7 適者生存※
(どうして俺は生きているのだろう……?)
それが一連の出来事の後で智哉が真っ先に思い抱いた感想だった。自分が生きていることが未だに信じられない。何しろ、ゾンビの眼前に無防備に投げ出されたのだ。絶体絶命のピンチどころではない。死んで当然の、どう足掻いても助かりようがない、将棋で言えば詰み、チェスならチェックメイトというやつだ。
なのに、こうしてまだ息をしている。それどころかかすり傷一つ負っていなかった。まさに奇跡としか言いようのない僥倖ではあるが、それを素直に喜べないのには相応の理由がある。もっと早くにこうなることがわかっていれば誰も死なずに済んだのではないかと思えるからだ。自分を裏切ったヤマグチに同情する気持ちはさらさらないが、死んで当然と割り切ることもできない。それはある意味、智哉がまだ人間らしさを失っていない証拠ではあるものの、それが果たして喜ばしいと言えるかどうかは別問題だ。
(それにしてもあいつらは運がなかったな)
あいつらというのは智哉を見捨てたヤマグチと、その近くにいたノザキのことだ。あの時、智哉に跳びかかるとばかりに思われたゾンビの一群は、何故か目の前の倒れた智哉には見向きもせずにヤマグチ達の下へ殺到した。それに一番驚いたのは当の智哉を除けば他ならぬその状況を作り出したヤマグチ本人だったに違いない。まんまと智哉を囮にすることに成功して、己は逃げ果せたつもりだったろうから無理もない。まさか、いの一番に自分が襲われるとは思いもしなかっただろう。当然、逃げる
(でも俺はもう逃げねえぞ。死ぬのが怖くて惨めに這いつくばったり泣き叫んだりするのはもう御免だ)
そんなことをしたって死ぬ時は死ぬのである。他人を陥れてまで生き残ろうとした連中でさえそうだった。何をしても無駄なことならせめて奴らを一匹でも多く道連れにしてやる、そう思うと少しは冷静に物事が捉えられるようになった。それと同時に沸々と腹の底からこみ上げてくるものがある。それは何が何でも生き延びてやるという生への執着ではなく、どうなっても構わないという捨て鉢な思いでもなく、ましてや死んだ者達の敵を討つというヒロイスティックな気分に酔ったものでもない。何の前触れもなく唐突に理解不能な状況に放り込まれた理不尽さへの、純然にして確固たる怒りに他ならなかった。どうして俺がこんな目に遭わなければならないのかという一種の癇癪を爆発させたに過ぎなかったが、智哉は沸き上がる感情の赴くままに任せた。近くにあった消火器を引っ掴むと、ヤマグチに馬乗りになったゾンビの前に回り込み、振り被ってその後頭部めがけて思い切り振り下ろした。グシャッという熟れた果実を潰したような感触がしてゾンビの頭蓋が陥没し、そこから血とも体液とも区別が付かない赤黒い粘着性の液体が飛び散って、下敷きになったヤマグチの顔にもボトボトと降りかかる。だが、普通の人間なら即死でもおかしくはないその打撃もゾンビは意に介した様子はなく、一向に死体から離れようとしない。そのことがさらに智哉の闘志に火を点けた。消火器を握り直して、今度は横殴りに振り抜く。これにはさすがのゾンビも堪え切れずに吹き飛んで床に転がる。尚も仰向けになったところを跨ぐようにして間髪入れずに真上から顔面に向かって消火器を叩き付けた。一度では飽き足らず二度三度とそれを繰り返す。次第にゾンビの顔は原型を失っていく。前歯の殆どは折れて無くなり、鼻骨は粉砕され顔面にめり込んで、両方の眼球は地面に落とした生卵のように潰れた。後頭部から撒き散らされた脳漿や脳髄らしき液体が床に奇妙な図形を描く。そこまでしてやっとのことで致命的なダメージを与えられたらしく、ゾンビは動きを止めた。その顔だった部分に人間の頃の面影はもはや微塵も残っていない。生理中の女性器を連想させる卑猥さとグロテスクさを併せ持つオブジェのようだった。同じ肉や骨の塊でも動物と人間のそれとではまったく別物なのだと智哉は痛感した。