8 診療所

 看護師である荻野由加里にとってあの日は特別な一日というわけではなかった。強いて普段と違ったと言えばシフトを急遽、深夜勤に変えたことくらいであろうか。ただ、それとてとりわけ珍しいことではない。看護学校を卒業し看護師となって早四年。内科専門のここに移ってからはまだ一年半ほどだが、大病院ならいざ知らず、スタッフ総勢二十名ほどの個人経営の診療所クリニックでは、古参である看護師長の権限は絶対的だ。直々にシフトの変更を頼まれてはそうそう断り切れるものではない。だが、そのためにまたしても恋人とのデートの約束を反故にせざるを得なかった。さすがに三回も続けてドタキャンとなれば、いよいよ向こうも本気で呆れ果てている頃合に違いない。別れ話になるのも時間の問題と言えた。仕事が原因で男に逃げられるのはこれで何度目になるのか。そんな自問にも飽きが来るほど繰り返して気付けば二十五歳になっていた。それでも仕事を辞めようと思わないのは天職と言い切るほどの自信はないが、やはり嫌いではないからだろう。長時間の激務も考えるよりは体を動かす方が性に合う自分には向いている気がする。中でも深夜勤は手当ても付き、十床しかない入院病床が全て埋まるというのも滅多にないことなので、日中の外来の忙しさと比べたら気楽なものである。手術に伴う独特の緊張感を味わうこともない。従って、恋人のことを除けばシフトの変更もさほど苦にはならなかった。その日に限って懸念があるとすれば、当直医がベテランの医師ではなく、大学病院から派遣された医者になってまだ一年目というバリバリの研修医であることくらいだ。とはいえ、深夜外来を設けているわけでもなく、当直医の仕事は入院患者に対するケアくらいで、万が一、というより殆どの場合でそうなるが、研修医では手に負えない時にはすぐに上位の医師に連絡して指示を仰ぐ手筈になっているため、それほど心配には及ばないはずだった。少なくともこのような事態になるとは一片の想像もしていなかったし、心構えもできていなかったと言って良い。しかし、それを一体誰が責められると言うのか──。

 その夜の異変を最初に察知したのは、由加里がプリセプターを務める後輩看護師の吉野日奈子だった。プリセプターとは看護師の養成制度の一つで、プリセプティーと呼ばれる新人看護師にマンツーマンで指導を行う教育係のことだ。通常、三、四年目の先輩看護師がその任に当たることが多い。日奈子は由加里が初めて受け持つプリセプティーで、去年看護学校を卒業したての年は確か二十一歳。男好きのする顔立ちで医者でも患者でも異性からの受けは良いが、その甘いルックスの陰にどこか一筋縄ではいかない裏表の性格を由加里は感じ取っていた。実際に見たことはなかったが、相手によって態度が変わるという噂も幾度か耳にしている。その日奈子が巡回途中で廊下に立ち止まり、じっと窓の外を眺めていた。気付いた由加里が注意しようと歩み寄ると、まったく悪びれる様子もなく日奈子が言った。

「先輩。あの人達、何かおかしくないですか?」

 そんなことよりさっさと仕事をしろ、と怒鳴りつけたくなるのをぐっと我慢して、努めて穏やかな口調で、早く終わらせましょう、と由加里は告げた。嫌われるのは別に構わないが、先輩風を吹かせてうざい奴だとは思われたくない。日奈子とはあくまでビジネスライクな関係に徹するつもりだ。必要なことは教えるが、プライベートにまで口を出す気はさらさらなく、親身に関わったせいで下手に懐かれても困る。だから由加里としては最小限の注意で終えるはずが、でもあの人達が、と尚も口にする日奈子に吊られて、仕方がなく窓の外に視線を走らせた。入院病棟は鉄筋コンクリート建て建物最上階の三階にある。そこから見下ろした道路には確かに複数の人影が見られた。本来ならこの時間帯に出歩く人がいるのも不自然な住宅街のど真ん中である。しかも彼らはただ歩いていたわけではない。何人かが折り重なるようにして路上に倒れ込んでおり、それを介抱しようとしているのか、上から覆い被さるようにしている者達もいる。不意にそのうちの一人が何かに勘付いたように顔を上げた。街灯に照らされたその男の顔を見て、由加里は思わず息を呑んだ。口許の周りに鮮血を滴らせているように見えたからだ。一瞬の出来事ですぐに男の顔は街灯の影に溶け込んでしまうが、脳裏には鮮烈にその映像が焼き付いている。何かの見間違いではないかと目を凝らす由加里の隣で、今日ってハロウィンじゃないですよね、と日奈子が呟いた。その視線を追うと、別の場所で女が男に抱きつかれていた。単なる狂態というわけではなく、今度は由加里もはっきりとその目で女の喉笛が噛み千切られるのを目撃した。よくドラマ等の影響で頚動脈を切ると血が盛大に噴き出ると思われがちだが、確かに手術などで動脈に小さな切開を入れた時にはそうしたことが起こり得ても、傷口が広ければ圧力は分散されるので通常そこまでの勢いになることは稀である。今の場合でも由加里の位置から出血は殆ど確認できず、重篤な怪我を負ったというイメージは湧かない。前衛的過ぎて理解不能なパフォーマンスを見せつけられたような気分だった。それでも辛うじて現実逃避に職業的倫理観が勝った。今日の担当が経験の浅い研修医であることも忘れて反射的に、先生を呼んで来て、と日奈子に叫ぶと、自分は現場に向かおうと駆け出す。その手を日奈子が掴んで引き止めた。何故邪魔をするのかと問いかけて、日奈子の瞳に言い知れぬ不安が浮かんでいることに気付いた。もう一度、窓の外に目を向けると、今さっき喉元を喰い破られて倒れたはずの女が立ち上がり、他の者へと襲いかかっているのが見えた。さらにその襲われた者が別の人間に飛びかかり、見る間にその悪夢の連鎖は拡大していく。

