12 取引

 無論、智哉に積極的な人助けの意図があったわけではなかった。道路整備の情報を流したのは騒音を聞きつけた生存者がやって来る傍迷惑を少しでも防止したかったためだし、自宅に目印を掲げるよう指示したのは住人との不用意な遭遇を極力避けると同時に、必要とあらば素早く訪ねられるよう予め所在を把握しておきたかったからである。特に戸建て住宅ではシャッターや雨戸が開いていたり、窓ガラスが割れていたりすれば無人なのはわかるが、そうでない場合は生存者がいるか外からは見分けが付かない。厳重に戸締りされているからといって、籠城しているとは限らないためだ。避難の際に閉めただけかも知れないし、家の中で既に死んでいるということも充分に考えられる。SOSのメッセージが張り出されている場合も同様だ。家の周囲をゾンビが彷徨いているかで死体の有無を知る一応の目安とはなるが、必ずしも外に死臭が洩れているわけではない上、腐敗が進めばそれも当てにはならなくなる。調べたところ、ゾンビが死体に群がるのは死んだ後の凡そ三十時間前後、医学的には死後硬直の緩解が始まる頃までで、それ以降は食欲を失くすようだ。従って確実に生存者を見つけるにはいちいち訪ねて回らなければならないがそれも面倒なので、全員が放送を聴いているわけではないだろうが、何人かが呼びかけに応じれば探す手間が省けて楽できると考えた。とはいえ大して期待もしていなかったので、智哉にしてみれば成果が上がれば儲けものといった程度のことだ。手紙を通じてやり取りしたのも直接交渉するまでもないと思ったからに他ならない。

「──繰り返しお伝えします。外は依然として大変危険な状況が続いています。迂闊に外出などなさらぬよう注意してください。先程お知らせした通行可能なルートはどうしてもその場に留まれずやもなく避難せざるを得なくなった場合にのみ参考としていただくようお願いします。また、復旧作業は非常に危険な中で行われているため、見かけても決して近寄らないように……」

 ミニFM局の放送は概ね智哉の要望通りに行われた。これで放送を聴いた人間が智哉を見かけても軽はずみに外に出るようなことにはならないだろう。念のため、道路の復旧作業は引き続き夜間に行うことにして、ローダーの運転席は黒い布で覆って姿を隠すようにしてある。放送内容に満足すると、智哉はカーラジオのスイッチを切った。これ以降の聴取は美鈴に任せている。何度か聴いて情報に目新しさはないとわかったからだ。関係者と接触はしてみたものの、放送自体への関心は既に薄れていた。よって要求は撥ね付けられても一向に構わなかったし、少なくとも自分が四六時中気にかけていなければならないような価値はないと判断した。時折、美鈴からの報告を聞けば充分だった。

 その美鈴達については当面の間、引っ越し先のスーパーに放置しておく方針でいた。もちろん、定期的に食糧を届けたり、これからの生活に必要になりそうなものはその都度運び込んだりはしていたが、用が済むとさっさと退散し、寝泊りも智哉は自分のマンションで行っていた。指示もラジオを聴く以外はこれといってしていない。美鈴達が自発的にどこまでやれるのかを見極めるのが目的であり、智哉が馴れ合っていないことを示す意味もある。特に家族ごっこのような関係や民主的な共同体を築く気のない智哉にとって、最初に立場の違いを明確にしておくことは重要だった。三人にとって智哉は必要な存在だが、智哉にとって三人は居ても居なくても問題ないことを理解させなければならない。役に立たなければいつでも放り出せる、距離を置くのはそのことをはっきりと自覚させるためでもあった。

 もっともそればかりが理由でなかったのも確かだ。実際にやるべきことが山積していて三人に構っていられなかったという裏事情もある。智哉は手始めにスーパーの一階を再調査して、とっくに耐え難い異臭や、鼠や害虫が湧く温床になりかけていた店頭の食品の撤去に取り掛かった。身体に匂いが染み付かないように胴長を履いた上からレインコートを着込み、腕には厚手のゴム手袋を嵌めた完全防備で臨む。さらに臭気除けのガスマスクとゴーグルが必須だった。それでも腐敗したり蛆が湧いたりした食品に触れる嫌悪感はゾンビ相手のグロテスクさには慣れた身からしても格別なものがあった。ともすればマスク越しに吐きそうになるのを懸命に堪えて何とか店頭の食品を回収し終えると、トラックヤード脇の生ごみと共に、近くの空き地に予めユンボで掘っておいた壕に運んで埋めた。本来ならこうした作業こそ美鈴達にやらせたかったが、それには折角番犬代わりに置いた店内のゾンビが邪魔である。引き続き外部への備えを維持するには面倒でも智哉が自分でやるしかなかった。その後、バックヤード内も整理整頓して、既に冷凍済みだった肉や魚や加工品は幾つかの大型冷蔵庫に保存し直す。それらはいずれ停電することを念頭に、バッテリーと自家発電機に繋ぎ自動で切り替わるようにした。こうした冷凍肉は更なる長期保存を見据えて設備が整い次第、燻製や塩漬けに加工するつもりだが、それは美鈴達にやらせることになるだろう。これらに米や缶詰、日保ちのする菓子類などを合わせれば、最終的に四人でなら優に一、二年は暮らしていけそうな量の食糧があった。できることならあと数軒、ここと同じように他のスーパーやデパートの食料品売り場を整理しておきたいと智哉は考えている。

 また店舗に併設された立体駐車場にも手を入れ、途中の防火シャッターを全て下ろして屋上までの通路を塞いだ。出入りの際にはその度毎にシャッターを開閉しなければならないという手間はかかるが、これにより美鈴達に屋上を開放できたメリットは大きい。暗い室内に閉じ籠ってばかりでは精神衛生上良くないだろうし、折を見て土やプランターを運び込めば三人に家庭菜園のようなこともさせられるはずだ。こうしたことに加えて店内と立体駐車場の何ヶ所かに監視カメラを設置し、無線LANを経由して、手持ちのタブレット端末で見られるようにした。ただし、監視映像は美鈴達も目にすることを考慮して、場所は出入口付近などに限定してある。ゾンビのいる店内を智哉が自由に動き回っていてもバレないための配慮だ。

 これらの作業を都合三日かけてやり終えて、その後は引き続き真夜中の道路整備に精を出し、合間にラジオ局に食糧を届け、たまに美鈴達の下に顔を出すという日が何日か続いた。それと並行してゾンビの研究も重ねていく。新たに判明した成果としてはゾンビの記憶に纏わるものがあった。やはりゾンビには生きていた頃の記憶がある程度は残っているらしいと推察された。根拠となったのはゾンビが居坐る家を幾つか調べた結果、持ち物などから大半がそこの住人と判明したことによる。当初に予想していたように、ゾンビは無作為に上がり込んでいるわけではなく、自分に所縁のある場所を選んで留まっていたわけだ。さらに詳しく調べていくと、その行動は大まかに三種類のパターンで分類できることがわかった。一つは自宅や職場に居続け、基本的にそこから動かない引き籠り型。獲物を見つければ当然襲いかかるが、その後は再び元の場所に戻ることを原則とする。智哉が調べた中では大半のゾンビがこれに該当した。試しに半日ほど一緒に過ごしてみたが、このタイプは獲物を察知しない限り本当に何もしようとはせず、日がな一日ぼんやりと佇んでいるだけのようである。執着する場所の決め手となるのが何かは現時点ではわかっていない。中にはまったく関係のなさそうな場所に居坐り続ける奴もいるので、過ごした時間の長さや生前の馴染み深いところに限るというわけでもなさそうだ。

