4 生存者達Ⅰ

 エレベーターの現在地点を示す表示ランプが六から五に移ったのを見て、智哉は一瞬我が目を疑った。しかし、確かにエレベーターは動いている。見間違いなどではない。電気が通じている以上、エレベーターが作動することは当たり前だが、問題は誰が動かしたか、だ。

(まさかな……)

 ゾンビが玄関ドアを開けた様子を思い出し、エレベーターも操作できるのかという疑念が一瞬、頭を掠める。もしもそんな知性がゾンビに備わっているのなら室内にいれば安全という考え方自体を根本から見直す必要がある。

 だが、今は悠長に考えている場合ではなかった。誰が動かしたにせよ、危険はないとわかるまでは不用意に近付くのは極力避けるべきだった。慌てて自分の部屋に戻ると、ドアの背後に身を隠し、いつでも閉められるよう準備して待ち構えた。

 エレベーターは六階から五階、そして智哉のいる四階を素通りして三階に下りて行った。通過したことで、ホッとひと息つく。とはいえ、このまま見過ごすわけにはいかなかった。誰が乗っていたのか、あるいは誰が呼んだのかは不明だが、マンション内に智哉以外の何者かがいるとわかった以上、その正体を確かめないうちは安心して休むこともできない。智哉が注視している前でエレベーターはさらに下降を続け、一階で停止した。そのまま暫く待つが再び上昇して来る気配はないので、下から呼んだのではなく、誰かが上から降りて行ったのだろうと推測した。そこまで見届けると智哉は一度部屋に入り、少し思案した末にキッチンへと足を向ける。この階の探索では何かあれば一目散に逃げ帰るつもりだったので何も持たずに行ったが、一階まで調べに行くとなればそうはいかない。手ぶらでは些か心許なかったので、何か武器になるものとを考え、オールステンレス製の牛刀を持ち出した。それが手持ちの包丁の中では映画などでよく目にする戦闘用ナイフに一番形状が似ていたからだ。

 そうして再度廊下に戻り、エレベーターが引き続き一階に留まり続けているのを確認すると、智哉はその脇にある内階段を使って下まで降りることにした。独立した吹き抜け構造となっている階段には各階毎に設けられたスチール製の防火扉を開けて出ることになる。ドアを開けたすぐは踊り場で、智哉はそこから慎重に足許を覗き込んだ。誰もいないことを確かめた上で、足音を忍ばせてゆっくりと階段を下って行く。途中の階も気になるところだが、今は一階の様子を探るのが先決と思い、無視して通り過ぎた。仮にどこかの階にゾンビがいたとしても音さえ響かせなければ気付かれることはないと自分に言い聞かす。そんなやっとの思いで一階に到着すると、エレベーターホールに出る扉の向こうから人の声らしき微かな騒めきが聞こえた。智哉はそっと扉に近付き、聞き耳を立てた。

「どうする? これじゃ表に出られそうにないけど」

「そんなの見りゃわかるんだよ。それよりも本当にあの玄関のガラス扉は大丈夫なんだろうな?」

「それは間違いないはずだよ。バットで殴っても割れない強化ガラスだって管理会社が自慢してたから」

「なあ、もう部屋に戻ろうぜ。ここに居ても時間の無駄だろう」

「戻っても喰う物もねえんだぞ。何とかして食糧を手に入れねえと腹が減って動けなくなるだけだ」

「だったら他の階を探した方が安全じゃないのか?」

「それはもう話し合っただろ。食料を見つけ出すより先にゾンビに出喰わすリスクの方が高いってよ。どうしてもって言うんなら、お前一人で行けよ」

 話の内容から判断すると、ドアの向こうにいるのはどうやら三人組のようだ。全員が男、それもかなり若い連中と思われる。会話をしているくらいなのだから生きた人間には違いないのだろう。

 一応、ゾンビでないとわかって安心するが、どう対応すべきか迷った。会話のやり取りからして彼らも助けを求めていることは容易に想像が付いた。しかも相当切迫した状況が窺える。これでは接触しても助けになるどころか、下手をすれば余計な荷物を抱え込むことになりかねない。とは言っても生きた情報を得られるまたとない機会には違いなく、見逃すわけにはいかなかった。ただし、迂闊に出て行ってゾンビと間違われ攻撃でもされてはたまったものではないので、ここは慎重を期してまずはドア越しに声を掛けることにした。

