ。それに知られたら必ず諍いが起こるぞ。中には有無を言わせず従わせようって奴も出てくるだろうな。自分が生き残るためなら他人がどんな過酷な目に遭おうと構わない、そう決意した奴が何をするか想像したことがあるか? 人間がどこまで残酷になれるかを試す意味では良い機会かも知れないがな。俺はそんなことに巻き込まれるのは御免だね」

 いっそのこと従順な者だけを集めて自らの王国を築くことも考えないでもないが、それはそれで維持管理が面倒そうなのであまり乗り気はしない、というところまでは話す必要はないだろう。

 だったらどうして私達を助けたんですか、と美鈴は訊こうとして、寸前で思い留まった。以前に同じ質問を投げかけた際には、成り行きだとにべもなく言われたことを思い出したからではない。今も同じ返答かは気になるところだが、それとは別に智哉がこの先も己の体質を隠し通すつもりなのは明らかで、訊ねても意味がないと思えたからだ。それに智哉の回答を訊くまでもなく、自らが取るべき途はとっくに決まっている。口調が非難がましくなったのは、智哉が自分にまで隠していたことがどことなく腹立たしかったからに他ならない。即ち誰かに洩らすかも知れないと思われていたことが口惜しかった。世間的な意味合いでの男女の関係とは大いに異なるが、曲がりなりにも一つ屋根の下で共に暮らし、幾度も肌を合わせてきたにも関わらず、やはり信頼し合えていないのかと考えると、美鈴は不満より一抹の淋しさを感じずにはいられなかった。

 そんな美鈴の心境に気付いた様子もなく、智哉は押し黙ったままだった。正直なところ、秘密を打ち明けたことが正しかったのかどうか、判断が付きかねていたのである。強引にでも胡麻化した方が良かったのではないかと思わなくもない。いや、それ以前に見捨てることも選択肢としてはあり得たはずだ。だが、先程はその考えが一切浮かばなかった。実際にそうするかは別にして、思い付きもしなかったというのはこれまでの智哉にはなかった傾向だ。果たしてそれは何を意味するのか? その疑問を智哉は無理矢理に意識の片隅へ押し込める。今はまだ考えない方が良い気がするからだ。では、いつになったら知るべきなのかに関しては智哉自身も明確な指針は得られそうになかった。

 尚も智哉が言うべきことを見出せず無言でいると、やがて美鈴はフェイスマスク越しに一つ大きな溜め息を吐き、わかりました、と口にした。

「このことは一先ず誰にも言わないでおきます。妹達にも教えません。だから安心してください」

 別に智哉に見捨てられることを恐れたわけではない。智哉の言い分を完全に納得できたわけでもないが、それもこの際はどうでも良いことだった。少し前に何があろうと智哉を信じて付いて行く、そう決めたばかりのことに従うだけだ。

 美鈴のその言葉を聞いて、とりあえず智哉は胸を撫で下ろした。無論、只の口約束に過ぎず、美鈴がそれを守るという保証はどこにもない。しかし、今更疑ってみても仕方がなかった。それなら最初から助けなければ良かったのだ。あるいは先だっての時点で見捨てるか。それが今も必死になって妹を救おうと駆けずり回っていることに当初の目論見とは矛盾を感じつつ、こうなってしまったからには成り行きに任せるしかないという思いをより一層強くした。


 互いにどことなく気まずい雰囲気を残したまま、やがて車は目的の診療所に辿り着いた。三階建ての建物を見上げながら助手席で美鈴が声に出して言った。

「ここ……ですか?」

 そうだ、と智哉は答えた。その声は防護服越しのくぐもったものに戻っていた。そうする理由も今の美鈴なら理解できる。ゾンビに襲われないという体質を隠すための偽装であるのは明らかだ。

 その格好で早速、智哉が建物周辺や一階を探索し、安全であることを確かめる。それから入口付近にあったストレッチャーに加奈を移し替えて診療所内に運び入れた。他の場所には目もくれず、一目散に上階を目指す。当然エレベーターは停止しており、階段を使うしかないが、ストレッチャーに横たえたままというわけにいかなかったので、智哉が負ぶって運ぶことにした。自分の呼吸器と肩から提げていた銃を美鈴に預けると、加奈の背中にある呼吸器と合わせれば六十キロ近い重さを只でさえ動きづらい防護服越しに一人で背負って階段を上り始める。歯を喰い縛り何とか三階まで耐えて、病棟と階段を隔てる防火扉の前まで来た。息が整うのも待たずに障壁に設けられた潜り戸を開けようとしたが、さすがにそこは内側から固定されているらしく頑として動かない。智哉達は扉を叩いて、中に呼びかけた。

