10 引っ越し

 引っ越し先の有力な候補地である郊外の大型スーパーマーケットに智哉は翌朝一番で訪れてみた。いつものようにバイクで出かけ、どこにも寄り道をせずに到着したが、いきなり敷地内に入ることは避けて、まずは少し離れた場所から様子を窺う。慎重を期したのはもしも他の生存者に占拠されていた場合、彼らとの不用意な接触を防ぎたかったためだ。映画やドラマなどとは違い、実際のスーパーやコンビニには開口部が多く、とても篭城に適した場所とは言えずにその可能性は低かったが、絶対にないとは言い切れない。そんな人々の前にうかうかと姿を現して老人達の二の舞にはしたくなかったし、先客がいるようなら計画を練り直す必要もあると考えた。彼らと接触して協力する道を取るか、諦めて別の拠点を探すかである。今の智哉ならゾンビを利用すれば力づくで奪い取ることもできなくはないと思えたが、さすがにやり過ぎなので想像しただけで即座に却下した。だが、結果的にそうした考えは全て無駄に終わった。単体で四十万円以上はするスポーツオプティクスの最高峰とも言われる高級双眼鏡、その光学八倍のカールツァイス・レンズ越しに見た光景に生きた人間の姿は一人も映らなかったからだ。一階の正面玄関はシャッターが半分ほど上がった状態で開け放たれ、周囲の窓ガラスの悉くが粉々に砕け散って枠だけになっている。所々にショッピングカートを積み上げたバリケードらしきものが見られるが、そこを護る者はどこにもいない。風防室の奥の薄暗い店内に辛うじて何か動くものの気配を感じ注視したが、それが人間でないことはすぐにわかった。いつの間にか智哉はゾンビと人間の区別をちょっとした動作の違いから遠目でも見抜けるようになっていたのだ。その目が視界に入る一階の全てがゾンビに占拠されていることを告げていた。この分では他の階も恐らく同様に違いない。

 もっとも智哉だけならまったく苦にならないことだ。正面から堂々と乗り込んでいけば良い。それを断念せざるを得ないのは美鈴達を引き連れて来ることが前提だからである。幾らゾンビの間を自由に動き回れる智哉といえども、これだけの数を一定時間、抑えておくことは不可能だ。かといって始末するのも問題がある。そうするには数が多過ぎるし、死体を作れば新たなゾンビを誘引するきっかけにもなりかねない。さらにそれらの処分にも手間がかかる。ここはやはり正面突破は諦めて、クロダの案に従うしかなさそうだ。大まかな経路は生前に聞いていたので、屋上からの侵入口を探すため、とりあえずは店舗に併設された自走式立体駐車場に向かう。クロダの話によると店は三階までは普通に直方体を積み上げた形をしており、三階のルーフ部分の半分が屋上駐車場、残りがエレベーターの塔屋と倉庫を兼ねたペントハウスになっているらしい。智哉はバイクに跨って立体駐車場の螺旋式回廊を駆け上がり、建屋がある場所とは反対側の出入口から屋上に出た。そのままテニスコート四面ほどの屋上駐車場を横切って建物へとバイクを走らせる。スーパーの敷地内にもあちらこちらに車は放置されているが、壊滅的だったここまでの道路事情に比べれば雲泥の差だった。問題はこの先である。果たしてクロダの言うような侵入口が本当にあるのか。自分の目で確かめるしかあるまい。その前に一応、屋上駐車場から店内への出入口であるエレベーターホールを先に調べることにした。その傍にも倉庫に通じるドアがあるという話だ。クロダは鍵が掛かっていて侵入は無理と断言していたが、ひょっとしたら開いていて労せずに入れるかも知れない。それを確認するべく智哉がバイクを降りて塔屋に足を踏み入れると、正面にエレベーターの扉が見えた。電源は入っていたが、埃の積もり具合からここ最近で使われた形跡はなさそうだ。隣の階段も誰かが通った様子はない。少なくとも屋上からの出入りは人間にしろゾンビにしろないのだろう。一先ずエレベーターホールを後にしてさらに建物の外側を調べた。側面には確かに頑丈そうなスチールの扉があり、「STAFF ONLY」の表示がなされている。これが倉庫に通じる外側のドアに違いあるまい。ドアノブを回してみるが、やはりしっかりと施錠されていた。さすがに直接、外部と接しているドアだけあって造りは頑強そのもので、簡単にはこじ開けられそうにない。第一、この扉を壊してしまってはこれから利用するのに何かと不都合そうだ。ここは素直に手が出ないのを認めて、建物を回り込めるところを探すことにした。それでよく見て行くと、駐車場と建物を隔てるフェンスの奥に人一人がやっと通れそうな細長い空間を発見した。通れると言っても屋上外縁と建物の間の隙間に過ぎないので、当然安全面を考慮した手摺などは一切なく、一歩足を踏み外せば地上に真っ逆さまというスリル満点の抜け道だ。もっともこれまで経験したことに比べれば如何ほどの恐怖でもない。

(ここを通って裏手に回ればいいんだな)

 特に躊躇うこともなく智哉はフェンスを乗り越えると、落ちないように一応は気を付けながら狭い空間を奥へと突き進んで行く。建物の角まで来ると、そこを曲がって駐車場からは完全に死角となる裏側に出た。さらに行くと、建屋のちょうど真ん中辺りに明かり取りと思われる小窓を発見した。クロダが話していた侵入口とはこのことだろう。確かに地上からは仰いでも気付かない位置だ。念のために窓の外から覗いて見るが、中が暗い上にもう何年も清掃されていないのかガラス自体が薄汚れていてよく見えなかった。仕方がないので割って入り調べることにする。

(クロダもそうしろと言っていたことだしな)