「──おい。聞こえるか?」

 智哉は小声でそう呼びかけた。あまり大きな声を出して他の階に響くのを防ぎたかったからだ。必然的に囁くようなトーンになるが、それでも向こうには充分伝わったようでピタリと話し声が止む。

「……誰かいるのか?」

 やや間があって、緊張した調子で返事が返ってきた。

「怪しいもんじゃない。今、出て行くから攻撃なんてしないでくれよ」

 そう言って智哉はゆっくりとエレベーターホールに通じる扉を開けた。牛刀は背中側のベルトに挟んでおく。外に出ると目の前に金属バットを構えた大柄な男と、その背後にそれぞれカッターナイフや釣り竿を手にした同世代とおぼしき二人の若者がこちらを見据えて立っていた。三人共、智哉を認めると安堵と警戒心の入り交じった複雑な表情を浮かべた。

「あんた……このマンションの住人か?」

 バットを構えた大柄な若者が開口一番、智哉にそう訊いた。

「そうだ。四階に住んでいる者だ。そっちは?」

「こいつの部屋が六階にあるんだよ。俺らはそのダチでたまたま遊びに来ていて巻き込まれたんだ」

 大柄な若者はバットを下ろしながら背後の一人を指差した。部屋の持ち主と言われたのは小太りのやや気弱そうな若者で、智哉に対して反射的に軽く頭を下げた。もう一人の眼鏡をかけた背の高い若者の方は智哉を一瞥すると、すぐに神経質そうに辺りを警戒するのに戻った。そしてバットを持つ大柄な男、彼らのリーダー格と思われる若者はラグビーとか水球とかのボディコンタクトが激しい競技でもやれば様になりそうな身体付きなのに、スポーツマンとは裏腹に髪を派手な色に染め上げ耳に幾つもピアス孔を開けた如何にも現代の遊び人という風体の相手だった。程度の差こそあれ、三人共が社会人には見えない。大学生か専門学校生といったところだろうと智哉は判断した。

「ところでさっきチラッと聞こえたんだが、もしかして外に出て行こうとしていたのか?」

 智哉は最も気になることをまずは訊ねてみた。このマンションに居たのなら先刻の惨劇に気付かなかったわけがない。彼らもどこかで見ていたはずだ。当然、表の危険性は認識しているだろう。それでも尚、出て行くつもりなら何かしらの算段があってのことかと一縷の望みを期待したのだ。しかし、返ってきた答えは概ね予想した通りのがっかりしたものだった。

「できりゃそうしたかったんだが、あれを見ても出て行けると思うかい?」

 あれとはここに来てから智哉の視界にもずっと入っている、玄関のガラス扉越しに集まる異様な集団のことに相違あるまい。こいつらがニュースサイトの記事にも書かれていた甦った死者、即ちゾンビに間違いなさそうだった。

 最初に襲われた時には気が動転して冷静に観察する余裕はなく、車の事故では遠目過ぎてはっきりとわからなかったが、今、こうしてじっくりと眺めてみると、

(意外と汚くはないんだな)

 というのが間近で初めてゾンビを見た智哉の率直な印象である。映画などの腐った死体というイメージが定着しているのでもっとグロテスクな外見を想像していたが、大抵のゾンビに感染の原因と思われる外傷があることを除けば思いの外、不快さはない。むしろ、血の気が失せて青白くなった肌は良くできた生物標本を思わせて、無機質な潔癖さすら感じさせた。見た目からはとても死んでいるとは思えないが、考えてみれば一度は生体活動を停止したとはいえ、こうして動き回っているわけだから何かしらの代謝はあるのかも知れなかった。表情は相変わらず怒りとも悲しみともつかない奇妙なものだが、動きだけ見れば人間そのものであり、得体の知れないものへの恐怖心は薄らいでいくのがわかった。だが、それは裏を返せば別の危険性を意味する、と智哉は気付いた。もし殺さざるを得なくなった時、躊躇わずにはいられないだろう。その一瞬の逡巡が生死を分かつとも限らないのだ。いっそのこと人間離れしていてくれた方が気分的には楽だったに違いない。いずれにしてもそうしたゾンビが今は十人ほどの一団となって玄関先に集まり、中に入れろと騒いでいる。智哉達を襲う気なのは明らかだ。玄関ドアが強化ガラス製と知っていなければとても留まっていられる状況ではなかった。

