11 最後の部隊(ラスト・バタリオン)

 誰もが皆、口にせずとも心の中ではそう思っていたに違いない。

 映画や小説とは違うのだ、現実ともなれば我々が負けることなどあり得ない、と──。

 それも無理からぬことと言えた。何しろ、自分達は音速の数倍の速さで空を駆け巡り、数千キロの彼方から誤差僅か数メートルという精度で目標にミサイルを命中させ、ボタン一つで山の形を変えることすら不可能ではないのだ。たかが数頼みのゾンビに遅れを取ることなど金輪際あろうはずがない。

 実際、自衛隊内にはゾンビ禍が蔓延し始めた当初、防衛省の対策会議において幹部自衛官から非公式ながらある発言がなされたとの、実しやかに囁かれる噂がある。それはこのようなものだった。

「──我々、自衛隊の総員数は陸海空合わせても約三十万人に過ぎません。それに対して日本の総人口は凡そ一億二千万人。そのうちの三分の一、いや半分がゾンビ……失礼、殺人病罹患者になったと仮定して六千万対三十万となります。一見すると絶望的な数値の差に見えますが、これは単純に隊員一人当たりが二百人を殺せば済む計算です。それなら我々の現有兵力を持ってすればたやすい」

 無論、そのような暴言、あるいは極論が公にされるはずもなく、真偽のほどは不確かだが、当時の市ヶ谷の反応としては制服組、背広組双方において概ね同調する気色があったとされる。斯くいう自分もその一人だった。それがいざ蓋を開けてみればどうか。僅かひと月にも満たないうちに自衛隊及び在日米軍が有する戦力の大半を喪失するという惨憺たる結果を招いた。それは何故か──。

 ひとえに我々が人間だったからに他ならない、と小山田恒雄一等陸佐は思った。生き残った陸上自衛隊普通科隊員達を中心とする残存戦力で急遽編成された臨時戦闘団の司令官である彼は、これまでの戦闘結果を振り返り、誰にともなく独語する。先程まで共に肩を並べて戦っていた仲間がゾンビと化して、銃口を向けるのに躊躇わなかった者などいない。その一瞬の迷いが被害を拡大させたとして、誰がそれを責めることができよう。実際に小山田はそういう場面を幾度も目撃している。先の会議での発言が本当だとすれば、それを口にした者は隊員を感情のないロボットかモルモットのように捉えていたに違いない。もっとも仮にそうであったなら、ここまで無残な結果にはならなかったのではないかという思いがあるもの確かだ。事実、海を隔てた隣国の某独裁国家では三代目となる若い政治指導者のひと言で民間人への影響を一切無視した街ぐるみの非人道的な殲滅戦を行い、皮肉にもその国を悪の枢軸呼ばわりしてきた先進国より一時的にせよ感染の抑止に一定の効果を上げたと伝え聞く。もし自衛隊にもそうした決断が下せていたら例え国内の人口を激減させたとしても生き残った者達は早期に平穏な暮らしが取り戻せていたのではないかと考えるのは、やはり軽慮浅謀だろうか。だが、もちろん創設以来、常にその存在自体が議論され続け、軍隊ではないという建前の下で許容されてきた自衛隊に、そのような国民に犠牲を強いる選択肢があろうはずはなく、結果多くの同胞をみすみす失うことになったのは当然の帰結だった。今や将官でもない小山田自身が重迫撃砲中隊、戦車中隊、航空隊を含む諸兵科連合兵団を率いらねばならないほどの人材不足であるのが何よりその証左だ。

 小山田は駐屯地内を望む窓際に立ち、人知れず深い溜め息を吐くと共に、無意識に額に手を当てた。

「一佐、大丈夫ですか? 随分とお疲れのようですが……」

 その様子を背後から目聡く見留めた三等陸佐が声をかけてきた。彼は小山田が現在の臨時職に就く以前から副官を務めている気心の知れ渡った部下の一人だ。

「ここに疲れていない者などおらんよ」

 彼との懇意に甘えて思わずそう応えてしまってから、気を遣ってくれた積年の部下に対して些か配慮の欠けた物言いだったと気付き、私も年かな、と言い訳がましく付け加えた。幸い三佐が特に気にした様子がないことに小山田は安堵した。