 暫くして扉の向こうから、誰? という誰何の声がする。智哉は、昨日薬を探しに来た者だ、話していた病人を連れて来た、急いで診て貰いたい、と矢継ぎ早に答えた。

「食糧と薬を交換した人ね。わかったわ。ちょっと待ってて」

 この前の看護師らしき女の声がそう言うと、内部でカチャカチャと音がし出し、ややあってから潜り戸が開かれた。顔を出したのはやはり昨日遭った女だ。智哉達の出で立ちを見て一瞬、ギョッとした表情になる。だが、そこは看護師だけあってすぐに化学防護服と見抜いたようだ。即座に落ち着きを取り戻すと、とにかく入って、と手招きした。智哉が加奈を背負って潜り戸を通り抜け、その後ろを美鈴が付いて来る。三人が病棟に足を踏み入れると、その背後で再び戸が閉められハンドルが固定される音が聞こえた。その間に智哉と美鈴は防護服を脱いで、酸素呼吸器も外した。病棟内にいたもう一人のナース服姿の若い女も手伝って、加奈の防護服も脱がせていく。

「何でそんな格好をしているのかは後で訊くわ。この子ね、病人は」

 二人の看護師のうち、先輩と思われる昨日遭った女の方がそう言って、加奈の額に自分の手を当てた。

「かなり、熱が高いわ。どうしてこんなになるまで放っておいたのよ」

 外に出るのも命懸けだという今の現実を無視した非難に、一瞬反論しかけるが、そんな場合ではないと思い直して智哉が答える。

「説教は後で幾らでも訊く。とにかく急いで治療を頼む」

 隣で美鈴が、お願いします、と深々と頭を下げた。それで女も自分の無理難題に気付いたのか、

「とにかく集中治療室ICUのベッドに運ぶわよ。吉野、先生を呼んで来て」

 と気持ちを切り替えた様子で年下とおぼしきもう一人の看護師に指示を出した。吉野と呼ばれたその後輩であろう看護師が、はい、と返事をして何処かに消える。智哉達は協力してもう一度ストレッチャーに加奈を寝かせると、それを押して廊下の奥へと進んで行った。ふと視線を感じて顔を上げると病室から何人かが顔を覗かせて、遠巻きにこちらを見守っていた。彼らが入院患者ということなのだろう。皆一様に疲れ切った表情で、身体は痩せ細り、眼に生気が感じられない。医者や看護師を仲間に引き入れるために一度は見捨てることも考えた智哉だが、わざわざそうしなくとも放っておけばすぐに居なくなりそうだと思った。だが、今はどうでも良い。集中治療室と書かれたドアの前まで来ると、看護師の女が手動で扉を開けた。

「電気が来てないからね。ICUと言っても機器は使えないんで、他の病室と変わらないんだけど」

「こういう場所には非常用の発電機とかがあるもんじゃないのか?」

 念のため、智哉がそう訊いてみる。意外な答えが返ってきた。

「大病院ならいざ知らず個人経営の診療所で設置しているところなんて殆どないわ。あったとしてもとっくに燃料を使い果たして役には立たないでしょうけど」

(そういうものなのか)

 それなら謝礼代わりに次に来る機会があれば予備の発電機を進呈しようかと考えた。当然ながら、それには加奈の治療が無事に済んだらという条件が付く。そうでなければ親切にしてやる義理はない。智哉はICUにずらりと並ぶ現在は電源を落とされて隅の方に押しやられた機器を見た。これらが使えないことで発生するリスクを智哉は知らない。なるべくなら低くあって欲しいと願うばかりだ。自分ではどうにもならないことがこれほどもどかしく思われたのは久しぶりだった。そこにさっき別れた若い看護師の声が廊下から響く。

「先生。何をしているんですか? 早くこっちに来てください」

 その声の主に引っ張られるようにして、白衣姿の男が室内に現れた。先生、と言うからにはこいつが医者なのだろう。想像した以上に若く、如何にも心許ない感じだ。智哉と目が合うと、途端に視線を逸らした。

