11 ミニFM局
「──以上でエフエムホットウェーブからの災害時緊急ラジオ放送を終了します。次回の放送は再び約六時間後の午後六時ですが、それまでに新たな情報が入り次第随時お伝えしていく予定です。北野晶が担当しました」
手許のカフスイッチをオフにした途端、ヘッドホン内のBGMのボリュームが上がった。ここから分厚いガラス越しに見える隣の
「ねえ、この曲、いい加減に他のに変えない? 捻りがないって言うかさ、タイトルのまんまじゃん」
アナウンスブースの重い防音ドアを開けて入って来るなり、木村麻里はそう不満を口にする。原題を『ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド』とするこの古いアメリカのヒットソングは、本来失恋を歌った内容だが、あまりにも曲名が今の状況に似合い過ぎていて皮肉にもならないと言いたいのだろう。それは晶も同感だが、一人で放送を切り盛りする忙しさにかまけて選曲を他人任せにした自分が悪いのだ。選んだ晶からすれば待機中に流す曲など放送が続いていることが外部に伝われば何だって良くて、この曲もレコード室のアーカイブからそれらしいものを適当に引っ張り出したに過ぎない。気に入らなければディレクターである麻里が自分で探しに行けば良いのだが、そこまでしないということは要するに本気で思っているわけではなく、いつもの軽口が叩きたいだけなのだ。それがわかっているから晶の方も外したヘッドセットを麻里に預けながら、まんまで別にいいじゃん、と軽く受け流す。案の定、二言三言を軽く言い合っただけで、それ以上深くは麻里も追求してこなかった。
「ところで次回の放送内容なんだけど、どうする? もう何度もやったネタだけどまた国際宇宙ステーションの宇宙飛行士が帰還できないって話題にする?」
「んー、さすがにマンネリだから止めとく。それより主要幹線の交通情報と政府の公式見解をまとめ直すわ。それも目新しさはないけどね。あとはローマ法王の談話でいこうと思う」
「ああ、例の今回の出来事は宗教的事象とは無関係ってやつね。オーケー。それでいいわ。なら原稿は任せるから」
それだけのやり取りをすると晶は椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。その途端に腹の虫が騒ぎ始める。最後に水以外のものを口にしたのは一昨日の昼のことで、もう四十時間以上も何も食べていないのだから無理はない。それは麻里も同じはずだが、標準よりもやや幅広な体型の分、彼女の方が堪えているように見えるのは恐らく気のせいではないだろう。晶にしても食事は一日置きに一食と決めてからもう何日経過したのか思い出せないほどだ。幾らダイエットにちょうど良いと強がってみてもさすがに辛さは隠し切れなかった。もう少しすれば二日ぶりとなる待望の食事にありつける。それまで少しでも気を紛らわせようと、例の件はどうなったか、と麻里に訊ねてみた。例の件とは本来なら通常放送に割り込む形で流されるはずの自治体の緊急放送が、混乱が始まった当初に断続的に数回あっただけで、以降はずっとストップしたままなことを指していた。
「色々と試してはいるんだけど、何しろ専門じゃないからね。もし深刻な機材トラブルなら修理までは無理だよ。でも、たぶんこっちの問題じゃないと思う。向こうに何らかの原因があるんじゃないかな。設備の故障か、それとも放送する人間がもう誰も残っていないとか……」
それは要するに組織だって活動する行政府や地方自治体がもはや存在しないことを意味する。さらりと恐ろしいことを言ってのける同僚に、晶は苦笑いするしかなかった。だが、麻里の想像もあながち大袈裟とは言い切れない。現在、二人が立て籠るのは放送局が入った四階建て雑居ビルの中だが、そこから見える景色に生きた人間の姿は一人も確認できていないからだ。動くものといえば時折見かけるゾンビか、逃げ出したペットの類いくらいなものだった。このビルの二階のワンフロア丸ごとが放送スタジオを含むエフエムホットウェーブの本社となっていた。