5 脱出計画

「ここが岩永さんの部屋か」

 智哉が案内した他人の部屋にはヤマグチとノザキが同行した。自分が言い出した割には、部屋から出たくないらしいコヤマは付いて来なかった。ひと通り見て回って室内に食糧がないことを確認するとヤマグチは、疑って悪かったな、と申し訳なさそうに言った。その詫びというわけではなさそうだが、良ければ一緒に居て貰って構わない、という申し出を智哉は丁重に断った。あまり長く一緒に居過ぎてはいざ別行動を取りたい場面で理由を見つけるのに苦労しそうだったからだ。それよりも普段から些か協調性に欠ける一風変わった個人主義者と見られていた方が何かと都合が良い。陽は既にビルの谷間に隠れるほど傾き、辺りには夕闇が迫っていたので、今後のことは明日また会って話そうということになり、翌朝の訪問時間を決めて彼らとは別れた。意識を取り戻して初めての夜を迎えるが、電気が通じていることもあって、さほど恐怖は感じない。当面は彼らの目を欺く意味でもこの部屋に留まるつもりで、その準備のためにヤマグチ達が去ったのを見届けると、智哉は一度自分の部屋に戻った。そこでまず電気ポットでお湯を沸かし、カップ麺で軽く腹ごしらえをする。ヤマグチ達に対して若干の後ろめたさがなかったわけではないが、二日や三日絶食したところで人間が死ぬわけではないので、良心の呵責に苛まれるというほどではなかった。本当に餓死しそうにでもなればその時にどうするか決めれば良い。それから浴室のバスタブ一杯に水を張っておく。こうしておけば断水しても当分は水不足に悩まされることはないはずだ。同様のことは後でサラリーマンの部屋でもやっておこうと考えた。風呂は使えなくなるが、シャワーは浴びられるので、この際贅沢は言うまい。その後、ダミーの室内を智哉のものらしく見せるために幾つかの小道具や着替えを抱えてサラリーマンの部屋に戻った。外の表札はヤマグチ達に気付かれないよう隙を見て外してある。小一時間ほどをかけて誰が見ても智哉の部屋と見紛うように室内を偽装し終えると、漸く落ち着くことができた。時刻は午後八時を回ったところで、まだ眠くはならなかったので、智哉は他人の家のソファで寛ぎながら、今後について自分なりの考えをまとめてみることにした。

 まず真っ先に検討すべきは、このままマンションに留まり続けるか、あるいは逃げ出すべきかの選択に外あるまい。確かに部屋の中に潜んでいればゾンビに襲われる危険は少ないと言えるが、幾許かの食糧を隠し持っているとはいえ、いずれ尽きるのはわかりきっている。他の階を虱潰しに探せば多少の糧は得られるかも知れないが、ヤマグチ達が言うようにリスクが大き過ぎた。そもそもこんな風に施錠されていない部屋が簡単に見つかるとは限らない。さらに言えば電気や水道が止まれば生存率が一気に下がることは確実だ。そうなれば長くは留まっていられないだろう。どうせいつかは脱出しなければならないなら追い詰められてから焦って考えるよりも余裕があるうちに少なくとも準備だけは整えておくのが賢明だと思った。そうしてできることならなるべく早期に他の避難者達の居場所を見つけ、合流するのが望ましい。それが警察や消防や自衛隊の庇護下にあるような集団なら尚のこと理想的と言えた。そんなものはもはやどこにも残っていないという最悪のシナリオは一旦脇に置くとして、そのために必要な手順を頭の中で整理する。大まかに言って三つの課題をクリアする必要がありそうだった。

 一つはマンションの出入口付近に集まっているゾンビを如何に排除するかだ。比較的数が少ない裏口側でも五、六体はいることを覚悟しなければならない。こちらも人数では負けていないとはいえ、内二人は女で、ゾンビのしぶとさを考えれば力づくでの突破はまず無理と考えて間違いない。仮にゾンビの数が半分でも全員が無事逃げ切るのは難しいだろう。そうなると何か別の手段、例えばゾンビの習性を利用してどこかに移動させるような手立てを考えるより他にない。これが第一の課題だ。

 二つ目は移動手段の確保だった。周辺の道路事情を見た限りでは例え無事に表に出られたとしても、その後の乗り物での移動が恐ろしく困難になることは想像に難くなかった。もたもたしていればあっという間に取り囲まれるだろうし、無理をすれば昼間のドライバーの二の舞になるのは目に見えている。かといって徒歩での移動はまったく以て論外だ。見つかればあれだけの数のゾンビを走って振り切ることなど到底不可能である。ゾンビの能力次第だが、夜の闇に紛れて移動するという手段もあり得なくはないものの、それが有効なら昼間に危険を冒してまで逃げ出さないのではないかと考えると、これも望み薄と思わざるを得ない。バイクならある程度の小回りが利いてゾンビをやり過ごせるかも知れないが、その場合に助かるのは智哉と、せいぜいもう一人を二人乗りタンデムで連れ出すのが関の山と言えよう。それも無茶を押し通しての話でだ。あくまでそれは最終手段にするとして、今は全員が助かる方法を模索すべきだろう。五人のうち一人だけ連れ出すとしたらやはり女二人のどちらかだろうと他愛なく浮かべた妄想を頭から追い払いつつ、智哉は次の課題に思考を切り替えた。最後は脱出してどこに向かうかという問題だ。