 腰に吊るしていた山刀マチェットを鞘から引き抜いて、その柄の部分で窓ガラスを強打し割った。開いた隙間から手を差し入れて破片で切らないよう注意しながらクレセント錠を回す。窓を開けて身体を持ち上げ素早く建物内に侵入した。そこは埃っぽい空間で、割れた小窓と奥の天窓から射す僅かな光が室内に様々なものが置かれていることを見せていた。ここがクロダの言っていた不用品倉庫に間違いなさそうだ。辺りに人の気配はなかったが、用心をして五分ほど智哉はその場にじっと身を潜めていた。それでも何の動きもないことを確かめてからフラッシュライトを点け、周囲を窺った。

(本当に無人みたいだな。クロダの見立ては正しかったってことか)

 その当の本人がここに来られないというのは何とも皮肉ではある。もう少し詳しく調べていくと、置かれているのは古いマネキンや昔のディスプレイの名残などで、店内で売られている商品はまったく見当たらなかった。イシハラ達が期待していたようなインスタント食品すらない。その代わりに奥にはドアに鍵の付いた二つの小部屋があり、片側には簡易キッチンとトイレが併設されていた。もう一方の小部屋にはソファが置かれていたことから推測すると、ゆくゆくは店長室や応接室にでもする予定だったのかも知れない。キッチンのシンクに水が出ることを確認して、智哉はそれらがあるのとは正反対の壁に向かった。そこにもドアが一つあり、シリンダー式の鍵が掛かっていたのを内側から解除して開けた。その先は窓のない真っ暗な廊下で、フラッシュライトに照らされた一方の突き当たりには金属製のドアが見えた。反対の奥には階段とエレベーターがあるのを確認できた。エレベーターは普段、店内で目にする来客用ではなくて、装飾を排した殺風景なもので業務用と思われた。まずは金属製のドアの方から調べることにして、そちらに進む。扉の前に立ちサムターンを回して開けた先は、思った通り外に通じていた。「STAFF ONLY」と描かれていたあのドアだ。ここから出入りできるようになればわざわざ裏に回って小窓を乗り越えなくても済むが、それには駐車場側から開け閉めするための鍵が必要となろう。合鍵を製作する道具ならあるにはあったが、どこかで入手できれば手間が省けて助かることは言うまでもない。今は内側からしか施錠できないので、鍵を閉めた上で戻ってもう一方の突き当たりを探ることにする。端にあった階段は下の階と繋がっていた。ライトの光を頼りに静かに階段を下って行くと、三階のバックヤードらしき場所に出た。そこではテープで細かく区分けされたリノリウムの床の上に、スチール棚や台車に載せられた箱詰めのままの商品が所狭しと置かれていた。両側を商品に占領された細長い通路には、嘗て従業員だったと思われるゾンビが何体か彷徨っている。興奮していないところを見ると、近くに生きた人間はいないようだ。それで智哉は緊張を解いた。ゾンビよりも生存者がいなくて安心するというのも妙だが、それが現在の智哉の偽らざる心境なのだから仕方がない。警戒すべきはゾンビよりも人間の方だ。そう思うのは自身がゾンビに襲われない体質なのもさることながら、一度裏切られた経験が尾を引いているからかも知れない。元より智哉は人間の善性を当てにはしていなかった。生まれつき人間の本質は悪という意味ではなく、善悪の価値観は置かれた状況や立場や経験によって如何様にも変化するものだと思っている。戦場で兵士が残忍な行為に及ぶのは、何も彼らが血に飢えた悪鬼だからではない。むしろ、大多数の者は家に帰ればごく平凡な父親であり、夫であり、息子であり、兄弟であるはずだ。それが戦場という環境に置かれた途端、それまで培ってきた道徳や正義やモラルは失われ、平然と他人を害することができるようになるのである。誰でもそうなり得るところが人間の恐ろしさの最たるものと言えよう。だから常日頃の温厚さや誠実ぶり、外見的な印象や立ち居振る舞いは非日常においてその人物を判断する上で何の意味もない。ゾンビが人間よりも御しやすく感じるのは、本能に従ったシンプルな行動原理しか持たないからだ。裏切りも打算も利害も情念もない。故に単純で予測も立てやすい。人間相手だとこうはいかない。無論、ゾンビが脅威とならない智哉だから思うことができ、他の者に共感させるのは困難であろう。だが、仮にそうでなかったとしても人間を危険視する考えに大差はなかったと思う。

 従って拠点となる場所はゾンビだけでなく、人間に対しても備えができた方が望ましいと智哉は考えていた。この建物が果たしてそれに相応しいかどうかを見極める意味でも積極的に探索を推し進める。そうしたところ、バックヤードの通路の途中では店内の見取り図を見つけた。従業員向けのものだったらしく、売り場の案内表示には描かれないであろう事務所や機械室といったものまで載っていた。それによると、この先には警備員室があるらしい。また店内の大まかな間取りは一階から三階までがほぼ共通で、中央の売り場を倉庫や作業室や荷分け室などから成るバックヤードがL字型に取り囲むようにして配置されている。売り物は一階が食料品、二階は日用品や生活雑貨、三階にインテリアや家電が並ぶという順だった。平面的にはそのような構成になるが、立体的な見方をすれば上下に四層から成るバックヤード部分と、三層の売り場部分のメゾネット構造と言えなくもない。即ちこの二つを首尾よく分離できれば、四階から一階までのバックヤード側を密閉性の高い独立した住空間として利用できるのではないか、というのがこの見取り図から智哉が得た着想だ。その際、バックヤード内にいるゾンビは売り場側に追い出せば良い。それなら美鈴達も安心して暮らせるだろう。それが可能かを確かめる前に智哉は警備員室に立ち寄った。室内では壁に設置されたキーキャビネットをこじ開けて、保管されていた鍵の束を入手する。その後、階段でさらに下階へと進むが、二階のバックヤードは置かれている商品の種類が違うだけで三階と大差はなかった。一階だけが独特の構造で、扱う食品毎の作業室に細かく区分けされていた。その一つ一つ中を見て回ったが、思ったほど荒れてはおらず、この分なら簡単な掃除をするだけですぐに使えそうだ。ざっくりとだがバックヤードの確認が済むと、次は見取り図に示されていた一階の商品搬入口に向かう。荷捌き場の奥にあったのがそれで、今は電動シャッターが下りて固く閉ざされていた。智哉は鍵の束から合うものを探し出しスイッチボックスを開けて中の開閉ボタンを操作する。電動シャッターは問題なく動くようだ。半分ほど開けておき、外に出る。そこは建物の裏手に当たるらしく、商品が直接運び込めるようトラックの荷台の高さに合わせたプラットホームになっていた。しかし、現在は一台のトラックも見当たらない。さらにその奥、トラックヤードの脇にはゴミの集積場があり、そこから強烈な異臭が放たれていた。どの途、ここを拠点にするなら恐らく食品フロアのクリーニングは避けて通れないはずなので、その時一緒に片付けようと今は見なかったことにする。屋内に戻って、再び電動シャッターを下ろすと鍵を掛ける。

