9 屍肉漁り(スカベンジャー)※
智哉が三人の下に戻ったのは、それから三十分ほどしてからだった。その手にはコンビニエンスストアのビニール袋がぶら提げられていた。近くの店舗から失敬してきた食糧だ。三人を置いて部屋を出た智哉はまずは転倒したバイクのところに戻り、片側のサイドミラーとウインカーは割れていたが走行に支障がないことを確認して、その足で近所にスーパーやコンビニがないかを探しに向かった。老人達の一件があったので、移動はなるべく人目に付かないよう心がけたが、どれほど効果があったかはわからない。最初に見つけたコンビニに飛び込んで、商品棚を物色した。店内にゾンビの姿はなかったが、その割に略奪を受けた形跡はなさそうだった。辿り着くまでには何体かのゾンビを目撃しているので、来る途中で襲われたか向かうのを断念したものと思われる。こうした店舗は他にも数多く残っていると考えられた。それらを利用すれば当面は喰い繋ぐことができそうだが、今はとりあえず工場で待つ三人に食糧を届けることを優先とする。商品の陳列棚からカップ麺や缶詰やビスケットなどすぐに食べられそうな物を見繕って、急いで工場に取って返した。戻った智哉を見て、女の子は心底ホッとした表情を見せた。本当に約束通り還って来るか不安で仕方がなかったに違いない。三人の前でビニール袋の中身を拡げ、それぞれが缶詰やビスケットに貪りつく間に智哉は給湯室でお湯を湧かして、カップ麺を作ってやった。
「急場凌ぎだったから、こんなところで勘弁してくれ。今度来る時はもっとマシなものを用意してくるよ」
「今度……ということは、ここから連れ出しては貰えないんですか?」
智哉の言葉に女の子は明敏な反応を示す。どうやら頭の回転は悪くないようだ。自分達の置かれている状況や境遇も正確に理解しているらしい。
「今は無理だな。君らを連れて移動するのは危険過ぎる」
簡単に外で見てきたことを説明してやる。道路状況やマンションのベランダから見かけた交通事故、自分が単なる
「期待させて悪いが、俺も君らと同じ立場なんだよ。バイクだから何とかここまでやって来れたってだけだ。車じゃとても移動できなかっただろう。二人乗りで一人ずつ運ぶって手がないわけじゃないが、リスクの大きさを考えれば推奨はできないな。それにどこに避難するかという問題もある。俺が住んでいるマンションじゃ食糧事情はこことさほど変わりないしな。だったら無理に動くよりこの場に留まっていた方が安全だ」
「避難所のようなものがどこかにあるんじゃ……?」
「少なくともここに来るまでには見かけなかったな。どこかで見つけたら教えるよ」
「そうですか。まだ当分ここに居なきゃならないんですね……」
食糧は運んでやるから、と口にしかかって智哉は直前で思い留まった。この場は成り行きで助けたが、この先もずっと面倒をみてやるかは不確定だ。安請け合いはすべきでないと思った。話題を変えようと智哉は自己紹介を提案し、まずは自分から話した。美鈴と名乗った少女は、金髪の若者がこの場に居たわけと、どうして自分達だけが助かったのかを詳しく説明した。
「……そうか。それで君達三人だけしか居なかったわけか」
「はい。岩永さんが来てくれなかったら、私達どうしていいかわからなかったと思います……」
金髪の若者の慰みものになることはゾンビの襲来でどうにか避けられたが、食糧はほぼ尽きて途方に暮れていたということのようだ。若者から救ったのも間接的には智哉の仕業と言えなくもないが、それで犠牲になった者がいることを考えれば敢えて教える必要はないと思った。
(こんな世界だからな。理性を失くす者がいてもおかしくはないか。俺だって人のことを言えたもんじゃないしな)
恐らく、似たようなケースはあちらこちらで頻発しているに違いない、と智哉は想像した。寸前で難を逃れた美鈴達はまだ幸運だったと言えよう。
「岩永さんはずっとお一人だったんですよね?」
美鈴にそう訊かれて、智哉は頷く。五人組のことは説明するのが面倒だったので、省いてあった。話せば何故、智哉だけが生き残ったのかという疑問を避けて通れなくなる。
「避難し損ねてね。ずっとマンションに一人で隠れ住んでいたんだ」
「ねえ、私達以外の誰かとは遭った?」
