8 運者生存
急に外の物音が聞こえなくなって、美鈴は訝しんだ。さっきまであれほど騒がしかったドアを叩く音もノブを回す行動もパタリと止んで、今は不気味なほどに静まり返っている。一体どうしたというのか? ドアの向こうにゾンビがいたことは疑いようがない。それが諦めたというなら有り難いが、これまでの経験上そう簡単に引き下がる相手とは思えなかった。それなら何故静かになったのか、幾ら考えてもその理由が思い付かない。何か美鈴には想像のできない悪いことが扉の向こう側で起きていて、今にもそれが目の前に飛び出して来るのではないかという不安だけが膨らんでいく。それでも近寄って外の様子を確かめる気力はもはや美鈴に残されていなかった。恐る恐る机の下から顔を覗かせるので精一杯である。そこから見た限りではドアに異常は見られない。もちろん、それだけで安心するわけにはいかなかった。ありったけの勇気を振り絞って何とか近付こうと試みたその時だ。突然、ドアの向こうから男の声がした。
「……誰かいるのか?」
美鈴はまったく予期していなかった出来事に、一瞬パニックに陥りかける。話しかけられたことは理解できたものの、内容までは頭に入って来なかった。そのため、返答しあぐねていると、もう一度その声が言った。
「誰もいないのか?」
妹に身体を揺すられて漸く我に返った美鈴は思わず叫んだ。
「います!」
言ってしまってから、大声を出したのはまずかったと後悔した。まだ近くにゾンビがいないとも限らないのだ。それにどんな相手かもわからないのに、よく確かめもせずに返事をしたのはやや軽率だったのではないかという気もする。とはいえ、話しかけてきたのがあの金髪の若者でないことは確かであり、それだけで幾分胸を撫で下ろすことができた。冷静に考えれば、黙っていては相手を確かめようがないことにも思い当たる。大体がこの状況で声をかけてきた人間をやり過ごせようはずもなかった。
(きっと助けが来たに違いない。そうでなれば外のゾンビにやられているはずだ)
そう考えて美鈴は安堵感でその場に崩れ落ちそうになる。慌てて脇から妹がそれを支えた。男の子も心配そうに成り行きを見守っている。
(そうだ。まだ助かると決まったわけじゃないんだ。私がしっかりしないと。こんなところで倒れている場合じゃない)
美鈴は気を取り直して慎重にドアに近寄った。背中越しに妹達の緊張が伝わる。安心させるためにもわざとゆったりした口調で話しかけた。
「ここにいます。どうか助けてください」
「……そこにいるのは君だけか? それとも他に誰かと一緒なのか?」
ドアの向こうの男は探るような調子でそう訊ねた。何かを警戒しているみたいだった。一体何を気にしているのだろう? よくわからないままに美鈴は正直に答えた。
「私の他に妹と小さな男の子がいます。全部で三人です。そうだ。今、ドアの鍵を開けますね。ちょっと待ってください」
「いや、駄目だ。それは……まだまずい」
「えっ? どうして──」
「まだ近くにゾンビが彷徨いている。一階のシャッターも開いたままだ。ドアを開けた途端、押し寄せて来ても責任が持てない」
ゾンビが近くにいると聞いて、美鈴はギョッとした。てっきりいなくなったものとばかりに思い込んでいたからだ。冷静であれば、ではどうやってここまで辿り着いたのかという疑問を生じさせたかも知れないが、今の美鈴にそこまで詮索する余裕はなかった。
「じゃあ、どうしたら……」
そう口にするがやっとのことだ。声の主は美鈴に訊ねた。
「そこに出入口のシャッターの鍵はあるか? あるなら何とかシャッターを降ろしてくるから」
そんなことができるのだろうかと考えたが、今は相手に従う外ない。しかし、シャッターの鍵は生憎とあの金髪の若者が手にしているはずだ。
「あの……ここにはありません。他の人が持って行ってしまって……」
「それってどんな奴だ?」
「大学生くらいの若い男の人で、ちょっと怖そうな感じの……」
「金髪メッシュで片耳ピアスの細目か?」
「あっ、はい。たぶんその人です」
「わかった。ちょっと待っててくれ。それと、こっちから声をかけるまではドアから離れてなるべく静かに隠れているように」