人の死体が単に残酷さに勝るというだけではない。自分も一皮剥けば骨や筋肉や脂肪で形作られた物体に過ぎないという事実を否応なく突き付けられることへの本能的な嫌悪感とでも言おうか。そのことに智哉が思い当たった時、胃の中で小型の爆弾が破裂したような震えが走り、やがて内臓全体に拡がった。あっという間の出来事で、智哉は堪える間もなくその場に嘔吐し始めた。それと共に全身から何かが抜け落ちていくのを意識した。饐えた匂いの吐瀉物に混じって吐き出されていくのはそれまで智哉を必死に奮い立たせていた何かだとわかった。気付けば先程までの魂を焦がすかと思われた怒りは瞬時にどこかへ消え失せていて、これは一体何だ、と智哉は愕然とした。
(たった一体退治しただけでこの様とは情けねえな)
自分でもそう思うが、どうしようもない。如何なる手段を以てしてもあの激情はもう二度と取り戻せそうになかった。所詮はその程度の憤りでしかなかったということなのだろう。そのことを思い知って茫然としていると、視界の片隅で倒れていたヤマグチが起き上がるのが見えた。当然、ゾンビとしてである。続けてノザキも動き出したが、二人共やはり智哉に構う素振りはない。僅かな期間だったとはいえ、知り合いがゾンビになるのを見たのはこれが初めてだった。そのことが辛うじて智哉を現実に引き留めていた。何がどうなったのかさっぱり理解できていないが、本当に助かったのならせめてその理由くらいは知っておこうと思えたからだ。それが死んだ彼らへの手向けになるとは思わなかったが、何もしないでいるよりはマシと言える。他のゾンビはと言うと、仲間が目の前でやられたというのにその死体には一切見向きもしなかった。そもそも仲間意識があるのかも不明だ。いつの間にか玄関先に集まったゾンビも騒ぐのを止めて大人しくなっていた。
(外にいる連中まで鎮まった? 誰かを襲えば満足するわけじゃないのか……?)
可能性の一つとして、満腹の肉食獣が獲物を前にしても襲わないように、ゾンビにも飢えや満足感があるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。それなら外にいる連中は収まりが付かないはずである。それで智哉はこれまでにゾンビと遭った時の様子を思い返してみた。すると、あることに気付く。ここに来て突然襲われなくなった気でいたが、よくよく考えてみれば最初に噛まれた時を除き気絶から目醒めて以降、ゾンビと接触した場面では常に誰かと一緒にいた。一人きりでゾンビと相対したことは一度もない。もしもその時ゾンビが狙っていたのが智哉ではなく、共にいた相手だとしたら襲われなくなったのは今にして始まったわけではないのではないか。噛まれた時点で既にそうなっていたとしても不自然ではない。そのことにずっと気付かずにいただけだとしたら──。
(俺は見向きもされない相手に怯えていたってことか?)
無論、現段階では憶測の域を出ないことではある。もっと別の可能性、たまたまこの場にいるゾンビだけが智哉を無視するような要因が他にあるのかも知れない。それを確かめるのに思い付く方法は一つしか浮かばなかった。
(しかし、仮に見当違いなら折角助かった命を
一度、安全な場所に退いて落ち着いて検討し直すべきなのはわかっていた。今は思い浮かぶ方法がそれしかなくとも冷静になればもっと安全なやり方が見つかるかも知れないのだ。だが、逃げ出す気ならとっくにそうしているだろうから、自分にその気がないのも承知していた。ここで直ちにはっきりさせないことにはどうにも収まりが付かない。
(本当に頭のネジがぶっ飛んだみたいだな。まあいい。この期に及んで正気でいたってしょうがねえや)
そう思うと、肩の力が抜けた。智哉は大きく息を吐き、意を決して正面玄関に向かう。ドアのセンサーが感知するギリギリまで近付いた。そこまで近寄っても外にいるゾンビに変化がないことを見極めてから、智哉はさらに一歩を踏み出した。