横から妹の加奈と紹介された少女が口を挟んだ。控え目な印象の姉とは違い物怖じしない性格のようで、智哉に対しても屈託のない調子で話しかけてくる。君達が初めてだよ、と智哉は再び嘘を吐いた。優馬という名前の姉妹とはここで知り合ったという六歳の男の子だけが会話に一切の関心を示すことなく、一心不乱に菓子を食べ続けていた。
「私達、これからどうなるんでしょうか……」
美鈴がポツリと呟く。智哉は何も言わなかった。それが質問でないことはわかっていたし、仮に問われても答えようがないことだったからだ。
これ以上、ここにいても手助けできることはもう何もないと判断して智哉はこの場を辞することにした。次に来ることだけを約束して、部屋を出た。その背中を美鈴は何とも言えない気持ちで見送った。
それからの三日間は智哉が精力的に動き回っていたせいもあって、美鈴達のことは殆ど意識から抜け落ちてしまっていた。時々思い出すことはあっても最初に渡した食糧だけで数日は保つはずという安心感もあり、もう暫くは放って置いても大丈夫だろうと考えているうちに、いつの間にか日にちが経っていたのだ。何よりもやるべきことが山積していて、それどころではなかったというのが実情だ。
その間に智哉がしたのは、まずはマンション内の各階を回って他に取り残された者がいないかを確かめると共に、勝手に他人の部屋に上がり込み食糧を中心に役立ちそうなものを掻き集めることだった。鍵の掛かった部屋が大半だったが、稀に見つかる無施錠の部屋からバルコニーの避難用壁を破って侵入し、それが無理な場合は玄関をバールで無理矢理こじ開けて中に入った。慣れるまでには多少手間取ったが、一度コツを掴んでしまえばドアの構造は全て同じなのでさほど苦労はしなかった。誰にも気がねする必要がなかったという点が大きい。人目や物音を気にしながらではこうはいかなかっただろう。その中で生きた人間には出遭わなかったが、何体かのゾンビとは遭遇した。もっとも襲われないとわかっていれば只の邪魔者でしかない。発見したゾンビは一階に入り込んだ奴と合わせ、まとめて鍵の掛かる部屋に閉じ込めておいた。その上で念を入れてドアにスプレー缶で大きく「ゾンビ危険開けるな」と描いておく。こうしておけば万が一誰かがやって来ても誤って解き放つ心配はないはずだ。外に出たがっていたヤマグチ達は解放しようかとも迷ったが、表に出して他の誰かを襲えば間接的に自分が殺したことになると気付いて止めておいた。消えた死体の謎は偶然にもあの工場での出来事で解決済みである。よって気にする必要はない。そうして回収できた食糧は智哉の部屋の冷蔵庫だけでは収まり切らず、幾つかの部屋に分散して保存した。その量は智哉一人だけなら優に数ヶ月は暮らしていけそうなほどだった。
それが済むと次に智哉は今後の活動に必要となりそうな道具や装備を揃えるために郊外の巨大なショッピングモールに脚を運んだ。もちろん、その道すがら他の生存者や避難場所を探すことも忘れていない。だが、やはり見つけ出すことはできなかった。もっと人里離れた山深い場所にでも行けば発見できるのかも知れないが、どちらにしろ本格的な捜索に乗り出すのは後回しだ。わざわざ郊外まで脚を伸ばしたのは各種専門店が軒を連ねるそこでしか入手し辛いものがあったからである。その代表格が軍用品サプライヤーとアウトドア・ショップを兼ねたサバイバル用品の専門店だ。軍用品と言ってもここは日本なので、銃などは当然売ってはいない。欲しければ銃砲店に行くか、警察署や自衛隊の駐屯地でも訪ねるしかないだろうが、さすがに厳重に保管されているだろうし、幾ら社会が混乱しているとはいえ、おいそれと持ち出せるものではないだろうから二の足を踏んでいた。それに首尾よく手に入れられたとしても素人の智哉には扱い切れずに宝の持ち腐れになる公算が高い。人間相手の脅し程度なら役に立つかも知れないが、今の智哉にどうしても必要なものとは思えなかった。そのうち、機会があれば探してみるくらいでちょうど良いだろうと智哉は考えている。代わって日本でも合法的に売られているコンバットナイフや
(せめて主要なルートだけでも車が通れるようにできればな)
それはゾンビに襲われないと知ってからずっと考えてきたことだ。今のままでは折角自由に動き回れてもそのメリットが存分に活かされているとは言い難い。早急に対策を講じるべき課題の一つである。