「これってゾンビ……ですよね?」

 そう口走った日奈子に、そんな子供じみたことを、と笑い飛ばすことが由加里にもできなかった。職業柄、傷口を見る機会は多い。その看護師の眼をして離れた場所とはいえ、ドッキリなどの作り物ではないリアルさがはっきりと伝わってきた。だからこそ、思わず飛び出して行きそうになったのだ。

「先輩、手当てしに行く気だったんでしょ? 止めておいた方が良くないですか?」

 確かに日奈子の言う通りだった。何が起こっているのかさっぱり理解できていないが、今、表に出て行けば巻き込まれるのは必定だ。そこまでして助けに行くほど由加里は自己犠牲の精神に富んでいるわけではない。

「どちらにしても当直の先生は呼んで来て。私はその間に他の先生に連絡を取ってみるから」

 思い直して日奈子にそう指示をし送り出すと、自分はナースステーションに急いで戻り、電話に飛びついた。受話器を持ち上げて、耳に当てる。

(! 繋がらない?)

 受話器からは本来すべき発信音が聞こえてこなかった。試しに番号をプッシュしても同様である。代わりに自分のスマートフォンを取り上げ、アドレス帳から院長の自宅を選択して通話ボタンを押すと、流れてきたのは回線が混雑していて暫く待つ旨を告げるアナウンスのみだった。

 警察に通報しようかと考えた矢先、ナースステーションの入口に深夜にも関わらずバタバタと足音を響かせて眼鏡をかけた白衣姿の男が現れた。痩せ型で、どことなく疲れた表情をした如何にも頼りなさげな青年だ。

「ゾンビがどうとか一体何なんですか? 急変なら他の先生に連絡して貰わないと僕じゃ手に負えないですよ」

 無責任なことを平然と言ってのけながらナースステーションに入って来る。確かに医者としては見るからに若い。実際、その研修医、矢崎智洋は数日前に二十六歳になったばかりで、医師としては駆け出しもいいところである。去年、国立大学の医学部を卒業し、同時に医師免許も取得して、念願の医者になった。そうは言っても形の上だけで、一人前の医師として認められたわけではない。今は研修医として大学病院に籍を置く傍ら、週に二日ほどの外勤、つまりはアルバイトとしてここで当直医を務めつつ経験を積んでいる最中だ。といっても新米研修医がすべきことなど殆どないに等しい。何かあれば上位の医師から指示されたことをやるだけだ。なので手に負えないなどと平気で言えたりする。それが突然、半ば強引に連れて来られ、理由を訊いても、ゾンビとしか言われなければ何のことか理解できずにいるのは当然だろう。しかし、今はこの男に頼るしかない。

「表を見てください」

 そう由加里に促され、矢崎は面倒だなという素振りを隠そうともせず窓の外に目を向けた。内心では研修期間中とはいえ、医者である自分が同世代の看護師ごときに指図されるのを快く思っていないことが在り在りとした態度である。特に由加里は歯に衣を着せぬ性格で思ったことはずけずけと言ってのけるので、矢崎を始めとする研修医達からは煙たがられていた。本人もそれを自覚している。もっとも由加里とすれば嫌われることより患者に何かある方が一大事なので、気に留めたことはない。その由加里に向かい、矢崎はのんびりとした口調で、あれは何の騒ぎなんですか? と訊ねた。どうやら事態が呑み込めていないようだ。

「よく見てください。人が襲われているんです。重症者、もしかしたら既に死者が出ているかも知れません」

「まさか、そんなことが。僕を担ごうとしてるんですか? だったら無駄ですよ。そういうのに引っ掛かったりはしませんから。どうせ学生達の映画の撮影か何かでしょ? 僕、疲れてるんで当直室に戻ってもいいですか?」

 矢崎が本気で踵を返しかけたところで、遠くからガラスの割れる硬質な音が聞こえた。今のは何だ、と言う矢崎の声を由加里は無視する。そこへ暫く姿を見なかった日奈子が駆け込んで来る。

