3 目醒め

 焼け付くような喉の痛みに耐えかねて、智哉は思わず目を開けた。掠れた視界越しでも自分が自宅マンションにいることはわかる。だが、何かを考える前にまずはこの喉の渇きを何とかしないことには始まらないと思えた。よろよろと起き上がると、おぼつかない足取りで台所へと向かう。シンクの前に立って急いで蛇口を捻り、勢い良く流れ出る水道水に顔ごと突っ込んでごくごくと喉を鳴らし飲み込んだ。途中、幾度もむせ返りながら呼吸するのも忘れていたため、水から顔を上げた時にはハアハアと荒い息継ぎとなっていた。そうしてやっと人心地ついたところで、どうやら自分が気を失っていたらしいことに気付く。改めて周囲を見渡すが、やはり視界は全体的に曇っていてよく見えない。そこで初めて使い捨てコンタクトレンズが原因かも知れないと思い当たった。はっきりしたことはまだ思い出せないが、倒れた時は確かいつものようにコンタクトを装着したままだった。あれからどれくらい経ったのか不明だが、長く着けっ放しにしたせいで変形でもしたのだろう。それなら新しいものに交換すれば良いだけだ。そう考えて、洗面所に行き眼球からレンズを引き剥がした途端、それまでヴェール越しに見えていたような視界が急に鮮明になって驚いた。

(どうなっているんだ、これは……?)

 鏡に映る自分の顔をまじまじと眺めながら智哉はそう思った。コンタクトは外しただけである。新しいレンズはまだ着けていない。つまりは裸眼ということだ。普通なら合うはずのない焦点が、洗面台に置かれた整髪剤の細かな文字までくっきりと読めるほどに重なっていた。こんなことは小学生以来だ。中学に上がった頃から徐々に視力を落とし始めた智哉は、学生時代は眼鏡が手放せなくなり、社会人になってからはずっと使い捨てコンタクトレンズを常用している。仕事柄、目を酷使することが多く、この先悪くなることはあっても良くなることはないと諦めていたのだ。それがこれほど急激に回復するとは信じられない。気絶している間にレーシック手術でも施されたのでなければ説明は付かないだろう。

(いや、まさかな。そんな奇特なことを誰がするっていうんだ?)

 しかも体調の変化はそれだけに留まらなかった。先程までは喉の渇きに気を取られてわからなかったが、それが解消された今、すこぶる爽快な気分だった。職業病とも言える慢性的な肩こりや腰痛はきれいさっぱりと消え失せていて、心なしか肌艶も良くなったように感じられる。まるで十代の頃の肉体に戻ったようだ。社会人になってから運動など数えるほどしかしたことのなかった智哉だが、今ならフルマラソンも完走できるのではないかとさえ思える。何かやばいクスリにでも手を出して忘れているのかと不安になるが、どれほど考えても心当たりは思い浮かばない。もっとも記憶自体があやふやで、どこまで信用できるのか些か心許なくはあった。何しろ、今日がいつなのかも智哉は知らないのだ。

 喉の渇き具合から二、三日は経過しているだろうと見当を付けながら、とりあえず体調の詮索は後回しにして、日付を確かめることにした。スマートフォンを見ようと手許を探るが、どこにも見当たらない。リビングに戻って探すと、ソファの脇に落ちていた。拾い上げて画面表示を確認する。時刻は午前十時を回ったところで、日付は最後に憶えている日から三日後であることを示していた。即ち、八十時間余りも眠っていたことになる。

(道理で喉も渇くはずだし、記憶もはっきりしないわけだ。それにしても人間ってそんなに飲まず喰わずでも意外と平気なものなんだな。まあ、眠っていたせいもあるんだろうが)