物資を持ち出す間、モール内で誰かに遭うかも知れないと警戒していたが、所々に物色した形跡はあるものの、ゾンビ以外に動く者の姿を見ることはなかった。やはり映画やゲームのようにはいかないようで、これだけの施設を完全に外界と隔離するのは困難なのだろう。もっとも隅々まで調べたわけではないので、どこかに生存者が潜んでいる可能性が皆無とも限らなかった。ただ、それを捜し出してまで接触する理由があるかと言えば特に思い浮かばない。故に目的を果たすと早々に立ち去った。
これらの行動とは別に、もう一つ智哉には考えていることがあり、そのための準備も同時に進めていた。それはゾンビの生態を間近でできるだけ詳しく観察し、記録しておくというものだ。ゾンビに襲われない智哉ならではの発想であるが、それで何も人類の救済を図ろうなどと大仰な目的を持っているわけではない。もし他の者でもゾンビを避けられる手段が見つかれば自分が出歩く負担は大幅に減るだろうし、生態がわかるだけでも例えば単純な労働力として利用できるかも知れないと考えてのことだ。その手始めとしてこれまで判明したことを真新しいノートに書き記していく。
ゾンビは人を食べない、まず初めに智哉はノートにそう書いた。先入観からか多くの情報源で誤解されているようだが、ヤマグチ達が襲われた際に薄々と感じ取っていて、老人達の最期を見届けたことにより確信するに至った事実だ。逃げ回る必要がなく行動を注視できる智哉だからこそ、気付けたことと言えるかも知れない。ゾンビが人体に重大な損傷を与えるのは概ね致命傷ともなる初期の噛み傷だけで、それ以降は殆ど噛み付くという行為は見らず、咀嚼には当たらなかった。元々智哉にはずっと疑問に感じていたことがある。それはゾンビが人を食べるにしては死体の損壊具合が少ないのではないかということだ。フィクションの設定通りなら喰われかけた状態のゾンビがもっといてもおかしくはない。それが見られないのはゾンビの行動原理が捕食ではなく、感染の拡大にあるとは考えられないだろうか。だとすれば噛み付くだけで充分に事は足り、むしろ宿主である人間を傷つけ過ぎれば行動範囲を狭め自らの利に反することになる。どうせ死ぬのだから喰われようが噛まれるだけだろうが大差ないと考えるのは大きな誤りだ。もしゾンビが捕食を目的としていれば個体数が増えるに伴い、喰い尽くされるのに要する時間も短縮されて、いずれはゾンビ化の速度を凌駕し、増加に一定の歯止めがかかることも期待できた。ところが感染させるだけではそれは望めない。つまりは生きた人間がいる限り、際限なくゾンビが増え続けることを意味する。人類にとってどちらが脅威かは言うまでもないだろう。もっともゾンビがまったく食事をしないかと言えばそうではなかった。ゾンビが捕食する主な場面、それは完全なる死体を前にした時だ。完全なる死体とは感染以外の原因で死んだ人間の他に、斃したゾンビも含まれる。このことが発覚したのは美鈴達と出遭ったあの日、始末したゾンビを処分しようと工場の外に苦労して運び出し、埋めるための穴を掘っていた際に、どこからともなく現れたゾンビが智哉の目の前で死体を貪り始めたことによる。吐き気を堪えて見守っていると、さらに別の場所からも続々とゾンビはやって来て、さながら樹液に群がる甲虫のように死体を覆い尽くした。そうして二時間ほどが経過した頃には二つの死体は僅かな痕跡を残すのみですっかりその場から消え失せていた。マンションの死体が消えた謎もこれで合点がいく。つまり、ゾンビは
次に噛まれた人間がゾンビ化するプロセスを考察する。これまで見てきた中で言うと、噛まれてから死亡するまでの時間経過はまちまちだ。怪我の程度にもよるが、ほぼ即死という場合もあれば、クロダのように傷を負って数時間後に死ぬというケースもあり、誤差が大き過ぎてあまり参考にはならなかった。そうした中で共通していたのはどの場合でも絶命してからゾンビとして甦るまでは十秒から長くても二十秒前後だったという点である。正確に測ったのはクロダの時だけなので、他は体感としてになるが、たぶん大きく間違ってはいないはずだ。智哉自身にも憶えのあることだが、噛まれた直後は悪寒、吐き気、眩暈、高熱、身体の震えなどインフルエンザに酷似した症状に見舞われる。意外に思えたがウイルス性出血熱のような内出血は智哉の素人目で調べた限りにおいては見当たらなかった。今のところ、ゾンビ化について判明していることはこの程度でしかない。ページの最後に、果たして適切な処置により治療や延命は可能か? と書き添えた。