ここから地域に根ざした日々の放送が行われていたのだ。まもなく二十六歳になろうかという晶もこの局の専属パーソナリティーの一人だった。地域限定ミニFM放送──厳密には放送免許の必要ない微弱無線局と区別するためにコミュニティー放送などと呼ばれる──のエフエムホットウェーブに入社して五年目。社員として番組制作に関わる傍ら、自らがパーソナリティーを務めるレギュラー放送を週に数本抱えている。もちろん、内容はタレントが司会を務めるネット局の娯楽番組のような華やかさとは程遠い、地味なものばかりだ。時には自分で中継に出かけて行って泥まみれになりながら農家の収穫を手伝ったり、地元のスポーツクラブで住民と汗を流したりといったことも少なくない。そんな泥や汗臭い現場も今ではすっかり板に付いた。その晶より一つ年下で、今年念願のディレクターに昇格したばかりの麻里は職場の同僚である。
「残っているカップ麺はこの二つが最後だよ。赤と緑があるけど、どっちにする?」
スタジオ脇の休憩室で、やっとのことでありつける食事を前にしてだ。麻里が両手に別々の種類のカップ麺を持って、ソファに腰を下ろした晶にヒラヒラと振って見せた。元々社員の泊まり込みが多いため、インスタント食品は常に置かれていたが、それも今回で底を尽くらしい。あとは全員の机の引き出しを漁って漸く見つけた飴が一袋と誰かが隠していた食べかけのチョコレート菓子が僅かに残るだけだ。
「どう違うのよ、それ?」
二個のカップ麺を見比べながら、晶がそう訊ねた。たかがカップ麺といえどもこれが最後の食事になるかも知れないと思えばなおざりに決めることなどできない。
「とんこつ味と塩味って書いてあるけど、何なら私が食べ比べてやろうか?」
冗談めかして言っているが、目は笑っていなかった。黙っていたら本当にそうされかれないので晶も言い返す。
「あんた、この前ダイエット始めるって言ってなかったっけ? 二つも食べたらまた太るんじゃない?」
満足に食事もできない状況でそれはあり得ないが、そんな軽口でも叩き合わないと一層暗くなるばかりなのだ。それに、この数日間まともに食事をしていないとは思えないほど麻里の体型が変わり映えしていないのは事実である。本当に自分と同じ量しか食べていないのかと疑いたくなる。実際は見た目に反して体重は減ってきているのだろうが、そうは見えないところが不憫だった。当の本人はすっかり痩せた気で、見せつける男がいないのが残念、としきりに悔しがっている。元の生活に戻ったらリバウンドなど気にせず食べまくってやるのだそうだ。確実に太るだろうと晶は予測しているが何も言わなかった。結局、ジャンケンで勝った麻里がとんこつ味を選び、電気ポットからお湯を注いで出来上がりを待つ間に、晶は先程の麻里の言葉を頭の中で反芻する。元の生活に戻れたらと麻里は言ったが、果たして本当にそんな日が来るのだろうか……。
たぶん無理に違いない。麻里にしても本気で期待してはいないだろう。何の根拠もなしに希望が持てる時期はとうに過ぎ去った。ただ理屈ではそう理解していても口に出すのは憚られた。一旦それを認めてしまえばここまで張り詰めていたものが切れてしまいそうで怖かったからだ。だからなるべく深刻な会話は避けて普段通りの態度を貫くことが二人の間では暗黙の了解みたいになっていた。そんなことができるのも相手が麻里だから、と晶は思っている。他の者とだったらこうはいかなかったに違いない。悲観的な話ばかりが増えて、とっくに絶望していてもおかしくはなかった。そういう意味では口にはせずとも麻里には感謝している。願わくは向こうにとっても自分がそんな存在であれば良いとも思う。その一方で事態の厳しさも切々と感じ取っていた。今よりさらに酷い状況に陥るとしたら、どんな場合かを考えざるを得なかったのだ。一つは水の供給がストップすることが挙げられるだろう。乏しい食糧事情でも何とか持ち堪えられたのは、水だけは制限なしに飲めたからに他ならない。さすがにシャワーを浴びるとまではいかなかったが、身体を拭くくらいはいつでもできるし、女性としては何より水洗トイレが使えるのが嬉しい。