 先程思い浮かべた避難キャンプのような場所が理想には違いないが、改めて考えると外部と連絡が取れない今の状況ではどこにあるのか知りようがない。災害時の避難所に指定されているような場所なら見つかる確率は高いが、当てずっぽうで向かって結果ありませんでしたでは済まないのだ。ゾンビとの追いかけっこでは少しでも立ち止まればそこが終着点となる可能性が高い。文字通りのデッドエンド。途中で検討し直すことも難しいだろうから、走り始めたら目的地までノンストップで辿り着くことが絶対条件だ。あやふやな行き先で行動を開始することはできない。

 以上の点を全てクリアできなければ脱出などとてもおぼつかないだろう。こうして整理してみると、身動きがままならない理由がよくわかる。その最大の要因はゾンビの身軽さにあると言っても差し支えない。車という移動手段を封じられた現在、全速力で走るゾンビと相対するのは、自分以外の全員が鬼という無謀な追いかけっこに興じるようなものだ。その辛辣さに比べたら、と智哉は思った。フィクションでよく見かける鈍重なゾンビの何と穏当なことか。その手の作品を見るたびに智哉が常々思っていたことがある。重火器や装甲車や戦闘機、果ては核でさえ武装する人類がゾンビに追い詰められることなどあり得ないだろう、と。ある意味、それは正しい見解だった。もしゾンビがゆっくりとしか動けなかったなら、ここまで脅威となることはなかったはずだ。それが走れる、素早く動けるというだけで誰がこれほどに状況が一変すると想像し得ただろうか。日本では一般人が銃を持たないことも被害の拡大にはさほど影響はなかっただろうと思える。オリンピッククラスの射撃の名手でも恐らく全速で迫って来る相手の頭部だけを冷静に狙い撃つことは至難の業に違いない。その上、向こうは銃を向けられたところで怯むことも恐怖を生じさせることもなく、撃たれても苦痛を感じることさえないのだ。たぶん慈悲の心も憐憫の情も良心の呵責もあるまい。本能に付き従って斃されるまで襲い続けるだけだ。それが数十人、数百人、あるいはそれ以上ともなれば如何なる対抗手段が取れようか。無事で済む人間がいるかどうか甚だ疑問と思わずにいられない。もはやゾンビ一体が脅威とならない人類はどこにも存在しないと言っても過言ではなかった。


「そういうことなら逃げる場所に当てはあるんだよ」

 翌朝、約束通りに智哉がイシハラの部屋を訪ねて、昨晩整理した考えを全員に披露すると、ヤマグチが透かさずそう言った。

「そこの大通りを南下して行くと国道に交わるだろう? その国道を中心街の方へずっと行った先に、大きな郊外型スーパーがあるのは知っているか? 道路沿いの右手に見える、正面が広い駐車場になっている四階建ての店舗だよ。あの店はスーパーと言っても食品だけじゃなく日用品も豊富に扱っているから俺達もよく行くんだが、そこに逃げ込もうって相談していたんだ。あそこなら喰い物に困ることはねえだろうしな」

 そのスーパーマーケットなら智哉も何度か利用したことがあって知っている。関東を中心に全国展開している有名チェーン店の一つで、ヤマグチが言うように食料品以外に日用雑貨や家具、果ては家電まで置いているスーパーと言うより総合デパートに近い販売形態の店だ。しかし──。

「スーパーか……」

 スーパーマーケットやショッピングモールに逃げ込むことは智哉も考えなかったわけではない。映画などでは定番の籠城先だし、食糧を始めとする物資が手に入れられる恩恵はこの上なく大きいのも確かだ。だが、それだけに似たように考える者は少なくないと思われる。外の様子は今一つはっきりしないが、占拠できるものならとっくに誰かがそうしているだろうし、その場合、後から訪れた者が歓迎されるとは限るまい。それに、そうした可能性自体がかなり低いのではと智哉は思っている。人間よりもゾンビに出喰わす確率の方が遥かに濃厚だ。マンション周辺に居坐るゾンビの排除にも手を焼いているのに、そんなところにのこのこと出かけて行くのは自殺するに等しい。そう智哉が指摘すると、意外な答えが返ってきた。

「それは俺達も真っ先に思ったことだ。岩永さんに言われるまでもなくな。まず間違いなくゾンビに占領されているだろう」

「だったら何故そんな場所に行こうとする?」

「それは私から説明するわ」

 珍しくクロダが率先して発言し始めた。ということは、スーパーに逃げ込むという発案は彼女によるものなのかも知れない。とりあえず智哉は話を聞くことにした。

「実は私、あのスーパーでレジ打ちのアルバイトをしていたんだよ。もう二年以上前の話だけどね。それでたまたま知る機会があって、あそこはぱっと見で四階建てに見えるけど、実は売り場は三階までしかないんだ。四階は正面の道路側からはわかりにくいけど、建屋は半分しかなくて残りは屋上駐車場になっている。不便だから従業員以外には殆ど使われてないんだけどね。その半分の建屋っていうのはエレベーターの塔屋と倉庫を合わせたものなんだよ。倉庫と言っても日頃、商品管理をする所謂バックヤードじゃない。使われなくなった不用品を押し込めておく本当の意味での倉庫だからお客さんはもちろん、従業員も滅多に立ち入らない。私がいた時はいつも鍵が掛かっていたしね。つまり、その頃のままなら今も無人の可能性が高いってこと。さすがに店内が無人ってことはあり得ないだろうけどさ」