さらに新しいページに移って、ゾンビの五感についても綴る。人間並の視覚と聴覚があることはこれまでの経験から既に判明していたが、これに加えて嗅覚が相当に発達していることが死体に群がる様子から窺えた。今までもドア越しに標的を察知していたので視覚や聴覚以外に優れた感覚機能があることは予想し得ていたが、今回こうして証明できたわけである。どの程度まで嗅覚のみで獲物を捉えられるのかは今後調べてみなければ何とも言えないが、それにはどうしても生きた人間を実験台とするのが不可欠だ。進んでなりたがる者はいないだろうから、まずはそういう危険に晒しても構わない相手を見つけることが必要となろう。継続して調査が必要、とノートに書いてから、要人間、と智哉は付け足した。
一時間ほどの取りまとめでノートは凡そ五ページに渡り、あまり達筆とは言えない智哉の文字でびっしりと埋め尽くされた。現時点で他人に見せる予定はないが、一応は誰が読んでも差し障りがないように書いてある。ひと息ついたところで、壁の時計を見ると時刻は午後三時ちょうどになろうとしていた。
「あとはあれか……」
誰にともなく智哉は呟いた。あれとはマンションを探索していて見つけた一体のゾンビのことだった。六階でノザキと共に訪ねたあの部屋の住人である。
「やはり一度きちんと調べておく必要があるな」
最初に発見した時から気になってはいたが、他の部屋を調べるのを優先して詳しいことは後回しにしていたのだ。智哉はノートを閉じると、早速部屋を出て階段で六階に向かった。目的の部屋のドアは隣のバルコニーから侵入したので壊していない。出る時には室内で見つけた鍵で施錠をしておいたため、中にいたゾンビが外を出歩くこともないはずだった。持ち出した鍵でドアを開ける。今回は智哉一人の訪問なので、部屋に上がり込んでも静かなままだ。リビングに足を踏み入れると、目の前に若い女が立っていた。わかっていても一瞬、ドキッとさせられる。外で見かけるゾンビと違い、目立った汚れはなく、瞬間的に見ただけでは生きた人間と殆ど見分けが付かないためだ。だが、能面のような青白い顔から生気は微塵も感じられなかった。以前に物色した時には食糧や役に立ちそうな物を探すのに夢中でそこまで気が回らなかったのだが、改めて見返すとなかなかの美人である。髪は鎖骨が隠れるほどの少々長めのセミロングで、当世の若者らしく当然のように派手にならない程度には染めている。土気色だがぷっくりと厚ぼったい唇にやや垂れ気味の目。何よりも目を惹くのは着衣の上からでもそうとわかる豊満なバストだ。全体的に男受けしそうな印象を受ける。化粧気がないのは寝ていたか起き抜けに死んだからと思われる。服装は上下揃いのパジャマ姿だった。
「名前は確か──」
智哉はリビングに置かれたバッグから財布を抜き出し、中に入っていた学生証を確かめる。それによると名前欄には本郷真奈美と記載されていた。年齢は生年月日から逆算して二十一歳になったばかり。
「女子大生の一人暮らしか……」
そう言われてみると確かに花柄のカーテンにピンクのソファーカヴァーと如何にもそれらしい雰囲気の室内である。洗面所やクローゼットを探っても男が出入りしている痕跡は見当たらなかったので、真面目に生活していたのだろう。就職活動中だったらしく壁にはリクルートスーツが掛けられていた。しかし、要点はそうしたことではない。
再度、智哉は至近距離で真奈美の姿を頭の天辺から脚の先まで眺めてみる。生きていれば到底許されないであろう不躾な行いだが、当然ながら今の彼女に咎め立てするような人間らしい反応は見られない。何の感情も表すことなく、夢遊病者のように黙って突っ立っているだけだ。