 次にあまり数は多く見受けられないが、たまに街中で遭遇する、智哉が徘徊型と名付けたタイプが存在する。これはとにかく決まったルートを巡回や往復することが特徴で、調べても確証を得るまでには至らなかったが、どうやら通勤や通学の経路を辿っているものと考えられた。日本以外の他国の現状は不明なので、これが国内のみでの現象なのかは定かでないが、もしそうなら死んでまで仕事中毒ワーカホリックを発症する日本人に哀れというより空恐ろしさを感じるのは自分だけだろうかと智哉は思う。引き籠り型との違いが何によって生じるのかはわかっておらず、継続して調査が必要とした。

 残る三つ目は、行動原理が謎の迷走型、と智哉はノートに書き込んだ。このタイプが発見できたのは偶然による。たまたま別々の場所で見かけたゾンビが目立つタトゥーを入れた奴だったので同一個体と見分けが付き、徘徊型にしてはそれぞれの地点が離れ過ぎていたため、気になって暫く後を付けてみたところ、特定のルートを辿っていないことが判明したのだ。どこかに還るでもなく、決まった経路を行き来するわけでもない。まさに自由気ままに動き回っているとしか思えない行動だった。生憎とずっとストーキングしているわけにもいかなくて追跡は丸一日で断念せざるを得なかったが、そうしたタイプがいるとわかっただけでも収穫と言えた。類型を過信するなということだ。今の段階で迷走型と認定できたのはその一体だけだが、イレギュラーなゾンビの存在は常に頭の片隅に留めておくべきだろう。

 そこからはゾンビの行動の中でもとりわけ特異なドアの開閉について調べた結果をノートにまとめ上げていくことになった。これに関しては特に智哉なりの仮説を立て、実証実験も行っている。そのやり方としてはまず引き籠り型のゾンビを外に出し、ドアを開閉して元の場所に戻れることを確かめた上で、別の家に連れて行く。そこでもドアを開けられるかを検証した。普段、馴染みのあるドア以外でも難なくやれるようであれば、ゾンビは一定の知性を備え意識的にそれを行っている可能性が強まる。そうなると今は開けられないドアでもいずれは開閉方法を見つけるかも知れず、施錠していても安心できなくなる。だが、これは結果から言えば杞憂だった。実験では元の場所にあったドアに近い種類のものなら開けられるが、開き方が異なったり取っ手の位置や形状が大きく違っていたりした場合は上手くいかなかったのだ。中でも引き戸と開き戸の区別や押し引きの方向が逆になった時にはまったく対処し切れていない。そこから得た結論としては、ゾンビは知的な思考によってドアを開閉しているわけではなく、生前の行動様式に基づく一種の条件反射としてそれを行っている。つまり、ドアの前に立つと半ば自動化した反応で身に付いた習慣を実践しているに過ぎないとの確信だ。その動作とドアの種類が合致していれば扉は開くし、違っていれば無益な仕草だけが繰り返されるというわけである。車の運転でも毎日、同じ道を通っていると、どこを走ったという憶えがないまま気付けば目的地に到着していたという経験はドライバーなら誰にでもあるのではないか。それと似たようなことかも知れない。この辺りの話は脳の研究の中でも主に大脳生理学という分野が関わっているみたいだ。智哉は門外漢には違いないが、専門書を少しばかり読み齧った知識で言えば、人の記憶には大別すると視覚や聴覚からの情報をほんの数秒だけ留めて置ける感覚記憶、数分程度の保持は可能だが必要なくなれば即座に消去される短期記憶、長いものでは一生忘れることのない長期記憶というものがあるという。それぞれ脳の中でも視床や大脳前頭野、海馬、大脳新皮質といった異なる部分が影響を及ぼすため、そのいずれかが失われたり傷ついたりすることで、様々な記憶障害を引き起こすとされる。ゾンビもその一部が活動を続けることでこのような特異な行動が見られるのではないか、というのが最終的に智哉の導き出した解答だ。そう考えると、ドアは開けられるのにサムターンは回せない理由も何となく説明できる気がする。要するにゾンビは決まった行動を経験則としてなぞることはできるが、選択的に何かを行ったり判定したりといったことが苦手もしくは不可能なのだ。条件によって最良の手順を選ぶといった複雑な行動はまず取れないと見て間違いない。鍵を開けるという行為の場合はまず施錠されているかの判定を下しその結果如何によって次の行動が分岐するわけだが、そうした思考経路を持たないゾンビは鍵が掛かっていようといまいと常に同じことしかできないのである。このことは他の行動においても見て取れた。例えばゾンビが人間を襲う時、一旦標的を定めると、すぐ近くにより楽に狙える相手がいるにも関わらず、見向きもされないというのは度々目にする光景だ。何らかのきっかけで標的がリセットされない限り、他の選択をするというのがたぶんあり得ないのだろう。エレベーターが使えないのも同様の複雑さが理由と考えられる。このことからどれほど簡易な構造でも鍵を掛けることは有効なゾンビ対策になり得る。

 もっともここまでの推論はあくまでゾンビの行動学に基づくものだ。実践的な見地ではまた別となろう。何しろ、骨が折れようと手足が千切れようと、頭さえ無事なら平気という連中だ。怪我を恐れての力加減や死への臆面などないも同然で、窓ガラス程度はもちろんのこと、強度によっては肉体の損傷もお構い無しにドアや壁を打ち砕くくらいのことは平然とやってのけるに違いない。ここで問題となるのが、日本の家屋における防犯の在り様だった。多くの住宅ではそのような力づくの侵入は想定されていないのである。理由は単純で、日本の治安がそれだけ良いからだ。警察機構は優秀で、通報すればどこであろうとたちどころに駆け付けてくれる。休日でも真夜中でも関係がない。言うなればあらゆる犯罪の抑止はこの優れた警察力に依存しており、防犯対策はそれまでの時間稼ぎで在りさえすれば良い。逆に言うと、圧倒的な数で押し寄せる暴徒や強力な武装を施した集団、時間的制約から解き放たれた侵入者への備えは無きに等しい。ましてや警察が無力化する事態を本気で考えた者などいただろうか。そうした観点からして、この日本では真に籠城に適した建物は皆無と言えよう。国会議事堂や首相官邸、日本銀行のような国の重要施設でさえ、護る者がいなくなれば単なる建造物に過ぎない。

(逆を目的としたところならあるけどな)

 智哉が思い浮かべたのは入るのではなく出るのに難しい施設、即ち刑務所のような場所のことだ。それなら外部からの侵入も恐らく困難で、籠城するにはうってつけかも知れない。ただし、住居としての快適さは望むべくもないだろう。わざわざ智哉が好んで拠点とするまでもなかった。元よりそこに居た人間が立て籠もっている可能性もなくはない。

(元々の住人か……それって犯罪者ってことだよな。生き残っているにしてもあまり関わりになりたくない連中には違いない)

 他にもホテルや病院などは一見すると開放的な玄関口や大きな窓などが籠城には不向きに思えたが、開口部のある一階を放棄する前提なら意外と内部は堅牢で持ち堪えるのに適していると言えなくもなさそうだ。何よりも物資や設備が存分に利用できるのは他に替え難い利点である。これまでは目立つことを警戒してそうした人が集まっていそうなところはなるべく近寄らなくしていたが、そろそろ本格的な探索に乗り出しても良い頃合いかも知れない。