智哉は足許に転がった若い男の死体に目をやると、素早くそのポケットの中身を弄った。そうして胸のポケットから二種類の鍵を発見する。恐らくこのどちらかがシャッターの鍵だろう。それを手に一階に下りる。そこでは先程変化したばかりのゾンビが何体か動き回っていた。その中にはあの老人達の姿もあった。やはり間に合わなかったのだ。智哉が駆け付けた時には二人共既に致命傷となる怪我を負っていた。さらにその奥でもう一人、中年男性が事切れて横たわっているのを見つけた。程なくして三人共がゾンビとして甦った。あの状況ではたぶん智哉が通りかからなくても老人達の死は確定的だったに違いない。智哉がしたのはそれをほんの少し後押しただけ、タイミングを早めたに過ぎなかったろう。それでも後味の悪さは変わらなかった。まさか自分を見て安全と勘違いさせるとは考えが至らなかったのである。悪意がなかったとはいえ、智哉にまったく非がないとは言えまい。老人達には申し訳なかったが、今後は周囲にも充分に気を配って行動するしかなかった。
その罪滅ぼしというわけではないが、智哉は他に生き残っている者がいないか工場内を調べることにした。もし他に誰かいるようなら手助けしても構わないと決めていた。よく見ると、一階の窓は全て建築資材のようなもので内側から塞がれている。そのため工場内は昼でも薄暗く、そこかしこから錆びた鉄の匂いがした。これだけのことを犠牲になった者達だけでやったとは思えない。もっと他に人がいて然るべきはずだった。そう考えてさらに奥へと進んで行くと、どこからか壁かドアを叩く物音が聞こえた。お馴染みのゾンビが獲物を狙っている合図だ。となると、近くに生きた人間もいるに違いない。階段に気付くのに少し手間取って、暫く二階の存在を見落としていた。漸く工場の中ほどに錆びた鉄階段を見つけ、ゆっくりと上がって行く。完全に昇りきる手前で昇降口から顔だけ出して二階の様子を探ると、作業場のようなだだっ広いスペースの奥に一見すると石膏ボードのような壁で囲まれた部屋らしきものが見える。その部屋のドアと思われる前には二体のゾンビが張り付いていた。一体は金色に髪を染めた若者で、まだ襲われて間もないと見え、喉元に大きく開いた傷口からは鮮血が滴っていた。もう一体は小太りの中年を過ぎた男のゾンビで、こちらは乾いた傷痕や服の汚れ具合から死んで数日経っているらしいことが窺えた。その二体の様子から部屋の中に誰かいるのは間違いなさそうだった。
一旦は助ける決心はしたものの、いざ実行する段になると智哉にも迷いが生じた。犠牲になった者達からすると危ない連中ではなさそうだが、どれくらいの人数がその中にいるのか不明だし、後々あれこれ詮索されるのも面倒である。いっそのこと引き返そうかとも考えたが、老人達への後ろめたさもあり、いざとなれば放り出せば良いと思って、接触を図ることにした。そうなると問題はドアの前のゾンビをどう排除するかだ。智哉が触れてもゾンビが襲って来ることはないとわかっていたので、とりあえず近寄って無理矢理ドアの前から引き剥がそうと試みた。だが、これは思った以上に困難だとすぐに知れた。その場から頑として離れようとしない成人男性を力づくで移動させるのはかなり骨が折れる作業で、少しでも力を抜くと途端に元の位置に戻ってしまう。そうでなくてもあまり触れていて楽しい相手とは言えなかった。動き回られて支障が出るなら残る手立ては一つしかない。ゾンビを始末することだが、正直、そこまでの覚悟を智哉はまだ固めていなかった。経験があるとはいえ、あの時は怒りに任せて無我夢中で行動しただけだ。冷静に手を下すとなると話は違ってくる。ゾンビといっても外見上は生きた人間とほぼ変わりないのだ。それを傷つけることに抵抗を覚えないほど智哉は無神経ではない。
そうはいってもいずれはやらねばならないことには間違いなかった。この世界で生き残っていくのにまったく手を汚さずに済むなどという甘い認識は智哉も抱いていない。ここで躊躇うようでは先が思いやられる。そう考えて智哉は決断を下した。
「……よし、やろう」
声に出すことで、自らを奮い立たせる。それに下手に拘束したりするよりは、不意を衝いて斃したことにした方が聞いた人間を納得させやすいだろう。方法は至ってシンプルだ。ゾンビの背後に回って急所である後頭部を刃物か何かで突き刺せば良い。ゾンビに相手にされない智哉だからこそできる離れ業である。そのための道具を探しに一旦その場を離れる。一階に戻って工場内を漁り、長さが五十センチほどもある巨大な鑿を見つけた。刃の部分だけで二十センチ近くはありそうだ。これを使うことにして、予備を含めて何本か持って行く。ついでに返り血を浴びてもいいように、拾ったゴミ袋で簡易ポンチョを作り、頭から被った。そうして再び二階に戻ると、まずは万一抵抗されても御しやすそうな中年過ぎの男に狙いを定めた。