 そうは言ってもさすがに三日間、一切何も口にしていなかったとわかると、途端に尋常ならざる空腹感が押し寄せてきた。すぐにでも腹ごしらえしたいところだが、その前にどうしても済ませておかなければならないことがあるのを思い出した。朧気に甦ってきた記憶を頼りに智哉はまずは玄関に行って、ドアの様子を確かめた。襲われてから三日も経っていることを考えると、今更という気がしなくもないが、念のため施錠と、錠前が壊されたりこじ開けられたりした形跡がないことを確認する。これで一先ずは安心して良いだろう。それから噛まれた痕を調べるため、リビングに戻った。自分としてはとてもそんな感じはしないが、傷口を見るまでは全てが智哉の思い過ごしという可能性も捨て切れなかったからだ。

(そうだとすればあまりに生々し過ぎる記憶だが……)

 果たしてジャンパーを脱いで、シャツの袖口を捲り上げた智哉が見たものは、やはりと言うか当然と言うべきか、確かに人の歯型がくっきりと残った噛み痕だった。ただ、それは思ったよりもきれいで、智哉が危惧していたような酷い状態にはなっていなかった。既に表面は乾いて瘡蓋で覆われ始め、化膿した様子も見られない。分厚いジャンパー越しだったとはいえ、はっきりと皮膚を貫く感触は今も脳裏に焼き付いており、これには智哉も不可解さを覚えずにはいられなかった。学生時代に仲間の一人が喧嘩で人を殴った時には相手の歯で拳を傷つけてしまい、そこから雑菌が入って傷口が化膿し、結局殴られた側より長く治療する羽目になったのをよく憶えていたからだ。それほどまでに噛み傷は治りにくいという認識が智哉にはある。であるにも関わらずこの怪我を見た限りでは、大した症状とは思えなかった。これでは警察に届け出たとしても深刻に受け取って貰えるかどうかは怪しいものだ。下手をすれば女との痴話喧嘩とでも受け取られかねない。

 警察に通報すると意識したことで、途端に襲われたという出来事が現実のものとして甦ってきた。

(そういえばあの男はどうなったのか?)

 思い返して智哉は堪らず身震いした。エレベーターに伝わった激突の衝撃は大怪我をしたか打ちどころが悪ければ死んでいてもおかしくはない大きさだった。あれほどの勢いでぶつかっておきながら只で済んだとは考えにくいが、運良く怪我を免れていれば別の相手を襲っていることもあり得る。どちらにしても騒ぎにはなっているはずで、ここはやはり被害者の一人として警察に通報すべきだろう。自分が男を殴ったことは正当防衛として問題にはなるまいと信じて、智哉はスマホを取り上げ、一一〇番をプッシュする。どう説明しようかと緊張しながら繋がるのを待っていると、聞こえてきたのはオペレーターの声ではなく、機械的なアナウンスだった。

「……この回線は現在、技術的なトラブルにより使用できなくなっています。別の回線でお掛け直しいただくか、問題が解決するまで暫くお待ちください。繰り返します。この回線は現在……」

 念のために部屋の固定電話からもかけてみるが結果は同じことだった。

(冗談だろ? 一般回線じゃないんだぞ。一一〇番が通じないなんてことがあり得るのか……?)

 しかし、繋がらないのは厳然たる事実だ。その後は実家や仕事先などに片っ端から電話をかけまくってみるが、どこも同じような有様にしかならない。ならばインターネットはどうかと思い、パソコンを立ち上げてみても回線は不通だった。テレビを点けても画面は砂嵐以外の何も映さない。

 ここに来て漸くあの狂った男の騒ぎどころではない、相当深刻な事態が巻き起こっているらしいことに智哉も気が付いた。気を失っていたこの三日間に一体何があったのか、知ろうにも誰とも連絡が取れないのではどうしようもない。少なくとも大規模な通信障害が発生していることは間違いなさそうだ。問題はその原因にある。例えば近くで何らかの工事があり、誤って通信ケーブルを切断したくらいではここまで広範囲に影響が及ぶとは考え辛いだろう。智哉のマンションはオール電化のためガスは不明だが、電気や水道が使えていることを考えると、インフラが完全に停止しているわけではないらしい。物が落ちたり倒れたりした様子はないので、大地震といった自然災害とも思えない。となると他には──。

(核戦争!)