(ゴミの処分はこれ以外にも考えないとな)

 特に生活する上で出るゴミの始末は重要な問題だ。大きなものは智哉が運び出すとして、細かな生ゴミなどは専用の機械を持ち込んで美鈴達にコンポストにでもさせようと思った。

 ここまで見て来て拠点として利用できそうな目途が立ったことで、智哉は本格的な作業に着手した。手始めに二時間ほどをかけてバックヤード内を隈なく探索し、中にいた全てのゾンビを売り場側に追い払うと、間を隔てるスイング式ドアを施錠して回った。ゾンビの侵入を防ぐのに強度としてはやや物足りなさはあるが、美鈴達に近付かさせなければ問題ないだろう。あとは警備員室で見つけた鍵を使い屋上の外扉から連れ込めば彼女達がゾンビと鉢合わせすることなく倉庫に辿り着けるはずだ。最初に侵入口として使った小窓にゾンビが回り込む危険性は殆どないだろうが、念のために後ほど格子を付けて補強するつもりである。そうしたバックヤード内の作業がひと通り済むと、次に智哉は売り場に目を向けた。まずはマンションでやった要領で来客用のエレベーターを停止させると共に、階段とエスカレーターの昇降口付近に設置された防火扉を作動させて全て塞いだ。防火扉に備え付けの潜り戸は逃げ遅れた者が出られるように本来閉め切ることはできないが、それも針金などを使い開かないよう固定する。これでフロア間の移動はバックヤードでのみ可能となった。その上で売り場側のゾンビは敢えて排除せずに留めておくことにした。それなら店内を自由に動き回れるのは智哉だけとなり、外敵の侵入を防ぐ備えともなる。半面、店内の物資の調達には智哉自らが赴かなくてはならないが、メリットを考えればその程度の労力は許容範囲とすべきだろう。

 ほぼ一日がかりでそれだけのことをし終えると、智哉は不在中に誰かが侵入してもわかるような細工をドアに施して、スーパーを後にした。拠点としての態勢は概ね整ったので、お次はいよいよ移動経路の確保に乗り出す番だ。そのために必要な機材の調達に出向く。その道すがら残り少なくなったオートバイのガソリンの補充にスタンドへ立ち寄った。以前にガソリンスタンドでのアルバイト経験がある智哉は、災害などの非常時には電源を使わずとも地下タンクから燃料を汲み上げることができる手動式ポンプの存在も知っていたが、今はまだ普通に計量器が使えてそれで給油した。とはいえ、一見するとあちらこちらのスタンドや放置された車両から無尽蔵に手に入りそうなガソリンも実のところ、耐用年数は半年から長くてもせいぜい二年程度なので、いずれは枯渇するものと覚悟しなければならない。ガソリンが何年も劣化しないのは映画の中だけである。その点、軽油ならば適切に保存することで十年は保つはずなので、折を見て燃料はそちらにシフトすることになるだろう。ただし、車や発電機はそれでも良いが、ディーゼルエンジンの二輪車となると日本ではお目にかかったことがないので、バイクはそのうち手放さざるを得まい。ATV(=All Terrain Vehicle、全地形対応車)と呼ばれる小型のバギーならバイクの代わりが務まりそうだが、ディーゼルエンジン仕様があるのか、どこで入手できるかはまだわかっておらず、そうした観点からも車で移動するための道路整備は急務と言えた。

(それでも十年後には燃料は尽きるんだが……。いよいよとなればBDFの生産も視野に入れるか)

 走りながら冗談とも本気ともつかないことを智哉は考える。BDFとはバイオ・エタノール・フューエル、つまり生物由来の原料から精製されるディーゼル燃料のことだ。近年では環境への関心の高まりから温暖化対策の一環として注目が集まっているバイオマスエネルギーの一種である。生産には多少の生化学知識が必要だが、個人でやってやれないことはない。現に仕事先の知り合いに趣味で取り組んでいる人がいて、智哉も軽く手解きを受けたことがあるが、工程のあまりの煩雑さにすぐに投げ出してしまったという経緯がある。

(原料は確か菜種やオリーブや向日葵みたいな油分の多い植物が適しているんだったな。それなら栽培もできそうだ。方法はエステル交換でグリセリンを取り除く、だったか。動物性の油脂でも良いということはゾンビでも原料になるんだろうか……?)