「だったらどの途、そこまで行けないんじゃないのか?」

 智哉は思い付いたことを率直に口にする。幾らその場が安全でもそこに至るルートが通れないのでは意味がない。

「店内からは無理だろうね」

「……ということは、他に辿り着く方法があるってことか?」

 智哉がそう言うと、殊更感心した様子もなく、わかって当然というように、ご明察の通りだよ、とクロダは答えた。

「屋上のエレベーターホールの近くにも出入口はあるんだけど、そこはもちろん施錠されていて、扉も鋼鉄製の頑丈なものだから強引にこじ開けて入るのはまず無理。それよりも確実に中に入れる場所があるわ。その建屋を回り込んだ裏側に明かり取りの小窓が一つだけ付けられているんだよ。その窓は下からも屋上の駐車場からも死角になっていて、従業員でも知っている人は少ないと思う。私も倉庫の整理を頼まれたことがなかったら気付かなかった。人が一人通るのがやっとの大きさで、鍵は当然掛かっているだろうけど、普通のガラス窓だから割れば問題ない。咎める人もいないだろうしね」

 従業員も知らない秘密の侵入路か、と智哉は胸の裡で呟いた。それならヤマグチ達がスーパーを目指すと色めき立つのもわからなくはない。

「それだけじゃねえんだ。この案にはもう一つ、大事なポイントがあるんだ。岩永さんはそれが何かわかるかい?」

 そうヤマグチに問われて、智哉は暫し考えて言った。

「駐車場との距離か?」

 智哉が答えると、ヤマグチが少し驚いた表情を見せた後、よくわかったな、と称賛するように頷いた。

「そこなんだよ。屋上には駐車場がある。要するにギリギリまで車で行けるってことだ。店内を突っ切ることも階段を自分の脚で上がる必要もねえ。車を降りて走るのは建物を回り込むほんの数十メートルでいい。それなら脚の遅い奴だって安心だ。どうだ、すげえだろ?」

 それに、とイシハラがヤマグチの後を引き取る形で続けた。

「不用品の倉庫といったってまったく食べ物が置いてないってことはないだろうっていうのが僕らの考えなんだ。非常食くらいは保管しているんじゃないかな。上手くいけばバックヤードにだって下りられるかも知れない。そうなれば当分は安泰だよ」

 期待を込めた口調でそう話し、同意を求めるようにクロダを見た。

「悪いけど、そこまでは保証できないよ。何しろ、随分前のことだし、何があったかなんて憶えてない。中身だって変わっているかも知れないだろ」

 クロダは冷静にそう言ったが、イシハラは大して気にも留めていない様子だ。ヤマグチが、どう思うか? と問いたげな視線で智哉の方を見た。確かにこれだけの好条件が揃うことなど他ではまず考えられないだろう。その意味では幸運と言うよりない。他の避難者との合流を目指すという当初の目論見からは外れることになるが、それはスーパーを拠点にしてから考えても良い。とにかく今は食糧確保を最優先にするというのは悪くなかった。そこまで思い至って智哉は再び口を開いた。

「そうだな。それなら確かに行ってみる価値はありそうだ。ただし、今聞いた話の内容からすると車を使う前提になっているようだが、道路を見た限りじゃまともに通行できるとは思えないぞ。君らも昨日の事故は見ただろ? 下手をすると……というか下手をしなくても普通はああなるのが落ちだ。その点に関してはどうする気だ? 何か策はあるのか?」

「策なんて大それたもんじゃねえけどさ、一応は考えていることはあるよ。といっても他に手が思い付かなかっただけなんだけどな」

 まあ見てくれ、とヤマグチに促されて、智哉は部屋の窓からこっそりと顔を覗かせた。裏の駐車場を見下ろすと、あれだ、とヤマグチが指差す方法に目を向ける。来客用駐車場の隅に停められた真新しい一台の軽乗用車が視界に入った。如何にも若い女性が好みそうな丸みを帯びたシルエットで、色は派手なピンクだ。

「アヤカの車なんだが、あれなら車幅も狭いし、何とか通れるんじゃないか? でかい車で強引に押し通ることも考えたが、それならトラックとかダンプとかで誰かがやっているだろうしな。あれで通れなきゃ他のどんな車でも通行できねえよ。無謀だとと思うか? 岩永さんの意見を聞かせてくれ」

 アヤカというのはこれまでの様子からすると、コヤマのファーストネームのようだ。その彼女の車は軽の中でもとりわけ小型な部類に入る車種だった。それでも障害物をすり抜けられるかどうかはやってみなければわからないほどだろう。