水道が止まれば飲料水の確保が先決でトイレどころではなくなるだろうが、今から溜めておくにも容器に限界があった。飲み水としては災害時の備蓄品として二リットルのペットボトルが四本、これは手付かずで残してあるが、それだけでは如何にも心許ないので、コップや湯飲みはもちろんのこと、食べ終えたカップ麺の容器から化粧水の瓶に至るまで溜められそうなものには全て水を蓄えたが、それも大した量にはならなかった。水不足の次に憂慮すべきは停電だ。いつそうなってもおかしくない、というより、今も電気が通っていることが驚きと言って良かった。ここも放送局なので一応は電源のバックアップとして屋上に非常用発電機を備えているが、麻里曰く、連続運転できる燃料はせいぜい二十四時間分しかないということなので、電気が停まり、それを使い切った時点で放送局としての使命も終えることになる。もっとも最初に確認したように、それより先に食糧が尽きる公算の方が大きかった。押し並べてこれらの条件下で大人二人がどれくらい生きられるものなのか、サバイバルの専門家でもない晶には皆目見当も付かないが、見通しが暗いことは誰かに訊くまでもなく明らかだ。餓死するまでに救助の手が差し伸べられることを祈るしかないが、そうならない時はゾンビに食べられて落命するわけではないことを唯一の慰めとする以外になかった。こうなってみると田舎の両親に大して親孝行できなかったことが悔やまれる。せめて孫の顔くらいは拝ませてやりたかったと思わないでもない。大学に通うために地元からこちらに出て来た晶は、両親や年の離れた妹とは年に一、二回帰省した時に顔を合わせる程度で、普段は小まめに連絡を取り合うこともなかった。両親は大らかな人で晶が決めたことに反対はしなかったし、早く結婚しろだの、子供を作れだのと言われたこともないが、内心ではどう思っていたのかわからない。そんな両親とは異変が始まって間もない頃に一度だけ電話で話せたが、それ以降は連絡が付かなくなった。話の内容は、私達のことは心配しなくていいから自分のことだけを考えて行動しろ、というものだった。本音では帰って来て欲しかったのではないかと思う。ただし、それは自殺するに等しく、両親もそれがわかっていたからこそ口にはできなかったのだろうと晶は推測している。両親の下には戻れなかったが、だからといって他に過ごしたい人がいるわけでもなかった。家族以外に本気でその身を案じる相手が誰もいないことに気付いて晶は愕然とした。以前なら付き合っている男もいたが、今は不規則な生活が災いして特定の恋人を作らずにいたことが主たる原因だ。只でさえ時間がない上に、仲良くなりかけても何となく億劫になって途中で投げ出してしまう。これで誰からも相手にされなければ単なる強がりだが、自慢でも何でもなく言い寄る男には不自由しなかったので、あまり淋しいとは考えなかった。それに、その時は真剣に交際しているつもりでも別れてしまうとそうでもなかったと感じることが往々にしてあった。昔からずっとそうだった。一度だけある男と非常にシリアスな別れを経験して、その時は暫く何もする気が起きず職場では何とか平静さを装っていられたが、家に帰ると部屋から一歩も出ずにひたすらぼんやりとして過ごす日が続いた。それが三ヶ月ほどしたある時、いつの間にか立ち直っている自分に気付いた。きっかけは夜中に流れたテレビのコマーシャルで、そこに映し出されたコンビニの新商品が美味しそうだと思い、そのまま何の躊躇もなく衝動的に買いに行けたのである。生涯絶対に忘れることはないだろうと思っていた相手のことは、ぼんやりと浮かんでくるだけになっていた。以来、自分は恋愛に向いていないと晶は考えるようになった。それならそれで別に構わない。一人でいて淋しくならないわけではないが、無理に恋人など作っても疲れるばかりだ。それよりも後腐れのない軽い付き合いの方が自分の性には合っている。ただ、もう一度くらいは真剣に誰かを愛しておけば良かったと思わなくもない。