全身を舐め回すように見た結果、やはり妙だ、と智哉は思った。真奈美の身体にはどこにも怪我を負った様子が見当たらない。露出した肌に傷も付いていなければ、パジャマに血が滲んでもいなかった。これではついさっきまで寝ていたと言われても信じてしまいそうだ。これまでの経緯からすればどこかに怪我がなければおかしい。ゾンビはゾンビに噛まれることでなる、それが大原則だったはずだ。報道でもそう説明されていたし、実際に見てきたものもそうであった。では、この目の前の相手をどう解釈すれば良いのか──。
「もう遠慮している場合じゃなさそうだな」
死者を冒涜するようで気が引けたが、疑問を曖昧なままでは放っておけない。智哉は真奈美の身体を隅々まで徹底的に調べる覚悟を決めた。それには動き回られては面倒なので拘束することにして、奥の部屋に連れて行き、ベッドに押し倒す。噛み付かれはされないはずだが、万一歯でも当たって怪我をしないようにタオルで猿轡を噛ませた。さらに馬乗りになって両手両足を開かせ、ベッドのフレームにベルトやストッキングで縛り付けていく。時折子供が嫌々をするように逆らう素振りを見せるが、本気で抵抗しているわけではないようで、程なくして簡単に固定することができた。それからパジャマを脱がしにかかる。
【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】
(見捨てられたと思っているだろうか。いや、それよりも死んだと思われている確率の方が高そうだな)
自室に戻った智哉は持てるだけの食糧をバックパックに詰め込んで、急ぎ美鈴達の下に向かった。案の定、やって来た智哉の顔を見るなり、まるで幽霊でも現れたかのように唖然とした表情で美鈴は戸口に立ち尽くした。
「どうした? 約束通りに来たんだが、別に見惚れるほどの顔じゃないだろ」
「無事だったんですね。てっきりもう──」
「死んだと思ったか? 生憎と足はまだ生えているよ。それに約束したことは守る主義なんだ。遅くなって悪かったけどな」
奥から妹の加奈が現れて、ねえ、食べ物は? と相も変わらず遠慮会釈のない態度で訊ねてくる。その口調に思わず智哉も苦笑いするが、すぐにバックパックの中身を取り出してその場に拡げてやる。コピー用紙に落書きして遊んでいた優馬も呼んで、二人して早速、乾パンに齧り付いた。
「他にもアルファ米やレトルトのカレーなんかも持って来たから温めて食べるといい」
「はい。ありがとうございます」
美鈴が給湯室にお湯を沸かしに行っている間、智哉はさりげなく室内の様子を窺った。前に来た時とさほど変わりないようだが、一応、ゴミなどは片付けられている。その中で一つだけ以前にはなかったものに気付いた。窓の隙間に書類やら伝票やらを貼り付けて、目張りがされていたのだ。
「あれはお前らがやったのか?」
妹にそう訊ねる。
「そうだよ。お姉ちゃんが少しは寒さが凌げるだろうからって」
そういうことかと智哉も納得した。一軒家やマンションとは違い、所詮は鉄骨を組んだだけの工場だ。碌な断熱工事も施されていないのだろう。まだ初秋とはいえ、夜ともなればかなりの冷え込みを感じるのかも知れない。ましてや冬を越すには相当厳しい環境と覚悟せざるを得まい。智哉は依然として三人の面倒を見るべきか決めかねているが、仮にそうした場合、この場所では不都合な点が多過ぎた。生活するにはあらゆるものが不足していて、智哉が届けるにも不便なことこの上ない。何よりも一階の窓を塞いだだけでは安全面で不安が残る。それに三人を助けるとすれば智哉の役に立たせることが前提だが、ここでは何かの作業をさせようにも準備するだけでひと苦労だ。一階の工作機械や二階の広い作業スペースは確かに魅力だが、それは他でも代用できそうなことだった。
(もし引っ越しさせるとすれば、やはりあそこしかないか……)