 それでも車を襲った連中からすれば大した数ではない。潜んでいる奴らには目立つことをしなければ気付かれることはないものと思われた。このまま刺激せずにおくならこれ以上増えることはなさそうだが、そうは言っても若者が指摘していたように脱出を阻むには充分な数と言える。何の策も無しに出て行くのは自ら猛獣の檻に飛び込むようなものだ。正面玄関とは反対側にある裏の通用口も通路の陰からそっと覗いて見るが、こちらはまだ智哉達には気付いていないようで騒ぎにはなっていなかったものの、やはりドア付近に何体か屯している姿が目に入った。中にはしきりとドアノブに手をかけて開けようとしているゾンビもいる。普段から施錠されていなければとっくに侵入されていたことだろう。襲う相手もいないのに一向にその場から離れようとしないゾンビを見ていて、智哉はある疑問に行き当たった。連中は果たして闇雲に集まっているのか、ということだ。それを確認する意味で自分と同じくこのマンションの住人である小太りの若者に声をかけた。

「なあ、あの中に見憶えのある奴はいないか? ひょっとしたらここの住人かも知れない」

 智哉がそう考えたのには二つの理由がある。一つはドアの前から一向に離れようとしないことだが、もう一つは車を襲った連中が直後にいなくなった様子からだ。実際に確かめたわけではないので確定的なことは言えないが、適当に散開したというより、どこか目指す目的地があって引き返して行ったように智哉には感じられた。ビルや家の中に入って行く姿もベランダから目撃している。それが元々やって来た所ならそこに引き寄せられる何らかの要因があるはずだ。例えばそれが生前慣れ親しんだ場所、自宅や職場ということはあり得ないだろうか。それなら動物の帰巣本能のようなものだと考えると納得しやすい。この説が正しければ外にいるゾンビはこのマンションに所縁のある者、即ち住人である可能性が高い。

 生憎と近所付き合いのない智哉が見知った顔はなかったが、その説を裏付けるかのように小太りの若者が、あっ、と声を上げた。

「そういえばあの女、見たことがある……」

 OL風の若い女のゾンビを指差してそう言った。

(やはりそうか……)

 智哉は三人に自分の考えを披露する。

「なるほど、そういうことか。だからいつまで経ってもあいつら居なくならねえんだな」

 訊けば若者達が一階に下りて来たのはこれが初めてではないらしい。これまでも何度か外に出られないかと確かめに来ていたと言う。その都度、ゾンビに阻まれて諦めざるを得なかったそうだ。

「ところであんた、何か食べ物は持ってねえか? 実は俺達もう丸二日も何も口にしてねえんだよ」

 ゾンビが追い払えないならそこに留まる理由がわかったところで興味はない、とでも言いたげな調子でリーダー格の若者が智哉にそう訊ねた。

「いや、悪いけど俺も今朝から何も食べてないんだ。部屋の食糧は全て食べ尽くしてしまってね。それで何か見つからないかと思ってこうして出て来たってわけだ」

 智哉は咄嗟に嘘を吐いた。確かに調理不要で食べられる物は粗方喰い尽くしてしまったが、部屋にはまだ僅かながらも肉や野菜、買い置きの米、それにインスタント食品も手付かずで残っている。上手くやり繰りすればあと何日かは保つだろう。だが、それを今、正直に彼らに告げるつもりはない。知り合ったばかりでまだ信用していないというのもあるが、これからは善意や正義感だけでは生き残れないという直感めいた警鐘があったためだ。何かを提供するにしても相応の見返りがあるとわかってからで遅くはない。それまでは隠しておくのがベターと判断した。幸いなことに、あんたは今朝からか、ならまだマシだな、と若者達が智哉を疑う素振りはなかった。状況を考えればそれが自然だからだろう。

 とりあえず俺達は部屋に戻るがあんたはどうするんだ? と訊かれて、智哉は、良ければ同行させて貰えないか、と頼んでみた。彼らにはまだ訊きたいことがあるし、さすがに一人では心細くもあった。他の二人に相談することもなく、リーダー格の若者があっさりと了承した。どうやら彼らの間ではそれが普通のことらしい。この力関係は憶えておいて損はなさそうだ、と智哉は頭の隅に書き留めた。早速エレベーターに乗り込もうとする若者三人を見て智哉は慌てて制止した。