「僕に診せても無駄だよ。入院患者の世話だけで手一杯なんだ。本当はそれだってマズいんだからさ。研修医に勝手な診療が許されていないのは知ってるだろ。君達がどうしてもと言うから仕方なしにやっているだけだということを忘れないで欲しいな。大体、この人達は誰なんだ。僕は他の患者を受け入れるなんて聞いてないぞ。君達が招き入れたんだからそっちで責任持ってくれよ」

 開口一番、そう言ってそっぽを向く。なるほど、医者と呼べなくもないとはこういうことか、と智哉は合点がいった。とはいえ、ただ納得しているわけにもいかない。研修医といえども一応は医者であるからには何らかの手は打てるはずである。それをどのようにやらせようか……チラリと智哉は美鈴に預けたままの散弾銃に視線を向けた。一瞬、匂わせた不穏な空気を打ち消すように、先輩である方の看護師が口を開いた。

「とりあえずラインは取っておきます。いいですね? その人達は昨日話した食糧を分けてくれた方です。先生も乾パン以外を口にするのは久しぶりだって大喜びで食べていたじゃないですか」

 そう言われて若い男の研修医は一瞬、言葉に詰まる。しかし、すぐに言い返した。

「薬と交換だったんだろ? だったら別に恩に着る必要はないはずだ」

「それはそうですが……」

 慣れた手付きで腕の血管に針を通しながら何かを言いかけた看護師の言葉に智哉は片手を挙げて割って入ると、研修医に向かって言った。

「確かにその通りだよ。こっちも只で診てくれと頼んでいるわけじゃない。その子を治療してくれるなら水でも食糧でも必要な分を幾らでも提供する。それなら文句はないだろ」

 どう見ても充分な蓄えがあるようには見えない彼らに対しては、必殺の口説き文句となるはずだった。ところが研修医は苦虫を噛み潰したような表情で、そんな簡単なことじゃない、と口にした。

「君達は何もわかっちゃいないんだ」

 どうやら食糧が欲しいのはやまやまだが、治療できない理由が他にあるようだ。そうこうしている間に加奈が苦しげな呻き声を上げた。急いで年上の看護師がその胸元をはだけて、露出させた肌に聴診器を触れさせた。もう一人の看護師は脇に体温計を挟んだり、手首で脈を測ったりしていた。その隙に智哉はそっと美鈴から銃を受け取る。ベネリM3スーパー90──軍や警察の特殊部隊でも使用されるコンバットショットガン。国内の規制に反してチューブ弾倉内には七発のバックショットが装填済みだ。薬室内は当然空にしてあるが、簡単な動作一つでいつでも初弾を送り込むことは可能である。いざとなれば脅しに使う分には躊躇する気はないが、なるべくなら穏便に済ませたい。従ってもう少しだけ智哉は事態の推移を見守ることにした。

「左肺に連続性高調副雑音ウィーズがあります。やはり肺炎を起こしかけているようです。すぐに処置しないと」

「できないものはできないんだよ。荻野さんだって本当はわかってるんだろ。元々、他の先生達によって治療計画が立てられていた入院患者ならまだしも新規での受け入れなんて研修医には荷が重いってこと」

「だからって目の前の病人を何もしないで放っておくんですか?」

「それでもし間違った診断を下した結果、何かあったらどうする気だ? 君に責任が取れるのか?」

「何もしなければ衰弱していくだけです。このままだと──」

 もういい、と智哉は低い声で口を挟んだ。加奈以外の、その場に居た全員の視線が智哉に集まる。

「どうしても治療はして貰う。やらないと言うのなら……」

 智哉はベネリM3を顔の高さまで持ち上げた。薬室チャンバーに弾を送るだけなら機関部レシーバー側面のチャージングハンドルを引けば良かったのだが、わざと派手な音を出すという演出のためにポンプアクションに切り替えて、先台フォアエンドを勢い良くスライドさせた。ガシャン、というハリウッド映画ばりの音を立てて散弾が薬室に装填される。その銃を研修医に向けて構えた。もちろん、安全装置セーフティーは掛けたままだし、用心金トリガーガード内に指は入れていなかったが、初めて銃口を生きた人間に向けたことには変わりない。もっともそれさえ忘れて智哉は言葉を継いだ。

「──力づくでも従わせる」

 だが、これにも研修医が示した反応は智哉の予想を裏切るものだった。

「何のつもりか知らないが、そんなエアガン如きにビビると思ってるのかよ。どうせサバゲーでもやってるんだろ? 日本でそんな派手な銃の所持が認められるはずがないからな」