 そこまでノートに書き記して手首に嵌めた新品の腕時計、ルミノックスのミリタリー・ウォッチに智哉は目をやった。アメリカ海軍特殊部隊SEALSや警察特殊部隊SWATを始め、多くの軍や政府機関に採用実績を持つこの腕時計最大の特長は、何と言ってもその視認性の良さにある。ラテン語で「明るい夜」を意味するブランド名が表す通り、独自の発光性化合物を使用した自己発光型イルミネートの文字盤は、電源の必要やバックライトボタンを押すことなく一般的な蛍光型腕時計と比較して約百倍の光度を二十五年以上にも渡って維持し続けるという触れ込みだ。もちろん、智哉はこれを自分で買ったわけではなく、誰にも咎められないのを良いことに勝手に拝借したに過ぎない。今はその針が夕方近くを指していた。最後に美鈴達の下を訪れてから四日以上が経っている。そろそろ痺れを切らして待ち構えているに違いない。

(今日辺り顔を出しておくか。ついでにアレの設置もやってしまおう)

 智哉はノートを閉じると、車に必要な荷物を積み込んで美鈴達の元へと走らせた。道すがら目印を掲げた家がないか見て行くが、今のところ、それらしきものは見当たらない。放送を聴いていないのか、生存者が残っていないのか、はたまた信用されていないのかは謎だ。

(こちらの邪魔さえしなければ別にいいんだが……)

 スーパーの敷地に到着すると、慣れた様子で立体駐車場を上がって行く。途中、何ヶ所かで防火シャッターを開けて、漸く屋上に辿り着いた。建屋の近くで車を降り、エレベーターホールの前を横切って、倉庫に通じるドアの前に立つ。鋼鉄製の頑丈な扉をノックして、中からの応答を待った。暫くして向こうから、誰ですか? というやや緊張した声が聞こえた。

「俺だ。岩永だ」

 そう答えると間もなく内側から鍵が開けられる。監視カメラで智哉の姿は見ているはずだが、それでも安堵した表情の美鈴が顔を覗かせた。手には智哉が渡したコンバットナイフが鞘に納まった状態で握り締められている。当然ながら鍵は智哉も持っているが、通常はこのようなやり取りを経て出入りすることが決めてあった。武器を持たせている関係上、いきなり入り誤って攻撃されないための予防措置であり、異変がある場合は扉を開ける前にそうとわかるように、である。そのための簡単な符牒も取り決めていた。例えば向こうが「誰ですか」ではなく、「どちら様ですか」と訊けば侵入者がいて脅されているサインとか、こちらが苗字ではなく名前で答えればすぐにドアから離れて隠れろという意味とかそういうことだ。今回のやり取りに不自然な点はなかったので、すんなりと智哉は中に入った。不在の間に変わったことは? と訊くと、特にありません、という明瞭な返事が返ってきた。その足で智哉は倉庫を改装した部屋には寄らずに、バックヤードを見て来る、と美鈴に言い残し、すぐさま下の階に向かう。バックヤード内の移動は基本的に安全だが、美鈴達には余程の場合を除いて階下には行かないよう指示してある。売り場とバックヤードを隔てるスイングドアはあまり頑丈とは言えずに、美鈴達を見つけたゾンビが殺到して来れば破られないとも限らないからだ。智哉一人ならその心配はいらないが、それを知らない美鈴は不安げな表情で見送った。一応はその身を案じてくれているらしい。

(まあ、いなくなれば喰いもんの調達にも困るわけだし、その程度には大事に思われているんだろう)

 そんな皮肉混じりの感想を抱くのも美鈴が智哉に対して、どう思っているのかが今一つはっきりしないためだった。信用されているのか警戒されているのか、好かれているのか嫌われているのか、それがよくわからない。一応、これまでのところは平気で外を出歩く智哉を不審がる様子は見られないが、それが本当に何も気付いていないのか、それとも気付いていて知らないふりをしているだけなのか、そのどちらとも受け取れる。

(気付かないふりをしているならずっとそうしていてくれよ。だったら見捨てなくて済むんだからな)

 美鈴にとっても追及するメリットがない以上、疑いを抱いてもすぐにどうこうするということはないだろうが、大勢に智哉の秘密が知れ渡る事態だけは何が何でも防がなければならない。実際にどこまで胡麻化し切れるものなのか、智哉にも自信はなかった。何処かに智哉のような特異体質に頼らず自力でゾンビをやり過ごしている者がいれば自分もそうだと主張できるが、生憎とそんな相手にはまだ遭ったことがなく、そもそもいるのかどうかも疑わしい。それに万が一そんな奴がいたら、容易には言いなりにならないだろうし、敵に回せば厄介なこと間違いあるまい。そう考えると、迂闊に接触するのも躊躇われる。

 美鈴の目下の悩みは智哉以上に深刻だった。今も智哉が階段を下りて行くのを複雑な心境で見守りながら、実は対応に苦慮していた。既に智哉と知り合って二週間近くが経とうとしている。それにも関わらず、未だに智哉が何を考えているのかさっぱり理解できないためだ。引っ越しにしてもてっきり智哉との共同生活が始まるものとばかりに考えていたが、そうではなくて、今日のようにふらりと現れては用を済ますとさっさと帰ってしまう。初めは年頃の娘である自分に気を遣ってのことかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。時折ではあるが智哉が美鈴に対して示す態度は遠慮などとは無縁の、かといってあの金髪の若者や、そこまでいかなくとも本質的には同種と言えるこれまで周囲の男達が自分に寄せてきた好意と下心をないまぜにした関心とはまた違ったものだった。端的に表せば酔狂とでも言えば良いだろうか。大して動物好きでもないのに気紛れで拾ったペットを扱うようなものである。餌は与えるが、可愛がるでも命令するでもなく、放ったらかしにされているといった具合だ。先程のことで言えば美鈴としては精一杯愛想を良くして出迎えたつもりが、一顧だにされることもなく、ただ必要なやり取りをしただけで終わってしまった。だからと言って冷淡に突き放されたわけでもない。万事がその調子だ。美鈴の経験上、今まで異性にそのような態度を取られた憶えはない。程度の差こそあれ、男は皆、僅かでも好かれようと大仰に接して来るか、わざと気のない素振りで興味を惹こうとするかのいずれかに当て嵌まったので、どうでも良く振る舞われることに慣れていなかった。故に無意識だが、美鈴の自尊心は大いに傷つけられた。そんな驕慢なプライドがあったことすらこれまで自覚しておらず、知った時には気恥ずかしさで智哉とまともに目も合わせられなくなったほどだ。だが、それだけならまだ己惚れていたということで済ませられよう。そうかと思うと、美鈴だけのためではないにせよ、引っ越しの時のようにあっさりと助けてくれる。それも命懸けで。単なる正義感からとは思えなかった。そんな相手にどう接して良いのかわからずに混乱するのは十七歳の少女でなくとも無理からぬことと言えた。