「大変です。三〇二号室の田中さんが部屋にいません。下の階に様子を見に行ったみたいです」

 どうやら日奈子は病室を見回っていたようだ。意外な冷静さに感心する一方、自分の迂闊さを由加里は心の中で呪った。入院患者にはまだ気付かれていないと思って油断していたのだ。慌てて廊下に飛び出ると、病室から何人かが顔を覗かせていた。

「吉野、下りて行ったのは田中さんだけ?」

「たぶん、そうだと思います」

 由加里の後を追って廊下に出て来た矢崎が、それを聞いてヒステリックな声を上げた。

「一体、あなた達は何をしようとしているんです? 悪ふざけもいい加減にしてくれませんか。きちんと説明してくださいよ。勝手なことをして怒られるのは僕なんですから」

「さっき言いました。でも患者さんにはまだ言わないでください。不安にさせたくないので。それからあまり大きな声を出さないように」

「僕は知りませんからね。電話で報告してきます」

 そう言い捨ててナースステーションに戻って行った。電話は通じないと言ってもどうせ信じないだろう。矢崎は当てにならないとわかったので、由加里は自ら指示を出すしかないと覚悟を決めた。日奈子に向かって、みんなを部屋に戻すように言う。

「絶対に部屋から出ないようにって」

「わかりました。先輩は?」

「田中さんを連れ戻してくるわ」

「あの、先輩?」

「何?」

「防火戸を閉じた方が良くないですか? 先輩達が戻ったら潜り戸を開かないようにすれば外からの侵入が防げると思います」

 数瞬、考えて由加里はすぐさま決断を下す。

「そうね。そうしましょう。確か壁に手動式の閉鎖レバーがあったわね」

「それだと一つ一つ閉じて回らなきゃならないですよ。ここは煙感知器が全てのフロアの防火扉やシャッターと連動する仕組みのはずですから、どこかのセンサーに煙草の煙でも吹きかけた方が早いです」

 そんな場合でないとわかっていたが、つい由加里は、何でそんなことを知っているのか、と訊ねてしまった。常識ですよ、先輩、と何でもないことのように日奈子は答える。

「でも煙草なんてどこにあるのよ?」

「私、持ってますから。任せておいてください」

 そう言って唖然とする由加里を尻目に、さあさあ部屋に戻ってください、と日奈子は廊下に出て来ようとする患者達を追い立てるように声をかけ始めた。

 由加里は一先ず思考を切り替えて、階段で下の階へと向かう。二階を通り過ぎようとした時、階下から悲痛な叫び声が聞こえて、思わず足を止めた。誰の悲鳴かは不明だが、只事でないのは確かである。そこからは歩みを一層緩め、一歩一歩慎重に下って行った。一階まで辿り着くと、階段の手摺の陰から常夜灯に照らされた薄暗い廊下の奥を怖々と覗く。正面玄関を入ってすぐ脇の待合室に二つの人影がぼんやりと浮かび上がって見えた。一人は見憶えのない二十歳前後と思われる若者で、普通に外出する時の服装をしていた。もう一人は寝巻き姿の中年男性で、三〇二号室の田中という入院患者に間違いない。だが二人共着ているものは鮮血で真っ赤に染まり、よく見ると、首筋や肩口に咬傷らしき肉が抉られた痕がある。あまりに手酷い傷で、由加里の看護師としての経験や知識に照らし合わせても、とても平気で立っていられるような状態ではないはずだ。強心剤によく用いられるエピネフリンの過剰投与でもこうはなるまい。やはりまともな人間とは考えられなかった。ここに勤める前は総合病院の外科にいたこともあり、怪我や血には慣れていたはずの由加里をして、ひと目見ただけで使命感や職業意識が吹き飛ぶほどに──。

(ここに居たくない)

 痛切にそう思ってしまった。理屈ではなく本能的な危険信号に突き動かされて、由加里はこの場を離れる決心をする。とても近くに行って声をかけようなどという気にはなれない。看護師としては失格かも知れないが、それほどの恐怖と嫌悪感を抱かせるに充分な異質さだった。由加里は音を立てないよう静かに階段を後戻りし始めた。多少の後ろめたさを引きずりながら二階の踊り場まで戻ったところで、漸く安堵の息を吐く。すると突然、廊下に非常ベルが鳴り響いた。この階だけでなく、全館で一斉に鳴り始めたようだ。同時に目の前で通路の半分を塞ぐ形で防火シャッターが閉じられていく。片側だけでなく、廊下と階段の間に新たな仕切りを築くべく壁に埋まった鉄の扉もゆっくりと動き出した。日奈子が作動させたに違いない。ただ、安心するよりも由加里にはこの非常ベルの音で一階の二人が上がって来ないかの方が心配になった。そこで暫くその場に隠れて様子を窺う。どうやら今のところ、上の階にやって来る気配はなさそうだった。そう確信できた頃には非常ベルも鳴り止んで、再び辺りに静寂が訪れた。確かナースステーションに操作盤があったはずなので、日奈子がベルを切ったのだろうと思う。