どうせ無視されるので正面から無造作に近寄り、背後に回り込む。滑って怪我をしないように鑿の柄をしっかりと握り込んで、的を絞り一気に後頭部へ突き立てた。刺すというよりは粘土質の地面や乾く前のセメントに杭を打つような手応えで、簡単に鑿の先端が後頭部に埋没する。元々の人間の身体がそうであるのか、ゾンビだからなのかは智哉には判断が付かなかったが、対象が驚くほど脆く柔らかいものだということだけは実感できた。もっとも刺した位置が悪かったようで、十センチ以上も鑿を頭にめり込ませながらゾンビは平然としていた。場所をずらしてもう一度試みる。今度こそ急所に当たったようだ。それで漸くゾンビは倒れて動かなくなった。返り血を浴びるという心配はまったく必要なかった。以前にも見たようにゾンビの血や体液は強い粘性のあるタール状のもので、あっという間に凝固するらしい。そのため汚れないのは助かるが、その分血糊の付いた刃物はすぐに切れ味を落としてしまう。現に二度目に突き刺した時には最初と手応えがまったく異なっていて、それはもはや使いものにならなくなった。新しい鑿に持ち変えて、若い男の方も同様に実行する。先程の経験を踏まえて今回は一度で上手くいった。
(やろうと思えば何とかなるもんだな)
一先ず無事にやり遂げてホッとする。それから部屋の中に向かって声をかけた。
中から聞こえてきたのは若い女の声だ。他に誰がいるのかと訊くと、妹と幼い男の子の三人だけと返事があった。ここで嘘を吐く理由はないので、恐らく本当だろう。大人数でなかったのは幸いだ。今、ドアを開けるというのを智哉は慌てて制した。目前の二体は斃したとはいえ、まだ一階には複数のゾンビが彷徨いている。シャッターも開け放したままだ。ドアを開けた拍子に押し寄せられでもしたら、智哉一人ではとても抑え切れない。老人達と同じ轍を踏むわけにはいかなかった。対面するのは安全を確保してからでも遅くないということで、智哉はまずはシャッターを閉じるため鍵の所在を訊ねた。見た目の特徴から若い男のゾンビが所持しているとわかり、捜し出して拝借すると、部屋の中に良いと言うまで外に出ないよう声をかけておき、一階に下りた。ここでもゾンビを始末する必要があるかと思ったが、二階にいた奴と違い、獲物に執着していないゾンビは意外と従順で、背中を押してやるだけで簡単に移動させることができた。そうして工場内のゾンビを全て表に追い出し、シャッターを閉じると鍵を掛けた。これでとりあえずは安心だ。二階に戻って、もう大丈夫だと声をかけようとしたところで、ふと気付く。足許に転がっている死体は若い女の子には少々刺激が強過ぎるのではないか。
(そういえば子供もいると言っていたな。若い男の方は顔見知りのようだし、見たらショックが大きいかも知れない)
そこで智哉は死体を目に付かない場所に運ぼうとするが、これが予想外の重労働となった。人間の死体がこれほど重く感じられて運びにくいものだとはこの時まで智哉には思いも寄らなかったのだ。脚を持って引きずるだけで、相当に苦労する。特に一階でスムーズにゾンビを追い出した後だっただけに余計そう感じたのかも知れない。何とか二体共階段の昇降口付近までは運んだが、そこから背負って下ろす気にはとてもなれなかった。今後はゾンビを移動させるなら生かしたままでした方が遥かに楽だと学んだ。簡単にやれるからと安易に始末するのは考えものである。また運搬の問題だけでなく、衛生面の観点からもそれは言えた。これまでのところ、活動中のゾンビに腐敗する様子は見られないが、動かなくなれば単なる死体と変わらないだろう。当然放って置けば腐るだろうし、そうなれば様々な伝染病の媒介ともなり得る。埋めるか焼却するのが妥当だが、その手間を考えればやはり無闇に始末するのは避けた方が無難だ。この死体も後で処分するとして、一先ずは階段から一階に投げ落とすことで目に付かなくした。
「もう開けても大丈夫だ。工場のゾンビはいなくなったし、シャッターも閉めて鍵も掛けた」
その言葉に美鈴は恐る恐るドアを開錠して、顔を覗かせた。目の前にいたのは二十代後半くらいに見える、ごく普通の身なりをした男の人だった。警察の制服もレスキュー隊員が着るオレンジの耐火服も自衛隊員のような迷彩服も身に着けていない。そのせいでやや拍子抜けしたが、外見だけでは判断できないと思い直した。念のために男の背後を見渡す。言っていた通り、ゾンビの姿はどこにもないようだった。
「中に入れて貰ってもいいかな?」
「あっ、はい。どうぞ」