 智哉としたら美鈴に異性としての関心を一片も抱かなかったかといえば、無論、そんなことはない。ただ、焦らなくてもどこにも行けやしないという余裕と、他にやるべきことがあって今すぐどうこうしようという気がないだけである。それに、女というなら今の智哉の立場であればどんな相手でも従わせられよう。美鈴のような如何にも経験の乏しそうな少女を相手にしなくとも、もっと性的に円熟した女を見つけた方が面倒も後腐れもなく愉しめるに相違ない。美鈴にはいずれ相応の見返りを求めるにしてもその際には説得がいるだろうからもう暫く先であっても構わない、というのが現在の智哉の心境だ。今はそれよりも生活の基盤を整えるのが大事であり、とりあえずは今晩の食事の確保が先決だった。そのためまずは一階に下りて、清潔になった食料品売り場から適当な材料を見繕うと、それらを持ち智哉は四階の居住空間に戻った。そこでも美鈴との間にさしたる会話は生まれない。智哉の方でもこんな立場でなかったら気の利いた言葉の一つでもかけて歓心を買おうとするんだろうな、との思いがありつつ、今日は俺もここで一緒に食事をしていく、と告げただけだった。部屋には小型の冷蔵庫などと共に米櫃や炊飯器も持ち込んであったので、手にしてきたのは日保ちしそうにない加工品を中心とした副食のみだ。長期保存に向かない食べ物を残しておいても無駄になるだけなので、ここのところかなり豪勢なメニューが続いている。こんな贅沢ができるのも今のうちだけだろう。これまで台所に立ったことがないという美鈴のために、智哉は時間を割いて幾つかの手料理を教えてやった。といっても材料や調理法が限られているので煮たり焼いたりというシンプルなものばかりだが。それに加えて智哉が不在の間はレシピ本で勉強しているらしく、危なっかしい手付きながら最近では簡単なものであれば指導無しで何とか作れるようになってきている。その美鈴に食事の支度を任せ、出来上がるまでの時間を利用して別の階を見回ろうと部屋を出て行きかけた智哉は、突然背後から呼び止められた。

「あ……あの、すみません」

 振り返ると、何やら思いつめた表情の美鈴が立っていた。

「何?」

「下の階に行くんですよね? 日用品売り場にも寄られますか?」

 そのつもりだったが、質問の意図が不明瞭だったために智哉は黙っていた。もしかしたら疑念を持たれただろうか、という心配が頭をもたげる。そうだとしても言い訳を考えるのも面倒だ。バレたのならいっそのこと見捨てるか、という選択が一瞬、脳裏を掠めた。智哉が答えあぐねていると、それを気分を害したとでも勘違いしたのか、慌てて美鈴が付け加えた。

「あっ、ごめんなさい。もしそうならお願いしたいことがあっただけなんです。でも、図々しいですよね。岩永さんが大変なのは承知しているのに。今言ったことは忘れてください」

 何だ、そんなことか、と智哉は内心で胸を撫で下ろした。必要とあらば美鈴達を切り捨てるのに躊躇いはなかったが、後味が悪くなることは避けられまい。そうせずに済むならその方が良いに決まっている。何を頼むつもりなのかは知らないが、秘密が露見したのでなければ問題はなかった。いいよ、どうせついでだ、と智哉が言ってやると、美鈴はホッとした様子で僅かに顔を綻ばせた。

「それで頼みたいことっていうのは?」

「それは、その……」

 今度は言い澱んで何故か視線を逸らす。

(何なんだ、一体……? まさかブランドバッグが欲しいとか言い出すわけじゃないだろうな)

 暫く待ってみたが、一向に話を続けそうにはなくて、智哉は徐々に苛立ちを覚え始めた。もう放っておくか、と思いかけた時、その気配が伝わったのか、やっとのことで美鈴は顔を上げ、意を決した表情で口を開いた。

「……生理用品を持って来て貰えないでしょうか?」

 一気にそう話すと、余程口にするのが恥ずかしかったようで、耳まで真っ赤にして俯いた。それで智哉も漸く先程からの美鈴の態度がおかしかったことに合点がいく。確かに年頃の若い娘からすれば男の智哉には言い出しにくかったのだろう。同時に女性にとっては深刻な問題でも智哉からすれば無関係なことだったので、言われるまで完全に失念していたことに気付く。

「……わかった。探してみるよ」

「それと下着なんかも手に入れて貰えると助かります。一応、着替えはあるんですけど、ここだと洗濯もままならなくて」

 生理中だと知られて逆に開き直ったのか、ここぞとばかりに美鈴はそう畳みかけてくる。どうせ恥ずかしい思いをするなら一気に片付けてしまえということのようだ。洗濯物を簡易キッチンのシンクで手洗いしていることは智哉も承知していた。たまに屋上にシャツやズボンが干してあるのを見かけるからだ。ただ下着だけはこれまで目にしたことがない。智哉の目に付かないように乾かしているのだろうと思った。それが追いつかなくなってきたに違いない。元々生活に必要なものは順次用意していくつもりで、美鈴達にも意見を訊こうと思っていた矢先だ。この際、ここで訊ねておくことにした。美鈴にしてもこの先何かを手に入れるには智哉を介さないわけにいかない以上、いつまでも恥ずかしがってはいられまい。

「いいよ。それも何とかする。あと洗濯機と乾燥機は屋上に置くようにしよう。他に必要になりそうなものがあればリストにまとめておいてくれ。おいおい揃えていくから」

 それ以外に今いるものはあるか、と訊くと、美鈴は首を横に振った。それで再び出て行きかけて智哉は急に思い出すと、立ち止って美鈴に告げた。

「そうだ。言い忘れていたが、風呂はこれから設置するからな。今日はそのために来たみたいなもんだ。風呂、入りたいだろ?」

(お風呂に……入れる?)

 予想もしていなかった智哉の言葉に、美鈴は一瞬耳を疑った。入浴などとっくに諦めていて、シャワーもない生活にもすっかり馴染んできたところだったからだ。それが風呂に入れるようになると言う。聞き違いではないかと問いかけて、確かにそう言われたと思い返す。美鈴は嬉しさの余り思わず跳び上がって智哉に抱きつきそうになり、慌てて手を握るに留めた。それでも興奮は隠し切れず、今だけは智哉への苦手意識もどこかへ吹き飛んだ。この感激に比べたら先刻味わった恥ずかしさなど急に取るに足らない出来事だったと思える。そんな美鈴の豹変ぶりを智哉はどこか醒めた気分で眺めていた。

(ずっと身体を拭くだけだって言ってたからな。余程嬉しかったと見えるが、それにしてもこのはしゃぎっぷりは何だ? 確かに言い出したのは俺だが、今がどういう状況なのか本当にわかっているんだろうか?)

 自宅に潜んでいる生存者なら確かに現時点でシャワーや風呂に事欠くことはないだろう。だが、それは水道や電気が通じているうちだけだ。それらが途絶えてしまえばどうなるかは火を見るより明らかである。人間は物を食べなくても数週間は生きていられるが、水無しでは数日が限度と言われている。今は生き残っている者でも忽ち風呂どころではなくなり、一気に大勢が死ぬことになりかねない。その中に自分達の肉親や友人が含まれない保証はどこにもない。それを思えば幾ら嬉しかろうと風呂如きで一喜一憂する気にはならないはずだが──。

(たぶん、感覚が麻痺してきているんだろうな)

 と智哉は思った。自由に表に出られないことを除けばこいつらほど現状で恵まれた環境にいる者はそう多くないはずだ。安全に眠れる場所があり、食事にも不自由しない。その上、風呂まで用意してやろうというのだ。考えようによっては以前の世界なら高級ホテル並の贅沢な暮らしと言える。しかもそれらは自分達が危険を冒し苦労した上で手に入れたものではない。全て赤の他人である智哉が用意したものだ。それに対する見返りはというと、多少の感謝の言葉が投げかけられる程度に過ぎない。これでは到底釣り合いが取れているとは言い難いだろう。しかも外の世界に目を向けさえしなければ、自分達はずっと傍観者でいられる。罪悪感を抱く必要もないわけだ。些か偏向した見方と自覚しながらも智哉はその印象を拭えなかった。それなら他人に生殺与奪を握られても文句は言えまい。