その動きを動体センサーが瞬時に捉えて電気信号を送り、扉の開閉装置を作動させる。微かなモーターの駆動音と共にガラス扉が開いた。待ちかねたようにゾンビがマンション内に雪崩れ込んで来る。たちまちエントセンスホールはゾンビで溢れた。だが、その中に智哉に興味を示す者は誰もいない。何体かと肩がぶつかってよろけはしたものの、それだけだ。完全に智哉の存在は眼中にない様子だった。それはそれで連中の一員と見なされているようで気分の良いものではなかったが、一先ずは推測通りで胸を撫ぜ下ろす。それと共に僅かな悔恨の念が智哉の胸中をよぎった。
(このことが事前にわかっていればな)
そうであれば脱出計画はもっと別のものになっていただろう。少なくともより安全な形態が取れていたはずである。犠牲者を生むこともなかったかも知れない。智哉は死んだ三人に気を許したことは一度もなかったし、いざとなれば見捨てる覚悟であったし、その中の一人には実際に殺されかけもしたが、それでも良い気味だと嘲笑う気にはどうしてもなれなかった。そうまでして生き残りたかった気持ちは智哉にも充分に理解できるものだったからだ。裏切りは決して許せる行為ではなかったが、意外と腹が立たないのはそのためだろう。自己犠牲や博愛主義などといった崇高な精神とは無縁の智哉でも、死なずに済むならそれに越したことはない程度には他人の命を慮りはするのである。
とりあえず自分がゾンビに襲われないと確認できたところで、智哉はこの場を離れることにした。襲われないのが今だけの一時的なものである可能性もまだ捨て切れない。ただ、その前に何かの役に立つかも知れないと踏んで死んだ三人の荷物や車のキーを回収しておく。さらに守衛室で見つけた鍵の束で正面玄関の自動ドアの電源を切って施錠すると、ついでにエレベーターの運行も停止させた。階段は内側からサムターンで鍵が掛けられたので、これで建物内に入り込んだゾンビが偶発的に玄関扉を開けたり、上階までやって来たりする心配はなくなったはずだ。そこまで手配してから智哉は姿の見えなくなった二人を追って六階に向かった。その途中でイシハラに遭遇する。既にゾンビとなって階段を彷徨いていた。近くに面識のないゾンビがいたことから、一階の騒動を聞き付けて他の階から入り込んだそいつに殺られたものと思われる。相変わらず智哉が相手にされることはなく、もう変わり果てたイシハラの姿を見てもさほどの動揺はなかった。自分が安全となれば慣れるのも早いのだと思った。
(何てことはない。今まで話してた奴が何も言わなくなるだけだ)
もっともこの分だとクロダも無事では済んでいないかも知れなかった。イシハラから荷物と部屋の鍵を取り上げ、智哉は先を急いだ。六階に到着し、階段から廊下に出たところで、イシハラの部屋の前で蹲るクロダを発見した。どうやら心配は取り越し苦労だったようだ。だが、近寄って声をかけようとした途端、智哉はそれに気付いて表情が曇る。右腕の袖口から薄っすらと血が滲んでいた。本人の意識も朦朧としている。袖を捲くってみると、やはり手首の辺りに僅かに噛まれた痕があった。すぐに振り解いたのだろう。それほど深くはなかったが、ゾンビに噛まれた者は傷の度合いに関わらず死んでそののち甦るとされている。それが確かなら既に手遅れということだ。とはいえ、智哉のような例外もあるので、助かる見込みがゼロとは言い切れない。一先ずイシハラから奪った鍵でドアを開け、部屋の中にクロダを運び込んで、リビングに敷いた布団の上に寝かせた。本来なら直ちに隔離すべきであろうが、今の智哉なら一緒に居ても危険は少ないと判断して、自分の部屋から持ってきた救急箱で傷の手当てをしてやる。といっても傷口を丁寧に拭いて消毒し、その上から清潔なガーゼを当てて包帯を巻くくらいだ。酷く汗を掻いていたので、熱を測ると四十度近くあった。急いで冷蔵庫の氷をビニール袋に入れて即席の氷嚢を作り、首筋や脇の下や内腿に当てて身体を冷やす。