 知り合いから教わった知識を絞り出しながら智哉は頭の中で作業工程を思い描く。小型の製造プラントが触媒と共に市販されていることは知っていた。

(まあ、当分はまだガソリンが使えるし、その後は軽油や重油もあるだろうから、どちらにしてもかなり先の話だ。その頃には文明も復活しているかも知れないしな)

 おいおい準備していこうと考えているうちに、目的の場所に到着した。そこは幹線道路から一本脇に入った市道沿いにある、どこかの建設会社の重機置き場だった。以前に傍を通りかかった際に、役に立ちそうだと目星を付けておいたのだ。百坪ほどの空き地にシャベルカーやダンプカー、ブルドーザーなどが整然と置かれている。これらの重機を使って塞がれた道路を切り拓くつもりだった。奥には事務所らしきプレハブ小屋が見えたので、智哉は敷地内にバイクを停めると、建物に近付いた。中に誰もいないことを確かめてからまたしても窓ガラスを割って侵入する。

(通報される恐れがないと、こうも簡単に忍び込めるもんなんだな)

 すっかり手慣れたやり方に奇妙な感慨を抱く。当初はブルドーザーを拝借する予定だったが、置いてある重機を見て気が変わり、大型のホイールローダーを持ち出すことにした。道路上ではクローラーよりタイヤの方が扱いやすいだろうという想像からである。キーを見つけるのに若干手間取ったが、何とか捜し出して建物を出ると、目的の車両に乗り込んだ。シートの下から操作マニュアルを見つける。それに記載されていたカタログスペックによると全長十メートル、運転質量約三十四トン、定格出力はネットで約三六〇PSとある。智哉のバイクの凡そ九倍のパワーだ。運転席の高さは優に二メートルを越え、これまで智哉が動かしたどんな乗り物とも比較にならない見晴らしの良さだった。正直、運転席に坐っただけでこれほど胸が躍るとは想像もしていなかった。思わず童心に帰ったような気分になる。だが、はしゃいでばかりもいられないので、智哉は気を引き締め直すと、内心の興奮を押し殺してエンジンをかけた。暖機中に、ざっとマニュアルに目を通す。それによるとバケットの扱い方を除けばさほど複雑な操作は必要なさそうだった。特に電子制御のオートマティックトランスミッションは普通乗用車のそれと変わりないようだ。左足で扱うインチングブレーキだけが独特の機構だったが、運転に必須ではないので慣れるまでは使わずにおけば良い。中折れ式の操作感覚に多少の戸惑いを覚えながらも、暫く空き地を走らせているうちにそれも気にならなくなった。あとは実地で覚えることにして早速道路に出た。どうせぶつけたところで誰かに咎められるわけではないのでお気楽なものである。肩慣らしに近くの車の側面にバケットの先端を当てて、ゆっくりと路肩に押しやった。バケットには地面に降ろすだけで水平に戻すオートレベリングの機能が備わっているため、リフトアームの高さを調整するだけの子供でもできる簡単な操作だ。二台目、三台目と続けていくうちに、コツらしきものも掴めてきた。車一台分の通路を確保するだけなので、細かい取り回しを気にする必要もない。昔、テトリスというテレビゲームが流行ったが、それを智哉は連想した。開いたスペースを見つけ出し、そこに押し込むだけという単純さの中に妙な中毒性がある点がそっくりだと思ったのだ。気を配らなければならなかったのは、作業内容よりもむしろ騒音を聞いた近隣の住人がひょっこりと現れないかということだった。そうなれば過日のような惨劇をまた繰り返す羽目になる。現時点で智哉に美鈴達以外の生存者を抱え込む気はさらさらない。人数が増えればそれだけ世話焼きに忙殺されるのが目に見えているからだ。そうなることだけは是が非でも避けたかった。よってその日以降の作業は人目に付かない深夜に行うことにした。それなら音は聞こえても何をしているのかは不明で、安易に近寄ろうとはしないだろうとの判断に基づく。もし誰かに遭遇しても無視すると覚悟を決めて臨んだが、幸い五日間を要した作業期間中に人と遭うことはなく、さらにもう一日かけていざという場合に逃げ込めるよう退避場所を一キロ置きに用意して、漸く引っ越しの準備は整った。残るはいつ行うかの決断だけだった。

 その間、美鈴達は智哉の言い付け通り大人しく待っていたが、内心ではかなり焦りを募らせていたようである。もちろん、智哉は意に介さない。それよりも本番を迎える前に、一人でリハーサル走行を行うと決めた。走るルートは確定しているので、どの程度まで速度が出せて、所要時間はどれくらいかかり、本当に途中で立ち止まらずノンストップで行けるのかを検証するためだ。なるべく条件が変わらないよう本番の直前に実施し、その結果如何によっては引っ越しの延期や中止もあり得ると美鈴達には話してある。使う車は用意してあった。五人組がマンションから脱出する際に乗るはずだったコヤマの軽自動車がそれだ。もっと大型の車や重機を使うことも検討したが、どうせゾンビに囲まれてしまえば同じことなので、そうならないためにも軽の持つ加速性能と小回りの良さに賭けようというのが智哉の下した最終判断だった。あとは美鈴達の運の良さを祈るしかない。


 結局、美鈴達の強い要望もあって引っ越しは準備のできた翌日、直ちに行われることになった。その日、智哉はコヤマの軽自動車に乗ってマンションを出た。工場に赴くと、美鈴達は既に用意を整えて智哉を待ち受けていた。

「予定通り今からリハーサルをする。一時間ほどで戻る予定だ。それで何も問題がなければすぐに本番を行う。支度はできているようだが、念のために確認しておくと食糧や毛布は持って行かない。持ち出すのは元々の自分達の荷物でどうしても手離せないものだけにしろ」