 無論、そういう智哉にも後ろめたさがないわけではなかった。自分はゾンビに噛まれたものの、何の拍子か発症を免れて襲われなくなったという幸運に恵まれただけである。才能や努力の賜物でないことは言うまでもない。その上、こんな奇跡に恵まれでもしなければ、そもそもこのように大胆不敵でいられるはずもなかった。本来の自分はこれまでの人生が指し示す通り、凡庸さを絵に描いたような生き方しかしてこなかったのだ。普通ならとっくに死んでいるか、生き延びていたとしてもその他大勢の一人という存在だったに違いない。それが何をどう間違えたのか美鈴のような美少女を助け、あまつさえその命運まで支配しようとしている。ここまで来たらやるべきことは一つしか思い浮かばない。せいぜいこの状況を利用して好き勝手に生き、上手くいかなくなれば死ぬだけだ。何のことはない。最期は皆と同じ結末を辿るのだ。それが多少長く、面白くなるかならないかの違いでしかない。そう考えると自分が何故、この目の前の若くて魅力的な娘に冷静でいられるのかが少しは理解できる気がした。

 そこまで思考を巡らせて、幾分考えが脱線したことに気付き、智哉は現実に立ち返るとやや事務的な口調で美鈴に訊ねた。

「ところで訊き忘れていたんだが、生理用品はナプキンでいいのか? メーカーや種類に注文があるなら聞いておくが」

「あ……ナプキンでいいです。種類はできれば長時間用のものを……」

 わかった、と短く答えて智哉は部屋を出る。階段を下り、二階のバックヤードを抜けて、売り場に足を踏み入れた。ざっと見回って異常がないことを確認すると、日用品のコーナーに向かう。頼まれた生理用ナプキンを探した。ひと口に長時間用と言ってもソフト、スリム、極薄、ロング、ショーツタイプ、立体ギャザー、羽根付き、羽根無し、普通の日用、多い日用、特に多い日用、普通の日の夜用、多い日の夜用、特に多い日の夜用、ついでに長時間と明記されていないものも含めると、とても選び切れそうになく、一応あらゆるタイプの商品をピックアップしてショッピングカート一杯に詰め込んだ。

(妹の分も必要になるだろうしな。これで当分は保つだろう)

 しょっちゅう生理用品を取りに来るというのも妙なので、そのようにした。使い終えた汚物は屋上に焼却炉を設置して、他の可燃物共々自分達で処分させれば良いだろう。

 次いで女性物の衣料品売り場も見て回り、こちらも目についた下着類を適当にカゴに放り込んでいく。そういえばブラジャーのカップサイズを訊かなかったことに気付き、どうしたものかと暫し迷うが、携行していた連絡用のトランシーバーは誰かに傍受される危険があるため緊急時にしか使わない取り決めなので、見たところAかBだろうと勝手に解釈して、アンダーバストとの組み合わせで何種類か持って行くことにした。妹にはジュニアサイズのスポーツブラを用意する。普段ならなかなか立ち入ることも憚られる女性用下着売り場で物色している姿は、男性諸氏によっては羨ましくも見えるかも知れないが、元より中身の方が気になる智哉にすれば単なる派手な布切れが並んでいるだけの景観に過ぎない。それで興奮する方が難しかった。美鈴が身に着けると想像してみても同じことだ。ただ色は自然と白やベージュのベーシックなものに落ち着いた。自分の趣味を押し付けていると勘繰られたくないからだった。別の場所で優馬のために男の子用下着も手に入れ、靴下やタオルも揃えて回る。途中、婦人服売り場の前を通りかかった際には、洋服も、と考えたが、好みもサイズも不明だったので、そのうち写真でも撮って選ばせようと今回は見送ることにした。

(そういえば美鈴のスカート姿は見たことがなかったな)

 ふと気付いた。工場から先ずっとパンツスタイルで通している。着替えもそれしか持っていないのだろう。動きやすさを意識してのことだろうが、華やかさに欠ける面があるのは否めない。

(そのうちワンピースでも着せてみるか)

 その愉しみは後に取っておくことにして、今は──。

「とりあえずは風呂だな」

 そう呟き、智哉は今まで揃えてきた商品を業務用エレベーターに押し込むと、物だけを送って自分は階段で三階に移動する。そこでエクステリアのコーナーに行き、以前から目の付けてあったFRP製の角型水槽を運び出そうとした。容量三百リットルの、調べた限りではこの店最大のプラスチック容器だ。これをバスタブ代わりにして水を張り、別のホームセンターで入手した湯沸し機能付き風呂ヒーターでお湯を沸かそうというのである。これなら火を使うことなく、停電した後も発電機で電源は賄えるのでいつでも入浴できる。さすがに一人では抱え切れないため、台車に載せてバックヤードに運んだ。他にも足許に敷く簀子や目隠しのためのシャワーカーテン、排水用のポンプなどを取り揃えていく。それらを四階までエレベーターで上げると、美鈴達にも手伝わせて部屋の中に持ち込んだ。元は倉庫だったその場所は智哉が不在の間に見違えるほどきれいに片付けられていた。二ヶ所ある小部屋の一つは床にマットレスを敷き、美鈴達三人の寝所にすると共に、非常用の飲料水や食糧を備蓄するようにして、いざという時はシェルター代わりの機能も併せ持たせている。もう一つの小部屋は智哉専用の個室となる予定だ。今はここで生活していないので何もない状態だが、近々簡易ベッドでも置いて寝泊りだけはできるようにしようと考えている。メインの大部屋は広さで言うと四十畳ほどで、元々あった不用品は全て屋上の隅に運び出され、天井や壁の埃は払われて、床は丁寧に水拭した後磨かれていた。それらを主導したのは当然ながら美鈴だが、妹達も手伝ってのことらしい。結果、四人で暮らすには些か不釣合いなほどの広々とした居住空間が生まれた。ここに智哉はまずダイニングテーブルを運び入れ、一方の壁際に置いた。その横に凡そ四メートル四方のラグを敷いて応接セットを並べると、ソファと向かい合う形で設置したローボードには持ち込めそうな中では最大級だった六十五インチの大画面液晶テレビとブルーレイレコーダーを据えた。ただし、テレビ放送はないのでもっぱら優馬がアニメの映像ソフトを観るだけの専用機と化している。他にも電気ストーブや冷蔵庫といったこまごまとした生活に必要なものを置いているが、全体の三分の一ほどがまだ手付かずで余っていた。今回はその一角をカーテンで仕切って浴室にしようというのである。水はキッチンからホースで引けば良いし、倉庫内には排水口がなくて水を流すのにポンプで汲み出すなど若干の工夫は必要だったが、それも何とかなった。湿気対策は充分とは言えなかったものの、それは問題が起きてから考えるとして今は目を瞑る。一時間ほどをかけて設置し終えると、夕食の間にお湯を沸かし、実際に使ってみることにした。最初に優馬と加奈が二人で入ることになった。優馬は一人で入れると主張したのだが、加奈がそれを許さなかったのだ。ここのところすっかり優馬の保護者気取りが定着している。