 駄目かな、と再度訊かれて、智哉はかぶりを振った。

「何にしても乗り物は絶対に必要だ。徒歩で移動するのは襲ってくださいと言っているようなもんだからな。他に手立てがない以上、やれることの中から最善の手段を選ぶしかない。そういう意味じゃ間違ってはいないと思う」

 元よりある程度の賭けになるのは致し方ないことである。その中では比較的分がある方と言えそうではあった。どうやら彼らもこの数日間を無為に過ごしていたわけではないとわかって、智哉も少しは安心した。

「けどよ、六人ともなると車内が狭くなるのは我慢してくれよな。そもそも定員オーバーには違いねえんだから」

 冗談めかした口調でそう語るヤマグチに、それなら心配ない、と智哉は告げた。

「俺は自分のバイクを使うつもりだ。車には君らだけで乗ってくれ」

 何だ、あんた、バイクがあったのか、とヤマグチが意外そうな声を上げた。

「道理で落ち着いていられるわけだ。いざという時に逃げる当ては用意してあったんだな。おっと、別に皮肉で言ったんじゃないぜ。閉じ込められているって点じゃ俺達も岩永さんも変わらないわけだからな。そうさ、問題はそこなんだよ。幾ら移動手段があったって外に出られなきゃ何も持たないのと同じなわけだろ」

 確かにその通りだ。出入口付近のゾンビを何とかしないことには、これまでの会話は全て絵に描いた餅に過ぎない。

 すると、今まで黙っていたノザキが、おずおずといった感じで喋り始めた。

「考えたんだけど、裏口のゾンビくらいなら今の人数だったら全員でかかれば何とか斃せるんじゃないか? 岩永さんも加わって男は四人になったんだし、武器になりそうなものだってある」

 そう言って賛同する者がいないか周囲を見回すが、誰の支持も得られそうになかった。そんなノザキに、人を殺した経験がお前にあるのかよ、とヤマグチが突き放したように言った。

「ねえんだろ? だったら止めておけ。頭で考えるのと実際に暴力を振るうんじゃ全然違うんだよ。ゾンビと言ったって見た目は俺達と変わらねえんだ。無我夢中で殺しちまうとかならともかく、余程の覚悟がなきゃ冷静に刺したりぶっ叩いたりなんてできねえもんだよ、普通はな」

 恐らく、この中で一番暴力に慣れているのはヤマグチに相違ない。相当に修羅場を潜っていなければ今のような発言は出て来ないだろうと思えた。それだけに並々ならぬ説得力があり、ノザキはぐうの音も出ずに黙り込んでしまう。無論、智哉も同感である。ヤマグチの言葉を補足する意味でもその先を続けた。

「それだけじゃない。ゾンビ共は俺達をほんの少し齧るだけで済むのに、こっちは確実に頭を潰さなきゃならないんだ。一人殺るのにどれだけ時間がかかるのか想像も付かない。その間、他のゾンビが待ってくれると思うか。訓練を受けた人間でも真正面からやり合うのは難しいだろうな。ましてや今言ったように俺達は暴力に慣れていない。些細な迷いや躊躇いが命取りになることだってあり得る。この際だからはっきり言っておくが、ゾンビを力づくでどうにかしようなんて考えはきっぱり捨てた方がいい」

 智哉がそう告げると、ノザキを含めその場にいた全員が頷いた。

 それにしても、と智哉は改めて思い返す。一度噛まれて何事もなかった人間が再度噛まれた場合はどうなるのか? 今度こそゾンビ化するのか? それともやはり感染はしないのだろうか? ネットのニュースでは噛まれると死亡することまでは書かれていたが、耐性のある人間については一切触れられていなかった。それだけ例のないことだと思われる。従って安心するのは早計だろう。ゾンビにならなかったのは運良く偶然が重なったに過ぎないかも知れない。理由は不明だが、例えば智哉を襲った男がたまたま感染力が弱かっただけということも考えられる。あるいは別の理由か。いずれにしても以前に免れたからといって次もそうなるとは限らない。危険性は他者と変わらないと心得ておくべきだった。大体が喰われてしまえば感染するも何もない。そうしたことを踏まえた上で、智哉はおもむろに切り出した。

「ちょっと考えがあるんだが、聞いてくれるか?」

「なんだい? 意見があるなら遠慮せずに言ってくれ。この中じゃあんたは一番年上で唯一の社会人なんだからよ」

 他の者も、そうだと言うように頷く。全員が注目する中、智哉は静かに自分の意見を語り始めた。

「外に出て行くならやはり正面切ってではなく裏口からっていうのが順当だ。駐車場や駐輪場に直接出られるメリットは大きいし、わかりきったことだが何よりゾンビの数が少ない」