こんなことなら素直に男のところへ会いに行けば良かったと木村麻里は後悔していた。訪ねて行っても追い返されるだけだとわかってはいたが、多少なりとも気は晴れただろうし、少なくとも相手の困惑した表情を見ることはできたはずだ。その男とは凡そ五年前に知り合った。当時、麻里はまだ放送の専門学校に通っていて、相手は十五も年上で、講師と生徒という間柄で、奥さんと二人の娘がいて、おまけに腹が出ていて髪も薄くなりかけていたが、好きになった。何故だかはよくわからない。きっかけらしいことは何もなかったからだ。気付いた時には好きになっていて、それは身体の関係ができてからも、妻子持ちだと知ってからも、麻里が卒業して今の会社に入ってからも変わることはなかった。ただし、当初はそこまで深入りする予定ではなかったはずなのだ。軽い気持ちで付き合い始めて、その気になればいつでも別れられる、そう思っていた。だから相手が妻帯者だと知ってもあまり気にしなかったのである。それが半年も経たないうちに、男の目の前で泣くようになって自分でも驚いた。そういう女を内心では軽蔑していたからだ。自分はむしろ正反対で可愛げがなく、男を呆れさせるようなタイプではなかったか。だから、まさか自らがそうなるとは思いも寄らず、これはヤバイな、と思い始めた矢先に麻里の妊娠が発覚した。男は逃げなかったが、子供は諦めてくれ、と選択の余地のないきっぱりとした口調でそう告げた。今の家庭を壊す気はさらさらないようだった。男にとって何よりも大事なことは二人の愛娘と過ごす時間だということは麻里にも充分に伝わった。それでも別れなかったのは娘が成長すれば男の考えも変わるのではないかと淡い期待を寄せていたからに他ならない。その後も酷い喧嘩をしたり、何度も別れ話を切り出したり、実際に別れて違う相手と付き合ったりもしたが、最後には彼の下に戻るということを繰り返した。ちょうどひと月前に男がもう会わないと決めて、今までにない厳格な調子で断言するまでは。どうやら奥さんが疑り始めたらしい。引き際だろう、と男は言った。そうして男からの連絡が来なくなり、こちらが連絡しても無視されるようになって、麻里は心底途方に暮れた。今まではどんなに酷い別れ方をしても連絡が完全に途絶えるということはなく、男に捨てられた経験も初めてだったので、どう悲観して良いのかわからなかったのだ。会いに行けば良いのか、捨てないでくれとすがりつけば良いのか、奥さんにばらすと脅せば良いのか、男の前で手首でも切るべきなのか、何をしたらそれらしく振る舞えるのか悩んだ。その全部をすれば良かったのだと思い当たった時にはビルの中で身動きが取れなくなっていた。男のことは周囲ではたぶん、晶だけが気付いている。直接打ち明けたことはないが、堕胎した時もさりげなく気を遣ってくれている節が見受けられた。男は今頃、奥さんと愛する娘二人に囲まれて最期の時を穏やかに過ごしているのかも知れない。そういう中に乗り込んで行って平和な家庭を掻き乱すことこそ愛人たる者の正しい務めではなかったかと今にして思うのだ。
二人がそれぞれ物思いに耽る中で簡素な食事を終えた時に、突然廊下からけたたましい非常ベルの音が鳴り響いた。唐突に現実に引き戻された晶と麻里は互いに顔を見合わせる。このビルの三階以上は中小のオフィスが軒を連ねるが、今は無人であることは確認済みだ。ビル内にいるのは二人だけのはずで、誰かの悪戯とは考えにくい。ゾンビが侵入して来て誤ってボタンを押したのではないかという想像に、晶は思わず身を竦めた。仮にビル内に入られてもスタジオ設備のあるこのフロアの防犯対策は万全で、滅多なことで破られはしないはずだった。そのことを思い出して幾分落ち着くと、妙な点に気付いた。ゾンビが侵入したにしては聞こえてくるのは非常ベルの騒音だけで、何かが動く気配や物が落ちたり割れたりする物音は一切しないのだ。隣を見ると、麻里も似たような疑問を抱いたらしく真っ青な顔をしながらも不可解な様子で首を傾げている。
「ゾンビの仕業……ってわけじゃないよね?」
「たぶん、それならもっと騒がしくなっているはず……」
二人して廊下に続くドアを凝視した。
(ゾンビでなければ本物の火災だろうか……?)