 唐突にその言葉を思い浮かべ、智哉は背筋を凍らせた。確か何かの本で読んだ憶えがある。高高度で核爆発が起きると強力な電磁パルスが発生し、広範囲に電子機器の故障や通信障害を引き起こすのではなかったか。まさに今の状況がそれだ。慌てて窓の外に目をやるが、晴れ渡った空にはきのこ雲どころかすじ雲一つなく、隣のビルでは窓ガラス一枚割れていなかった。

(それもそうだ。もし本当に核兵器が使われていたら俺だって無事に生きていられるわけがないものな)

 安堵したせいか、意識の片隅に無理矢理押し込めていた空腹感が再び頭をもたげ出した。それは先程よりも何倍も獰猛さを増し、到底抑え切れるものではなかった。智哉は一旦全ての問題を棚上げにしてでもまずは腹ごしらえすることを優先し、冷蔵庫を漁り始める。どうせ連絡が付かないなら焦っても仕方がないという、半ば自棄っぱちとも言える行動に近い。さすがに三日間も絶食していると、ほんの軽く摘むだけのつもりが、ひとたび口を付けた途端に歯止めが利かなくなった。ハムやチーズを食パンに挟んだだけの即席のサンドウィッチに始まり、生野菜や果物など調理の必要のないものを次々と平らげていく。気付くとそのまま口に入れられるものは粗方腹に納めてしまっていた。まだ肉や魚や根菜類、それに米は残っているとはいえ、これには智哉も我ながら軽率だったと反省するよりなかった。何が起こっているのか皆目見当も付かないのだ。もっと慎重に行動して然るべきであろう。

(でも、もう腹に入ってしまった後だしな……)

 そう思い、これから気を付けるしかないと気持ちを改めた。

 空腹感が収まったことで、漸く今後について本格的に考える余裕が生まれた。今、最も手に入れたいのは何を置いても情報だ。何があったのかわからなければ指針も立てようがない。誰かに訊くのが一番だが、外部と連絡が付かないことは先刻確かめた通りである。そうなると直接訪ねて行く外なさそうだが、生憎と智哉が顔見知りと呼べる住人はマンションに一人もいなかった。隣近所が何をしている人間かもまるで知らない。そうは言っても背に腹は変えられないので、隣の部屋を訪ねてみようと腰を浮かしかけた時、どこからともなくエンジン音が響いてきた。

 車か、と思った次の瞬間、智哉は弾かれたようにその場に立ち上がった。エンジン音が物珍しかったわけでは当然、ない。むしろまったくの逆だ。智哉が住むこのマンションはここら一体の周辺都市を結ぶ主要な幹線道路沿いに建っている。昼間はもちろんのこと、夜でも車の往来が途切れることはない。ひっきりなしに流れる車の騒音やトラックの地響きはもはや慣れ親しんだ生活の一部であり、智哉の日常そのものだった。それがこんな風に遠くからエンジン音が聞こえるということは、今までずっと静まり返っていたことに他ならない。遅ればせながらそれに思い当たった智哉は大急ぎでリビングの窓からベランダに出た。さっき一瞬、天を仰いだ時には上ばかりに視線がいって気付かなかった地上の混乱ぶりが、足許で圧倒的な光景となって拡がっていた。それはまさしく混沌カオスと呼ぶに相応しい、この世の終わりを連想させるものだった。道路を埋め尽くすようにして至る所に乗り捨てられた車は無秩序な幾何学模様を描き出し、中には歩道に乗り上げたり店頭に突っ込んだりして大破しているものまで見受けられる。半面、走っている車は一台もなく、交差点ではすっかり意味をなさなくなった信号機だけが規則正しい点滅を繰り返していた。さらに目に映る範囲に人影らしきものはまったく見当たらず、いつもならこの時間によく目にするベビーカーを押す母親や犬の散歩をする老人や休憩中のサラリーマンらの姿もない。この辺りは元々古い住宅地で昼間の人通りは少ないとはいえ、誰の姿も見かけないというのは明らかに異常だった。何かが起きたことはもはや疑いようがないだろう。さながら一夜にして滅んだというポンペイの街並を現代に再現しようとしたらこうなったと言われても信じるしかあるまい。その中でどこからともなくエンジン音だけが響いてくる。次第に大きくなって近付いて来るのがわかると、それに連れて方向もはっきりしてきた。どうやら目の前の幹線道路からではないようだ。並行して走る狭い市道から聞こえてきているらしく、そちらも酷い状況ではあるが、運転手は障害物で塞がれた大通りを通り抜けるよりはまだマシと考えたに違いない。やがてひと際甲高くエンジン音が鳴り響き、音がする方向に視線を巡らせると、約三百メートルほど先の曲がり角から一台のステーションワゴンが現れるのを目撃した。信じ難い猛スピードでこちらに向かって来る。