「少ないと言ってもやり過ごせる数じゃねえぜ。それに岩永さんもさっき言ったじゃねえか。力づくは無理だって」

「ああ。けど、闘う必要はないんだ。要はそこからいなくさせればいい」

 それを聞いて、コヤマが不服そうな声で口を挟んだ。

「それができないから苦労してるんじゃないの。それとも誰かに囮になれとでも言うんじゃないでしょうね? そんなの私は絶対に嫌だから」

「囮にするっていうのは当たっているが、何もそいつに犠牲になれと言ってるわけじゃない。そりゃ多少の危険は伴うが、それは全員が同じだ。イシハラ君はここの住人だから裏口の横に守衛室があるのは知っているな? 夜は無人だが、昼は常駐の警備員がいて出入りする人間をチェックしている。当然、今は誰もいないわけだが……。車やバイクに乗る住人は駐車場に出るのに便利だから正面玄関より裏口の方をよく使い、俺も前を通る時に何度か中を覗いたことがある。それで思い出した。あの部屋には駐車場側に面した窓がある。ちょうど、裏口が覗ける付近だったはずだ」

「それでどうしようっていうんだ? その窓にゾンビを引き付けようとでもいうのか? けど、そんなことしたって俺達が外に出たら同じことだろ?」

「窓に引き付けるんじゃない。室内に引き入れる」

 智哉はきっぱりとした口調でそう宣言した。

「引き入れるってゾンビを守衛室にか? ちょっと待ってくれよ。そんなことをしたらそれこそ囮になる奴はどうなる? 襲われるに決まってるだろ」

「そうとは限らない。窓の高さは腰より少し低いくらいだからな。ゾンビが普通の人間と変わらない身体能力なら悠々と乗り越えられる高さだ。表にいる全員を引き込むのにそれほどの時間はかからないだろう。そうして近くのゾンビが全て守衛室に入ったのを見計らって囮役は素早く部屋を出てドアを施錠する」

「でも、それじゃあ、また窓から出て来るだけじゃないの?」

「誰かが守衛室のドアの前に立ってゾンビを引き留めておくんだ。ドア越しでもゾンビが反応するのは例の部屋で実証済みだからな。その間に他の者は外から回って窓を塞ぐようにする。塞ぐと言っても本格的に閉じ込める必要はない。俺達が車やバイクに乗り込むまでの間、そうだな、せいぜい一、二分稼げればいいわけだからな。何かないか? 素早く窓を塞ぐ良い方法は?」

 智哉の提案に全員が考え込む。暫くしてイシハラが遠慮がちに手を挙げた。

「こういうのはどうだろう? 予め駐車場に窓を塞げるくらいの家具を用意しておくんだ。本棚でも箪笥でも何でもいい。岩永さんの部屋なら四階だからカーテンをロープ代わりにでもして全員でベランダから下ろせばそれほど難しいことじゃないと思う。それを囮役以外の人で窓際まで運んで行くっていうんじゃ無理かな? そんな家具があればいいんだけど……」

 その発想を受けて智哉はダミーの室内にあった家具を思い返してみる。本来の自分の部屋ではないので中の様子を思い浮かべるのに少し時間がかかったが、寝室に重そうな洋箪笥が置かれていたのを思い出した。あれなら大きさ的にも重さ的にも窓を塞ぐのに申し分なさそうだ。ちょうど良い大きさの箪笥がある、と智哉は言った。

「足許は倒れないように補強する必要はあるが、今言った条件にピッタリだろう」

「だったら窓を塞ぐのはそれでいいとして、肝心の岩永さんの作戦は上手くいきそうなのか?」

「問題は囮となった人間が部屋を出るタイミングだな。早過ぎれば外にいる全員を引き込めないし、遅ければそいつが危ない」

「その守衛室の大きさっていうのはどれくらいなんだ?」

「大体このリビングほどだ」

 それじゃ無理だ、とヤマグチが即答した。

「この程度の広さじゃ、幾らゾンビが早くやって来たってとても全員が入るまで逃げ切れねえよ。岩永さん、悪いけど、あんたのプランは無謀だぜ」

「そのままなら無理なのはわかっている。だから部屋の中にバリケードを築くんだ。窓とドアを分断するように」

「そういうことね。囮役はバリケードの内側にいれば身を護れるってわけか」

 クロダが呟いた言葉に智哉が頷く。裏口付近のゾンビを六体程度だと仮定し、全速で襲って来るとすれば三十秒もあれば全員を室内に引き込めるだろう。バリケードはその間、保てば良い。

 懸念があるとしたらゾンビの反応が思ったよりも鈍くて、部屋に入るのに予想外の時間がかかってしまった場合だ。その時はやむを得ないが、途中で計画を放棄して部屋を出るしかない。作戦は一から練り直しだが、最悪でも犠牲者が出ることだけは防げる。失敗しても誰も死なずに済むというのが、このプランの最大の利点だ。

 それだけのことを話し終えると、智哉は黙った。一人ではどうにもならない計画である。あとは彼らの判断を待つしかない。

「……私はやってみてもいいと思う」

 驚いたことに最初にそう声を上げたのは、これまで智哉に最も懐疑的な意見が多かったコヤマだった。助かりたいと願う気持ちに違いはないということだろう。それを皮切りに、次いでクロダが賛成の意を示し、イシハラとノザキが後に続いた。最後にヤマグチが全員を代表するように、やるしかねえな、と口にした。