 由加里は再び階段を上がり三階まで上り詰めると、そこでもやはり新たな仕切りができていた。その廊下と階段を隔てる鉄製の扉には小型の潜り戸が設けられている。建築基準法の決まりで鍵の付けられない小型の扉を抜けると、目の前に日奈子が待ち構えていた。一人で戻った由加里を見て状況を察したらしく、田中さんはどうしたのか、とは訊かなかった。由加里も見捨ててきたとは言えずに沈黙する。しかし、今は感傷に浸っている場合ではない。日奈子がどこからか持ってきたワイヤーで潜り戸のケースハンドルをしっかり固定すると、気を取り直して、患者さん達は? と由加里は訊いた。一応、部屋に戻って貰ってます、でも、と日奈子は口ごもる。その理由は大方の予想がついた。

「説明しろってことね。わかったわ」

 その言葉に日奈子が頷く。由加里もそうしなければならないだろうと覚悟はしていた。だが、何と説明すれば良いのだろうか? ゾンビが人を襲っていると言っても矢崎のようにすぐには信じて貰えまい。下手をすると確かめると言い出す者が現れて、先程見た光景の二の舞になりかねなかった。悩んだ末に出勤前に観たテレビのニュースで暴動の話が持ち上がっていたのを思い出し、一先ずそれで日奈子と口裏を合わせることにした。よくよく考えてみれば、その暴動とはこのことではなかったのかと思い当たる。

 由加里と日奈子は手分けして入院患者達に状況を説明して回った。表には暴徒が彷徨いていて外に出るのは非常に危険である、防火扉を閉めたので病院内に居れば安全だ、非常ベルはそのためのものだった、朝になれば恐らく助けが来るであろう。とりあえずはそれで納得して貰い、由加里達はナースステーションに戻った。そこでは矢崎が受話器を片手に茫然自失といった面持ちで立ち尽くしていた。

「電話は通じましたか?」

 無駄だろうと思いながらも一応はそう訊いてみる。

「……どこにも繋がらない。警察も消防も全滅だ。携帯も通じなかった」

 思った通りではあったが、警察や消防まで通じないというのはやや予想外だった。最悪でも一一〇番や一一九番には繋がると考えていたからだ。すぐには無理でも少し待てば警察官が派遣されて来るだろう程度には楽観視していた。その見通しは脆くも崩れ去ったことになる。緊急回線までダウンしているとなると、事態は思った以上に深刻なのかも知れない。

(今のうちに何かをしておくべきだろうか……?)

 落ち着くと、さすがにゾンビというのは行き過ぎた妄想な気がしたが、不安は一層募るばかりだ。今は現実離れしているように見えても後になればそれらしい理由と解決策が見つかるはず、そう信じて、それまでの辛抱と思い、今できることをやっておこうと決めた。とりあえず日奈子には、この階にある備蓄品倉庫のチェックに行かせた。そこには非常用の飲料水や食糧が保管してある。そうまでする必要ないだろうと思いつつ、念には念を入れてだ。矢崎にはこの騒ぎで体調を崩した者がいないかを確認するために入院患者の回診を頼む。最初は他の医師の指示もないのに勝手なことはできないと拒んでいた矢崎だが、バイタルを診るだけでいい、一切の責任は由加里が取るということで何とか説得した。由加里自身はナースステーションにある薬の在庫を調べる。現在、ここにいるのは糖尿病で教育入院中である七十代の男性患者を筆頭に、虚血性心疾患の疑いがある六十代の女性患者が一名、急性腎盂腎炎の四十代の女性患者──ただし、こちらは間もなく退院予定──が一名、アレルギー疾患と思われる四十代と五十代の男性患者が一名ずつ、他に原因不明の疼痛で検査待ちの三十代女性患者が一名と、一階で見かけた田中氏を除けば合計六名となっている。当然ながら一人一人必要な薬剤の種類や量は違うので、電子カルテを表示させたタブレット端末片手に、凡そ何日分の備えがあるのかを確かめた。二日か三日分あれば乗り切れるという算段だったが、少ないものでも一週間分は備蓄できていたので安心する。これと二階の薬品庫の分を合わせれば何とかなるはずだ。そう思ったのが約六週間前のことであった──。


「先輩。聞いてますか?」

 いつの間にか頬杖をついた姿勢でぼんやりとしていたらしい由加里は、軽く肩を揺さぶられる感覚で我に返った。隣から日奈子が心配そうに、というよりは物珍しい生き物を発見したような目付きで覗き込んでいる。