「どうして? エレベーターを使っちゃまずいのか?」

 一階に降りて行った時もそうだが、それまでも無頓着に利用していたのだろう。やや呆れながらも智哉は理由を説明してやる。

「今のところ、電気は通じてはいるが、いつ停まってもおかしくない状況だ。確率的にはまずあり得ない話だが、万が一エレベーターに乗っている最中に停電したら閉じ込められることになるわけだろ? 普段ならそれでも待っていればそのうち回復するか誰かが助けに来てくれるだろうから大事にはならないはずだが、今は違う。助けは期待できない。自力で脱出する他ないが、下手をすれば閉じ込められてそのままってこともあり得る。こんな状況だからこそ、避けられるリスクはなるべく回避した方がいい」

 そうかも知れないな、と若者達は何となく納得して、階段で戻ることになった。こんなことにまで注意しなければならないとは智哉は先行きに不安を感じた。どうやら彼らには決定的に危機感が欠けているようだ。どこかゲームでもやっているような、そのうちどうにかなるさといった呑気さが漂う。実際にゾンビに襲われでもしていなければ深刻さなど案外そんなものかも知れない。智哉にしてもあの男と遭遇していなかったらリアリティの持ちようがなかっただろう。必要な情報を手に入れたら早々に彼らとは距離を置くことも検討した方が良さそうだと智哉は思った。無論、表情にはおくびにも出さなかったが。

「そういえばここに残っているのは君らだけなのか? 誰か他の入居者に遭ったりしたことは?」

「俺らだけじゃない。部屋に仲間があと二人待っている。住人に遭ったのはあんたが初めてだな」

 つまりは五人組のグループということらしかった。それならすぐに食糧が底を尽くのも頷ける。どうせ碌に自炊などしてこなかったのだろう。そういえばさっき訪ねた若いサラリーマンの部屋でも米櫃や炊飯器は見当たらなかった。涼子以外に外食を共にしたいという相手もおらず自ずと自炊が当たり前となっている智哉には信じられないことだが、昨今ではそうした若者も珍しくないのかも知れない。

 四人は智哉の部屋がある四階を素通りして、直接六階まで上がった。さすがにそこまで階段で上り切った時には全員が肩で息をしていたが、不測の事態を避けるためには致し方ない。小太りの若者の部屋はちょうどエレベーターの真向かいにあった。それで何も考えずにエレベーターを利用していたようだ。ドアの正面に立つとリーダー格の若者がおもむろに一定のリズムでドアをノックし始めた。どうやら合図を決めてあるらしい。仲間以外が訪ねて来ることを警戒するなら外から声をかければ済むだけなのに、まるでスパイごっこだ、と智哉はまたしても呆れた。そのうち「山」「川」とでも言い出すのではないか。唖然とする智哉を尻目に、暫くするとドアの向こうでカチッという音がして鍵が開いた。恐る恐る扉が開いて顔を覗かせたのは、三人の若者と同世代であろう髪が長くこんな時でも化粧の厚い派手な感じの女だった。その後ろにもう一人、それとは対照的にショートカットで地味な感じの女が控えていた。この二人が話にあった残りの仲間ということのようだ。女とは思っていなかったのでやや面喰ったが、考えてみれば彼らの年代ならそれもおかしくはあるまい。髪の長い女の方が智哉を見るなり、誰なの? とリーダー格の若者に訊ねた。ここの住人だ、一階で遭った、と説明してやっている間に、ショートカットの女の方はさっさと部屋の奥に引っ込んでしまった。どうやら他人に無関心なタイプなのだろう。遠慮せずに上がってくれ、とまるで自分の部屋のように案内するリーダー格の若者に付いて智哉が室内に足を踏み入れると、乱雑に散らかった中の様子が目に入った。特にリビングはそこら中にビールの空き缶やウイスキーの空き瓶、煙草の吸殻やジャンクフードの空箱などが散乱し、五人で雑魚寝をしているらしく床には布団やブランケットが無造作に敷かれている。その中で部屋全体に漂う微かな甘い芳香が鼻に付いた。それは智哉にも身に覚えのあるものだったが、この場では気付かないふりをした。どこにでも好きなところに坐ってくれ、と言われ、智哉は空いている床に腰を下ろした。