「岩永さんは入られないんですか?」

 優馬と加奈がカーテンの奥に消えると、美鈴がそう訊ねてきた。

「俺はいいよ。帰ってシャワーでも浴びるから」

「そうか……岩永さんはマンション暮らしですもんね。今日もお帰りになられるんですか?」

「当分は向こうで寝泊りするつもりだ。また、暫く来られなくなるから」

 別に来ようと思えば毎日でも顔は出せるのだが、それは言わない方が賢明と判断した。敢えて距離を置くことで智哉の存在感を強調する狙いがある。それにスーパーを中心に半径十キロ程度の圏内であれば常に無線交信が可能なように中継器を配置してあり、智哉のマンションもその範囲内なので、何かあればすぐに駆けつけることはできる。それにも関わらず美鈴は不満顔だ。智哉にはその心中が手に取るように理解できた。早い話が助けた割には禄に面倒を見ようともせず蔑ろにされていると言いたいのだろう。そうなるようにわざと仕向けているのだが、美鈴からすれば不安でいたたまれないに相違あるまい。現に今も次にいつ来るかさえはっきりとさせていなかった。だったら自分から訊けば良いと思うのだが、それは無意識のプライドが邪魔をしてか、なかなかそうしようとはしない。

(要するにいつまで経っても庇護されて当然っていう意識が抜けねえんだな。こっちも同じ被災者だってことを忘れている。立場が変わらないなら助け合いは平等であるはずなんだが。この数日間、様子を見ていたが、どうやらそんなつもりはないらしい。この期に及んでまだ無償で助けて貰えると信じていやがる)

 急に智哉は苛立ちを覚えて、ついぶっきら棒な口調になる。

「心配か? ゾンビがここまで来ることはまずないし、仮にこの階に侵入して来ても部屋の中にいれば安全だ。唯一の抜け道だった小窓も格子で塞いだしな。水や食糧はひと月分以上備蓄してあるからすぐに飢え死にすることもない。仮に俺に何かあった場合でもそこまで持ち堪えれば救助が来ないとも限らない」

 智哉は信じてもいないことを口にする。ここまで待って助けが来なければこの先何ヶ月経とうが無駄だろうと踏んでいた。だが、そこは敢えて楽観的なふりをした。それはわかっているんですが、と美鈴は口ごもる。

 だったら何だ? とは智哉は訊いてやらない。智哉にすればわざと的外れな会話をして、美鈴の反応を窺ったのだ。それで自分から積極的に働きかけるなら一先ず良しとしよう。そこまでいかなくても、不安や要望が聞ければまだ答えようがある。ところが、智哉のそんな期待に反して返って来たのは歯切れの悪い返事だけだ。これでは話を続けようとすれば智哉の方が美鈴に気を遣って、あれこれと訊ねてやらなければならないことになる。問題はそうさせていることに一向に気付かない美鈴の心根にあるのだが──。

 何故、智哉の前だとこうも話が弾まなくなるのか、美鈴にはわからなかった。他の人とならもっと自然に会話ができていたのに。別段、智哉のことを嫌っているわけではない。それどころか、精一杯の感謝の気持ちを込めて接しているつもりである。こう言っては何だが、指示されたことは卒なくこなしているはずだし、慣れない家事や雑事も不平の一つもこぼさずにやっているではないか。それもこれも生き残るためには互いに協力し合うことが不可欠だと思うからに他ならない。それにも関わらず智哉の美鈴に対する物腰には常に小さな棘のようなものが含まれているように感じられてならない。それが何故なのか、美鈴には理解できなかった。自分達が足手纏いだからだろうか? だとしたらもっと役に立つところを主張していった方が良いかも知れない。そうすれば智哉も少しは自分達の存在を見直して、ぞんざいに扱われることも減るのではないか。そう考えた美鈴は白けかけた雰囲気を吹き飛ばすつもりで努めて明るく言った。

「そうだ。岩永さんがお留守の間に何かしておくことはありませんか? おっしゃっていただければ何でもします」

 美鈴なりの必死のアピールの結果だ。だが、智哉からすれば命を救った上に生活の面倒の一切を見ているのだから、何かをするのは当たり前である。そんなことは当然としか受け止めないとは気付けない。そう言えば智哉が感心するとでも思っているのだろう。しかも、何でも、と簡単に口にする辺りに、無茶な要求はされまいという手前勝手な思い込みが見え隠れする。

 ここまでのやり取りを通じて、智哉は些か本心を隠すのが億劫になってきていた。本音を晒すのはもう少し先で、と考えていたが、演技にもいい加減飽きた。この辺りで立場をはっきりさせておくのが得策かも知れない。幸い今は二人きりで妹達の耳には入らず、その方が美鈴にとっても好都合なはずだ。そこでこの際、全てを明かす決意をする。その結果、美鈴達と袂を分かつことになるならそれはそれで仕方がない。いつかはそうなるはずだったことが今日になったというだけの話だ。一旦、そう決めると気分はすっきりした。もういい人ぶる必要もないので、途端に冷淡な口調で言い放つ。

「……別に、ない」

「えっ?」

 唐突な智哉の物言いの変化に美鈴は戸惑った。喜ばせようと思って言ったことが、却って気分を逆撫でしたのだろうか? だとすれば急いで機嫌を取り戻さなければならない。このまま帰られては、次にいつ来るのかとまたしても不安な日々を過ごす羽目になるからだ。美鈴は慌てて弁解しようとした。

「余計なことを言ってごめんなさい。そうですよね、岩永さんは私達のために色々と考えてくださっているのに、私なんかが口を挟むなんて差し出がましいですよね。本当にすみませんでした」

 何が原因なのかわからないので、とりあえずそう謝っておく。美鈴の懸命な弁明にも智哉は眉一つ動かすことなく、まるで拾った玩具を品定めするかのようにじっと眺めてから、言った。

「そうじゃなくてさ。本当に頼むことが何も思い付かないんだよ。さっき何でもするって言ったよな? 本当にそう思っているのか?」

「それは……できることならって意味で……」

「できることって何だ? 例えば一階に下りて行って食糧を取って来いって言ったらやれるのか?」

「それは……正直考えていませんでした……」

 美鈴はうなだれ、足許に視線を落とした。確かに軽い気持ちで口にしただけで、そこまで深くは考えなかった。智哉が言うようにゾンビがいるとわかっている中に出向くなんて自分にはとてもできない。何でも、というのは確かに軽率だったかも知れない。しかし、頼むことが何もないというのは言い過ぎではないだろうか。自分達にだってできることはあるはずだ。そんな微かな反抗心が美鈴に芽生えたことなど露知らず、智哉は話を続けた。

「自分の命は危険に晒せないか? どうせそんなことは初めから考えにも挙がらなかったんだろう? 危ないことは全部他人任せだもんな。でも、それって随分虫の良い話だとは思わないか? 俺だって好き好んで危険な目に遭っているわけじゃない。できることなら誰かに代わって貰いたいよ。それも自分が生き延びるためなら仕方がないが、どうして縁も所縁もないお前達のために命を張らなきゃいけないんだ? そのことを一度でも真剣に考えたことがあるのか?」

 事実はそれとは異なるが、本当のことを知らなければ到底反論しようのない絶対的な正論に聞こえただろう。その証拠に、それについては感謝しています、と言ったきり、美鈴は黙り込んでしまった。だが、その程度で智哉に追及を緩める気はない。