「居眠りをするなんて先輩にしては珍しいですね。随分と疲れているみたいですけど大丈夫ですか? まあ、無理もないですけど。私だってちょっと油断すると、ほら──」

 言い終わるか終わらぬかのうちに、日奈子は大口を開けて欠伸をした。由加里以外は誰も見ていないとはいえ、以前の外面を気にしていた彼女からは考えられない変わりようだ。それも当然と言えば当然ではある。すぐに助けが来ると思われたこの騒動は、翌朝になっても患者の家族は元より病院スタッフも誰一人として駆けつけることのないまま、その後も収束に向かうどころか拡大の一途を辿り、唯一の情報源としていたテレビ放送もやがて途絶えると、もはや救助は当てにできないというところまで由加里達を追い詰めるのにさほどの時間は要しなかった。斯くなる上は自分達で生き延びるしかないと覚悟を決め、今日まで過ごしてきたのである。幸いにも備蓄倉庫には地域の防災計画に基づいた非常食などが保管されており、二階食堂に残されていた食材と合わせて何とか飢えを凌げていたが、それも間もなく完全に尽きようとしている。一様に全員が栄養不足の酷い顔色をしているのはそのためだ。また、一週間ほど前までは電気も水道も通じていたおかげである程度は院内の設備で入浴することができ、断水してからも蓄えてある水で清拭を行っていたので、身体の方はさほど不潔ではないが、どうしても身なりは汚くならざるを得ない。日奈子が自分だけ外見を取り繕っても仕方がないと思うようになったのはそうした理由による。相変わらずなのは矢崎だけだった。医療現場での知識や経験で言えば矢崎より遥かに勝る由加里ではあるが、どうしても看護師では手に負えない領分があるのも確かだ。法律で看護師の医療行為は厳しく制限もされている。他に適任者がいない以上、研修医であろうと医者は医者である。矢崎に頼るしかないのだが、ともすればすぐに根を上げ投げ出そうとする彼を日奈子と二人しておだて上げ、誉めそやして何とかここまでやって来た。それでもこれまでに二人の患者を亡くしている。原因は必要な治療を行うには設備も物資も充分でなかったためであり、矢崎の未熟さのせいではない。恐らくはどんなベテラン医師の手に掛かっても二人の命は救えなかっただろうと由加里は見ている。だから、その結末を深く考えないようにしていた。看護師だから人の死に慣れ過ぎて鈍感になっていると思うのは早計だ。何度経験しても慣れるというものではない。ただ、自分達には成すべきことの優先順位があり、悲しんだり落ち込んだりすることはリストの上位には含まれないというだけである。悲しむことができるのは時間的にも精神的にも余裕のある場合に限られ、普通それは遺族だけに与えられる特権なのだ。当然、ここでは誰にもそんなゆとりはなかった。死んだ者より自分を含めて生きている人間の方が大切だからに他ならない。従って、由加里は即座に割り切った。矢崎や日奈子にもそうすることを求め、後悔や悲しむのはこの状況から抜け出した後で幾らでもすれば良いと説いた。二人がそれをどう受け取ったのかは定かでない。さぞ冷たい奴と思われたかも知れないが、それも致し方がないと言えた。自分達が生き延びるためにはありとあらゆる手段を尽くす、そう覚悟を決めた瞬間から由加里は己に冷徹な役回りを課した。その決意が遺体の処分の仕方に現れている。遺体は放っておけば衛生面で問題があるだけではなく、ゾンビを引き寄せるらしいこともわかったので、病棟に置いておくわけにもいかず、かといって保管できる場所もないので、結果として窓から投げ捨てるという非情な決断を下したのは他ならぬ由加里自身だ。地面に投げ落とした遺体はゾンビが跡形もなく片付けてくれるので、腐敗を心配する必要もなく一石二鳥である。周囲にゾンビを集めるという危険はあったが、一階にさえ近寄らなければむしろ建物内からゾンビを追い出すという効果も期待できた。ただし、その反面、由加里は確実に何かを失ったのだと思う。恐らくそれは単に看護師としての規範というだけではなかったはずだ。人として踏み越えてはならぬ一線を越えた、そうした自覚があった。後悔はしていなかったが、この先普通の暮らしに戻れることがあったとしても自分が医療の現場に立つことは二度とないだろうと確信していた。

(もし、まだ看護師という職業が存続するのならばだけど……)

 そんな被虐めいた思いも今の由加里には何の感慨ももたらさない。

「それで、どうします?」

 我に返った由加里に、日奈子がそう訊ねた。話をまったく聞いていなかった由加里は、ごめん、聞いてなかったわ、と正直に答えた。

「しっかりしてくださいよ。が頼りなんですから」

 矢崎がこの場に居たら途端に不機嫌になりそうなことをさらりと言ってのける。由加里は苦笑しつつも改めて訊ねた。

「で、何?」

「さっき廊下を歩いてたら、下の階から変な物音が聞こえたんです」

「変な音? ゾンビが入り込んだってこと? でも潜り戸は開けられないんじゃなかったっけ?」

 確かに三階以外の防火扉の潜り戸は固定されていないが、あの小さなケースハンドルをゾンビが器用に回すところなど想像も付かない。

「たぶん、ゾンビじゃないと思います。生きた人間じゃないでしょうか」

(生きた人間? まさか……)