「それで下の様子はどうだったの? 外には出られそう?」

 待ちかねたように髪の長い女が訊ねる。

「そう急かすなって。折角生きた人間に遭えたんだから先に自己紹介を済ませておこうぜ。最初はあんたからでいいか?」

 ああ、と智哉は頷いた。仲間に入れて貰うのだから異存はない。

「岩永智哉だ。四階に住んでいる。独身で歳は見たところ君達よりかなり上の今年で三十二になる。正直、一人でずっと部屋にいたから今がどういう状況なのかよくわかっていないんだが、よろしく頼むよ」

「岩永……さんは何の仕事をしてるんですか?」

 この部屋の本来の持ち主である小太りな若者がそう訊いてきた。

「フリーでグラフィックデザイナーをしている。雑誌やポスターが主体で、あとはホームページの制作を少々という感じかな」

 何かこの場で役に立つスキルでもないかと期待してのことだったのだろう。あからさまな失望感を隠そうともせず、そうですか、と言ったきり質問した若者は黙ってしまった。他に智哉に何かを訊きたがる者はいなかった。それを見て、リーダー格の若者が、次は俺達の番だな、と宣言して、五人の自己紹介が始まった。それによるとこの五人は幾つかの大学から寄り集まったサークル仲間ということらしかった。何のサークルかは訊いてもよくわからなかったし、興味もなかったのでそのまま受け流した。リーダー格の若者は名前をヤマグチと言って、彼らのサークルでは代表という立場らしい。それが普段の力関係にも現れているようだ。あとの四人もそれぞれ幹部的な役割を担っているという。ヤマグチ以外の二人の男は背の高い無口な方がノザキ、部屋の持ち主で小太りな方がイシハラと名乗った。女の方はそれぞれ髪が長く派手な方がコヤマ、ショートカットで陰気そうな方がクロダという名前だそうだ。他にも細かな説明は幾つかあったものの、その大半を智哉はまともに聞いていなかった。通っている大学の評価とか、就職活動の苦労話とか、飲み会でのエピソードとか、どれもどうでも良いことばかりだったからである。

「これで自己紹介は済んだんでしょう? それで下の様子はどうだったのよ?」

 ひと通りの紹介が終わったところで、再び髪の長い方の女、コヤマが訊いた。

「外に出るのは無理だな。あいつら全然居なくなってねえよ」

 例の如く三人を代表する形で、ヤマグチがそう話す。

「だったらどうするのよ? もう食べる物なんて何も残ってないじゃない。ねえ、岩永さんだっけ? 何か食べ物を分けてくれない?」

 智哉が答えるより先に、イシハラが口を挟んだ。

「それ、さっき俺達も訊いたんだよ。岩永さんのところにも何も残ってないらしい。同じように食べ物を探しに出て来たんだってさ」

 智哉も、悪いけどそうなんだ、と頷く。だが、あっさりと信じた男達と違い、コヤマは疑り深い性格のようだ。ヤマグチに、それって確かめたの? と訊き、否定されると、部屋の中、見せて貰ってもいいかな? と図々しくも智哉に迫ってきた。普段からデリカシーの欠片もなく過ごしている者にありがちな無神経極まりない態度である。確かに容姿は見ようによっては美人と思えなくもない。目立つ雰囲気からして仲間内では相当に持てはやされているのだろう。それだけに自分の頼みが聞き入れられないことなど想像もしていないようだが、無論、智哉がそれに応じる義務はない。しかし、ここは素直に受け容れようと即座に決断していた。別に断って五人の心証を悪くするのを恐れたわけではない。どうせ馴れ合う気は端からないのだから疑いたければ好きにさせておけば良い。それにも関わらず受け容れる気になったのは、隠し果せる算段が智哉にあったのと、それが上手くいけば疑った後ろめたさを盾に精神的に彼らより有利に立てるという目論見からだ。具体的には四階を探索中に見つけた若いサラリーマンの部屋を自室と偽って五人に見せるつもりだった。食糧がないことは確認済みだし、部屋の持ち主は恐らく智哉と同年代で性別も一致していることから表札さえバレなければ会ったばかりの相手に嘘を見抜かれる心配はまずあるまい。そうして一度信頼を勝ち得たのなら今後は智哉が多少不審な行動をしていてもおいそれとは疑えなくなるはずだ。些細なことかも知れないが、それが何かしらの役に立たないとも限らないのである。そこまで計算した上で、わかった、と智哉が言いかけた時、それまで自己紹介以外ずっと口を閉ざしていた髪の短い方の女、クロダが初めて沈黙を破った。