 そう言って、智哉を睨み返した。声は若干うわずっているものの、本物とは信じていない様子だ。それも考えてみれば当然のことかも知れない。智哉だってあの銃砲店に行くまでは実銃など見たことはなかったのだから、普通の日本人に外見だけで本物と偽物を見分けろというのが土台無理な話である。そこで智哉は右手で銃を構えたまま左手で排莢口エジェクションポートの反対側に取り付けた六発入りのシェルホルダ───これはソフトエアガン向けのものを流用した──から十二番径00B(ダブルオーバック)の九粒弾を一つ取り出すと、研修医に放り投げた。反射的に受け取ってしまってから怪訝な表情を返す研修医に対して言った。

「そいつをよく見てみろ。カップの中にパチンコ玉みたいな散弾が入っているのがわかるはずだ。サバゲーで使うようなプラスチック弾じゃないぞ。金属の塊だ。モデルガンやソフトエアガンにそんなものが必要になると思うか?」

 そう言われて、研修医はやれやれと言った調子で散弾を眺める。やがて、その顔色が一変する。

「これってまさか……本当に本物?」

 やっとのことで理解したらしい研修医に畳み掛けるように智哉が告げた。

「日本でも正規の手続きを踏めばこんな銃でも合法的に所持は認められるんだよ」

 俺は違うけどな、とはもちろん言わなかった。

「待ってくれ。落ち着いて話そう。偉そうなことを言ったのは悪かった。謝るよ。でも診療に自信がないというのは本当なんだ。僕は……自分で言うのも何だけど、経験が浅いことを差し引いてもあまり優秀な医者じゃないという自覚はある。認めたくはなかったけどね。これまでのことだって何とかやってこられたのは、実際はそこにいる荻野さんのおかげだってこともわかっているんだ」

 それまで二人のやり取りをやや呆気に取られた表情で眺めていた由加里は、突然自分の名前が出されたことに驚いた。確かに矢崎の間違いや経験不足を自分がそれとなく埋めていたのは確かだが、まさかそれを本人が気付いていようとは……まして他の者がいる前で認めるとは思わなかった。矢崎がわかっているのなら、もう気を遣う必要はない。それでも由加里は丁寧に言葉を選びながら話した。

「彼──矢崎の言ってることは概ね正しいわ。研修医が患者をまったく診察しないわけじゃないけど、それはベテランの指導医が監督しながらというのが原則よ。研修医単独で診察するなんてまずあり得ない。知識という点でも研修医一年目の彼より看護師歴四年目の私の方が経験上優位だっていうのは当たり前のことで、とりわけ彼が劣っているわけじゃないわ。大体は数年で逆転するもんだしね。ただ幾ら今は私の方が技術や経験は上とは言っても医師法やら保健師助産師看護師法やらっていうのがあって、看護師が行う医療行為は法律で厳しく制限されているの。例えば以前は医師の指示があっても看護師が静脈注射を行うことは禁止されていたわ。法律が改正された今でも医者の指示がなければもちろん勝手にはできないんだけどね。だから私達看護師が研修医とはいえ、医者に指図するなんてできっこないの。せいぜい、指示が本当に合っているかを立てるくらいでね。そうやって私達はそれとなくフォローしているんだけど、中にはミスを指摘されて逆ギレするような医者もいるわけ。自分が誤って患者を殺しかけたくせに看護師のせいにするような奴もね。それに比べたら彼なんて大分マシな方よ。自分の力不足をきちんと認識しているくらいだし。それにあなたがこの子を本気で助けようとしていることは充分に伝わったわ。だから、もう銃は必要ないでしょ? 下ろして頂戴」

 ミスを看護師のせいにされたというのは自分のことだろうか? この場を収めるためとは思うが、智哉は言う必要のないことまでそう話す荻野という看護師をじっと眺めた。意思の強そうな面立ちではあるが、どことなく斜に構えた雰囲気が見て取れる。白衣の天使というより、クールな女教師といった印象だ。なかなかの美人と言えそうだが、それが却って人を寄せ付けなくさせていると見えなくもない。尚も三秒ほど視線を交わしてから智哉はゆっくりと銃を下げた。それからおもむろに訊ねた。

「要するにどうあってもここじゃ治療は不可能ってことか?」

 そんな、と呟いたきり美鈴は両手を口に当てて言葉を失う。治療できないのならこの場に留まる意味はない。とっとと引き返して無線を使い、自衛隊を呼んで救助を請うだけだ。そうなれば今までのように行動の自由は利かなくなるだろうが、この際背に腹は変えられない。無論、その時はここに居る者の去就など知ったことではなくなる。二度と顔を合わせることもないだろう。それだけのことを瞬時に考えて、隣に立つ美鈴に、もういい、連れて帰ろう、と言いかけた時、荻野という名の看護師が再び口を開いた。子供を諭すような口調で研修医の矢崎に語りかける。