 由加里は俄かには納得し難かった。当初はいずれ助けが来ることを信じていた由加里だが、いつまで待っても救助が現れる様子はなく、屋上や窓からたまに見かけた生存者は大抵がゾンビの餌食になるだけだった。ここまで無事に辿り着いた者は一人もいない。とっくに他人から救いの手が差し伸べられることなど諦めてしまっていた。だから、日奈子が言うことも、聞き間違いじゃないの、と即座に否定した。

「でも、あれを見てください」

 日奈子は窓の傍に行って、外を指差す。由加里も立ち上がり、窓際に近付いた。日奈子が示した方向を見る。乗り捨てられた車が何台か道路に連なるだけで、特に変わった様子は見られなかった。困惑する由加里に向かって、気付きませんか? と日奈子が言った。

「あそこに停まった車。今朝までなかったものですよ」

 そう言われて由加里もハッとする。放置された車に紛れて目立たないが、確かに見憶えのない軽トラックが一台停めてあった。運転席には誰もいないようだが、事故を起こして乗り捨てたという感じでもない。第一、それならゾンビに襲われてすぐに気付いたはずである。

「ね? 怪しいと思いませんか?」

 だが、それだけでは診療所内に誰かが来たという確証にはならない。それに仮にそうだとしても──。

「助けにしては些か貧相よね……」

 我知らずに本音を口走っていた。何しろ、そこにあるのは見るからに農家が使っていそうな、正真正銘、どこからどう見ても只の軽トラックとしか思えないものだ。とても警察や自衛隊が使用するとは考えられず、救助のイメージとは程遠い。

(それにしてもよく辿り着けたものだわ)

 改めて由加里はそう思った。本当にあれでやって来たとしたら、その人物は余程ついていたに相違ない。

「念のために調べてみるけど、吉野、あんたは矢崎を起こして付いてやって。そろそろ回診の時間だから。また、グズグズ言うようならあんたの下半身の面倒はもうみないって言っといて」

「はーい。一人でセンズリしとけって言っておきます」

 若い女性が口にするのには些か不適切な言葉を吐きながら日奈子はナースステーションを後にする。それを見送ると、由加里もその足で階段に向かった。廊下はまったく人の気配を感じさせないほどしんと静まり返っている。入院患者の殆どが部屋から一歩も出ずに、一日中ぼんやりとして過ごすことが多くなったためだ。動けば腹が減る上、元々が病んで入院しているのだから無理もないとはいえ、時折由加里には彼らの方がゾンビらしいのではないかと思える瞬間があった。

 そんな患者らがいる病室の前を通り過ぎ、廊下の端に行き着くと、防火扉の前で暫く耳を澄ますが、日奈子が言う変な物音は聞こえてこなかった。それでも一応は調べてみるために、ハンドルの固定を外し、階段の踊り場へと足を踏み入れた。一階にはとても行く気になれないので、確かめるとすれば無人の二階ということになる。二階も三階と同様に防火扉で封鎖しているので安全なはずだが、薬や食糧を探しに行く時以外はなるべく立ち入らないようにしていた。少しでもゾンビの注意を引かないためであるのは言うまでもない。その場へ階段を下りて到着する。フロアと階段を隔てる防火扉を潜り、病棟内に足を踏み入れると、人の出入りがなくなった廊下は昼間でもどことなく薄暗い感じがして、全体的に埃っぽさが漂う。その床をなるべく足音を立てないように静かに進んで行くと、中ほどまで来たところで、微かな衣擦れのような物音が聞こえてきた。一瞬、緊張するがゾンビならもっと騒々しいはずと考え、やはり誰かいると確信する。生存者を探しているというより、何か調べ物でもしているような感じだ。どうやら奥の薬品庫から聞こえてくるらしく、由加里はバレないように慎重に近付き、半分開いた扉から中腰の姿勢でそっと中を覗き込んだ。薬品棚の前に立ち、何やら物色している者がいる。どうやら男で、他に人影はなく一人のようだ。入口に背を向け、一つ一つの薬瓶や箱を手に取って、ラベルや注意書きをまじまじと眺めている。仕草や身なりからゾンビでないことはすぐにわかったが、明らかに助けに来た様子ではない。恐らくは薬を狙っての来訪だろう。

(それにしてもこんな状況でわざわざ薬を盗みに来るなんて余程重度の中毒者ジャンキーだろうか……)

 そんな想像が頭をよぎる。だとすれば関わるのは危険かも知れない。このまま見過ごそうかとも思ったが、薬品庫にはまだ貴重な薬剤が残っている。それまで持ち去られては困るので、何とか喰い止める方法を考えていると、男が肩口にライフル銃のようなものをぶら提げていることに気付いた。形は映画などでよく目にするものに似ているが、由加里に見憶えがあるのは黒一色だったはずに対して、それは一部が銀色の光沢を放ちあたかも玩具のように見えた。

(モデルガンだろうか……?)