晶はそう考えた。現状を鑑みるとその方がゾンビに侵入されるより厄介かも知れない。何故ならゾンビに入り込まれてもこの場に閉じ籠っていれば一先ず安心だが、火災ならそういうわけにはいかないからだ。消防へは通報するだけ無駄なため、自分達で消し止める以外になかった。それが無理なら外に逃げ出すしかないが、それは即ち安全な居場所を放棄することを意味する。今、表に出て助かる見込みは万に一つもないだろう。躊躇っている暇はなかった。火事なら燃え広がる前に直ちに消火しなければならない。
「確かめるしかないよ。もし火が出ているなら急いで消さないと」
「あまり乗り気はしないけど、そうするしかなさそうだね」
二人はおのおの部屋に備え付けの消火器を手にして、ドアの向こうに誰もいないことを確認した上で、怖々と廊下に出た。ざっと見回したところ、どこにも火の手や煙が上がっている様子はない。廊下の奥にある、火災の際には自動で閉じられるはずの防火扉もそのままだ。ゆっくりと廊下を進んで行って、火災報知器の前まで辿り着くと、状態を確認した。すると意外なことに鳴っていたのは火災報知器ではなかった。非常ベルと思ったのは廊下のもっと端、階段の方から聞こえてくる別種の音だとわかる。火事でないことは確かめられたものの、このまま放っておくわけにもいかなかった。ここまで届くということは相当大きな音量に違いないだろうし、それが周辺のゾンビを引き寄せないとも限らない。何より正体が不明なままでは落ち着かないことこの上なかった。安心するためにも二人はさらに先に進むことを確認し合って廊下の突き当たりに移動し、階下から音が聞こえることを突き止めた。普段は表のゾンビに見つからないよう一階への立ち入りは極力避けている。しかし、今はそうも言ってはいられないだろう。そこで一歩一歩慎重に階段を下って行った。一階に足を踏み入れると、聞こえてくる音は一層喧しくなった。やはり、この近くに騒音の発生源があるのは間違いなさそうだ。壁に隠れてこっそりと玄関の様子を窺うと、ガラス扉を通して外の景色が目に入った。当然ながらその扉は強化ガラスで、一度に大量のゾンビが殺到でもしない限り割られる恐れはまずないという代物だ。また一階の大部分を占める喫茶室にしても通りに面したガラス窓の開口部は全てシャッターで閉じられ、外部からの侵入を防いでいる。晶達が不用意に近寄りさえしなければゾンビの注意を引くことはないと考えて良い。幸いにも大きな音を立てているにも関わらず、ガラス扉から見える外の景色にゾンビの姿はなかった。思いの外、ゾンビは騒音に無頓着なのかも知れない。
どうやらその玄関付近から音は鳴っているようだった。麻里がエントランス脇の一角を指差す。そこには居住者向けの宅配ボックスが設置されており、音はそこから洩れ聞こえているらしかった。さすがにそこまで行くのには勇気がいる。宅配ボックスはテナント毎に区切られたコインロッカーみたいなもので、建物の内と外からそれぞれ開閉できる扉が付いており、外の扉は受取人が不在でも荷物が預けられるようボックス内が空であれば誰でも開けられる仕組みになっていた。荷物が置かれると自動で鍵が掛かるため、取り出せるのは暗証番号を知る者だけとなる。恐らく、その構造を利用して誰かが音のする何かを入れたのだろう。
「あの中から聞こえてくるのは間違いないみたいだけど……」
「でも、一体誰がどうして……?」
「詮索するのは後回しよ。とにかく音を止めないと」
必死で勇気を振り絞り、玄関脇に近寄ると、宅配ボックスの前に立った。ここに立ってもどのボックスから聞こえているのか正確にはわからない。どちらにしても開けられるのは暗証番号を知る自社のボックスだけなので、そこになければ諦めるしかない。まさか開けた途端に爆発することはないだろうが、緊張して指先が震える。何とか制御して晶は記憶している六桁の番号を入力し、受け取り口を開けた。中にはキャンパス地のフィールドバッグが詰め込まれていた。アメリカの兵隊が肩に担いでいるようなやつだ。何を期待していたわけではなかったが、何となく拍子抜けした。ボックスから引っ張り出すと、肩掛けベルトから伸びた紐の先にクラシカルな目覚まし時計が結ばれているのに気付いた。音の正体はこれだったらしい。