智哉は現れた相手が想像していた以上に若かったことに驚いた。高校生くらいに見える。こんな年の子が何故、大人達と離れて隠れていたのかという疑問が頭を掠めるが、まずは部屋の様子を知ることが先決だった。中に入ると智哉は一応の用心で、内側のサムターンを回してドアに鍵を掛けた。それからさりげなく室内を見て回る。そこは本来事務所として使われていたらしく、机の上に何台かのデスクトップパソコンが並べられ伝票らしき紙の束もあるが、その間には空になったペットボトルや菓子の空き箱など凡そ職場には似つかわしくないものが散乱しており、何日かここで生活していた跡が見受けられた。奥に給湯室があって、そこにもゴミが散らかっている。給湯室の隣のドアはトイレのようだ。部屋の片隅には妹と思われる中学生ほどの女の子と、さらに小さな男の子がいた。弟とは言わなかったので、姉弟ではないのかも知れない。二人共警戒と戸惑いが入り交じった表情で智哉を見据えている。話によればこれで全員のはずだ。それにしては外で犠牲になった者を含めても部屋の中が散らかり過ぎているように思えた。一応、確かめる意味で女の子に訊ねた。
「この三人で全員か? 大人は本当に誰も居ないのか?」
「はい。最初はもっと大勢居たんですが、みんな出て行ってしまって。残った人も襲われて、今は私達三人だけです」
美鈴はこれまでの経緯を掻い摘んで説明した。どうしてここに逃げ込んだのかや男の子の面倒見ることになったいきさつ、本人達は足手まといになると出て行った人達に付いて行かなかったこと、再びここを後にしようとした人達がゾンビに襲われて自分達だけが生き残った──言われてみれば犠牲になったのは金髪の若者を除けば年寄りや怪我人ばかりだったことを智哉は思い出す。確かに足手まといと思われそうな者達だ。金髪の若者だけが異質で、そのことを智哉が訊ねようとした時、三人共が酷く衰弱している様子に気付いた。顔色が悪く視線もどこか定まっていない。
「ひょっとして腹が減っているのか? もしかして何も食べていないんじゃ……」
訊けばこの数日、水以外のものは三人共殆ど口にしていないと言う。
「そうか。参ったな」
智哉も軽く周回するだけのつもりだったので、生憎と何の持ち合わせもなかった。だが、三人の状態はかなり深刻そうに見えた。
「……わかった。何か食べ物を探して来るからもう少しだけ我慢してくれ」
「でも、外は危険じゃないんですか?」
美鈴は心配してそう訊ねた。心配したのは男の安否ではなく、自分達が置いて行かれるのではないかという懸念だ。その一方で食べ物を手に入れてくるという提案には抗し難い魅力がある。男は美鈴の複雑な心境に慮ることもなく話を続けた。
「ここまではバイクでやって来た。それなら小回りが利くから追われても平気だ。シャッターは俺が開閉するから君らはここに居ろ。俺が部屋を出たらすぐにドアは施錠してな。それと、これはこの部屋の鍵か?」
智哉は金髪の若者から奪ったもう一つの鍵を見せる。
「たぶん、そうです」
「なら、これは君が持っていた方がいいな」
そう言って、智哉は鍵を渡した。そして部屋から出て行こうとする。女の子は何か言いたげな表情で智哉をずっと見ていた。戻って来ないことを恐れているのかも知れない。しかし、今はその心配をいちいち払拭してやっている場合ではない。結局、女の子も不安は口にしなかった。
「……わかりました。待っています」
そう言っただけだ。それで智哉は内心安堵していた。そもそもゾンビに襲われることのない智哉にとって表は危険でも何でもない。ただ、それを人には打ち明けられない事情があるだけだ。智哉のような事例が他にもあるのかは不明だが、もし他人に知られた場合、良くて使い走りにされるのが落ちだろうし、最悪のケースでは人類救済の名の下に実験材料にでもされかねないと思っている。こんな状況では人権の尊重など期待する方が無駄であろう。よって絶対に他の者に秘密を知られるわけにはいかないのだ。
(まあ、そのうち匿名で血液のサンプルを提供するくらいならしてやってもいいけどな)
それも研究機関が残っていればの話だ。従って、現状ではどうして智哉がゾンビを避けられているのかを詮索されるのが一番厄介な問題だ。しつこく疑念を持たれるようなら助けるのも再考しなければならないところだが、幸いにして今はそこまで深く考えていないようで安心する。
「なるべく急いで戻る」
三人にそう言い残して、智哉は部屋を出た。
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