(何て無茶な飛ばし方をしやがるんだ……)

 真っ先に智哉が思い浮かべたのがそれだった。上からではわかり辛いが、恐らく七、八十キロは出ているものと思われる。市道は片側一車線でただでさえ狭い上に、幹線道路ほどではないにしろ所々にやはり車が放置され、真っ直ぐに走り抜けるのはまったくの不可能だ。ジムカーナのようなドライビングテクニックでもあれば別だろうが、普通のドライバーがこの速度で走り続けて無事でいられるとは思えなかった。どう見てもオーバースピードである。

(それに、何をそんなに急いでいる?)

 見たところ、走っているのはその一台だけで、他にエンジン音は聞こえてこない。ということは別の車に追われているというわけでもなさそうだ。それにも関わらず智哉の位置からは死角でドライバーの顔は見えないが、明らかに焦っている様子が見て取れた。この街の有様では急いで避難したくなる気持ちもわからないでもないが、事故を起こしては元も子もないではないか。

(あれじゃあ、今からぶつかると宣言しているようなものだ)

 既にここまで何事もなく辿り着けたこと自体が奇跡と呼んで差し支えない暴走なのだ。そんな幸運がこの先いつまでも続くとは思えない。速度を落とすよう呼びかけようにもここからでは声は届きそうになかった。かといって今から下りて行っても間に合わないだろう。このまま黙って見守るより外はない、そう智哉が決意した矢先、車の前方に突然、何かが躍り出るのが見えた。犬や猫にしては明らかに大き過ぎるその影をステーションワゴンは咄嗟に避けようとして避け切れずに跳ね飛ばした上、衝撃でバランスを崩して大きく二度三度と蛇行を繰り返し、その勢いのまま派手な音を立てて電柱に激突した。とうとうやってしまったか、と智哉が思ったのも束の間、真に驚愕すべき事態が発生したのはその直後だった。それまで人っ子一人いなかった道路上にどこからともなく人が湧き出して来て、あっという間に停止した車を取り囲んだのだ。よく見ると今し方事故を起こした車がやって来た方向から大勢が駆け寄って来ているらしかった。それだけではなく近くのビルや民家からもどこにこれだけの人間が潜んでいたのかと思わせるほど次々と現れては辺りを埋め尽くす。一見すると事故を目撃して集まった野次馬のように思えなくもないが、遠目でもはっきりと様子が違っていた。ある者はボンネットに跳び乗りフロントガラスに頭を打ちつけ始め、また別の者は割れたサイドウインドウに上半身を突っ込んで同乗者らしき女性の髪を掴み車外に引きずり出そうとしているようだった。人垣に阻まれて運転席に近付けない者達は皆狂ったように車体を揺さぶり続けている。その間も続々と新たな人間が押し寄せて来て、その数は優に百人を超えていた。やがて砂糖に群がる蟻よろしく人波で車体を覆い尽くすと、中の様子は窺い知れなくなった。もっとも見えなくとも凡その想像は付く。少なくとも助けに現れたわけでないことは明白であろう。最低でも運転手と同乗の女性の二人、もしかしたら他にもいたかも知れないが、彼らが無事で済んだとは到底思えない。断末魔の悲鳴がここまで届かなかったのは声が洩れる隙間もなく覆い被さったせいに相違あるまい。