 それだけ言い置いて智哉は三人を残し、工場を後にした。正面に停めておいた車に乗り込むと、急いでエンジンをかけた。別段、慌てる必要はないのだが、のんびりしていると美鈴達に怪しまれる恐れがあるので、すぐにその場を離れる。その際、オートマティック車だが、ギアはドライブに固定せず一速ロー二速セカンドも積極的に使って加速重視のドライビングを心がけた。だが、事故を起こしては本末転倒と言えるので、無理はせず一定の速度以上を維持することに努める。仮にゾンビに百メートルを十秒フラットで走る脚力があるとして、時速に換算すれば三十六キロだ。カーブでの減速を考慮に入れたとしても常にスピードメーターを意識していれば平均でそれを上回ることはたぶん難しくはない。そうなれば理論上は後ろから追いつかれる心配はないわけで、正面や側面から飛び出すゾンビにだけ注意を払えば良いということになる。懸念すべき材料としてはどの程度まで接近した時にゾンビが獲物の存在に気付くかということだが、こればかりは事前にテストをするわけにもいかなかったので、出たとこ勝負となるのは致し方がなかった。そもそも不確定要素を全て取り払うことなどできようはずがないのだ。そうして智哉一人の状態でゾンビの襲撃がなければ、凡そ十二キロの行程を約十五分で走破することができた。平均時速は約四十八キロ。そう聞くと遅く感じられるが、市街地を車一台通り抜けられるのがやっとという狭い通路を縫ってのこの記録だ。それほど落胆したものではない。その後、ゴール地点であるスーパーの屋上に車を停めて、智哉はひと息吐いた。その前方をどことなくのんびりした調子のゾンビが横切って行く。駐車場内のゾンビは排除したはずだが、何処からか紛れ込んだらしい。やれやれ、と溜め息を吐きながらも智哉は車を降りて、ゾンビの後を追った。奴らの始末の付け方はもう充分に心得ており、後頭部のどの辺りをどの方向にどの程度の深さまで凶器を突き刺せば良いかも研究済みだ。死体は外の駐車場の隅にでも置いておけば他のゾンビが勝手に集まって片付けてくれるので処分に困ることもなかった。ただし、今はゾンビを寄せ付けたくはないので、面倒でも表に連れ出して戻って来ないようその辺に鎖で繋いだ。それから車に戻って、シートに深くもたれながら、もう一度計画に不備がないかを頭の中で反芻する。完璧とはいかないまでも思い付くことは全てやったという自負はある。考え得る限りのリスクは最小限に留めたはずだ。この上さらに何か必要なら、もはや智哉の手に余る。何もせずにじっとしているしかない。そうまでもしても何が起こるかわからないのは五人組との一件で嫌というほど身に染みていた。同じことが今度は美鈴達の身に降りかからないとは限らないのだ。それでもやるのか、という問いに、智哉はイエスと答えるしかなかった。このまま放って置いても恐らく彼女達は助からない。待っているのはゾンビに襲われるか、飢え死にするかのいずれかの末路だ。かといって今の状況で智哉がずっと面倒を見続ける気もない。美鈴達が生き延びるにはどうあっても智哉が用意したこの場所に移るしかないのである。

(これだから他人と関わりたくはないんだ)

 ほんの行きがかり上で助けただけの相手に対してさえ、こうも厄介な感情に囚われる。それもこれも知り合わなければ済んだ話だ。こんな面倒事は今回だけだと固く心に決めて、智哉は胸のポケットから新品のマールボロ・ライトを取り出した。パッケージを破り、一本抜いて口に咥える。煙草は三十になったのを機に止めていたが、ここに来てまた吸い始めていたのだ。どうせいつ死んでもおかしくないのに、健康に気を遣うのが馬鹿らしかったからである。禁煙してからもこれだけは捨てずに取ってあった涼子からの誕生日プレゼントであるジッポーのオイルライターで火を点けた。肺の隅々までたっぷりと紫煙を行き渡らせる。景気付けに何か音楽が聴きたくなってコンソールボックスを探るが、出てきたのは智哉にまったく馴染みのない日本の男性アイドルのCDばかりだった。仕方がないので無駄だと思いつつもカーラジオの電源スイッチを入れる。次々と選局してみるが、どのチャンネルからも当然のように雑音しか聴こえてこない。それでも諦めきれずにチューニングを弄っていると、不意にノイズの中に規則性のある音が混じった気がした。よく聴くと、それはメロディーのようだった。急いでツマミを調整して、分厚い壁越しに擦り切れたレコード盤を聴くくらいにはなる。かかっているのは英語の曲で、女性の歌声だ。その曲に智哉は聴き覚えがあった。一九六〇年代にスキーター・デイヴィスというアメリカのアーティストが歌ってヒットしたカントリー・ポップ調のナンバー、確か日本でのタイトルは『この世の果てまで』。涼子が好きでよく聴いていたので、智哉も自然と口ずさめるほどに憶えてしまっていた。何故太陽は輝き続けるのだろう? 何故波は浜辺に打ち寄せるのだろう? きっと知らないのだ これが世界の終わりだということを だってあなたはもう愛してくれないのだから。日本語でそんな内容の歌詞だったと思う。それが涼子の愛聴していた曲だと気付いた刹那、智哉の中で突然、何かが弾けた。急に息が詰まるほどの、誰でもいいからすがり付きたくなるくらいの郷愁を感じて、思わず座席に蹲り、固く目を閉じた。この数日間の出来事が全て夢や幻だったかのように曖昧となり、次いで涼子と過ごした記憶がこれまでに経験したことのないほど鮮明に甦った。今になって何故そんなことが起こるのか、智哉にはまったく理解できなかった。まるでずっと探していたものが、探していたことすら忘れた頃になって急に見つかる、そんな気分だった。気付くと智哉は目に薄っすらと涙を浮かべていた。どうして泣くのか、それが悲しみなのか愛しさなのか切なさなのか淋しさなのかもよくわからないまま懸命に涙を堪えた。自分にまだそんな感情が残っていたことが驚きだった。考えてみれば世界がこうなってから他人のことで心が掻き乱されたのはこれが初めてだ。肉親に対してさえ、どうせ生き延びてはいまいと、どこか冷淡だった。その証拠に探しに行くという予定は未だ実現できていない。距離がある過ぎるというのがその理由だったが、本当は自分のことしか考えられなかっただけではないか。今にして思うと涼子の死についても同様だった気がする。本気で向き合ったことがあったのかと疑問に思う。

