13 屋上にて※

(どうしてこんなことになったのだろう……?)

 幾ら考えても美鈴にはさっぱり理解できなかった。自分としては智哉の機嫌を損ねないよう精一杯努力を重ねてきたつもりである。それが、いつの間にかセクシュアルな行いを約束させられていて、しかも自分から提案するという屈辱まで味わう羽目になった。全ては智哉に見捨てられないための苦肉の策ではあったが、本当にそうするより外に手がなかったのかと考えてしまう。智哉にしても、ああは言ってみたものの、本気だったわけではなくて、美鈴の自覚を促すのが狙いだったとは言えないだろうか。それを自分が勝手に誤解したためにこんな事態に陥った。だが、どう思い返してみてもそんなはずはなかった。智哉が言外に要求したのは紛ごうことなく性的な奉仕であり、勘違いしようのないやり取りだった。あるいはもしかしたらだが、本当に智哉が言うようなギブアンドテイクの取引ができれば、要求に応じなくて済んだのかも知れない。とはいえ、今の自分に智哉の命懸けの行動に見合う交換条件など用意できるはずもなく、それを見越した上での要求だったことは疑いようがない。唯一、美鈴ができた交渉といえば最後の一線を守り抜くことくらいだった。それも智哉が約束を守ると仮定しての話だ。結婚するまでは清い身体でいたい、などという古臭い貞操観念は美鈴も持ち合わせていないが、セックスは好きな人と、という思いは当然ある。ましてや初めてともなれば尚更と言えよう。これまではそうしても良いと思える相手に恵まれなかっただけで、殊更セックスを遠ざけてきたわけではない。時にその相手を弘樹と夢想しなくもなかったが、何となくそうなる機会を逸してしまっていた。こんなことになるならもっと気軽に付き合っておけば良かったと後悔するが、今となっては後の祭りだ。そうはいっても実際の経験がないだけで、美鈴も一応は現役高校生の端くれである。それなりの知識は蓄えていた。今はもうとっくに下火になって身近には殆どいなくなったが、同級生や先輩の中には最後までいく援助交際をしたことがあるという者も何人かいて、そこまでいかなくてもセックスに興味のない女子高生はいない。ただ、経験の多寡が真面目さに結びつくわけではないことを美鈴達は知っている。例えばクラス一の優等生が男関係の面でも優秀だったり、素行の悪さで知られる不良少女が実は誰とも付き合ったことのない初心であったりというのは決して珍しいことではないからだ。余程セックスに潔癖でもない限り、そういうことは純然たるタイミングの問題に過ぎないのである。従って、バージンであるかどうかについても美鈴達の間では特別な意味など持たないのが普通だ。叶うならこの先も自分にとってはそうであって欲しいと美鈴は心底願っている。その思いは今や智哉の胸一つで如何様にも左右されるものになっていた。


 自宅マンションに戻った智哉は、シャワーを浴びると下着を含めて全て真新しい服に着替えた。待ち合わせの時間にはまだ充分な猶予があったので、それまでの時間潰しにと冷蔵庫から出した冷えた缶ビールを片手にベランダに出てみた。さすがに部屋着だけでは肌寒かったためジャンパーを上から着込んでいる。凡そ一ヶ月前と比べて随分減ったとはいえ、眼下には未だに文明社会が完全に潰えたわけではないことを示す光点が幾つか垣間見られた。それは即ち発電所や変電所が現在も誰かによって護られ維持されていることを意味する。そのことには素直に感嘆を禁じ得ないが、ひと月も経つというのにそれらしき者達の姿を皆目見かけないのは不可解だった。航空機やヘリなら遠くを飛んで行くのを目にするが、それも極たまにだ。地上ならともかく空までゾンビに占拠されたとは考えにくいので、単にこの辺りが飛行ルートから外れているだけと思わなくもないが、飛ばす余力自体が既に残されていないのかも知れない。それと同様に施設を防衛する連中にも持ち場を離れられない何かしらの事情があるのだろう。

(想像するに都市全域をカヴァーするのは難しいと見て、重要拠点だけに的を絞って防御する方針なんだろうな。だから街中には現れないわけだ)

 確かにそうでもしないことには防ぎようがないと思われる。おかげで市内はゾンビだらけだが、ライフラインさえ確保できていれば少なくとも屋内に避難している者は生き永らえられるとの判断に違いない。

 どの途、俺には関係ないことだが、と智哉は缶ビールを開けて、ひと息に四分の一ほどを飲み干しながら思った。さらにイシハラの部屋からくすねてきたマリファナのジョイントにも火を点けて胸一杯に煙を吸い込む。改めて周囲の様子を見渡すと、灯りは正常だった頃の二割ほどに留まり、景色の大半は闇の中に沈んでいることに気付かされる。しかも灯りが燈っているからといって、その下に生きた人間がいるとは限らないのだ。避難の際に消し忘れただけかも知れないし、タイマーで作動しているとも考えられる。同じく眼前の大通りもひと月前までの喧騒が嘘だったかのように静まり返っていた。昼夜を問わず行き交っていた車の流れも次第に本当だったのか信じられなくなりつつある。実際、この一ヶ月の間に智哉が走行している車を見たのは最初の事故を起こした例を含めてたったの四度しかない。さらにその中で無事に智哉の視界から走り去ったのは僅か一台だけだ。他は全て事故を起こすか立ち往生するかして、乗っていた者は全員がゾンビの餌食になっている。その一部始終を智哉は少し離れた場所から観察していた。幾ら智哉といえどもゾンビに取り囲まれた状況から救出するのは不可能だった。どうにもならなかったとはいえ、それを冷静に見ていられた自分はやはりどこか狂っているのだろう。犠牲になった者の中には優馬よりさらに年下の幼子や、美鈴とさほど年齢の変わらない娘もいたのである。自分が生き延びることを言い訳にするにはあまりに鈍感であり過ぎた。それに比べたら、と智哉は思う。これから自分が美鈴にしようとしていることなど些末な一事に過ぎない。確かに美鈴にとっては残酷な仕打ちかも知れないが、それで三人の安全が保障されるなら進んで身を投げ出すくらいの覚悟は示すべきだ。そうでなくてどうして助ける気になれよう。最後に残った迷いを短くなったジョイントと共に揉み消すと、智哉は今夜美鈴に遭ってからのことを夢想し始めた。


【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】


「これで……満足ですか?」

 若干の皮肉混じりとも取れる口調でそう訊かれ、まだまだだな、と智哉は身も蓋もない言葉で返す。初めてにしてはよくやった方と言えなくもないが、元来智哉が望んでいたのは楽に性欲を充たすことである。そういう意味ではとても満足のいく内容ではなかった。今後の成長に期待するしかあるまい。無論、美鈴はその要求を退けることはできない。それが智哉との間に交わした契約だからだ。少なくとも他に助けが現れるまでは言いなりになるしかないが、果たして無事に解放される日などあるのだろうか……? もしずっとこのままだったらと考えると、美鈴は暗澹たる気分にならざるを得ない。今し方の行為に慣れることなどとてもできそうになかった。だが全ては生き残るためだ。自分達の生存競争サバイバルはまだ始まったばかりである。窓の外を眺め、恐らくそこにあるはずの真っ暗な水平線に目をやる。夜明けまでにはまだ相当の時間がかかりそうに美鈴には見えた。


第一部〈脱出篇〉終わり 第二部〈戦闘篇〉へ続く

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