暫くして荒かった呼吸もやや落ち着き、熱も多少下がったところで、クロダが意識を取り戻した。掻い摘んで事情を説明してやる。助かったのは自分達二人だけであること。部屋の前で倒れていたクロダを見つけたこと。怪我をしていたので手当てしたこと。どうして智哉が助かったのかは伏せておいた。今、話してもややこしくなりそうだったからだ。いずれは疑問に思うかも知れないが、その時はクロダも回復しているはずで、それなら話しても差し支えあるまい。今はそうなることを願うより外になかった。それから智哉が食糧を隠し持っていたことを正直に打ち明け、後で何か食べさせてやると約束した。しかし、その前に汗を掻いた服を着替える必要があると告げた。クロダは特に恥ずかしがる素振りも見せずに黙って頷く。着替えは持っていないそうなので、智哉は自分のTシャツと短パンを貸し与えることにした。無論、きちんと洗濯してあるものだ。
【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】
その後、自分の部屋から持参した小鍋で米を炊き、卵入りのおじやを作って食べさせてやるが、数日ぶりの食事にも関わらずクロダは殆ど受け付けなかった。それでも智哉は何度も氷嚢を変えたり定期的に汗を拭ってやったり小まめに水を飲ませたりして懸命に看病を続けたが、夕方近くになると再び熱が上がってクロダは意識を失った。そしてそのまま一度も意識を回復させることなく、夜になって彼女は死んだ。
クロダが死んだことで、智哉がイシハラの部屋に留まる理由はもはやなくなった。ゾンビとなって甦った彼女を置いて智哉はそこを出た。自分の部屋に戻ると、まだお湯が出ることを確認して、浴室で着ていたものを脱ぎ、熱いシャワーを頭から浴びた。身体にこびり付いた血や汗や何かの肉片や髪の毛らしき塊を丁寧に洗い流していく。疲労困憊だった肉体に微かに活力が戻るのを自覚し、お湯のあまりの心地良さに、文明が崩壊してもこれだけはなくさないで欲しいと心底願った。もし自分で残せるものを一つだけ選べるとしたらスマホでもパソコンでも車でも冷蔵庫でもテレビでも電子レンジでもなく、絶対にこれを選ぶぞ、と考えているうちに、智哉は今日一日の混沌を一時忘れた。死んだ者の存在も頭から離れ、この先どうなるのかという不安も薄れた。いずれシャワーは使えなくなるだろうが、その時には自分で作れば良い。この程度のものなら自作できなくはないだろう、そう考えながら浴室を出て、バスタオルで身体を拭き、新しい洋服に着替えてリビングに戻った。途端に睡魔に襲われる。如何ともし難いその欲求に智哉は抗えなくなり、髪の毛が乾くのもそこそこにベッドに潜り込むと、あっという間に深い眠りに落ちた。
翌朝までぐっすりと眠ったことで、目醒めた時にはすっかりいつもの調子を智哉は取り戻していた。食欲も湧いて、久しぶりにきちんと調理した朝食を用意することにする。節約はもちろん大切だが、どうせ生鮮食料品の類いは長く貯蔵しておけないのだ。腐らせては本末転倒なので、今のうちに食べ切る方が良い。それで玉子焼きや生鮭の塩焼き、残っていた葉物野菜のサラダ、インゲンなどの豆類を茹でて胡麻和えにしたもの、牛乳といった傷みやすい飲み物を中心に揃えていく。米は長期保存が利く上残り少なくなっていたので、代わりに芽が出てきていたジャガイモを蒸かして食卓に加えた。それらを残らず平らげると智哉は気分が良くなり、シンクで洗い物をしている最中には自然と鼻歌まで飛び出していた。
(結局、人間っていうのは腹を空かしていると弱気にもなるんだな)