「先生。自信がないのはよくわかります。正直、研修一年目に単独で患者の治療をしろというのがどれほど無茶な要求かも承知しているつもりです。ですが、ここに居る医者は先生だけです。さっきも言ったように幾ら先生より経験があるといっても私は看護師に過ぎません。医者の代わりは務まりませんし、できることは限られています。先程先生はここまでやってこられたのは私のおかげだと言いましたが、ある意味では正しくても別の意味では間違っています。私一人だけだったらもっと大勢の患者を死なせていたでしょう。ここに居る患者が生きていられるのは間違いなく先生のお力があってのことです。この子にも今、それが必要です。もちろん、万が一のことがあった時には先生だけに責任を押しつけるような真似はしません。一緒に責めを受けます。だから、やれるだけのことはしてみませんか?」

 私もお手伝いします、ともう一人の看護師も言った。美鈴も、お願いします、妹を助けてください、と訴えかける。迷い始めた様子の矢崎に、智哉は最後の駄目押しとも言える言葉を投げかけた。

「あんた、今の責任から逃れたいんだろ? だったら俺が解放してやるよ。ここから逃げ出す方法を知っている。もしその子を治療してくれたらそれを教える。もちろん、全員が安全に脱出できる方法だ。恐らく避難した先にはベテランの医者もいるだろうし、医療設備も整っているはずだ。つまり、この場を乗り切ればあんたは医者の責務ってやつをもっと経験豊富な誰かに受け渡すことができるってわけだ」

 後半は完全なる当てずっぽうだが、救助に来るのが自衛隊ならそれくらいは期待できるだろう。それが本当だという証拠はあるのか、と矢崎に問われて、智哉は、自衛隊の救援物資を手に入れた経緯を手短に話した。

「その中に通信機が入っていた。いざとなればそれで助けを呼ぶつもりで俺達の住処に保管してある。それを渡すよ。後は自分達で救助を呼ぶなり支援を頼むなりすればいい。信じる信じないはそっちの勝手だがね」

「何故、あんた達はすぐに助けを呼ばなかった? おかしいじゃないか」

 そう訊かれると思っていた智哉は、以前に他の生存者とトラブルになかったからだと本当とも嘘とも言えない説明をしてのけた。美鈴は隣でやや複雑な表情を浮かべながらその話を黙って聞いている。

「前に一緒に居た生存者といざこざがあってね。それに懲りた俺達は、自分達だけでやっていけるうちはなるべく他の人間と関わらないようにしようと決めたんだ。幸いなことにあんたらも見た化学防護服、あれを着ていれば何とかゾンビをやり過ごすこともできるんでね。水や食糧も集められたというわけだ。ここに来たのもその子の病気を治すという以外の目的はない。それができないというのなら戻って素直に助けを呼ぶことにするよ。あんた達を連れて行く余裕はないから会うのはこれっきりということになるだろうが、せいぜい頑張って生き延びてくれ。ところで、そろそろお喋りしている時間も惜しい。どうするか、さっさと決めてくれないか」

 多少のハッタリを効かせたつもりでそれだけを言ってしまうと、後は口を噤んで、矢崎の出方を待った。矢崎はぐっと拳を握り締めて考え込んでいたが、暫くしてふと力を抜くと、仕方がないという感じで言った。

「………………わかったよ。やるよ。その代わりそっちも約束は守って欲しいな。荻野さん、吉野さん、今できることで可能な限りこの子の生体情報を集めてくれ」

 そう言って白衣の胸ポケットからペンライトを取り出すと、加奈の瞼をこじ開けて光を当てながら二、三度左右に振る。その隣では後輩の看護師が、体温や脈拍、呼吸数などを順に読み上げていった。

「心電図は使えないから生体情報は脈拍と呼吸数、それと電池式のパルスオキシメーターに頼るしかないか。やはり経皮的動脈血酸素飽和度SPO2は低下しているな……まてよ。これってもしかしたらマイコプラズマ感染症じゃないのか? それならペニシリン系やセフェム系の抗生物質は効かないはずだ。マクロライド系やテトラサイクリン系で対処するしかなくなる。マクロライド系ならジスロマックかクラリスかエシノール。それ以外だとテトラサイクリン系のミノマイシンか。でも、そんなのうちの薬剤リストにあったか? すぐに調べてみないと──」