「犯人はこいつか……」
未だに鳴り続けるベルの音をスイッチを操作して止めた。
「何が入ってるんだろうね。ひょっとして赤ん坊とか?」
「冗談じゃないわよ。それに、もしそうならゾンビが反応して集まって来るんじゃない? そうならないってことは少なくとも人間じゃないってことでしょ」
その場でバッグを開けようとする麻里を晶が制して、二人は急いで階上に戻った。いつまでもそこに居てはゾンビに見つかる危険があったからだ。念のため、宅配ボックスは再使用できるようにセットし直しておくことも忘れない。
休憩室に戻った二人は早速、バッグの中身を確認した。中には非常食としてのアルファ米やレトルトのカレー、缶詰などが入っていた。どこの誰が何のために届けてくれたのか知らないが、渡りに舟とはまさしくこのことだった。麻里などは狂喜のあまり、今にも乱舞──踊り出しかねないほどだ。
「これが夢じゃなければ神様が自分に似せて人間をお作りなさったって話も信じるわよ。ありがとう、イエスにブッダにアフラマズダにアラーにムハンマドにヴィシュヌにその他諸々の神様」
とても信心深い者の科白とは思えないことを口にする。
「別に神様ってわけじゃないみたいだよ。これを見て」
それに呆れながら晶は手に持った用紙を麻里に差し出す。バッグの底にあったものだ。そこにはワープロ文字で以下のように書かれていた。
──初めまして。放送を拝聴しました。我々はこの街の生存者です。といっても警察や消防や自衛隊のような組織ではなく、一民間人に過ぎないのですが、同梱したように食糧や生活物資を提供できるだけの備えはあります。そこで提案なのですが、今後我々にご協力いただければ継続して支援することをお約束します。ただし、それには以下のことをお守りいただくことが条件となります。
一、当方の要請に応じて、提示する内容を速やかに放送すること。
一、その際、情報源やその入手方法に関しては一切触れない。我々の存在についても秘密にすること。
一、物資の調達や運搬、輸送などについて詮議しないこと。また、あらゆる質問はこれを認めない。
以上のことを承諾いただければ、定期的に食糧や物資を提供しますがいかがでしょうか? 返答は次回の放送において、方法はお任せしますが我々のみにその意味が伝わるやり方でお知らせください。もし返信がない場合やそれと伝わらなかった時には提案は拒否されたものと判断し、これ以降二度と接触を図ることは致しません。なお、その場合でも今回お渡しした分を返せとは申しませんので自由にお使いください。それでは良い返事を期待しています。
手紙を読み終えると同時に二人は顔を見合わせた。表情から察するにお互い思っていることは同じらしい。つまりは戸惑いだ。誰が何の目的あってこんなメッセージを寄越したのか、まるで見当が付かなかった。
よくわからないんだけど、と前置きしながら麻里が口を開く。
「これって要するに食べ物を恵んでやるから、向こうの言いなりになれってことよね?」
「そうらしいけど」
「要求って何だと思う?」
「文面からはさっぱりね。何かの宣伝活動をしたいとか、そんなんじゃない?」
「このご時世に何を宣伝するっていうのよ?」
「そんなの知らないわよ。カルト教団が信者を集めようとしてるとか?」
「だったら正体を隠す必要はないんじゃないの? 大々的に謳った方が効果があると思うんだけど。第一、信者なんて集まると思う?」
「さあね。意味不明なことをするからカルトなんじゃないの?」
結局、結論は出ないままに生存者の一団であることは間違いないだろうという認識で一致した。ただし、グループの規模や人数などは謎だらけだが、確かめようにも予め質問には応じないと釘を刺されてしまっている。
「それで、どうするつもり? とりあえずこれは貰っておいても問題ないわよね?」
是が非でも離さないというように、麻里は両手でバッグを抱え込む。
「まあ、手紙にも返さなくていいって書いてあるし、それは構わないんじゃない」
晶は苦笑しながらそう答える。