クロダやヤマグチ達のことは残念には違いないが、いつまでも気に病んでいても仕方がない。一人になったのも要は最初に戻っただけと考えれば何ということはなかった。それにゾンビに襲われないのなら、いつでも外に出られるので脱出計画は不要である。捉えようによっては身軽になれて却って良かったかも知れない。その上、これまで行えなかった各階の探索もできよう。時間や騒音さえ気にしなければ、鍵の掛かった部屋であろうと玄関を強引にこじ開けるのは不可能ではないはずだ。それで食糧が見つかれば焦ってここを離れる必要もない。だが、そうしたことの前に智哉にはやっておきたいことがあった。何はともあれ外部の様子を探らねばなるまい。生き残っている者は本当にいるのか? いるとすればどこに避難しているか? 何らかのゾンビ対策は進められているのか? そもそもこうなった原因は何なのか? 今まで外出できなかった分、知りたいことは山ほどある。
(本当にこの現象が全国規模、あるいは世界中で起こっていることかも確認しないとな)
今更あり得ないとは思いつつ、この付近だけで発生している事態でないとも言い切れない。電気や水道などのライフラインが通じていることから、もしかしたらまだまともな市民生活を送れている地域があるかも知れないのだ。
もっともそれを自分が本当に望んでいるかは別だった。無論、肉親には無事でいて欲しいと願っている。智哉には他県で暮らす両親と二つ年下の弟がいた。落ち着いたら安否を確かめに行くつもりだ。ただ、少なくともこの事態が局地的なものだとして素直に喜べる自信はない。特にゾンビに襲われないと知った今となっては。
いずれにせよ、外に出てみないことには始まらないので、智哉は朝食の片付けもそこそこにバイクのキーを手にすると、部屋を後にした。例によって階段を利用して下に降りる途中で、またしてもイシハラに遭った。ひと晩が経過したことでゾンビの反応にも変化があるかも知れないと考え、万全を期して慎重に近付くが、やはり智哉を見ても意に介さなかった。イシハラを襲ったゾンビの方は昨晩のうちにどこかに戻って行ったようだ。これで智哉がゾンビに襲われないのが一時的なものである可能性はぐっと低くなったわけだが、そうは言ってもこうもしょっちゅうゾンビと顔を合わせるのはさすがに心中穏やかならざるので、帰ったらエントランスに溢れ返る他のゾンビ共々どこかに閉じ込めておこうと考えた。そのエントランスの様子は床に飛び散った血の痕が残らず乾いてどす黒く変色し、智哉が吐いた反吐がすっかり固まっていたこと以外はほぼ昨日と変わりなく、どのゾンビからも無視される点においても同様だった。唯一点だけ違っているところがあり、智哉が斃したゾンビの死体がどこにも見当たらなかった。血溜りの痕ははっきりと見て取れるので、夢や幻覚だったとは考えにくい。まさかあれだけのダメージを負ってまた甦ったのだろうか? だとすれば今までの世間の検証は間違いで、もはや不死身に近い存在ということになる。急いで周囲にそれらしい奴を探したが、顔が潰れている者は見つからなかった。正面玄関も裏口も破られた形跡はなく、外に出たとも考えられない。帰ったらもう一度詳しく調べ直すことにして、智哉は一旦その場を立ち去る。玄関先ではヤマグチとノザキが外に出て行こうとしてドアの前で立ち往生している姿が目に入った。どこに行こうというのだろうか? 多少の興味はあったが、今はそっとしておく。駐車場では昨日いたはずのコヤマが消えていた。もちろん、車はそのままだ。
(一応、慣れ親しんだ場所に還るという仮説は立てたが、この辺りのゾンビの生態はそのうち詳しく調べてみるべきだな)
そう考えながら愛車の下に向かう。駐輪場に停めてある排気量二五〇CCのヤマハのオフロードバイクがそれだ。エンジンをかけるのは凡そ一週間ぶりになるが、セルモーターは難なく作動して、空冷四ストロークSOHC単気筒の心地良い音色を響かせる。その音はさほどうるさくはないものの、周囲のゾンビを振り向かせるには充分な大きさだった。音に反応して襲って来るかも知れないと身構えていたが、その心配は要らなかったらしい。標的でないとわかると、その後はエンジンを空吹かしさせようと声をかけようと放って置かれた。他のゾンビが騒いだ時とまったく同じ反応だ。
(やはり仲間だと思われているのだろうか……?)