 そんな安っぽい手段で脅せると考えているような相手なら、こちらも気合で太刀打ちできるかも知れない。由加里はその場で一度だけ大きく深呼吸をすると、意を決して立ち上がった。

「そこで何をやってるの?」

 凛とした口調でそう告げた。


 診療所の中は冷んやりとして、饐えた鉄錆びと黴の匂いがした。外から見た限りでは一階の正面玄関のガラス扉は破られており、一歩内部に入ると待合室の床には明らかに血溜まりだったと思われるどす黒く変色し乾いた染みがあちらこちらに拡がっていた。だが、そうなる原因を作ったはずの者達の姿はどこにも見当たらない。無論、その理由を智哉は熟知している。今ではすっかり慣れ親しんだ奴らの習性を──。

(けど、ここには居ないみたいだな)

 一階のリノリウムの床一面には薄っすらと埃が積もり、この数週間誰かが出入りした痕跡はない。二階へと続く階段も同様だった。ということは少なくともこの奥に最近できた死体はないということだ。もしあるなら表を彷徨くゾンビ共が放ってはおかないだろう。ただし、そこから先へは防火シャッターと防火扉が行く手を阻むように立ち塞がっていて、階段から二階の病棟を覗くことはできなかった。周囲に火災になった形跡はないので、誰かが手動で作動させたものに間違いないと思われた。問題はその誰かが今もここに残っているかということだ。その可能性は低いと智哉は見ている。何故なら防火扉は閉じられているが、潜り戸を塞ぐ工夫は特にされていなかったからだ。そこまでする必要はないと思ったのか、二階が無人だからなのか。後者であると智哉は踏んだが、それでも一応の用心をしながら静まり返った廊下を奥へと進んで行った。一階の案内図から目的の薬品庫はこの階にあることは調べが付いている。廊下の端まで行き着いたところで苦もなくそれを見つけた。意外なことにドアには鍵も掛けられていない。

(まあ、当然か。急患があった時にいちいち鍵を取りに行っているようじゃ間に合わないかも知れないしな)

 室内に入ると、さすがに一部の劇薬と書かれた戸棚には施錠がなされていたが、その他の棚には鍵も付いていなかった。施錠されたガラス戸もその気になりさえすれば簡単に壊せそうだったが、智哉が探しているものはそこにはないはずなので、一先ず見送って他の棚を調べ始める。美鈴の書いたメモを片手に瓶のラベルやパッケージの表示を確かめながら一つ一つ見ていく。幾つかの薬剤の中から「Unasyn」と書かれた箱を手に取ったところで智哉は動きを止めた。たぶん、メモに記された薬の一つはこれに相違なさそうだ。その箱を多機能ベストのポケットに仕舞いかけた時、突然、背後から鋭い声が浴びせられた。

「そこで何をやってるの?」

 反射的に肩に吊っていたベネリM3のスリングに手を伸ばしかけるが、寸でのところで思い留まった。ゾンビ相手には何度も撃っていたが、明らかに生きた人間と知れた相手に本物の銃口を向ける覚悟はまだ定まっていなかった。代わりに敵意のないことを示すため、両手を挙げて振り向く。目の前にやや薄汚れてはいたが、ナース服を着た若い女が立っていた。

(人が残っていたのか……)

 見たところ、武器らしきものは何も携えていない。智哉を見かけて咄嗟に咎めただけのようだ。どう捉えても怪しい相手にいきなり声をかけるなど、無茶で無謀で無鉄砲としか思えなかったが、ずっと引き籠っていればその辺りの心構えなどなくて当たり前なのかも知れない。体力的にも武装の上からも圧倒的に智哉の方が有利だがまずは相手の出方を窺うために、とりあえず大人しく経過を見守ることにした。

「──ねえ、何をやっているのかって訊いたんだけど」

 智哉が無言でいることに若干の苛立ちを孕んだ調子で、看護師姿の女が再び詰問する。

 見ての通りだよ、と智哉はわざとのんびりした口調で答えた。

「見ての通りって?」

「薬を探していた」

「……誰か病気なの?」

 看護師としての職業意識なのか、一瞬態度が和らぐ。ああ、と智哉が言うと、女は十秒ほど黙った挙句、大きく息を吐いた。そして、もう止めよう、と片手をヒラヒラと振ってみせた。止めるって? と智哉が訊くと、腹の探り合いみたいなことは苦手なのよ、と肩を竦める。

「どうやら薬物中毒者ってわけでもなさそうだしね。要するに病人がいて、薬が必要になったから危険を冒してまでやって来たってことでしょ? だったら目的の薬さえ手に入れば引き下がる、違う?」