三人を智哉のマンションに住まわせることは考えていなかった。空き部屋は幾らでもあるので寝泊りさせるのに不自由はないが、電気や水道が通っている間ならともかく、それが止まれば居坐るメリットは殆どなくなる。いずれは智哉自身も出て行くことを念頭に置いているので、そこに美鈴達を連れて来るのは二度手間となる公算が大きい。そうなると引っ越し先としての心当たりは一ヶ所しかなかった。五人組との脱出計画で向かうはずだったスーパーマーケットだ。そこが今のところ、智哉の中では新たな拠点の最有力候補である。計画が頓挫したことで後回しにしていたが、落ち着いたら調べに行くつもりではあった。大型スーパーなので物資の調達には事欠かないだろうし、クロダの話が本当なら安全性も申し分ない。三人に何らかの仕事を与えるにも都合が良さそうだ。それなら智哉の方にも助ける意義が見出せよう。問題はそこまでどう移動させるかだが、以前に美鈴には話したようにバイクで連れて行くにはリスクが高過ぎる。下手をすれば巻き添えで智哉まで被害を被りかねない。やはり車での移動が原則となるだろうが、それにはそこまでのルート開拓が必須となる。始めるなら早いに越したことはない。悩んだ末に智哉はこの場で三人に決断させることにした。
「──一つ、提案があるんだが」
智哉は三人を均等に見回してそう切り出した。紙皿にカレーをよそっていた美鈴が顔を上げる。
「見たところ、ここで冬を越すのは厳しそうだ。それで、もしここから出られるとしたらどうする?」
持って回った言い方は必要ない。智哉としては説得する気はないのである。三人がどちらを選ぼうと構わなかった。よって要点だけをズバリと訊いた。
「それって避難所が見つかったってことですか?」
「そうじゃない。他の生存者がどこにいるかはまだわかってないよ。一先ずここよりマシな場所に移るって話だ」
美鈴はカレーを食べる手を休め、暫し考え込む素振りを見せた。それから妹達に向かって、どうしようか? と訊ねた。
「あたしはお姉ちゃんの決めた通りでいいよ。どうせ家には帰れないんだし」
あっさりと妹はそう言い、カレーに夢中で端から興味がなさそうだった優馬も連られて頷いた。それを聞いた美鈴は改めて智哉の方に向き直ると、岩永さんにお任せします、とだけ言った。
「本当にそれでいいのか? 無理強いする気はないし、危険が無いわけじゃないんだぞ」
「それは……ここに居ても同じことなので覚悟はしています。でも、こうして岩永さんに遭わなかったら私達は食べる物もなかったですし、今もこうして助けていただいているわけですから、岩永さんのおっしゃることに従います」
本音を言えば、美鈴は一秒たりともこんな場所に長く留まりたくはなかった。連れ出してくれるならどこでも良いというのが正直な気持ちだ。それほどまでにこの場には忘れたい記憶しかない。同時に今、智哉に見限られたら自分達だけでこの困難な局面を乗り越えられるのかという差し迫った思いもある。二度しか会っていない相手をこうも簡単に信用して良いのかという不安も残るが、食糧を届けてくれたことは事実だし、他に頼るべきものがない現状では藁にもすがり付きたい心境なのも確かだ。それに自分達をどうこうするつもりならわざわざ場所を変える必要はないとも思える。
結局、俺が決めるのか、と智哉は内心、うんざりした気になった。だったらわざわざ訊くまでもなかったな。どちらでも良いから選ばせたのだ。そうでなければそもそも選択を委ねたりはしていない。だが、この場ではそうした感情を押し殺して、わかった、とだけ智哉は応えた。
「ただし、引っ越すにしても今すぐにというわけにはいかない。提案しておいて何だが準備にそれなりの時間がかかるし、引っ越し先に当てがないわけじゃないが、それだって調べてみないことには何とも言えない。できるだけ急いでやるが、最低でも後何日かはここで過ごして貰うことになる。いいか?」
「それは構わないんですが……」
美鈴は言い澱んで語尾を濁した。何が言いたいかは智哉にも凡その察しは付いた。しかし、それをこちらから汲んで先読みしてやるほど智哉は親切でもお人好しでもなかった。
「どうした?」
わざと意地悪くそう訊いてやる。真奈美との一件で湧いた情欲もまだ完全に収まり切れていないこともあって、攻撃的な心理が働いているみたいだ。もっとも理由はそれだけに留まるまい。眼前の少女にはどこかサディスティックな感情を掻き立てる一面があるようで、遅ればせながら智哉はそのことに気付いた。
美鈴の方はこのままだんまりを続けても埒が明かないと踏んだのだろう。恥を忍んでといった必死の面持ちで再び口を開いた。
「できればもう少し……頻繁に来ていただけると有り難いんですが……食事が乏しくて」