(それにしてもこれじゃ暴動と言うよりも、まるで──)

 智哉はある言葉を思い浮かべ、それが意味することのあまりの馬鹿々々しさに即座に首を振って否定した。そんなことが現実に起こり得るはずがなかった。だが、何度頭で否定しようともどうしても脳裏からその言葉が離れなくて、遂には声に出して呟いていた。

「──まるでゾンビじゃないか……」

 ただし、映画のようにフラフラと歩き回るわけではない。その異様とも思える行動を除けば遠くから見る分には普通の人間と大差ないように思えた。だから智哉がゾンビと口にしたのは直感としか言いようがなく、常識的な判断に照らし合わせれば集団リンチとでも呼ぶべき範疇のものであるはずだ。

 実際のところ、智哉自身も一度は映画やコンピューターゲームの世界を思い浮かべはしたが、冷静になるに従い、あたかも中学生のような発想の幼稚さにどことなく気恥ずかしさを覚えた。それに落ち着いて考えてみると、彼らは普通に家の玄関やビルのガラス扉を開けて表に出て来ていた。本物など知る由もないので、たぶん理由にはならないだろうが、普通、映画やゲームに登場するゾンビはそんなことはしないはずだ。ここはやはり何らかの理由で暴徒と化した住人と考える方が自然である。それを裏付けるかのような光景を智哉はそのすぐ後で再び目にした。集まった群衆が次第に波が引くかの如く包囲を解いて引き上げ始めたのだ。それぞれがやって来たとおぼしき場所に帰って行くようだった。その様子は整然とは言い難いかったが、近くの人間と談笑したり声をかけ合ったりする者は一人もなく、全員がさっきまでの興奮と喧騒が嘘だったかのように大人しく去って行く。そうして二十分ほどが過ぎた頃には誰も居なくなり、周辺は元通りの平穏に包まれていた。不思議だったのは車に乗っていた者達でさえ死体も残さず忽然と消え失せたことだ。それを智哉はマンションのベランダから身じろぎもせずに愕然と眺めていた。目の前で起きたことが俄かには信じられない気分だった。しかも、今やそれを証明できるのは通りに取り残された、まだラジエーターから微かに湯気が上がるステーションワゴンの残骸だけなのだ。だが、やがてそれすら他の乗り捨てられた車と区別が付かなくなるまでにさほど長い時間は要しないだろう。そうなれば今見た光景が本当に現実だったのか自分でも確信が持てなくなるのは想像に難くない。こうしている最中も正気を保てているのかと問われれば自信はないのだ。何故なら自分が狂っていないとすれば、それはつまり──。

「世界が狂っている」

 そういうことに他ならない。

 とはいえ、混乱するだけではなく幾つかわかったこともある。まずは最初に智哉を襲った男はたぶん連中の一員と見て間違いないだろうということ。いつから発生し出したのかは不明だが、遅くとも三日前には異変は起こっていた。

 次にまともな人間を見かけないのは暴徒を恐れて隠れているか、あまり考えたくはないが既に大半が奴らの仲間になってしまったか、あるいは死んでいるかのいずれかだろうと思われる点。その上、この現象はかなり広範囲に及んでいるらしい。