 ただ、それで気が楽になれたかといえばそうはならない。ここは全国に凡そ百六十ヶ所点在する陸上自衛隊駐屯地の中でもこれまでのところ辛うじてゾンビの襲来を防ぎ切れている数少ない拠点の一つで、現在はこの周辺地域で残存する部隊の臨時司令部となっている。既に首都圏の駐屯地──市ヶ谷、朝霧、練馬、用賀、小平、さらに立川のヘリコプター基地などは壊滅したことが伝えられており、松戸や習志野を含む各方面区の殆どの駐屯地と連絡が途絶えて久しい。必然的に避難所や重要施設を警護する生き残りの部隊が頼りにするのはここだけということになる。とはいえ、現在もゾンビに対抗し得ているのは、何もこの地の守備隊が他と比べて格段に優秀だったからというわけではない。偶然にも近隣に人口密集地が少なかったことと、周囲を山に取り囲まれた盆地という立地条件の特異性が守る側に圧倒的優位をもたらしたに過ぎないのだ。そうでなければここも他の駐屯地と同様、とっくに壊滅していてもおかしくはなかった。無論、それでも被害が皆無というわけにはいかず、中でも初期の戦闘において駐屯地司令が行方知れずとなり──これには誰もはっきりと口にしなかったが真っ先に逃げ出したとの憶測がある──それによって本来は後方で補給を担当すべき小山田が居合わせた将兵の中でたまたま階級が最上位だったという理由だけで臨時司令官を務めざるを得なくなった背景が存在する。確かに階級こそ他国の軍隊でいうところの大佐相当である一等陸佐で、同期の幹部候補生の中でもここまで出世できた例は稀だが、能力が認められてというより多分に運の良さに支えられたとの自覚が小山田にはあった。一般的に自衛官の定年は民間企業に比べて早い。それも階級が上がる毎に延長される仕組みなので、出世のスピードと残り任期が争う一種のマッチレースのような様相を呈している。二等陸佐や三等陸佐ならゴールは五十五歳となり、現在の小山田の階級である一等陸佐の場合は五十六歳がその時という具合だ。これが将や将補となれば六十歳まで延長されるのだからこの差は大きい。つまりこのままでいけばほんの数年前に五十代になったばかりだというのに、再来年には小山田も定年を迎えるしかなくなる。どうやら将官になる夢は叶いそうになく、海外派遣や災害救助など華々しい功績や目立った経歴とは終ぞ無縁の自衛官人生で、これまで通りデスクワークに終始して退官することになりそうだ、そう思っていた矢先の今回の出来事だった。まさに青天の霹靂というしかない。何の因果かそんな司令官の下に集まった部下達には気の毒という外ないが、考えてみれば実戦経験のある指揮官などそもそも自衛隊には存在しないので、その意味では誰がなろうと同じだったかも知れない。そんな中にあって隊員達はよくやってくれていた。何しろ、昨日までは顔を合わせたこともないような者達の寄せ集め集団である。それでも日頃の習い癖というか、染み付いた習性と呼ぶべきか、各々の役割と上下関係さえはっきりさせてやれば、何だかんだと機能するのが軍事組織の強みであろう。自衛隊もその多分に洩れず、今も本部隊舎から見える窓の外では、複雑な迷彩パターンに彩られた野戦服姿の隊員達が慌ただしく駆け回っていた。

「それにしても本当にあれで良かったんでしょうか?」

 背後に立つ三佐が控えめな口調でそう訊ねた。それは小山田に向けてというより、自分自身に問いかけているような調子でもあった。故に小山田もすぐには返答せず、つい一時間ほど前に尉官以上の者を集めたミーティングの場で自らが実施を告げた作戦の骨子を思い返した。

 それは予てより幹部クラスの自衛官らから要望が出されていた計画で、残った兵力を総動員して市中に取り残された生存者の救助を行うというものだった。ただし、作戦が決行されれば今ある物資の大半を使い果たすことになり、以降の行動が大幅に制限されることになる。その上、作戦自体の成否が未知数で、仮に成功してもその後の先行きは不透明だ。それだけにこのまま拠点防衛に徹するべきという慎重派の意見もあるにはあったが、既に籠城して二ヶ月が経過し、その間僅かな蓄えを日々喰い潰すだけという無為な時間を過ごしてきたことを思えば、何らかの行動を起こしたいという彼らの心情もわからなくはない。小山田自身は軽挙な作戦実施には反対の立場だったが、このままでいくと内部分裂を引き起こしかねず、強硬派に押し切られる形で承認せざるを得なかったというのが正直なところだ。三佐が言ったのはそのことだった。