「感謝か……随分便利な言葉だよな。そう言えば何でも許されるとでも? だったら俺も感謝するから助けてくれないか」

 もはや智哉に善人のふりも腹の探り合いをするつもりもなくなっている。自然と言葉遣いや態度は粗暴になっていくが、それを改めようという気も失せた。どうせこれより先は嫌われることになるのだから、そこだけ取り繕ってもしょうがない。さらに話の展開如何によっては美鈴達と顔を合わせるのもこれが最後ということだってあり得る。さすがに冷徹な智哉といえども、ここを追い出すことは考えていなかったから意見が折り合わなければ自分が三人の前から消える気でいた。折角整備したスーパーを手離すのは惜しいが、それで少しでも美鈴達が生き永らえるなら無駄にはならないだろう。ただし、その後のことは智哉には与り知らぬ話である。先程告げたように運が良ければ助けが来るかも知れない。智哉自身はまったく期待していなかったが。そのことで智哉に一片の罪の意識もないと言えば嘘になる。が、それに惑わされない覚悟は助けた時点で決めていた。それに最後は美鈴自身が選ぶことだ。

 美鈴はこれまでの人生で他人からこれほど一方的に言い負かされたという記憶がなかった。人との衝突をなるべく避けてきたためとも言えるが、それだけが理由ではない気がする。美鈴に限らず普通は誰だって日常生活において他者との決定的な対立は回避しようとするものではないか。少なくともそれが正しい人間関係だと家庭や学校では教えられてきた。例え気に喰わない相手であっても面と向かって、嫌いだ、と口にする機会はまずない。他人に意見する場合にも、あなたは間違っている、といった直截的な表現は極力避けて、この場においてはその意見は相応しくないんじゃないか、というように一定の譲歩を相手に示すことが常識や社会通念として求められる。ところが、今の智哉の話にはそうした配慮がまるで見受けられなかった。あるのは徹底的に感情を排した正論の冷たさのみである。まるで誰の助けも必要としておらず、一人で生きていくのがあたかも望みであるかのように。美鈴は単に責められたことよりも何人も寄せ付けようとしない智哉の冷淡さに対して、何の反論もできない自分の不甲斐なさに歯噛みする思いだった。その悔しさが思わず口を突いて出る。

「でも……」

 言いかけた言葉に微かな反駁の響きが混じるのを智哉は聞き逃さなかった。これまで美鈴が面と向かい、智哉に反抗的な態度を示したことは一度もない。それだけに余程責められたことが悔しかったと見える。智哉にとってそれは喜ばしい兆候であることに違いなかった。何故なら今までの大人しい優等生の仮面を脱ぎ捨ててムキになっている証拠だからだ。この場で最悪なのは議論を放棄して自分の殻に閉じ籠り、何を言われても終始耐えるだけに徹せられることだった。そうなると話の内容に関わらず、会話自体が不毛なものとなる。どれだけ強い言葉を発しても、ああ、何か喋っているな、で終わってしまう。話しかけているこちらが虚しくなるだけだ。相手を拒絶するにはもってこいの方法だろう。普通ならそうした態度には何を以てしても対抗する術はないが、今は違った。智哉は別段、美鈴を納得させる必要はないのである。議論する気がないのならさっさと話を打ち切ってしまえば良い。それで不利益を被るのは相手の方だ。言ってみれば正論を退ける唯一の方策は自らの首を絞めることに他ならない。従って美鈴としたら自分達の拠り処を失くさずにいるためには打ち負かされるとわかっていても議論を続けるしかなかった。もしそのことを履き違えているようなら智哉でも見捨てるより外なかったが、幸いなことにその愚は犯さずに済んだようだ。それならばもっと怒らせてやれば良い。

「でも何だ? 女だから庇われて当然、子供だから護られるのが当たり前とでも言いたいのか?」

「だって、普通はそうじゃないですか──」

 今度ははっきりとした不満を口にする。美鈴が言い返すのはこれが初めてだった。落ち着いて見えてはいても中身はまだほんの高校生だ。今まで感情を抑えてきたことがむしろ不自然過ぎた。とっくに暴発していてもおかしくはなかったのである。漸く年相応の反応を見せ始めたことで、智哉はさらにこの少女から素の感情を引き出したくなった。

「普通? 普通って何だ? 死んだ人間が甦って襲ってくるのが普通か? そんなものはとっくになくなっているんだよ。いい加減、目を醒ますんだな。俺もお前も妹達も常識や倫理や道徳なんて通用しない世界に放り込まれたんだ。普通にしていてどうやって生き延びるんだ? それに、だ。そもそも理屈で対抗しようとしているが、それが無駄だってことに気付かないか? お前が幾ら反論しようと俺からすれば気に入らなきゃ、ここに来なければいいだけのことなんだからな。それをどう喰い止める? 仮に俺がこの場でまた来る約束をしたとして、それをどう担保するつもりだ?」

 智哉の口から初めて見捨てられる可能性が示唆されたことで、美鈴はその場に凍り付いた。これまでも頭の片隅で考えなかったわけではないが、まさかそんなことはあり得ない、と半ば強引に自分を納得させていたのである。それが今、呆気なく覆された。その衝撃は想像していた何倍もの効果で美鈴の気持ちを掻き乱し、何を言われても冷静でいようと決めていたはずの覚悟をもあっさりと挫かれた。それでもまだ自分だけのことなら何とか平静さを取り繕えたかも知れない。しかし、事は妹達にも及ぶとあっては、恥も外聞もかなぐり捨てて自然とすがるような態度に出ざるを得なかった。

「──どうしてですか? 急にそんなことを言い出すなんて。今までずっと助けてくれてたじゃないですか……」

 懇願するにも妹達を出しにしなければならないところが己の狡さだと薄々自覚しながらも美鈴には他に感情の持っていきようがなかったのだ。

 不満の次は泣き落としか、と智哉は思った。

(いや、プライドの高いこいつのことだから演技でもそんな真似はしないだろう。本当にどうしようもなくなったと見るべきか……)

 計算にしろ本心にしろ、古典的な手法ではあるが、確かに効果的と言えた。本人は恐らく気付いていないだろうが、生来の整った顔立ちに憂いを帯びた哀愁が加わり、より一層のぞっとする美しさを醸し出していた。このやり取り自体を智哉が愉しんでいなければ、あるいは気持ちが揺らいでいたかも知れない。まさか自分が追い詰められるほどに相手の嗜虐心を煽っているなどとは想像もしていないであろう少女に、智哉はさらに冷たく言ってのける。

「急にじゃない。よく思い返してみろ。俺が一度でもお前らを護ってやるなんて約束をしたことがあったか? 助けたのは成り行きで、今日まで面倒見てきたのは何かしらの役に立つかも知れないと思ったからだ。まあ、お前以外の二人はおまけみたいなもんだけどな。そろそろお前だけでも期待に応えて貰わないと、こっちとしてもいつまでも悠長に待ってはいられないんだよ」

 智哉がそう話すと、美鈴は緊張した面持ちで、だったらどうすればいいんですか、と訊ねてきた。

「自分なりに何ができるのか考えてみろ。それによっては今後の関わり方が変わってくる」

「食事の支度をします。あと、掃除や洗濯も……」

「お話にならないな。そんなことは全部自分でやれる。大体料理を教えてやったのが誰なのか忘れたのか。第一、その食糧を運んで来るのは俺じゃないか。とてもギブアンドテイクとはならないね」

「それならもっと仲間を集めます。それで岩永さんの負担を軽くできれば……」

「仲間を集めるってどうやって?」

「それは屋上から呼びかけてみるとか」

「そんなのは無駄だ。仮に生存者が見つかったとしてここまでどうやって連れて来るんだ? 結局、俺がまた危ない橋を渡ることになるだけだろ。それに呼びかけに応えた相手が友好的とは限らないんだぞ。もしかしたら危険な奴かも知れない。仲間を増やすにしても慎重にやる必要があるんだよ」