最後は消え入りそうな声でそう呟く。やはりそう来たか。羞恥心で顔を真っ赤にさせながら俯く美鈴を見ながら、智哉は想像していた通りの内容にほくそ笑んだ。智哉としては何も格別、意地悪をしているつもりはなかった。ただ他の用事で忙しかったのと、美鈴達の存在はさほど重要ではなかったため、ついつい間が開いてしまっただけのことだ。それを放って置かれたと感じての不満だろう。恐らく、これまでに他人に見向きされなかったことなどなかったのではないか。ごく自然に周囲から気を配られて当たり前と感じている者の反応だった。確かにそうさせたくなる美少女には相違あるまい。それを認めるのはやぶさかではないが、元より涼子を失って以来、誰も愛せなくなった智哉である。美鈴の美しさにもさしたる関心があるわけではなかった。その気になればいつでも高圧的に命令が下せるというのも余裕な態度に拍車を駆けていたと言えよう。
一方で美鈴は空腹だと白状するも同然の恥ずかしさと、会ったばかりの男にすがらなければならないという浅ましさに今すぐにでも消えてしまいたい心境だった。それでも自分一人だけなら何とか我慢したかも知れないが、妹達を飢えさせたくないという一心で恥も外聞もかなぐり捨てて頼み込む以外に選択の余地はなかった。もっとも相手が智哉でなければここまで卑屈な気分にはならずに済んだかも知れない。少しは毅然とした態度が取り繕えた気がする。プライドを捨ててまで懇願せざるを得なかったのは、最終的には助けて貰えるという確信がどうしても相手に抱けなかったからに他ならない。それは奇妙なことだが、あの金髪の若者にさえ感じられたものだ。例えそれが性的な目的だったとしても自分に興味があるうちは護られるだろうという倒錯した安心感、それすら智哉からは一切伝わってこない。要するにいてもいなくても関係ないと言われているようなものだ。出て行ったきり二度と戻って来ないのではないかと不安に駆られるのもそのためである。それが智哉と接するのに必要以上の緊張を美鈴に強いていた。
「そうだな……なるべく努力はしてみるよ。ただ、俺もここへは命懸けで来ているってことを忘れないでくれ」
「それはもちろん……岩永さんには感謝しています」
感謝か、智哉はその言葉に些か捻くれた感想を抱く。わざとらしく強調したが、詰まるところ、美鈴の要求は一方的にこちらの身を危うくさせていると指摘したのだ。無論、それは出鱈目に過ぎないが、事情を知らなければ事実と変わりない。それに対して感謝というひと言で片付けられてしまうのはあまりに軽いと感じられた。しかしながら、それは彼女一人に限ったことではないだろう。得てして人は自分を救ってくれる者に己と同等の価値があることなど簡単に忘れてしまうものだ。警察官や消防官や自衛官が現場で命懸けの仕事をしている間、彼らにもその身を案じる家族や友人がいることをどれだけの人間が理解しているだろうか。恐らく、大半の者は考えもしまい。そう思うと感謝などという言葉は途端に浅薄に聞こえる。とはいうものの、美鈴としては他に言いようがなかったのだろうが、そこには無意識に紡ぎ出される自分達は弱者なのだから護られて当然という、少女ならではのそこはかとない驕慢さが垣間見えるのだ。
(まあ、いいさ。もう暫くはいい人でいてやるよ)
そんな不穏当な内心はおくびにも出さずに智哉は話を続けた。
「それから、もう一つ。こいつを渡しておく」
智哉は床に置いたバックパックから三十センチほどの平べったい棒状の物体を取り出した。プラスチック製の
とりあえず抜いてみろ、と促されて、美鈴は恐る恐る鞘からナイフを引き抜いた。HRC硬度で五三─五八の硬さを誇るステンレス製のブレード部は全長二十センチ近くもあり、握り手である円形のプラスチック製ハンドルは見た目からしてごつく、お世辞にも女子供が扱いやすいとは言えないが、そもそも智哉が今回このナイフを選ぶに当たって実用性は重視していない。見た目がとにかく派手で目立つものを、と選択したに過ぎないのだ。その甲斐あって実際に美鈴が手にすると、可憐な美少女と無骨な大型ナイフという日常にそぐわない取り合わせが相まって、一種異様な雰囲気を醸し出していた。
「これって料理のため……じゃないですよね?」
智哉の真意を測りかねて美鈴がそう訊ねる。
(まさか、これでゾンビと戦えとでも言うのだろうか……?)