「止めなよ。失礼だよ」

 これは智哉にとっては予想外の出来事だった。他の四人には尚更だったかも知れない。玄関先での態度やこれまでの様子から積極的に話し合いに加わるタイプには見えなかったためだ。ましてや智哉を庇うような発言をするとは思いも寄らなかった。もっとも自分の命がかかっている場ともなれば議論を他人任せにしておけないのは当然の心理と言うべきかも知れなかった。発言にしても恐らくは智哉を庇ったわけではなく、常識的な意見を口にしたに過ぎないのだろう。発言後のこれまでと変わらない素っ気ない態度がそれを示している。ただ、今時の若者にしては珍しくストレートな物言いは周囲を凍り付かせるには充分だった。普通、親しい仲間内であってもそうした言い方は避けて通るものだ。特にこの日本という国にあって他人の意見を退ける場合なら余計にである。それって失礼に当たるんじゃないかな、捉えようによっては失礼に思われるよね、そういう断定口調を感じさせない言い回しでないと角が立ち、人間関係に余分な波風を生じさせかねない。失礼だよ、と言えるのは相当信頼し合っている間柄か、もしくは歓心を得る必要のない相手かのいずれかしかあるまい。二人が前者と思える様子はここまで皆無に近かった。よって智哉に余程人を見る目がないのでなければ、グループ内の人間関係は思ったほど単純ではないのかも知れない。

 どちらにせよクロダの今の発言で、思いがけず五人の間に緊張が走った。部外者の智哉の立場ならそのまま黙って見ていても面白そうだったが、状況が状況だけに楽しんでいる場合ではないと思い直す。ここは智哉が率先して助け舟を出すことにした。

「部屋を見せるのは別に構わないよ。でも、その前にちょっと訊いてもいいか?」

 そう言って智哉の方から譲歩したことで、特に男達の間でホッと胸を撫で下ろす気配が伝わった。その雰囲気を壊したくなかったのか、それまで殆ど発言のなかったノザキまでが、僕らでわかることなら何でも、と殊勝なことを言い出した。

「ざっと見た感じでは他の住人達は避難したみたいだけど、どうして君達は逃げなかったんだ?」

 そう訊くと、五人は再び気まずそうに顔を見合わせた。どうやら答えにくい質問だったようだ。それで先程部屋に足を踏み入れた時のことを思い出したが、智哉は彼らの口から告げられるのを待った。やがて、しょうがない、という風に頭を掻きながらヤマグチが説明し始めた。

「こうなったからには正直に話すけどよ、あまり大っぴらに言えることじゃないから岩永さんもそのつもりで聞いてくれよな。実は俺達、ちょっとしたパーティーを開いていたんだ。この部屋に時々集まってやるんだよ。パーティーって言っても誕生日を祝うわけじゃないっていうのは何となくわかるだろ? ハイになるためって言えば想像は付くと思うけどな。もっとも本当にヤバいのはやっちゃいないぜ。せいぜいガンジャや脱法ハーブ止まりだからさ。それで今回もいつも通りに愉しんでいたら、突然あの騒ぎで表に出られなくなっちまって。確か一昨日だったと思うが避難の呼びかけがあるにはあったが、他にすることもないもんだから全員がキメ過ぎちまっててとても人前に出られる状態じゃなかったんだよ。その時はどうせすぐにみんな戻って来ると思っていたからな。だから他の連中がどこに行ったのかは知らない。バスで避難したみたいだけどな。言っとくがそれ以降は誰もハイになっちゃいねえよ。さすがに反省したからさ。これで納得して貰えたか?」

 やはりそういうことだったか、と智哉は頷いた。思った通り、この部屋に足を踏み入れた時に嗅いだ匂いはガンジャ、つまりはマリファナを焚いた香りだ。智哉も若い頃に二、三度経験はある。その後はやっていないと言うが、どうだかわかったものではなかった。しかし、それをここで追及しても仕方あるまい。そっちは何故残っていたんだ? と訊かれて、智哉は予め用意しておいた返答を口にした。こちらが訊ねたからには向こうも訊き返してくることは想定の範囲内だった。