「だったら、どうしたら……」

「自分で思い付かないようならこれまでだな。まあ、ここは譲ってやるよ。好きに使ったらいい。俺はもう顔を出さないから」

「そんな! 困ります!」

「困ると言われても何の役にも立たないんじゃ、そうするしかないだろう。俺は一人でも平気だ。さっきも言ったが、無償で人助けをして廻るつもりもない。自分が生き抜くだけで精一杯だからな。もちろん、生き残った者同士で協力し合うことに異存はないよ。だけど、それは対等な関係である場合に限られる。食糧や物資が欲しくても外に出て行けないなら差し当たり技術や知識とでも引き換えにすればいい。医者やエンジニアとまでいかなくても他の者に真似できないスキルがあるなら可能なはずだ。お前に何かあるか? そういうものが。あるなら見せてみろ。それによっては今まで通りに面倒を見てやらないこともない。ないなら考えろ。どうすれば食糧や安全が得られるかを。俺は他人に何かを強制するつもりはないが、こっちが一方的にこき使われるのも御免だ。助けて貰おうというのなら、そちらも何かを差し出すのがフェアと言うものだろう」

 そう一気に喋ってしまうと、美鈴の反応を窺った。冷静に考えれば智哉が言わんとすることが何かは理解できないはずがなかった。一介の高校生に過ぎない美鈴に専門的な能力などあろうはずもなく、智哉の要求に応えようとすれば自ずとその方法は限られてくる。だが、理屈ではわかっていても感情がそれを口にするのを阻むかのようにじっと押し黙っている。焦る必要はなかったので、智哉は辛抱強く美鈴が何か言うのを待った。一方的に損をしたくないだけというのは智哉の本心だ。従って暗に性的な要求を匂わせてはいるが、他に智哉には思い付かない別の交換条件があるのならそれでも構わなかった。いずれにしても無理強いする気はない。確かに魅力的な相手には違いないが、そこまで美鈴に拘泥する理由は特にないし、男なら誰しも自分に執心すると思われるのも癪である。重要なのはそれを美鈴自身が決めたという事実だった。そうでなければ取引とは言えない。もし強要されたと美鈴が感じればそこには被害者意識が芽生えることになる。嫌われる分には一向に構わないが、助けた上に恨まれ、あまつさえ命を狙われでもしてはたまったものではない。正気であれば智哉を害することは自滅するのに等しいとわかるはずだが、常に理性を保てるとは限らないのだ。そんな相手とこの先寝食を共にするのは難しいと言えた。よってこの取引は双方の合意の上でということが大前提になる。そもそも智哉からすれば美鈴に女としての価値を認めていなければ助ける気にもならなかっただろうから、自らの意思で選択できるだけ幸運なのだ。あとはどんなことをしてでも生き延びるという覚悟の問題になろう。

 やはりこの人も他の男と同じか、という失望の念が美鈴の胸中に拡がった。何だかんだと回りくどい言い方をしているが、要は自分に身体を開けと要求しているのと同じだ。あの金髪の若者と何ら変わるところはない。無理矢理に犯そうとしない分だけマシ、などいう心境には到底なれなかった。そんな男の言うことだ。まともに取り合う気にはなれないが、もし本当に拒否できるとしたらどうなるのかを想像してみた。この場所は自由に使って良いと言う。その代わり今後の面倒は一切見ないとはっきり宣告された。当面の生活物資は確保されているが、いずれ不足するのは目に見えているわけで、今、智哉に出て行かれてはこれから先を自分達だけで生き延びるのは恐ろしく困難と認識せざるを得ない。智哉が言うように水や食糧が尽きるまでに助けが来る可能性はゼロではないが、そんな賭けに出られるほど美鈴は無鉄砲でも向こう見ずでもなかった。そうかといって、自分に智哉と同じことができるとも思えない。今まで智哉がどうやってゾンビを避けてきたのか美鈴には見当も付かないが、真似できるものならとっくに教えられているだろうことだけは信じて良い気がした。何日も放って置かれたり、犬や猫のように粗雑に扱われたり、今もまた性的な対象にされたりして決して好きにはなれない相手だが、美鈴達を死なせないように行動してきたことは確かだったからだ。そうでなければ危険を顧みず工場から救い出したり、ここを簡単に譲り渡したりはしないだろう。その智哉がゾンビを避ける手立てについて何も言及しないのは聞いても実践できないからか、引っ越し時のように美鈴達が一緒では役に立たない手立てだからだろうと考えた。以前にも気になったことだが、そうは見えないだけで智哉は何か特殊な訓練でも受けているのかも知れない。普段、自分について殆ど話さないので、そんな風に想像するしかなかった。

 結局のところ、智哉抜きでやっていく展望などまるでないことが確認できただけだった。口惜しいが、それほどまで頼りにしていたことに改めて気付かされる。他に選択の余地がない以上、答えは既に出ているも同然だが、それでもたっぷりと三分を超える間があって、やっとのことで美鈴は口を開いた。この沈黙の長さが己のプライドの高さを物語っていようとは彼女は思い付きもしなかった。

「……身体を……自由にして貰って構いません。……それで助けて貰うことの引き換えにできませんか? ただ……セックスだけは許してください。お願いします……」

 他にも表現のしようがあるだろうに、わざわざ口にし辛い「セックス」という単語を使う辺りに、反撥の気持ちが見て取れる。本来ならこんな要求をする相手に頭を下げることなど絶対にしたくはなかっただろうが、それでもやはり貞操だけは守り通したかったようだ。

(まあ、いいさ。時間はたっぷりとあるわけだしな。まずは慣れさせるのが肝心だ。次第に抵抗感も薄れていくだろう)

 智哉とすればここまでの覚悟を引き出せただけで充分な成果だった。セックスはしたくないと言うのなら、その意思を尊重するのも悪くない。ただし、それは智哉を満足させられたらという前提であることは言うまでもなかった。その上で最後の一押しを忘れず付け加える。

「いいだろう。けど、勘違いをするなよ。俺が無理強いをしたわけじゃない。そっちが提案したことだっていうのを忘れるな。嫌ならいつ止めても構わないし、俺も満足できなきゃそうする。それを承知した上で何をするかはお前が決めろ」

 追い討ちをかけるような智哉の言葉にも、美鈴は、わかりました、と短く答えただけだった。再び長い沈黙が続く。さすがにこれ以上追い詰めて自棄になられても困るので、ここから先は智哉の主導で進めていくことにした。

「早速、今晩から実践してもらうぞ。妹達が寝るのは何時くらいだ?」

「最近は二人共九時くらいには寝てしまいますが、でも……」

「わかってる。二人には知られないようにする。その点については考えがあるから安心しろ。俺は一旦マンションに戻るから、お前は妹達を寝かしつけて夜十時になったら屋上に出て来い。車で待つ。ハザードランプを点滅させておくからすぐにわかるはずだ」

 美鈴は弱々しく頷き、それで話は終わった。他にやるべきことは何もない。これ以上この場に居ても気まずくなるだけのようだったので、智哉は無言で帰り支度を始めた。その間も美鈴は膝に置いた自分の手の甲をぼんやりと眺めているだけだった。さっきまでの怒りや非難に満ちた眼差しはもうどこにも残っていなかった。心ここに在らずといった表情で、じゃあ、後でな、と言った智哉の声も耳に届いていない様子だ。智哉は構わずその場を立ち去る。結局、美鈴は最後まで顔を上げることはなかった。

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