 次々と挙げられる智哉には意味不明な言葉を呪文のように呟く矢崎に対して、荻野という看護師が心配そうに声をかける。

「先生、落ち着いてください。まだマイコプラズマ感染症と決まったわけではありません。他の感染症の可能性も探らないと」

「けど、レントゲンも血液検査もできないんだぞ。やっぱり無理だ。どうやって診断すればいいって言うんだよ」

 騒ぐ研修医とは対照的に、先輩看護師は冷静に智哉に訊ねた。

「あなた達の中に他に子供はいませんか?」

 小学校低学年の男の子が一人いる、と答えた智哉に、さらに質問を浴びせる。

「その子に症状は出ていないんですよね? 一緒に生活するようになってどれくらい経ちます?」

「そうだな……凡そひと月半くらいだ」

 それを聞いて、先生、と荻野看護師は呼びかけた。

「マイコプラズマの潜伏期間は通常、二週間から三週間ほどです。それだけで断定はできませんが、もし同時期に感染していたとしたらその子にも症状が出ているのが自然じゃないでしょうか?」

「ああ、そうか……いや、確かにそうだけど、それは同時期に感染したとする場合だろ? そうとは限らないじゃないか。この先、二週間ほどしてその子に症状が出なけりゃマイコプラズマの線は消えるだろうけど」

「咳ならどうですか? 確か昨日訊いた時には咳はあまり激しくなかったって言ったわよね?」

 智哉は無言で頷く。何かを思い付いたように矢崎が、そうか、と声を上げた。

「マイコプラズマの初期症状は激しい咳込みだ。それがなかったとなると、他の可能性が高いことになる……」

 荻野さん、と突然、改まった口調で矢崎が看護師の名前を呼んだ。何でしょう? と呼ばれた方は不思議そうに答えた。

「もし君がエンピリック療法セラピーをするとしたらどう判断する?」

 その言葉に一瞬、名前を呼ばれた荻野看護師が戸惑うのが智哉にも伝わった。エンピリック療法とは病気の原因が特定される前に医師が自らの経験から推定して行う見込み治療のことだ、ともう一人の吉野看護師が説明した。

「でも私は看護師で……」

「僕よりは経験がある。最終的な判断は僕が下すから思い付くことを言って欲しい」

 そう迫られて、少し迷った末に覚悟を決めたという感じで彼女は話し始めた。

「今の状況を考えればエスカレーションする猶予はないと思います。それなら広域スペクトルの抗菌薬を使うのが鉄則です。ただし、検査結果を待ってデ・エスカレーションできない以上、継続して使用することを前提に、例えばβ─ラクタマーゼ阻害薬配合ペニシリンならユナシンS、もしくはペントシリンの高用量使用。カルバペネム系薬ならチエナムやカルベニン、またはメロペン。あるいはニューキノロン系注射薬であるシプロキサンやパズクロス、第4世代セフェム系のプロアクト、ケイテン、マキシピーム、ファーストシンなどが候補に挙げられると思います。その中でも既にレスピラトリーキノロンの経口薬を使っていますから、ここはやはりスルバクタムSBTアンピシリンABPCをファーストチョイスに、セフトリアキソンCTRXを併用するというのが私の考えです」

 エスカレーションは徐々に抗菌スペクトルの効果範囲を拡げていくやり方、デ・エスカレーションとはその逆で最初に抗菌スペクトルの広い薬を使っておき、検査結果がわかり次第、原因菌に特化した薬に切り替えることで効果を高めると共に副作用のリスクを減らしていく方法だと言う。今の状況では検査ができないため、デ・エスカレーションするのは不可能ということだ。

 その話を真剣な表情で聞き入っていた矢崎は、暫し黙考してから、よし、と呟くと具体的な指示を出し始めた。

「ユナシンS、一・五グラムを五パーセントブドウ糖液二百五十ミリで今すぐ点滴静注してください。その後、ロセフィン〇・五グラムを追加で投入。それで暫く様子を見ましょう……それと荻野さん」

 はい? と答えた由加里に向かって、矢崎はいつになくきっぱりとした口調で告げた。

「言っておくけど、この判断を下したのは僕だ。もし間違っていたとしたらそれは医者である僕の責任であって看護師であるあなたのせいじゃない」

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