「囮役は俺がやるよ。言いだしっぺだしな」

 全員の意思がまとまったところで智哉はそう告げた。初めからそうしようと決めていたことだ。折角彼らがその気になったのを役割分担で揉めて台無しにしたくなかった。確かにリスクは伴うが、そもそも成功する自信がなければ最初から提案していない。最も決めにくいであろう囮役を智哉が率先して引き受けたことで、彼らも気が楽になったはずだ。あとはスムーズに決まるだろう。

「じゃあ、囮役は岩永さんと俺ってことでいいな?」

 唐突にヤマグチがそう言い出してニヤリとして見せた。どうやら男気のあるところを自分も見せようということらしい。

 その後の話し合いで、あとの者達の役割も決め、囮が守衛室を出た直後にドアを固定するのは残った男二人の担当。女達は何かあった場合素早く手助けに回れるよう、一歩下がった位置で待機することとなった。この後、守衛室を調べる予定で、そこで鍵が見つかれば問題ないが、そうでなければドアを固定するのに施錠以外の別の方法を考えなければならない。それはそうなった時に検討するとして、ドアを固定した後は智哉一人がその場に留まり、ドア越しにゾンビの注意を引き付けておく。その間に他の者達は外に出て、男三人は予め駐車場に下ろしておいた箪笥で窓を塞ぎ、女二人は先に車に乗り込んでエンジンをかけ男達の到着を待つ段取りとした。タイミングとしては窓が塞がってから逃げ出す智哉が一番不利になるが、他の者ではそいつの到着を全員が待たねばならなくなるため、一人だけバイクを使う予定の智哉が引き受けるのは妥当な線だった。

「それで決行はいつにする? 俺達としちゃなるべく早い方がいいんだが」

 全員、余程空腹が堪えているらしい。智哉としては隠してある食糧で喰い繋いでギリギリまで救助を待つという選択肢も考えられなくはなかったが、恐らくこのメンバーでは時間が経つほどにまとまりを欠き、成功がおぼつかなくなるに違いないと考えた。それに一度避難を実施したところに再び救助が現れるかは怪しいものだ。今更、食糧が隠してあることを打ち明けるのも却って不審を招くだけだろう。それならば、と智哉は決意した。

「今日のうちに準備をして、それが滞りなく行くようなら明日の朝に決行というのはどうだろう? もちろん、天候やその他の状況次第だが」

 それで良いと全員が賛成した。そこで早速準備に取り掛かり、まずは四階の智哉のものと思われている部屋に行き、洋箪笥を駐車場に下ろす作業から始めた。それに先立ちイシハラの部屋にあったスチール棚のポールを箪笥の足許にL字型に組んで、簡単に倒れないよう補強する。持ち上げやすいように肩で担ぐ棒も取り付けた。それをカーテンを裂いて作ったロープで結び、みんなで協力してベランダから一階の駐車場に何とか無事に下した。本番ではこれを男三人が担いで守衛室の窓まで運ぶことになる。

 続いて一階に下りて、守衛室を調べた。ドアには鍵が掛けられていたので、エントランス側にある受け付け用の小窓を破って侵入した。駐車場に面した窓は玄関と同じく強化ガラスなのでゾンビに見つかっても襲われる心配はないが、念のため余ったカーテンで遮蔽しておく。割った小窓は後で塞ぐとして、とりあえず室内を物色して回った。幸いなことに守衛室の鍵は机の抽斗の中からすぐに見つかった。これでわざわざドアを固定する手間は省けそうだ。その後、バリケードの材料となるベッドや本棚やテーブルをこの時ばかりはさすがにエレベーターを使って四階と六階から運び入れ、守衛室のドアと窓を区切るように配置する。それらを針金代わりのハンガーなどでしっかりと繋ぎ止め、一ヶ所だけギリギリ人が通り抜けられる程度の隙間を作っておき、後から素早く閉じられるよう工夫した。そうして朝からの作業が全て完了したのは午後五時を回った頃だった。やれるべきことは残らずやったはずだ。あとは明日の決行を待つばかりである。この日は翌日に備えゆっくりと休むつもりで彼らとは早々に別れて部屋に戻った。


「覚悟はいいか? もう後戻りはできねえぞ」

 翌日、集まった皆に向かってヤマグチがそう声をかける。それぞれが必要最小限の荷物を持ってエントランスに集合していた。智哉は四階を探索した際のライダースジャケットにバイクグローブ、厚めのジーンズにスニーカーという出で立ちで、小型のバックパックを背にしている。中身は着替えなどの日用品に若干の食糧品を紛れ込ませてあった。ただし、大半の食糧は置いていかざるを得なかった。どうせバイクで持ち出せる量には限りがあるし、ヤマグチ達に頼むわけにもいかない。第一、計画が成功すれば当面の食糧に困ることはなくなるはずだった。失敗した場合は……あまり考えたくないが食事の心配をする必要はたぶんなくなるだろう。

 誰も計画を中止にしようと言い出す者がいないのを確認して、それぞれが所定の位置に付く。智哉はヤマグチと共に守衛室の中に入り、室内を隔てるバリケードの隙間を通って窓際に行くと、その場に身を潜めた。実行は智哉達のタイミングで始めることになっていた。