ゾンビに視覚と聴覚があるのはわかったが、ドア越しの息を潜めた見えない相手にも反応したことを思えば、それだけに頼っているわけではなさそうである。他に考えられる感覚器としては匂いを感じる嗅覚か、あるいはヘビ亜目が持つピット器官に似た体温を感知するサーモグラフィーのような機能が備わっているのかも知れない。
(確かめたいが、こればかりは生きた人間の囮が必要だしな。危険を承知で協力してくれる奴なんていないだろう)
自分では確認できないので、現段階では保留とするしかない。
暫くしてアイドリングが安定したのを見計らい、智哉はバイクをスタートさせた。駐車場から路上に出て、まずはマンションの周辺を適当に流してみる。道路は実際に走ると、上から見た以上に惨憺たる有様だった。事故を起こした車と、それに行く手を阻まれた車が無造作に乗り捨てられ、至る所で道を塞いでいる。何とかその間を縫って進むが、身軽なバイクだからできた芸当だ。車なら軽でも通り抜けは不可能だったろう。それでも何ヶ所かは完全に車道が遮られて、歩道や人の家の庭を強引に突破するしかなかった。
(どの途、あいつらの命運はここで尽きていたな)
またしてもデッドエンドという言葉が思い浮かぶ。
ただ、ここまでゾンビと思われる人影は殆ど見ていない。特に大勢の集団で目撃することはほぼ皆無だった。たまに目にするのはふらふらと単独でどこかに向かって行く奴か、建物の出入口付近で立ち往生している連中だ。それでも上から覗いただけでは気付かなかった気配を民家の窓越しや店舗のショーウィンドウの奥、駅や地下街の薄暗い構内などに感じる。その全てがゾンビのものとは限らないが、以前に見た道路に溢れ出す光景を思い返せば充分に考えられると思った。もしそいつらに智哉が獲物だと勘付かれれば一斉に躍り出て来るに違いない。そうなれば幾ら小回りが利くバイクといえども逃げ切ることは絶望的と言って良かった。
(それにしても予想していたとはいえ、生きた人間は見かけないな)
それもある意味、当然と言えよう。そもそもこんな風に気ままに動き回れている智哉の方が尋常ではないのだ。恐らく、民家やアパートを一軒一軒訪ねて行けばそのうち生存者にも巡り合うだろうが、そうまでして捜し出す価値が今の智哉には見出せなかった。
(潜んでいるのは身動きが取れないからだろうしな。安全な場所に移動させるにもその手段がない)
食糧などを分け与えるにもそれだけの物資が手に入るかもわからない。第一、智哉には自分がヒーロー然として人々を助けて回ろうという発想自体が希薄だった。幾ら出歩くのに支障がないといっても知り合った相手を片っ端から面倒見ていてはとても身が持たない。他人の世話をするために自分が何もできなくなるのもアホらしいと言えた。よって助けるにも慎重に相手を選ぶ必要が生じるだろう。自分にない技量や知識の持ち主──例えば医者やエンジニアや建築関係者などであれば理想的だ。あるいは農家といった一次産業に従事する者でも良い。そういう相手だけを見極める方法はないものだろうかと思案しながら少し足を伸ばして走っていると、前方の工場らしき建物が目に付いた。何の変哲もない建物だが、入口に降ろされたシャッターが風とは違う不自然な揺れ方をしたように見えたのだ。できるだけ静かに接近する。すると、不意にシャッターが開いて中から年配の男性が顔を覗かせた。緊張した様子で辺りを窺っている。その目が智哉を見つけて釘付けなる。一瞬驚いた表情を浮かべたが、バイクに乗っていたことからすぐにゾンビではないとわかったようだ。こちらに向かって手を振り始めた。そのまま建物を出て、不用意に近付いて来ようとする。智哉が無防備でいることで安心したらしい。
「よせ! 戻れ!」
智哉は慌ててそう呼びかけるが、距離があるせいか老人の耳が遠いのか、ますますこちらに向かって来る。その後ろから今度は同年輩の女性が現れた。老人がその女性を呼び寄せて、智哉を指差し、何かを話している。助けが来たとでも教えているのかも知れない。その時、建物の陰から躍り出る人影を視界の片隅に捉えた。はっきりとは視認できなかったが、状況からしてゾンビにほぼ間違いあるまい。二体三体と立て続けに現れ、老人達の下へ向かっている。老人達は智哉に注目していて気付かない。
「逃げろっ!」
叫びながら智哉は道沿いに回り込むのを止めて、その場にバイクを乗り捨てた。背後で愛車が転倒するのも構わず、一直線に老人達の下に駆け出す。既にゾンビは老人達からほんの数メートルの距離まで迫っている。ここからでは到底間に合わないのは明白だった。仮に追いつけたとしてもゾンビを引き留める手立てなど何も思い浮かんでいない。それでも走らずにはいられなかった。何故かは自分でもよくわからない。気付いた時には身体が勝手にそう反応していたからだ。その智哉の目前で、今まさに老人達にゾンビが襲いかかろうとしていた。
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