 住人が暴徒化した原因は謎だが、もし何らかの感染症が理由だった場合、噛まれた智哉にも移っている可能性は高かった。現時点で自覚症状はまったくないが、いつ自分がおかしくなっても不思議ではないということだ。それどころか、もしかしたら記憶にないだけでこの三日間、連中のように誰かを襲っていたことすらあり得る。今、凶暴な感情が湧き出て来ないのは近くに人が居ないせいではないとは言い切れないのだ。こんな状態で誰かと遭ったら、と考えた途端、全身に身震いが走った。急に自分の健康に自信が持てなくなり、脈拍や呼吸など調べられる範囲で所謂バイタルサインを測ってみようと思い立つ。気休めには違いないが、具体的な数値で示せば少しは安心できるのではないかと思えたからだ。とりあえず腕時計で時間を測りながら脈と呼吸を確認した。それによると一分間の脈拍が五十三回、呼吸数は十二回ほどで、やや平均よりは下回るが異常とまではいかない数値だった。体温は三十七度三分とこちらは平均より若干高めだが、頭痛や吐き気などの症状はないので、これが元々の平熱かも知れない。そもそもこれまでに大病を患ったことのない智哉は日頃、健康状態をチェックするという習慣がなかったため、自身のバイタルを憶えていなかった。従って、平時と比べてどうかと問われても答えようがない。少なくとも死んでいないという程度のことが確かめられたに過ぎなかった。

 これ以上の詳細は病院に行って血液検査でもしない限りは判断のしようがないだろう。病院が普通にやっていればの話だが。この様子では当分それは期待できまい。とにかく体調に異常は見つからなかったので、感染の有無は一旦忘れることにした。そうなれば部屋に閉じ籠っていても埒は明きそうになく、危険は覚悟の上で当初の予定通り他の住人を訪ねてみようと思う。少なくともこのマンションから通りに出て行ったり帰って来たりした者はいなかったはずだ。それでも用心のために真冬に身に着けるような分厚い革製のライダースジャケットを着込み、手には同じく革のバイクグローブを嵌めて行くことにする。ヘルメットも探したが、襲われた際にどこかで失くしたらしく室内には見当たらなかったので諦めた。よくよく考えれば人の部屋を訪ねるのにヘルメットで顔を隠していては怪しいことこの上ない。着替え終えると玄関に行き、ドアスコープで外を覗いて、通路に誰もいないことを確認する。慎重にドアを開いて室外に出た。智哉の部屋は東の端なので、近いところから順に訪ねて行くつもりだ。いざという場合はすぐに逃げ込めるよう、玄関のドアは開けたままにしておく。なるべく足音を立てず静かに廊下を進んで隣の部屋の前まで辿り着くと、智哉は周囲に変わった様子がないかを目視で調べた。表札には男だろうと思われる名前がフルネームで書かれている。先程ベランダから見た光景を思い返すと部屋の中に暴徒が潜んでいる可能性も捨て切れないが、いつでも逃げ出せるように身構えて、智哉は思い切って呼び鈴を鳴らした。暫く待つが反応はない。試しにドアノブを回してみるが、鍵が掛かっているようで開けられなかった。

 同じようにして二軒目、三軒目と渡り歩くが、どこも反応なく、ドアは施錠されたままだった。自分の他に誰も居ないのかと諦めかけた時、四軒目にして漸く施錠されていない部屋を発見した。表札を確認したところ、ありふれた苗字だけが掲げられていて、住人が男なのか女なのかの区別は付かない。呼び鈴には反応がなかったので、そっとドアを開けて中の様子を窺う。玄関先には男物と思われる靴が何足か散乱していた。履き慣れた感じの革靴が多かったので、たぶん社会人の男性の部屋だろうと推測する。靴の趣味からいって智哉と年齢はさほど変わりなさそうだ。