「もう一度確認しておくぞ。ここに留まるのは長くても一分以内。それを過ぎたら何があっても部屋を出る。途中でバリケードが破られそうになったり、身に危険を感じたりしても無理をせずに脱出する。とにかく安全を最優先するんだ。いいな?」

 智哉がそう囁きかけ、ヤマグチがこの男にしては珍しく神妙な面持ちで頷いた。互いに目配せして呼吸を合わせ、一斉に立ち上がると同時にガラス面を覆っていたカーテンを引き剥がし、窓を全開にした。それだけでは智哉達に気付かない奴が出てくる恐れがあったため、危険だが窓から上半身を乗り出して、壁を叩いてゾンビを挑発する。あまりやり過ぎると遠くから新たなゾンビを呼び寄せかねないので、加減をしながらだったが、気付かれないかも知れないという心配は無用だった。すぐに裏口付近にいたゾンビ達はこちらを見つけると振り向いて、迷うことなく向かって来る。その姿を見て、智哉達は急いでバリケードの奥に下がった。視界に捉えたゾンビは全部で五体。その全てを室内に引き込まなければ成功とはならない。バリケードの隙間を潜り、内側へと避難すると、用意していた部品でそこを塞ぐ。それとほぼ同時に一体目のゾンビが窓の外に現れた。若い男のゾンビだ。予想通り、窓枠を苦もなく乗り越えて来る。続けざまに二体目、三体目と姿を現し、同様に部屋の中に乗り込んできた。

「どうなんだ、岩永さん? ここまでは予定通りかい?」

 隣のヤマグチがそう嘯くが、声の震えは隠し果せていない。そうして虚勢でも張っていないと耐え切れない心境だったのだろう。智哉の方はそれに応える余裕はなく、片時もゾンビから目が離せなかった。既に最初のゾンビは眼前のバリケードに取り付き、邪魔なパイプベッドを引き剥がそうともがいていた。その激しさは爪を剥がそうとも歯を折ろうとも衰えることなく、枯れ木を折るような音がしてどこかを骨折してもお構いなしだった。後から来たゾンビもバリケードを崩そうと狂ったように暴れ回る。四体目のゾンビも部屋に躍り込み、残すはあと一体となった時、遂に封鎖していた一角が崩れて僅かな隙間が開いた。そこにゾンビが頭を突っ込み、手を伸ばすが、幸いにもまだ完全に通り抜けられる大きさではなく、鼻先数十センチを掠めるに留まる。五体目はまだ到達していないが、もはや恐怖に耐えるのは限界に近かった。さっきからずっと手足の震えが止まらない。計画の成否などもうどうでも良くなり、すぐにでも逃げ出したくなったが、その時になって突然、耳許でガチガチと何かの鳴る音を聞いた。最初は自分の歯が当たる音だと勘違いしたが、よく聞くと隣のヤマグチが発しているものだと気付いた。ああ、こいつも怖いんだな、そう思うと不思議とどこからか力が湧いてきて恐怖でパニックに陥りそうだった気持ちが和らいだ。冷静さを保つ、それだけに意識を集中して、智哉はひたすら永劫とも思える数秒間を持ち堪えた。予想よりかなりの秒数をオーバーして、五体目の太った中年おばさんのゾンビが窓枠を苦労しながら乗り越え部屋に入ったのを見届けると、今だ、逃げ出せ、と隣のヤマグチに叫んだ。それと同時に自らも駆け出す。待ちかねたようにヤマグチが室内を飛び出し、智哉も後に続いた。部屋の外で待機していたノザキとイシハラがそれを見て、ドアを閉めようと動いた。その時だ。信じられないミスが発生した。急いでドアを閉めようとしたノザキと、焦って施錠しようとするイシハラ。二人の身体が交錯してイシハラの手にドアが当たり、その中にあった鍵を室内に跳ね飛ばしたのだ。

「何やってんだ、お前ら!」

 いち早くアクシデントに気付いたヤマグチがそう怒鳴りつけるが、もう遅い。既にゾンビはバリケードを突破しつつあり、今から室内に戻ることは自ら死にに行くも同然だった。一瞬唖然として声も出せなかった智哉だが、すぐに我に返ると咄嗟にドアに飛びついた。他の者にも鋭く叫ぶ。