「俺はインフルエンザに罹っていたんだよ。かなり症状が酷くてね。この数日はずっと寝込んでいたんだ。おまけに処方された薬が強力だったのか、まったく目を醒まさなかった。起きた時にはすっかり世の中は変わっていたってわけさ。実を言うとこんな風になっているのを知ったのも昨日のことで、今聞くまで避難の呼びかけがあったことすら知らなかった。おかげで体調はすこぶる良くなったがね」

 半分は嘘で、半分は本当のことだ。自分を襲った男がゾンビだったことをもはや智哉は疑っていない。感染の兆候がないとはいえ、ゾンビに噛まれた者は例外なく奴らと同類になると信じられている以上、寝込んでいた本当の理由は口が裂けても言えない。彼らの仲間内から締め出されるだけならまだしも、下手をすれば危険分子として処断されかねない。そんな智哉の内心の緊張に気付くこともなく、お互いにクスリが原因か、とヤマグチが皮肉めいた口調で呟いた。数日間も寝込んでいて食糧がまったく残っていないのは不自然に思われたかも知れないが、それはこれから部屋を見せれば晴らせる嫌疑だ。

「ところで廊下を普通に往来していたってことはこの階は調べたんだよな? 下まで降りたってことは一階もか? 他の階はどうした? 行ってみたのか?」

「いや、調べたのはこの階と一階だけだよ。といってもどの部屋も鍵が掛かっているのを確認しただけだけどな。開いている部屋なんて一つもなかったよ。だから食い物にもありつけなかった。道具さえあればこじ開けられそうなんだが、そんなことをしたら奴らを呼び寄せちまう」

「奴らっていうのはゾンビのことか? でも玄関は強化ガラスの扉で入って来られないはずだろ?」

「この階にも居るんだよ、奴らは」

 この階にゾンビが居るというのはどういうことか、智哉は理解に苦しんだ。まさかそれを知っていながら一か八かの危険を冒して出歩いていたんじゃないだろうな? 智哉の困惑した表情に気付いたらしく、ヤマグチが慌てて付け加えた。

「ああ、心配はないよ。居るには居るんだが、外には出て来られない。それは保証する。そうでなきゃ平気で廊下を歩いたりしない、当然だろ? この階を調べていて偶然、部屋に閉じ込められているのを発見したんだ。もっとも最初から居るとわかっていたら恐ろしくて探索なんてできなかっただろうな。そいつは安全なんだが、この階に居るとなったら他の階にも居たって不思議じゃない。そいつらまで安全とは限らないわけだ。だから他の階は調べてねえんだよ。バッタリ出喰わせでもしたら洒落になんねえからな。でかい音が立てられない理由もそれだ。他の階の奴を呼ぶかも知れねえからさ。もっとも一階だけは仕方がなかったんだ。外に出て行くにはどうしても通らなきゃならねえからな。それで覚悟を決めてそこだけは調べたんだ」

 確かにこのマンションは構造上、別棟となっている階段かエレベーターを使わなければ他の階には行けない仕組みだ。フロア毎の独立性はかなり高い方と言える。余程大きな物音を立てたり騒いだりしなければ他の階に様子はまず伝わらない。見方を変えれば別の階でゾンビが歩き回っていてもここからではわからないということだ。

「それでどこなんだ? そのゾンビが居るっていうのは?」

「一番西側の部屋だよ。もちろん、中を見たわけじゃねえけどな」

「それでどうしてゾンビだとわかる? 他の生存者かも知れないだろ?」

 そんなわけないでしょ、と不機嫌そうにコヤマが口を挟む。

「ドアの前に立ったら中で暴れ出すのよ。そのくせ呼びかけには一切応じないし。そんなのあいつら以外に考えられないじゃないの」

 コヤマの言う通りなら生存者にしては確かに不自然な反応だ。呼びかけに応じる気がないなら息を潜めてやり過ごせば良い。わざわざ騒いでおいて無視する道理はないはずだ。

「呼びかけたと言ったな? どうしてそんなことができた? そもそも何故、安全だと言い切れる?」

 仮に室内に居たとしてもゾンビがドアを開けられることは承知している。たまたま声をかけた時に出て来なかったからといっていつもそうとは限らないのだ。それだけが根拠ではとても安全とは言えない。その智哉の疑念を払拭するように、こいつがビビってくれたおかげだよ、とヤマグチがイシハラを示した。