「仕方があるまい。いずれ糧食も弾薬も燃料も底を尽くのは目に見えている。そうなってからでは何をするにも遅いという彼らの主張は間違ってはいないよ。坐して朽ちていくのを待つだけなら何のために家族を見捨ててまで残ったかのと言われれば、返す言葉が見つからない」

 それは小山田も似たような境遇だった。彼もまたここからさほど遠くない場所に家族を残してきている。

「それもそうですな。実を言うと脱走してまで家族のところに戻ろうという者を引き留めるのは難しくなってきています。辛うじて現時点で大量の離脱者は出ていませんが、そうなるのも時間の問題と言えましょう」

 そう言う三佐も家族の消息がわからなくなっていることを小山田は承知していた。日増しに増えている脱走者ではあるが、ただし、彼らの全員が何事もなく家族の下に辿り着けているとは二人共考えていない。

「作戦には自分達だけが安全地帯に閉じ籠っているのを良しとしない思いもあるんだろう。散々、国民から厄介者扱いされてきた我々でもいざとなれば使命感に目醒めるものだな。最後まで自衛官でありたいという彼らの願いを無下にはできんよ。例えそれが大勢の犠牲を生むとわかっていてもな」

 それだけを言ってしまうと、小山田は再び野外に視線を移し、行き交う隊員達一人一人の顔を喰い入るように眺めた。既に作戦の実施は直接の上官から各員に伝えられているはずだ。当面の目標が定まって、どの顔も表面上は活気付いているように見える。だが、そこには当然ながら小山田より年配の者はどこにもいない。それどころか息子や娘と言っても差し支えのない若者達ばかりである。実際に小山田には今年二十四歳になる一人息子がいるが、それより年下とおぼしき者も珍しくはなかった。自分の跡を追うことなく民間企業に就職したその息子とは変事が始まって以降、連絡が取れていない。どこかで生き延びていてくれることを願うしかないが、徹底的にリアリストとして鍛え上げられた自衛官としての思慮がそれは厳しいことを告げていた。三十年連れ添った妻には知っても受け容れ難い現実だろう。もし彼女がまだ生きていて、小山田と話す機会があればの話だが。そして自分はこれからそんな息子と同年代の若者達を死地に送り込むことになるのだ。果たしてこの中の何人が無事に戻って来られるのか。神ならぬ身の自分には知る由のないことだが、その責任が粉ごうことなく己にあるのは間違いない。

(嘗ての帝国軍人もこんな気分を味わったのだろうか……)

 ふとそんな考えが頭をよぎる。

「まるで本物の軍隊だな」

 皮肉を込めてそう独り言ちた。何か? と訊ねた三佐に、何でもない、と答えてから小山田は踵を返す。これから計画を具体的な軍事行動に移す作戦会議が開かれるのだ。それに臨む小山田には奇妙な感慨があった。ここに居る誰もがまるでそうしなければ死んだ者に顔向けできないとでもいうように、おかしな熱意に突き動かされている気がしたのだ。もちろん、全員というわけではあるまい。しかし、それを止めようと言える雰囲気はもはや皆無だ。ごく一部を除き、その気勢は早くも駐屯地全体を覆い尽くそうとしていた。

 それはあたかも祭りの前日を彷彿とさせる賑わいだった。


「ヘリボーン主体の作戦となる。我々の役割は偵察レコンだ。作戦開始と共にUH─60に分乗して主力部隊に先行しつつ、情報を収集して本隊へ送る」

 倉橋二尉のややバリトン掛かった声が室内に響く中、集まった全員の視線がホワイトボードに貼られた資料に集中する。そこには当然ながら他の隊員達と同様に迷彩服3型と呼ばれる個人被服に身を包む絵梨香の姿もあった。変電所から脱出を果たして凡そ二週間。その足でここに連れて来られると、現地で臨時に編成された隊にも関わらず解散の指示もなく、今日まで通常待機を命じられていたのだ。もっとも解散したところで、絵梨香を始め皆戻る場所などどこにもない者達ばかりである。部隊が進発した駐屯地は既に壊滅したとの報告を受けており、原隊に復帰しようにもその隊自体が存在していないのだから当然と言える。かといって改めて一から編成し直すには時間も人手も足りていないとあっては、現状維持が妥当となるのもわからないではない。それは他の隊でも概ね似たようなものだった。とはいえ、既にひと月以上も寝食を共にしてきた間柄だ。今更、それを不服に思う者などいるはずもない。