 曲はそのまま最後まで流れると、また最初から繰り返された。エンドレスで流されているらしい。都合三度聴いて漸く智哉は落ち着きを取り戻した。誰にも見られていなくて幸いと言えよう。気を取り直してチャンネルを確認するが、それは智哉の記憶にない周波数だった。少なくともメジャーなラジオ局ではない。

(どういうことだ? 災害用の緊急放送だろうか? だとしたら発信源を探し出すのは難しいかも知れない)

 正体不明で諦めかけたその時、地元にミニFM局があったのを思い出す。智哉は聴いたことはなかったが、広報などで存在だけは知っていた。もしかしたらそれかも知れない。ただ、周波数までは憶えていなかった上に、今はのんびりと調べている暇はなさそうだった。雲行きが怪しくなりかけていたのだ。微かに風も強くなっている。ぼやぼやしていて雨が降り出せば僅かな悪条件でも避けるべきという意味において、今日の引っ越しは断念せざるを得ないだろう。急げばまだ間に合いそうなので、智哉はとりあえず周波数をメモしてラジオのスイッチを切った。誰かが意図して放送しているとすれば恐らく決まった時間──例えば切りの良い正午や午前零時などに何らかのメッセージが発信される可能性は高い。それまでには時間があるし、この先は他のことで集中を乱されたくなかったからだ。ルート上に何か変化はないかを確認しながら智哉は工場へ引き返した。敷地内に入ると、なるべくシャッターに幅寄せして車を停める。エンジンはかけたままにしておき、周辺にゾンビがいないかを確かめた上で中に入った。身支度を整えて待っていた美鈴達を一階に下ろしシャッターの前で待機させると、緊張で表情を強張らせる三人に智哉は声をかけた。

「もう一度確認するが、向こうに着いたら屋上から建物に入る。手前までは車で行くから降りて走る距離は僅かだ。建物に入ってしまえば安全だから慌てる必要はない。車から出るタイミングは俺が合図する。それまではシートに臥せて隠れているんだ。俺がいいと言うまで絶対に顔を上げるなよ」

 顔を上げさせないのは少しでも見つかりにくくしてゾンビに気付かれるのを遅らせるためでもあるが、もう一つ別の意図も含まれる。外の様子をなるべく美鈴達に見せたくないからだ。道路に関しては一応、五日かけて通れるルートを探し出したことにしていたが、詳しくは説明していない。今はまだ外の世界を智哉が行き来していることにさほど疑問は感じていないようだが、実際に目にすれば不審に思い始める恐れがある。余計な情報はなるべく与えないに越したことはない。

「あとは打ち合わせ通りにやれば大丈夫だ。焦ってパニックにだけはなるな」

 三人は神妙に頷く。だが、美鈴は恐怖と不安のためか胸の前で握り締めた拳が微かに震えていた。妹の加奈もいつもとは打って変わって口数が少なくなっている。優馬でさえ事の重大さをわかっているようで緊張しているのが伝わった。それぞれが息を詰めて合図を待つ中、行くぞ、という掛け声と共に智哉がシャッターを押し上げ、三人が勢い良く外に飛び出した。先頭を優馬が走り、その後ろを加奈が追い、最後に美鈴が続く。事前に智哉から周辺にゾンビがいないことは聞き及んでいたが、それでも美鈴は避難して来て以来、初めて表に出た緊張感からか、思うように脚が動かせていない気がして焦った。気持ちとは裏腹な肉体に思わず恐慌をきたしかけるが、パニックになるな、という智哉の言葉を思い出し、冷静になれ、と必死に自分に言い聞かせて踏み留まる。こんな時にどう対処すれば良いかはこれまでの人生で誰も教えてはくれなかった。家庭でも学校でも塾でも習っていない。たぶん親も教師も塾の講師も知らないのだ、と美鈴は思った。大人なのだから何もかもわかっている気がするのは錯覚だ。彼らにも経験のないことは沢山ある、そう考えると少しは落ち着いた。しっかりと前を見据えて脚を踏み出すことができるようになると、車まではあっという間だった。

 三人が次々に後部座席に乗り込んだのを確認して、智哉は後ろのドアを閉めると、自分は素早く車体を回り込んで運転席に腰を下ろした。シートベルトを締めるのとほぼ同時にギアを一速ローにシフトして床までアクセルを踏み込む。途端に弾かれたように飛び出したコヤマの軽自動車は瞬く間に工場の敷地を走り抜け、道路に躍り出た。ここからが本番である。さらに加速してスタートから約百メートルを過ぎたが、まだ背後に追って来る者の影は見られない。このまま行けるか、と思った矢先に最初のカーブ地点に差し掛かる。僅かに減速してスリップしないギリギリの速度を保ちながら突入すると、コーナーを抜けた先に一体のゾンビを発見した。顔を上げてこちらを見ているが、向かって来ようとはしていない。

(思ったより反応が鈍いな。この分なら楽勝か……?)