そうだとしたら、とんでもない話だ。絶対にそんな真似はできないし、断固として拒否しよう、そう美鈴が決意しかけたのを見抜いたのか、誤解するなよ、と智哉が機先を制して言った。
「何もこれでゾンビをやっつけろというわけじゃない。というより、間違ってもゾンビに立ち向かおうなんて考えるな。どうせこんなナイフじゃランボーだって敵いやしない。もしゾンビに襲われたら逃げることだけに専念しろ。こいつは万が一、他の生存者と遭った時の用心のためだ。相手がどんな奴かわからないからな。出遭う全ての人間が善人と限らないのは経験済みだろう? ただし、それも本気で使おうなんて思うなよ。あくまでも脅しが目的で、それが通用しそうにない場合は……まあ大人しく捕まるんだな。その方が下手に抵抗するより怪我しなくて済む。それでも大抵の奴にはそれなりの効果はあるはずだ」
相手が女子供でも刃物を見て怯まない者はまずいないだろう。手にしているだけで威嚇にはなるし、それで向こうが引いてくれるなら良し、そうならなくても逃げる隙くらいは生じる可能性がある。逆に武器を奪われるリスクもあるが、そこまで心配していては際限がなくなる。ないよりはあった方が良いだろうとの判断で、わざわざ用意してきたのだ。無論、使わずに済むならそれに越したことはないが、こういう世界になった以上、不測の事態に備えておくのは当然の心得であろう。美鈴の方もそうした智哉の意図は察したらしく、それならば、と意外なほどあっさりと受け取った。どんな理屈を並べようとナイフが人を殺傷するための道具であることに変わりはない。もっと嫌悪感を示すかと思っていた智哉にすれば、些か拍子抜けするほどだった。何度か危ない目に遭って、きれい事だけでは通用しないと痛感したのかも知れない。美鈴からしたら智哉がナイフ一本でゾンビに立ち向かえと要求するような愚か者でなかったことに胸を撫で下ろした。もしそんな無謀な人物なら幾ら助けが欲しくとも関係を清算するしかなかったところだ。智哉が推察したように、美鈴の中では他人の善性を無条件に信じられる気持ちはとっくに失っている。故に武器を持つことにもさほどの抵抗はない。それはあの金髪の若者を犠牲にしたことと無関係であろうはずはなかったが、今は深く考えないようにしていた。ただ、自分達の身を護るために誰かが立ち向かわなければならないとしたら、それは自らの役目だと静かな決意を固めただけである。その結果が誰かを傷つけたり殺したりすることだったとしても、だ。このナイフはそんな美鈴の覚悟を後押ししてくれそうな気がした。だからだろうか、戸惑いはしたものの、恐れはない。ナイフを鞘に戻す仕草も初めてとは思えないほど堂に入ったものだった。大人しそうに見えて存外、肝は据わっていると見える、その仕草を見て智哉はそう思った。
(うかうかしていると、こっちが置いて行かれるかも知れないぞ)
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