「わかっていると思うが、即席で編成された隊だ。本来の所属や職務とはかけ離れた役割の者もいるだろうが、そこは各自で上手く調整してくれ。少なくとも昨日今日顔を合わせた仲じゃない。ひと月以上もの間、同じ釜の飯を喰った者同士。改まっての意思の疎通は不要だと考えている」

 その編成当初は三十二名いた小隊も、現在は二十名まで数を減らしている。四分隊だったものは三分隊を維持するのがやっとという現状だ。それでも小隊としての機能が失われたと考える者がいないのはお互いの顔つきを見れば明らかだった。

「具体的な作戦行動についてはこのあと富沢陸曹長から説明して貰う。知っての通り、彼はこの分野における専門家エキスパートだ。不明な点があれば忌憚なく訊くといい。班編成についてもこれまで通りとする。最後に全員に伝えておく。ここへ来るまでの約一ヶ月間、我々は初めての実戦を潜り抜けてきた。それは想定外の敵との極めて熾烈な戦いだったと言って良い。確かに失ったものも大きかったが、それにより得られたものもあった。今までのどんな過酷な訓練よりも貴重な経験だったと自負している。我々はもはや張り子の軍隊でもなければ無駄飯喰らいの税金泥棒でもない。必要とあらば躊躇いなく敵を斃すことのできる武装集団であることを忘れるな。銃よりスコップを持つ方が似合うなどと揶揄していた連中を見返してやれ。来る作戦では各自の一層の奮闘を期待する。以上だ」

 倉橋二尉の訓示に続いて富沢陸曹長から予定される作戦行動が示され、各班の役割分担と、作戦開始まではこれに沿った訓練が行われる旨が告げられた。絵梨香率いる第三分隊武井班は後方の索敵と警戒並びに他班の援護に当たる。

「こんな使い方、以前じゃ考えられなかったですけどね」

 ブリーフィング終了後、ところどころに細かな傷がある八九式小銃を手入れしながら木村陸士長が感慨深げに口にした。彼が言っているのは官給品である銃や銃剣の扱いについてだ。元々その立場上、規範意識が高い自衛隊では装備品の管理も他国の軍隊に比べて恐ろしく厳格である。例えば訓練中、銃の小さな部品一個失くしただけでも見つかるまで徹底的に捜索が行われる。それは訓練に参加していた部隊全員に始まり、それで見つからなければ駐屯地の全隊員で行う連隊規模、さらに発見できなければ近隣の駐屯地からも応援を呼んでの師団規模へと拡大していく徹底ぶりだ。そこまでいくともはや「草の根分けて」などという生易しいレベルでは到底済まされない。周辺一帯を文字通り草木一本残さず刈り上げての一大捜索となるのだ。隊員達はそのような事態を招かぬよう常日頃から黒いビニールテープや針金などを銃のあちこちに巻いて部品の脱落防止や補強に努めているが、さすがに実戦ではそんなことにまで構っていられる余裕はなかった。必然的に部品の紛失や破損が後を絶たなかったのだが、平時においては武器科の担当者にこっぴどく絞られるそれらの事態も信じられないことに帰還後、届け出た誰一人として咎められることはなく、あっさりと交換部品を受領できたのである。絵梨香に至っては現場で放棄したSWSの専用ケースが再度支給されただけでなく、付属品一式が予備パーツとして渡されるという大盤振る舞いだった。

「銃を壊して武器陸曹から労いの言葉をかけられたなんて俺、初めてですよ。夢でも見てるんじゃないかって思いました。私物のACOG(Advanced Combat Optical Gunsight=高度戦闘光学照準器)や前方握把フォアグリップを勝手に改造して使ってた連中も何も言われなかったそうです。そもそも駐屯地内で警衛隊でもない自分らが実弾を持って歩くなんてこと自体が以前からすれば信じられませんしね」

 それは取りも直さず現在が交戦中であることを意味していた。さすがに待機中に弾倉の装着までは許されていなかったが、常に実弾の携行が義務付けられ、非常時には各自の判断で発砲も許可されている。

「それにしてもこの作戦が終わったらどうなるんですかね?」

 既に慣れた手付きで銃を分解し終えた木村が部品の一つ一つを丁寧に専用クリーナーで磨き上げながら独り言のように訊いた。その隣で机の上にずらりと並べた弾倉に弾籠めを行っていた絵梨香が顔も上げずに答える。