「でも、手をつけるのは後だよ。まずは対応を決めないと。それに、そんなことをする意味はないからこれは可能性としては低いだろうけど、毒でも入っていないとは限らないからね。食べるにしても慎重にしないと」
考えるまでもないんじゃない? と麻里があっさりと口にする。
「元々こっちに選択の余地なんてないんだし。宣伝したいって言うなら好きにさせればいいのよ。電波なんて減るもんじゃないでしょ? スポンサーと思えば今までと変わらないじゃない」
晶にしてもそれしかないとは思っていた。ただ、麻里ほど楽天的に捉えられなかっただけだ。いずれにしても晶達の現状を考えれば拒否などできるはずもなく、恐らく向こうもそれを見越しての要求だったに違いない。言葉遣いは丁寧だが、メッセージの端々に高圧的な姿勢が垣間見えた。それだけに一つの疑問が湧いてくる。無意識にその疑問を声に出していた。
「どうして直接、接触して来ないんだろう……?」
普通に考えれば一人でも多くの生存者と合流して協力し合おうとするのが自然な流れではないか。それすら必要がないほどの大規模なグループということも考えられなくはなかったが、そうだとしても直接対話した方が交渉がスムーズにいくのは道理である。あるいは宣伝のための放送設備を手に入れたいだけなら食糧という絶対的な取引材料があるのだから、もっと強引に明け渡しを迫ってもおかしくはないはずだ。わざわざ手紙を届けるという手の込んだことをする意図が掴めない。正体がばれたくないだけかも知れないが、それにしては内容も事務的で本気で従わせようという意思が感じられなかった。断るならそれはそれで一向に構わないという淡白な印象だ。たぶん、こちらが無視したりイエスかノーかはっきりしない曖昧な態度を示したりすれば、宣言通り二度と接触して来ないだろうという気がした。
「受け容れるのは良いとして、問題はそれをどう伝えるかだね。向こうにだけ伝わるようにってことはストレートな返答じゃ駄目ってことだろうから、リスナーには不自然に思われず、確実に相手がわかる方法を考えないと……」
それで向こうが何を要求してくるか、出方を窺うしか他に手はなさそうだ。もしそれがどうしても受け容れ難いものであった場合は──その時はいよいよ覚悟を決めるしかあるまい。
「だったらこういうのはどう? 以前に届いた古いリクエスト葉書を読み上げるコーナーを立ち上げるのよ。これを聞いて元気を出してくださいとかってことで。その中にこの返信を紛れ込ますんだよ、もちろん葉書に書かれている風を装ってね」
「ふーん、なるほどね。あんたもやればできるんじゃない」
「当たり前でしょうが。こう見えて学生時代は葉書職人のマリリンって有名だったんだから」
その後、二人で細部を検討して伝える内容を決定すると、夕方六時の放送でそれは実行に移された。
「……お送りしています新コーナーですが、次にご紹介する懐かしのリクエスト葉書はラジオネーム、マレーン姫さんからのものです。気の早いサンタクロースさんへメッセージをお預かりしています。『贈られた目覚まし時計は無事鳴りました。次のプレゼントも期待しています』だそうです。気の早いサンタクロースさん、伝わりましたか? 次回のプレゼントも待っているそうですよ。それではリクエスト曲をお届けしましょう──」
放送の二日後に前回と同様の方法で、再び接触があった。
──返事は受け取りました。取引は成立したものと解釈しましたので、今後は定期的に食糧などをお届けします。必要なものがあれば宅配ボックスにメモでも残しておいてください。可能な限り応えられるようにするつもりです。また、緊急に連絡が必要な場合は今回のように放送でそれとなく知らせるようにして貰えればなるべく迅速に対応するようにしましょう。
さて、ここからは条件として承諾いただいた内容となりますが、まず同封した地図をご覧ください。御存知のように都市部の道路事情は壊滅的な状況にあります。郊外に向かうにつれ徐々に緩和されてはいきますが、中心街での車の通行はほぼ不可能と言って良いでしょう。公的機関による復旧の見通しも今のところ立っていないようです。そこで我々は自力での再建を目指して、その一部を復旧させました。お送りした地図に示された赤いマーカーでなぞった線がそうです。この区間は乗用車サイズであれば通行できるようになっています……。