「言い争っている場合じゃない! 全員でドアを押さえろ、早く!」

 それを聞いて慌ててヤマグチがドアに取り付く。イシハラとノザキも真っ青な顔でドアを押さえた。後方に控えていたコヤマとクロダも共に参加する。

 やがて扉の向こうから恐ろしい圧力が加わるのがわかった。反射的にドアノブも押さえようと手を伸ばすが、タッチの差で間に合わず一瞬ドアが浮きかけた。必死で押し返すが、僅かにできた隙間に手がかかると、以降は何度指を挟まれようが、それにより皮膚が裂け骨が露出しようが頑としてその手が引っ込められることはなかった。逆に少しでもこちらが気を抜こうものなら即座に吹き飛ばされかねない勢いだ。ここに来て智哉は自分の致命的な失敗を悟った。こうなることも予期して、鍵がなくともドアを固定できる方法を別に用意して置くべきだったのだ。それを怠ったのは完全に自分の落ち度である。ノザキやイシハラを責める資格はない。だが、悔やんでいても事態が打開するわけではなかった。今は助かる術を見つけることが先決だ。こうなったからには脱出は一旦忘れ、早急にドアを固定する手段を講じなければならないが、それには誰か一人がここを離れて必要な道具を探しに行き、残った者でこの場を死守するというのが最も現実的な対応だろう。男手を減らすわけにはいかないので探しに行くのは必然的に女二人のいずれかということになる。心証的にはコヤマよりクロダの方が信用できそうだったが、今、揉めている時間はない。どちらが行くかは成り行きに任せようと二人に声をかけかけた時、急にドアにかかる圧力が増したように感じられた。再びドアが持ち上がる。慌てて力を込め直したが、ふと背後に気配を感じて振り返ると、ドアから手を離し後ずさるコヤマの姿が目に入った。それで圧力が増したのではなく、押さえていた力が弱まったのだと気付く。他の者も異変を察知してコヤマを見た。その行動の意味することを悟り大半の者が焦りを募らせる中、一人だけ事態を呑み込めずにいるらしいノザキが場違いなのんびりした声を上げた。

「おい。何、自分だけサボろうとしてんだ。ちゃんと押さえろよ」

 その言葉に背中を押されるように、さらに二、三歩コヤマは後退する。こうなっては仕方がない。下手に刺激して逃走されるより、このままドアを固定するものを探しに行かせた方が得策だと智哉は判断した。ところが、そう説得しようと智哉が声をかけるより早くヤマグチが怒鳴った。

「馬鹿野郎っ! 逃げんじゃねえ!」

 それでは却って逆効果だとわからないらしい。智哉が内心で舌打ちした通り、コヤマは弾かれたように完全に背を向けて逃走し始めた。

「よせ! 戻れ!」

 今度は智哉も躊躇せずに叫ぶ。だが、当然ながらコヤマが立ち止まる気配はない。

(くそっ。何てことだ)

 胸の裡で毒づくが、追うわけにはいかない。これ以上、誰かが抜ければ今の状態を維持しているのも困難になろう。そんな智哉の危惧を嘲笑うかのように、恐れていた事態は即刻現実のものとなった。まずはイシハラが、次いでクロダまでがヤマグチの制止を振り切りその場から離れて行った。

 その都度、ドアを開けようとする圧力は恐ろしく強まり、全身全霊を込めて耐えるしかなくなった。皮肉なことに、そのせいで残った三人は誰も動けなくなった。一瞬でも誰かが手を抜けば、直ちに堪え切れなくなってドアが開くのは目に見えていたからだ。そうこうするうちに、逃げた三人の後ろ姿はどんどん遠ざかる。もはや彼らが改心して戻って来るという僅かな望みに賭ける以外、この場を乗り切る方法は何も残されていないと思われた。しかし、それは時効寸前の犯人が自首してくるより可能性は薄いと認めざるを得ない。さすがに智哉もこれまでかと諦めかけたその時、隣のヤマグチが聞こえるか聞こえないかの声音で何かを囁いた。

「……悪く……思わないでくれよ」

 えっ、と訊き返そうとした次の瞬間、智哉の背中を強い衝撃が襲う。途端に弾かれたように智哉は床を転がった。直後に押さえつけていた力から一気に解放されたドアが勢い良く開く。目の前にゾンビの集団が躍り出てきた。

(やられた! 土壇場で切り捨てやがった!)

 智哉が、喰われる、と思ったのと、裏切られた、と考えたのがほぼ同時だった。ヤマグチに突き飛ばされたことはすぐに理解できた。その意図は明白である。智哉を囮にして、ゾンビの注意を引き付けている隙に自分だけが逃げ出すつもりに違いない。

 利用するはずが逆に利用されて、ざまあねえや、と智哉は残された僅かな時間に自嘲した。誰のことも信用しないと決めておきながら、どこかで他人を頼る気持ちがあったのかも知れない。裏切られたことよりもその自分の甘さが許せなかった。冷徹に徹し切れていれば逆にヤマグチ達を捨て石にして自分が窮地を脱する方法もあったかも知れないのだ。それも今となっては後の祭りである。結局のところ、自分には生き残る才覚がなかったということなのだろう。それならこうなるのは当然の帰結だ。そんな風に自分の死を具体的な覚悟として受け容れたのは初めてのことだった。死の恐怖は先行きが見えないから生じるのだと初めて知った。どのように死ぬのかわかっていればさほど慌てることはない。捕食される動物は喰われる直前に脳内物質の影響で多幸感を味わうというから、今がそうかも知れないな、と智哉は漠然と考えた。それにしてももうじき死ぬというのに次から次へと余計な考えばかりが浮かんでくるのはどういうわけだろうと思った。やけに落ち着いていることもそうだが、一向に想い出が甦らないのだ。

(何だ。人間、死ぬ間際にはこれまでの人生が走馬灯のように駆け巡るっていうけど何も思い出さないじゃねえか)

 何故か智哉はそう思った。

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