「どうって救助した民間人を護ることになるんでしょ?」

 その手に持った八九式の弾倉はSTANAG(Standardization Agreement)マガジンと呼ばれる西側諸国NATO共通規格で、アメリカ軍のM16などと互換性が保たれている。即ち自衛隊員が米兵に自分の弾倉を供与したり、その逆に受容したりもできるということだ。弾丸が弾倉内に互い違いで二列に並ぶダブルカラム方式で、二十発用と三十発用の二種類あるうち三十発弾倉を使用しているが、絵梨香は余裕を見て二十八発程度の装填に留めている。半分はまじないのようなものだが、最大数まで詰め込むと作動不良を起こしやすいと考えられているためだ。それでも十本ともなれば合計二百八十発の五・五六ミリ弾を籠めるわけで、知らない者からすれば単に根気がいるだけと思われがちだが、実際は見た目以上のスプリングの抵抗もあってかなり骨の折れる作業である。だからといっていい加減に行えば弾詰まりジャムの原因にもなるので、手は抜けない。慣れない頃はすぐに押し込む親指が痛くなって泣きを入れたくなった。臨戦下の今でもこれだけの数を一度に装填することは稀で、終わる頃には指先の感覚が痺れて無くなってくる。

「そうは言っても計算じゃ弾も燃料も殆ど残りませんよ。食糧だって心許ない。元来自衛隊は戦略的備蓄を持ってませんからね。戦争が始まってから増産で対応するなんて軍隊、他じゃ聞いたことがありませんよ」

 木村がそう言って軽く肩を竦めて見せた。自衛隊の弾薬や燃料の備蓄が少ないとはよく言われる話だ。全力で戦闘をして保つのは三日とも一週間とも一ヶ月とも言われる。もっともそうした数字的な根拠はあやふやで実態は当然ながら機密事項であり、下っ端の絵梨香達が知る由はない。いずれにしてもこの場で不足していることは明らかである。恐らく十本ほどの弾倉なら一度の戦闘で消費し尽くしてしまうだろう。

「軍隊じゃなくて防衛組織だから余剰兵力を持たないのは仕方がないんでしょ。それに物資がないなら尚更、作戦後は何もできないじゃない」

 尚も顔を臥せたままで絵梨香は最後の弾倉に銃弾を詰め終わる。

「それはそうなんですけどね。今だって防衛していると言えば聞こえは良いですけど、実際のところは閉じ込められていると言った方が正確な有様ですから。でも、それがわかっていながら上が本気で民間人を保護すると思いますか?」

 漸く十本の弾倉に弾籠めを終えた絵梨香は仕上げに軽く隅を掌で叩いて、弾底がしっかりと弾倉内の壁に密着するよう整えた。これも動作不良を防ぐ目的である。些細なことだが、こんな僅かな手間でも惜しめばいざという時に命取りとなるのが実戦なのだ。一連の作業を完了した絵梨香がやっとのことで顔を上げ、どういうこと? と訊ねた。

「民間人の救助というのは名目で、幹部連中の本音は破れかぶれなんじゃないかってことです。どうせ放っておいても近いうちに戦闘集団としての自衛隊の機能は失われます。それがわからないほど上も楽観的ではないでしょう。だったらいっそのこと、最後にひと花咲かせようっていう腹積もりじゃないですかね。目的があれば組織としての体制も維持しやすいですから。実際、作戦の実施が決まってから脱走者は減っているそうですよ。若い連中にもその気になっている奴らが大勢います」

 あんたはどうなの? と絵梨香が訊くと、まさか冗談じゃない、という答えが返ってきた。

「俺を含めて少なくともこの場にはそんな話に乗せられて動くような奴なんていませんよ。散々、やばい目に遭いましたからね。正直、生き残るために隊にいるっていうのが本音で。やる気になってるのは基地に引っ込んでいて、碌に戦闘経験のない連中ばかりです。あいつらは戦闘が突発的だったから被害が大きくなったと思ってるんですよ。充分な対策を練っていれば勝てるはずだってね。でも、間近で戦った俺達の考えは違う。はっきり言って無謀です、今度の作戦は」

 それは木村に指摘されるまでもなく、絵梨香自身も薄々感じ取っていたことだ。ただし、若い木村と違い、絵梨香には上層部の苦慮も手に取るように想像できた。ここで集団の結束が弱まれば、途端に内部崩壊が始まるだろう。それだけは避けたかったに違いない。上層部が真に恐れるのはゾンビの脅威ではなく、規律を失った隊員達の暴走と言えよう。