晶は手紙と共に入っていたモノクロの地図に目を落とす。確かにそこには市の中心地から東西南北凡そ十キロほどに拡がる赤いラインが主要道路に沿って書き込まれていた。これが通行可能なルートということらしい。本当なら途轍もなく貴重な情報ということになる。あくまで本当なら、だ。真偽のほどはともかくとして、とりあえず続きを読んでいく。
……ただし、このことは決して移動を奨励しているわけではないことに留意してください。外の世界では依然としてゾンビによる脅威は去っていません。建物外に出るのは非常に危険で、ここまで生き延びた人達ならば現在いる場所こそが最も安全であると考えて間違いないでしょう。移動可能なルートをお伝えしたのはあくまでも最後の手段、何らかの事情でそこに留まれなくなった時の最終的な選択であると付け加えるのをお忘れなきように。また移動するにしてもどこに向かうのかという問題があります。残念ながらこの点についてはお答えできません。安全な避難キャンプのような場所は我々も掌握できていないからです。なお、ここまで読んで何故、我々がゾンビのいる危険地帯で復旧作業を行えるのか疑問に思われたことと思います。それについての詳細は明かせませんが、ある特殊な方法によって比較的危険が少なく作業ができているとだけお伝えしておきます。従って、万が一にも我々の作業の物音を聞きつけて安全と勘違いし戸外に出ることのないよう注意喚起をお願いします。繰り返し申し上げますが、外は決して安全ではありません……。
(特殊な方法とは何だろう……?)
以前にニュース番組で観た遠隔操縦できる重機の存在を晶は思い出した。確か放射能洩れ事故などに備えて原子力発電所といった施設に配備されていると聞いた憶えがある。隠さなくてはならない理由は不明だが、それならゾンビに襲われずに作業もできるのではないか。さらに手紙は続いていた。
……もう一つ、放送で伝えていただきたいことがあります。我々は現在、自宅などで個別に避難している人の把握に努めています。その上で可能であれば食糧などの援助も検討していく予定です。そこで放送を聴いた生存者に目印を掲げるよう呼びかけていただきたい。もちろん、危険がない範囲で構いません。例えば二階以上の窓から目立つ色のタオルを掲げるなどでも充分です。それによって生存者がいることが把握できれば我々としても大いに助かります。
以上のことを放送を通じて繰り返し呼びかけていただくよう要求します。新たな情報や要望があればその都度お知らせしますので、一先ずはこれにて。
最後まで読み切ると晶は手紙から顔を上げた。先に目を通していた麻里に手紙を戻す。文面を素直に受け取れば想像していたようなカルト教団などではなく、この上なく慈善的なグループだとわかる。何しろ、何らかの方法でリスクを軽減しているらしいとはいえ危険を顧みず、無償で道路整備をした挙句、命懸けで避難者に食糧の援助をして回ろうというのだ。だが、それは彼らの言葉を信じるならという注釈が付く。麻里などはカルトより胡散臭いと言っているし、それには晶も同感だ。その一方で食糧が届けられたという事実も無視できない。自分一人が生き延びるだけで精一杯というこの状況で、彼らの本心がどこにあるかは別にして、そんな酔狂な真似をする連中には興味があった。できることなら会って顔を見てみたいと晶は思った。果たしてそんな機会がこの先訪れるのか。
「どちらにしてもこれで後戻りはできなくなったわね」
麻里が噛み締めるようにそう呟いた。一分一秒まで正確に時を刻む壁のデジタル時計に目をやると、次の放送まで残すところ一時間と十三分余りに迫っていた。それまでに今読んだ手紙の内容を精査した上で原稿用紙にまとめ上げなければならない。久しぶりに慌しくなりそうな予感に、晶は気を引き締め直した。
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