 そう考えながら真横をすり抜けた瞬間、ゾンビの形相が一変するのを視界の端で捉えた。さすがに近くを通り過ぎれば姿は見られなくとも美鈴達の存在には気付かれるようだ。だが、追い越してしまえばさほどの脅威にはなるまい。今も全速力で後を追って来る様子がバックミラーに映っていたが、その姿は見る見るうちに小さくなっていった。

「あの……大丈夫ですか?」

 後部座席から美鈴がそう声をかけてくる。何が起きているのかわからず不安に耐えかねたのだろう。そうはいっても智哉の方も、道を塞いでいた車両を両端に寄せてできた車一台が辛うじて通れるだけの隙間を可能な限り全速で走り抜けている最中である。のんびりと説明してやる余裕はない。

「喋るな。舌を噛むぞ」

 振り返らずにそう答えるので精一杯だった。その切羽詰った口調に美鈴も直ちに押し黙る。智哉の注意を逸らさないことが今の自分にできる唯一の手助けだと悟ったらしい。

 その間にも市の中心部に近付くに連れて、目に入るゾンビの数ははっきりと増加していった。それに伴いバックミラー越しに見えるゾンビの姿も増えてくる。それらは直線では何とか引き離すものの、次々と新手が現れる中では思うように距離が開けられず、さらに市街地に入ってカーブが増えてからはコーナーで減速するたびに後方数メートルの距離まで差を詰められて、ヒヤリとする場面が幾度かあった。やがてその原因がカーブが増えたことばかりでなく、発進した直後と比べて明らかにゾンビの反応が良くなっていることにあると気付いた。当初は数メートルまで接近しなければ向かって来なかったものが、現在はもっと早い段階から追われ始めている。何かがおかしかった。どこかに智哉がまだ気付いていない落とし穴があるに違いない。車を走らせながら必死で思考を巡らせた結果、それはゾンビの集団性を誤解していたのではないかと思い当たった。

(もしかしたらゾンビに追われること、それ自体が他のゾンビの襲撃を誘発する引き金になっている……?)

 つまりはこういうことだ。これまでゾンビには他の個体と協調する行動が見られなかったため、それぞれが勝手に動き回っているものと思い込んでいた。しかし、それは単に会話や身振りといった我々にも伝わりやすいコミュニケーション能力ではなかっただけで、集団性を失っているわけではないのかも知れない。もっと別の方法、例えば標的を追うという行為そのものが一種のマーキングの役割を果たし、遠くからでもその存在を知らせているとすればどうだろう? 徐々に反応が良くなっていることにも説明が付く。もしくは人間に感知できないサイン──蜂の毒液に含まれる攻撃フェロモンのようなものを興奮したゾンビが撒き散らしているとも考えられる。無論、そうした仮説をこの場で即座に検証するのは不可能だ。問題なのはそれらが正しかった場合、この先さらに襲撃は過酷さを増すだろうということだった。

(残る行程はあと四キロ。果たしてこのまま逃げ切れるのか……?)

 今や四方八方からゾンビが殺到して来るまでになっている。この予想外の勢いでは途中に設けた退避場所に逃げ込む方が危険は大きい。こうなったら何があろうと最後まで走り切るしかない。そう智哉が覚悟を決めた直後、突如目の前に一体のゾンビが飛び出し、道路を遮る形で立ち塞がった。遂に先回りされるまでになったかと思う間もなく、反射的に避けようとステアリングを切ってしまい、路肩に寄せた車に激しく側面をぶつける羽目になった。それでも左右に逃げ場はなく、結局のところ、真正面からゾンビを跳ね飛ばすしかなかった。ボンネットで一瞬弾んだ身体はフロンドガラスにぶち当たり、大きなひび割れを入れて、そのままの勢いで後方に流れて行った。振動に後部座席から悲鳴が上がるが構ってはいられない。懸命に体勢を立て直す間にも次から次へと横合いからゾンビが跳びかかって来ており、弾かれるのもお構い無しに横っ腹へと激突し、小石のようにクルクルと宙を舞っては地面に叩き付けられる様子が目に飛び込んでくる。立て続けに襲い来る衝撃に最初こそ美鈴は思わず声を発したが、その後は何とか手で口を塞いで悲鳴が洩れるのに耐えた。智哉の気を散らしてはならないという彼女なりの精一杯の取り組みである。それでも何が起こっているのか気が気ではなく、外を見たいという衝動を辛うじて抑えているに過ぎなかった。万一にでも智哉の言い付けを破り、顔を覗かせたせいで失敗したら後悔してもし切れないと思うからに他ならない。代わりに座席に臥せたままの態勢で隣にいる妹達の様子を窺う。二人共固く目を閉じて、投げ出されないよう死に物狂いでシートにしがみ付いている。その姿はまるで荒波に揉まれる小枝のようだ。美鈴は無事に辿り着くよう必死で願った。

 あと二キロ。目まぐるしく変化する周囲の状況に応じていくうちに、いつしか智哉は自分がゾンビに狙われないことをすっかり失念していた。この瞬間、正しく智哉は命懸けでハンドルを握っていたに等しい。さすがにゾンビといえども時速四十キロを超えて疾走する車に取り付くのは容易ではないらしく、ここまでに成功した例は一つもなかった。半面、絶えず晒される衝突に耐えねばならず、ハンドル操作を誤らないようにするのが一大事だった。ここに至るまでに一体どれくらいのゾンビを跳ねたのか、もう数え切れない。車体もボロボロで、コヤマが生きていたらさぞ怒り狂ったことだろう。それでも何とか残り一キロ付近を過ぎて、これより先はほぼ直線の幹線道路に入る。ここぞとばかりに智哉はアクセルを踏み込んだ。時速五十キロ……六十キロ……見る間にバックミラー内のゾンビは遠ざかり、横から跳びかかられることもなくなった。残すは真っ直ぐな道のみだが、まだ安心はできなかった。最後の難関としてスーパーの駐車場入口が待っている。道路と直角に面しており、曲がるには当然減速が必要だった。それもこの経路で唯一の急制動が求められる箇所だ。