 いつの間にか武井班の残りの若い隊員達、絵梨香に近い順から井上、北島、長野、小林の四人もそれぞれの作業の手を休めて二人の会話に聞き入っている。彼らの階級は井上と北島が二等陸士、長野と小林が一等陸士になったばかりだ。

「そこは倉橋小隊長や富沢陸曹長が考えていてくれるでしょう。あの人達は上からの命令だからって考えも無しに部下に突撃を指示するような真似はしないわ。それこそ無謀な作戦の渦中にも活路を見出せる人達よ」

 諭すような口調で絵梨香は答えた。倉橋にしろ富沢にしろ、とにかくタフな男達という印象が強いが、決して蛮勇を振るって悦に入るタイプではない。冷静に状況を見極めて対処できる柔軟さや慎重さを兼ね備えていることは、この一ヶ月間行動を共にしてきて実感している。この一連の出来事でもし絵梨香が神様に感謝することがあるとしたら間違いなくこの二人の下に就けた点に尽きるだろう。そう思うのは恐らく絵梨香だけではないはずだ。

「それはわかっています。むしろ、気になるのは作戦後のことで。作戦が上手く行くにしろ行かないにしろ、班長はずっとここに留まり続けるつもりですか?」

 どうやらそれがこの会話の主旨だったことに絵梨香は気付いた。ただ、真正面からそう問われると、何と答えて良いのか判断に迷うところだ。立場的には、当然そうする、と言うべきだろう。だが、彼らとは既に本音で語り合える仲になっている。だからこそ、木村も絵梨香に上官と部下という立場を超えてそう訊いたのだ。無論、それ以前に自衛官として国民の生命や財産を護る覚悟はある。そのための命令なら甘んじて受け容れるつもりだ。しかし、いつまでそう続ければ良いのか。それに作戦が功を奏して多数の民間人を迎え入れたところで、本当に彼らの助けになるかも疑わしかった。ますます深刻化する物資の不足に加え、慣れない軍隊式の生活や意識の違いから起こり得る様々なトラブルなど不安要素は数え上げたらきりがない。自衛官と言っても一個の人間であることに変わりない。民間人といえども相手が自身の生存を脅かすようになれば、果たして最後まで許容できるだろうか。良くて共倒れ、最悪の場合は──考えたくもない結末しか浮かんでこなかった。木村が言うように元々が天嶮の要害に護られたに過ぎないこの地に籠り続け、散発的に襲って来るゾンビを撃退してきただけの、外部のことなど無線のやり取りや生存者から伝え聞く以外に何も知らない中の人間が決めたことだ。大勢の仲間を失いつつ必死で生き延びてきた絵梨香達からすれば甚だ現状認識が甘いと断じざるを得ない面が多々ある。当然、そんな者達の口車に乗って折角繋ぎ止めた命を粗末にする気はさらさらなかった。もはや局地戦での一時的な勝利ならともかく、自衛隊の力でこの世界からゾンビを一掃できるなどと絵梨香は毫も考えていない。早晩、如何にして自分が生き延びるかを最優先に考えなければならない時が来るだろう。その際には身に付けた技術や手許にある装備が役に立ってくれることを祈る外ない。木村の問いかけはまさしくそうした抜き差しならない事態に直面した点を問うたものである。ここで彼らの信用を損なわないためには当り障りのない回答ではなく、腹を割って話す必要があると絵梨香は決意した。

「……いいわ、認める。確かにいつまでも隊にしがみ付いていようとは思わない。上が現実路線に切り替えて、何か打開策でも打ち出せるなら別だけどね」

 そんな策があるならとっくに用意しているだろうとは言うまでもなかった。絵梨香の返答を聞いて、木村が幾分ホッとした表情を見せた。元より絵梨香と木村達の間には規律に厳しかった村井二曹辺りが見れば顔をしかめるであろう砕けた雰囲気があったが、先程の木村の発言は単なる愚痴として看過できない、場合によっては上層部批判や脱走教唆とも受け取れる内容が含まれていた。絵梨香の申告次第では厳しい処罰を受ける可能性もあり、彼としてもそれなりの覚悟がいったのだろう。だが、絵梨香の本心を聞き出すためだけにこの話を持ち掛けたわけではないようだ。その証拠にここに居る者以外誰も聞いてはいないだろうに、一段と声のトーンを落として木村は話を続けた。