「そのつもりだが……」

「じゃあさ、二人でいつまでも睨めっこしてても始まらないんじゃない? 私としては素人に薬棚を荒らされたくないだけだし」

「助けてくれるのか?」

 意外な成り行きに智哉は僅かに戸惑いながらそう訊ねた。場合によっては力づくで協力させることも考えていたからだ。それは内容によるわね、と看護師は慎重に答えた。

「で、その人の症状は?」

「二、三日前から三十七度台の発熱が続いている。市販の風邪薬を飲ませたが効果はなかった」

「咳や喉の痛みは?」

「それほど酷くないようだ」

「それって薬のメモだよね? ちょっと見せて」

 智哉は素直にメモを女に手渡した。女は腰に手を当ててじっとそれを見詰める。

(ユナシンSにオーグメンチン、スルバクタムはβ─ラクタマーゼ阻害薬配合ペニシリン系か……。トミロン、セフスパン、セフテム、セフィル、こっちは第三世代セフェム系ね。素人の割によく調べてある。けど──)

 男が手にしていた箱もひったくるようにして取り上げると由加里は見慣れたパッケージを眺めた。

(ユナシンSの経口薬、これを見つけたのか……)

「その人の年齢は?」

「確か中学一年、十三歳のはずだ」

 暫く考えた末、由加里は男から奪い返した箱を棚に戻すと、別のパッケージを手に取った。

「それよりこっちの方がいいわ。レスピラトリーキノロンだから抗菌スペクトルが広域──つまり対応できる原因菌が幅広いの。しかもPRSP……ペニシリン耐性菌にも効果がある」

 殆ど理解不能なことを女は口にした後、はい、と薬を手渡されて智哉は逆に面喰った。

「いいのか? そんなに簡単にくれてやって」

「どうせ盗む気満々だったんでしょ? それにその銃。本物には見えないけど、万が一ってこともあるしね。どうしても渡せないってほど貴重な薬じゃないし、下手に逆らって怪我でもしたら損だから。でも一つ、忠告しておくわ。それで明日になっても熱が下がらないようなら本格的に医者に診せた方がいい」

「ここに医者は居るのか?」

「一応は医者と呼べなくもないっていうのが一人ね」

 それを聞いて今度は智哉が考え込む番だった。医者と看護師なら身近に置いておけば心強いことこの上ない。人間関係が多少煩雑になることを差し引いても充分にお釣りが来る計算だ。当分、仲間を増やす気のなかった智哉だが、ここはその考えを翻すことにする。

「ここから少し離れた場所に、俺達の拠点がある。もし良かったらそこに一緒に来る気はないか?」

「仲間にならないかってこと?」

「そうだ。水や食糧は確保してある。ここよりは恐らく安全で快適だ」

 女は俯き加減で暫し悩んでいたが、やがて顔を上げると再び口を開いた。

「……それが本当なら魅力的な申し出なんだけど、やっぱり無理ね。ここには私達医療スタッフ以外に患者もいるのよ。その中には専門の機器を必要とする人も。あなたのところに医療設備があるとは思えない。そうでしょ? それに人数だって大変よ。全員で七人。それだけの人を安全に移動させられる?」

 智哉はかぶりを振った。彼女の言う通りだ。それだけの人間を無事に移動させる手段は今のところ、智哉にはない。もう一度、賭けになるのを覚悟でカーチェイスをやるにしても人数が多過ぎる。さりとて、病院スタッフだけでいい、患者は置いていけ、と言ってもさすがに聞き入れられないだろう。

(まあ、いいさ。ここならいつでも来られるからな)

 ここで無理強いするよりも暫く様子を見てから再度提案しても良いと判断してこの場は引き下がることにした。とりあえず今日のところは医者がいるのがわかっただけで収穫だ。ただし、そのためには彼らに死なれては困る。そこで智哉はこんなことを口にした。

「わかった。ところで、俺の方からも助言をしておくよ。他人に何かを与えるなら只ではするな」

「それが、あなたのポリシー?」

「いや、この世界で生き抜くための必須条件ってとこかな」

 そう言って、智哉は背負っていたバックパックを肩から下ろし、常に持ち歩くようにしている中身の飲料水や非常食を机に並べた。

「これは?」

「薬の礼……対価だよ」

 そう智哉が言うと、水や食糧があるっていうの本当なんだ、と女は感心したように頷いた。ちょうど食べる物が無くなりかけていたから助かるわ、と女は素直に受け取る。

 三階を根城にしていると聞き、寄って行くかと誘われたが、智哉は断った。医者と呼べなくもないという相手には会っておきたかったが、他の入院患者と顔を合わせるのが億劫だったからである。ひょっとしたらいずれ見捨てることになるやも知れない者達だ。下手に希望を抱かせたくない。もう少し詳しく話を聞きたかったが、加奈のことが気がかりでもあった。それで智哉は一応礼を言って立ち去ろうとした。その背中に由加里は真剣な口調で声をかけた。

「その子、明日までに熱が引かなかったら本当に危ないわよ」

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