「この階を調べて回ったと言ったろ。西の端の部屋まで行った時、それまで何の反応もなかったもんだからこっちも油断してたんだな。ドアの前に立った途端、いきなり中で何かがぶつかる音がして、こいつが腰を抜かしちまってさ。暫くその場から動けなかったんだ。部屋の中にゾンビが居ることはすぐに察しが付いた。けど、それなのに一向にドアを開けて出て来る様子はない。よく見るとドアノブは回しているんだよ。それで気付いたんだ。あいつらドアは開けられるくせに鍵は外せねえんじゃないかって。念のために確かめたらやっぱりドアには鍵が掛かっていた。ドアチェーンじゃなくてシリンダー錠の方だ。つまり内側からサムターンを回すだけのことが奴らにはできないのさ。何でだかは知らねえけどな。だから鍵さえ掛かっていりゃ内側からだろうが外側からだろうが安全ってことだ」

 本当だろうか、と智哉は訝った。一朝一夕に信じられる話ではない。なまじゾンビがドアを開けるところを見ているだけに尚更だった。

(事実なら盲点ではあるな。ゾンビが室内に閉じ込められることがあるとは思わなかった。生きている間に自分で施錠し、その後感染が理由で死ねばあり得ない状況ではないか……)

 実際、ゾンビにこそならなかったが、智哉自身がそうであったのを思い出す。

 しかし、そうなると迂闊に鍵を開けて回るというわけにはいかなくなる。守衛室でマスターキーを手に入れられないかと考えていただけに、その案は早々に修正を余儀なくされそうだ。彼らが智哉を騙す理由はないように思われるが、何事も自分の目で確かめてみるまでは容易く信用できない。その部屋を確認してみたい、と智哉が言うと、全員からに一斉に反対された。

「岩永さんはその場に居なかったらわからないだろうけど、心配ないとは言っても恐ろしさは半端ないんだぜ。悪いことは言わないから止めておいた方がいい。俺達だってそれ以来、近寄らないようにしているんだ。傍まで行かなきゃ騒がれることはないからな。わざわざ刺激することはねえよ」

 それでもどうしても今後のために知っておきたいと主張すると、好きにさせたら、とクロダが呆れたように言い放った。それで強弁に反対する者はいなくなり、先程の助け舟に恩義を感じているのか、ノザキが同行すると申し出てくれた。

「言っておくが何かあっても助けには行かないぜ。一応、ドアは開けておくが、もしこっちまでヤバくなりそうなら速攻で閉めるから覚悟しておいてくれ」

 ヤマグチにそう言われ、智哉はノザキと二人で慎重に廊下の奥へと歩を進める。突き当りの手前まで来ると、ノザキがその先の部屋だと身振りで伝えた。さらに近付いてドアとの距離が二メートルほどに迫った時、突然、廊下全体に響き渡る激しい衝突音が聞こえた。内側から何者かがドアを乱暴に揺すっているに違いない。ドアノブがガチャガチャと音を立てて回される。前以て予期していなければ失禁していたかも知れない驚きだ。もしヤマグチ達の言ったことが間違っていればいつ目の前にゾンビが現れてもおかしくはない。そう思うと、心臓が痛いほど縮み上がる。幸いにも彼らの情報は正しかったようだ。やはりゾンビに鍵は開けられないのは確からしい。一応、恐怖を押し殺して施錠を確認し、室内に声をかけてみたが、まともな応答はなかった。それがわかると、智哉達は一目散に元の部屋へ逃げ帰った。

「どうだ、言った通りだったろう?」

 待ち受けていたヤマグチのその言葉も智哉の耳には入らなかった。背中一面に冷たい汗をびっしょりと掻きながら、破裂しそうな心臓の鼓動を鎮めるのに精一杯だったからだ。隣ではノザキが似たような荒い息を吐きつつ真っ青な顔で立ち尽くしている。その様子をリビングの淵で冷ややかに眺めていたコヤマが吐き捨てるようにひと言呟いた。

「だから言ったのに。馬鹿みたい」

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