「それなら安心して打ち明けられます。ここだけの話ですが、この作戦が終わったら隊を抜けようと思っているんです。普通に申し出ても除隊は無理そうですからね。脱柵ということになるんでしょうが、まさかこの状況で捜索されたり、費用が請求されたりはないでしょう」

 木村が冗談めかして言ったのは、自衛隊における脱柵、即ち脱走について隊員なら誰もが知る制度のことだ。脱柵は入隊したての自衛官候補生が厳しい訓練に音を上げたり、環境に馴染めなかったりして逃げ出す例ばかりでなく、ベテランの陸曹ですら時に起こしかねない違反行為である。脱柵者とは通称で、無断で指定された居住地から居なくなったり連絡が付かなくなったりした者は正式には「所在不明隊員」と呼ばれる。人事上は欠勤扱いとみなされ、長く続けば懲戒免職もあり得る。ただし、それだけでは済まないのが、軍事組織たる自衛隊だ。まず所在不明隊員が発生した場合、直ちに同僚隊員や担当の教官・助教らによる捜索が始まる。当然ながら所属部隊を管轄する警務隊もそれに加わる。入隊時に提出を義務付けられている書類から実家や親類宅はもちろんのこと、友人知人宅、自宅に近い駅周辺、繁華街、ホテルや旅館といった場所まで虱潰しに探し回られるのである。そしてそれにかかった費用──交通費や飲食代、宿泊費などは全額本人が弁済しなければならない。実家が沖縄だろうが北海道だろうが、どれほど高額になっても同じだ。これが隊員達の恐れる理由であり、入隊直後からくどいほど脱柵だけはするなと言われる所以である。さらに官品を持ったままなら窃盗や横領、実際に銃剣が持ち出された例もあり、この場合は銃刀法違反などに問われる可能性もある。こうなれば不名誉な記録が残るだけでなく、立派な犯罪者だ。それでも脱柵が後を絶たないのは、正規の手続きでは辞め辛い雰囲気があるからなのは否めない。もっとも今の自分達なら脱柵ではなく、敵前逃亡と見なされるだろう。自衛隊法の規定では防衛出動もしくは治安出動命令を受けた後、三日以上任務に就かない場合これに当たるとされるからだ。罰則は七年以下の懲役または禁錮である。

 とはいえ、木村の言う通り、これが厳密に適用されることはまずあるまい。世の中が平穏を取り戻せたならあるいはあり得るかも知れないが、それなら喜んで処分を受け容れよう。だが、今はそんな根拠のない妄想より、現実的な対応にこそ心を砕くべき時である。絵梨香は続く木村の話に意識を戻した。

「うちの父親の在所が信州の山奥にありまして、親類が今も鄙びた温泉旅館を経営しているんです。最近じゃあ、秘境ブームとかで何度か雑誌なんかで取り上げられてるみたいで。もちろん、こうなったからには無事でいるとは限りませんが、それほど大きな旅館じゃないんで、客も従業員も数えるほどしかいません。万が一ゾンビに汚染されていたとしても俺達なら制圧するのはさほど困難じゃない。その上、これから冬にかけては深い雪に閉ざされるんで篭城するにはもってこいです。食糧も昔ながらの保存食をある程度溜め込んでいました。干した芋とか大根とか、そんなものですけどね。ひと冬を越すくらいなら何とかなるんじゃないかな。なのでそこに身を寄せようかと考えているんです。それで良ければ班長も同行しませんか? 実はここにいる連中にはもう声をかけて賛同を得ているんです。あとは班長さえ同意してくれたら武井班として行動できます」

 そう木村が言うと、井上達が悪戯の見つかった悪ガキみたいなバツの悪そうな表情で頷いた。どうやらこの中で知らなかったのは絵梨香一人だけだったらしい。一体いつから計画していたのか気になったが、それよりもまずは確認すべきことがあった。そのことを口にする。

「やろうとしていることはわかったわ。脱柵の是非は一旦脇に置くとして、肝心の部分が抜け落ちているわよ。そこまで一体どうやって辿り着くつもり? まさか歩いて行くなんて言わないでしょうね。さっき話してたこと、もう忘れてない? 私達は閉じ込められているのも同然だって言ったわよね。到達するまでに何千何万のゾンビに遭遇するかわからないのよ。仮に装甲兵員輸送車両APCが持ち出せたとしてもその全てを振り切るなんて不可能でしょう。それでも何とかなるなんて甘い見通しなら、そんな自殺話には乗れない」