「もう少しだ。頑張れ」

 智哉は自分にも言い聞かせるように後部座席に向かって声をかけた。誰からも返事はないが、三人共それどころではないのだろうと推測する。ところが一瞬、背後に気を取られたせいで、駐車場の入口が迫っていることに気付くのが遅れた。路肩に寄せた車で死角になって見えなかったことも災いした。あっという間にその距離は十五メートルを切る。慌ててフルブレーキをかけたが間に合わず、四輪共にロックした状態で入口を大きく行き過ぎてしまった。智哉は舌打ちして、急いでシフトレバーをリバースに叩き込み、猛然とバックし始めた。リアガラス越しに周囲のゾンビが迫って来ているのがわかる。もう一度、入口を通り過ぎて切り返す暇はなかった。後ろ向きのままで駐車場に飛び込むが、それでも入口付近にいた一体のゾンビが追いつき、ボンネットに飛び乗られてしまう。指をかける隙間をどこかに見つけでもしたのか、落ちることなくしがみついている。だが、それを悠長に振り払っている余裕が今の智哉にはない。何しろ、道路ほどではないとはいえ、駐車場内にも至るところに放置車両があり、その間をバックで通り抜けなければならないのだ。しかも、獲物に気付いたゾンビが続々と敷地内に押し寄せている。スラローム競技の要領で何とか障害物を避けつつ、立体駐車場を目指すが、この状態のままでは逃げ切る自信がない。さらにはボンネット上のゾンビだ。走行中は振り落とされないようにするので手一杯らしく大人しく掴まっているだけだが、停車した途端に襲って来ることは目に見えている。そんな中に三人を下ろすわけにはいかないだろう。かといって智哉が外に出て始末を着けている暇はなさそうだ。屋上に到達する前に振り落とすしかない。

(アレしかないか……)

 智哉の脳内に閃くものがあった。免許を取りたての頃、仲間内で流行った遊びを思い出したのだ。ただ十年以上も昔のことでずっと練習もしていない。身体が当時の動きを憶えているかが問題だった。それでも他に方法が思い付かない以上、試すしかない。覚悟を決めて智哉は進行方向の障害物が途切れたのを皮切りに、思い切って速度を上げた。充分に加速した頃合いを見計らって、一瞬だけフットブレーキで荷重を前方に移すと一気にステアリングを切る。それと同時にサイドブレーキを引き、路面との摩擦係数の限界を越えてグリップ力を失ったタイヤがロックするように仕向けて、舵角以上に内側に切れ込む現象、所謂オーバーステア状態を導き出す。車は激しいスキール音を立てながらその場で瞬時に百八十度向きを変えた。スピンターンと呼ばれる旋回技術だ。それによって発生した強烈な遠心力に耐え切れなかったボンネット上のゾンビは狙い通りに吹き飛ばされた。だが、それでまだ終わりではない。旋回している最中に智哉はシフトレバーを一速ローの位置に戻すと、慣性が収まり切る直前にアクセルを踏み込んでいた。後輪がグリップ力を取り戻す僅かなタイムラグの後、勢い良く車体が前方に押し出される。その結果、最小限の減速で見事、進行方向を変えることに成功した。しかし、スピンターンは上手くいったものの、智哉にそれを喜ぶ時間は与えられなかった。すぐ目の前に立体駐車場の螺旋スロープが迫っていたためだ。ここでどれだけ追っ手を引き離してアドバンテージを稼げるかで、車を降りてから建物内に逃げ込むまでの猶予が決まる。従って速度を落とすわけにはいかなかった。耳をつんざくタイヤの摩擦音にも構わず智哉は限界に近いスピードでスロープを駆け上がった。強烈な横Gに耐えかねて内臓が悲鳴を上げかけるが、苦しいのは後ろにいる三人も同じはずと思い踏ん張った。その三人へ、もうすぐ到着するぞ、と智哉が声をかけた直後にスロープは終わり屋上に躍り出る。素早く辺りを見回してゾンビの姿がないことを確認すると、エレベーターのある塔屋まで一気に車を走らせた。出入口前に車を横付けにすると、着いたぞ、降りろ、と智哉は後部座席の美鈴達に告げるなり、自分は彼女らに目もくれず真っ先に飛び出して倉庫に通じるドアへと駆け寄った。ゾンビに扉を開ける習性がある以上、建物を無施錠にしておくわけにはいかなかったのだ。そのためにまず自分が行って鍵を開ける必要があった。智哉がロックを解除して扉を開くのとほぼ同じタイミングで美鈴達が車を降りるのが見えた。激しく揺さぶられた影響からか、三人共が青白い顔をして、足許は覚束ない様子だった。だが、怪我などはしていないようで安心する。こっちだ、と呼び寄せようとした時、三人の背後にゾンビの集団が現れた。脇目も振らず一目散にこちらへ突進して来る。ただ、美鈴達とは優に五十メートル以上の隔たりがある。焦って転んだりしなければ充分に間に合う距離だ。

「振り返るな!」

 そう叫んで、智哉は三人を待ち受けた。工場を出た時と同じく最初に優馬が辿り着き、続いて加奈がやって来る。やや遅れて美鈴が到着し、全員が中に入ったのを見届けると、智哉はスチールの扉を閉じた。内側からしっかりと施錠して、念のためノブを回しても開かないのを確認する。それで漸く肩の力が抜けた。途端に暑くもないのにどっと汗が拭き出てくる。背後では美鈴達が憔悴し切った表情で抱き合っていた。その三人をもっと奥へと下がらせると、智哉は扉の前で腕時計に目をやりながら待ち受けた。きっかりと五秒数えたところで辺りに衝突音が木霊した。

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