 これまで幾人もの脱走者を出しながら、大量の離脱に至っていないのはまさしくこのせいだ。もし歩いてどこにでも行けたならとっくに自衛隊は瓦解していておかしくない。それほど地上を移動するのは危険極まりなかった。

 まさか、それほど向こう見ずじゃないですよ、と木村は答えた。

「実を言うと、参加者は俺達だけじゃないんです。航空科にちょっとしたツテがありまして、そいつらも同行することになっています。彼らが移動手段としてヘリを用意できそうなんで、実行可能と踏んだわけです。さすがに通常勤務じゃ監視の目が厳しいらしく持ち出すのは無理らしいですけどね。作戦の撤収に紛れてならやれるだろうってことで。決行が作戦明けになるのはそういう事情からです。俺達は駐屯地外のどこかで落ち合ってピックアップして貰うことになるでしょう。もちろん、燃料も充分に確保しておくそうです」

 なるほど、それなら道中の心配は無さそうだ。それでも絵梨香にはまだ二点ほど気になることがあった。

「このことを他に知るのは?」

「ヘリの連中を除けばここに居合わせる班員だけです。小隊内でも他には話していない」

「確認だけど、実施はあくまで作戦完了後なのね? 途中で任務を放棄するわけではなく?」

「はい。それは全員で話し合って決めました。俺達だって仲間に危険を押し付けて自分達だけ逃げ出そうとは考えていません。離脱するのはやるべきことをきっちり済ませた後です」

 そう聞いて、一先ずは作戦に支障を来すことはないだろうと絵梨香は安心した。仲間を置き去りにすることには違いないので、詭弁と言われればその通りだが、それでも後味が悪くなるのはなるべく避けたい。そういう意味では小隊内にも話を通すべきだろうと思った。ただし、それはギリギリまで待ってからでも遅くはあるまい。それまでにより多くの仲間を救う方法が提案できるならそれに越したことはないからだ。よって今の段階では安易に賛同しない方が良いだろうと判断して、考えておく、と答えるに留めた。

「とりあえず今聞いた話はこの場限りにしておくわ。それと参加するにしても幾つか条件がある。まず時機を見て小隊全員に打ち明けること。当然、参加を希望する者は残らず引き連れて行く。理想としては小隊が一丸となって実行できるのが望ましい」

「もし小隊長達が反対したら?」

「その時はその時よ。まさか戦前じゃあるまいし、その場でいきなり銃殺なんてことにはならないでしょう。百歩譲って仮にそうなってもあなた達だけは離脱できるようにするから安心していいわ。話には私一人で赴く。それからもう一つ。持って行くのは最低限の個人装備に留めるように。特に水や食糧は余分に持ち出さない。これも偽善と言えば偽善だけどね。でも現実的な意味合いもある。貴重な物資を大量に持ち出したとなれば万が一にでも追われるかも知れない。消えたのが部隊とヘリ一機だけならMIA(Missing In Action=戦闘中行方不明)扱いになるか、最悪バレてもわざわざ燃料を消費してまで追跡するメリットは薄れるわ。どう?」

 自分は甘い幻想を夢見ているだけかも知れない。脱走を利己的に捉えるなら他者のことなど気にせずに自分達が生き残るため取り得る最大の工面をすべきだろう。だが、誰にどう思われようと仲間の犠牲は増やしたくない。それが言い逃れであることは百も承知だ。しかしながら、そんな絵梨香の思いはあながち一人芝居ではなかったようで、木村達は互いの顔を見合わせると、やがて全員が頷いた。彼らの中にも葛藤はあったらしい。絵梨香の提案はそれを和らげる効果が幾分はあった模様だ。それでこの話は一先ず終わった。どの途、全ては今度の作戦に生き延びてみてのことになる。果たして自分はそうなるだろうか、と絵梨香は暫し自問して、考えても無駄なことに気付いた。そもそもが自衛隊においては誰も経験したことのない作戦になるのは間違いないからだ。はっきりしているのは成功しても失敗しても組織立った反抗としてはこれが最後の機会になるだろうということだけだった。

 間もなくそれは始まる。


第二部〈戦闘篇〉終わり 第三部〈避難篇〉へ続く

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