 玄関口から声をかけようかと迷うが、呼び鈴に反応がないのだから無駄だと気付き、覚悟を決めて土足のまま上がり込んだ。これで智哉が幻覚でも見ていただけなら犯罪者となるのは確定である。とはいえ、他人の家に許可なく立ち入るという多少の後ろめたさはあったものの、好奇心の方がそれに勝っていた。間取りはマンション内のどの部屋も同じなので、行き先で迷うことはない。リビングに直行して誰もいないことを確かめ奥の洋室も覗くが、やはり無人だった。特に何の工夫もなく寝室として使われているらしいその部屋は六畳ほどの広さにシンプルなパイプベッドが一つ窓際に置かれ、壁にはどの部屋も共通の造り付けのクローゼットがあり、それとは別にこの室内にはやや不釣り合いと思われるほど大きな洋箪笥が並べられている。中を見ると何着かの安物のスーツの他に、様々な洋服が掛けられていた。どうやら部屋の主は相当な衣装持ちの若い独身のサラリーマンと見て間違いなさそうだ。トイレや浴室も見て回り、誰かが隠れている形跡がないことを確認する。部屋の中は全体的に物が散乱するなど荒れており、慌てて出て行った様子が窺えた。何か情報源はないかと探ったが、雑誌はどれも古いものばかりで、智哉と同様に新聞は取っていないらしく見当たらなかった。リビングのテーブルにノートパソコンを見つけたが、マンションのLAN回線は全戸共用なので、智哉の部屋で繋がらなければどこも繋がらないことは確かめるまでもないだろう。がっかりして次の部屋に移ろうかと玄関に向かいかけた時、あることに気付いて智哉は立ち止まった。それを確かめるべく、ノートパソコンの電源を入れる。パスワードでも掛かっていれば厄介だったが、そこまでセキュリティー意識は高くなかったようで、すぐに見慣れたOSの起動画面が現れた。完全に立ち上がるのを待って智哉はブラウザソフトを開き、履歴情報を確認する。思った通りだ。ブラウザソフトには前々日までインターネットに接続されていた履歴が残っていた。即ち、智哉が意識を失ってから二日間は回線が通じていたことになる。通常、どのブラウザソフトでもサイトを閲覧するとキャッシュと呼ばれる記録が残る。これは次に同じページにアクセスした際に素早く表示させるための機能だが一定の容量分が常に保持されており、意図的に消去したり設定を変えたりしなければオフラインでも見ることが可能だ。要するに智哉が気絶している間にこの部屋の持ち主がアクセスしたであろうページなら閲覧できるわけである。案の定、それまでは殆どアダルト関連のものばかりだった履歴が、この数日はニュースサイトに集中していた。智哉はそれを古いものから順に読み進めていった。


 ──前日から散発的に発生していた原因不明の暴動は、この十数時間で大きな拡がりを見せている。理由は未だに解明されておらず、一説には伝染病の疑いも指摘されているが、詳細については謎のままである。関係筋の話によると死傷者は既に二百人以上にも上り、この数は今後さらに増える見通し。


 ──本日午後、政府は国内の暴動が世界規模で拡大している一連のケースと同様のものであることを正式に認めた。これまで政府は国内で発生している事態がWHO(世界保健機構)が緊急声明を発表した新型ウイルスの蔓延によるパンデミック(世界的流行)である可能性について言及を避けてきたが、今回、一定の類似性が確認されたため公表に踏み切ったと説明。


 ──防衛省は昨夜遅く、市ヶ谷、朝霧、練馬を始めとする各陸上自衛隊駐屯地に治安出動待機命令を出したことを明らかにした。これは国内の治安が著しく不安定になり、治安出動が発せられることが予想される場合において、防衛大臣が内閣総理大臣の承認を得て発令するもの。今後、実際に治安出動が発令されれば、警察予備隊を起源とする自衛隊の歴史において初のこととなる。なお、治安出動待機命令に合わせて全国約八千五百名の即応予備自衛官の召集も行われた。


 ──一連の暴動の爆発的な拡がりを受け、これによる死傷者数が正確に把握できない事態に陥っている。理由は各地方自治体の機能が低下し情報収集がはかどらないことに加え、警察官や消防官の絶対的な人員不足も影響していると見られる。ただ、一部では死傷者は既に十万人を超えているとの見方もあり、事件・事故・災害を含めて戦後最大規模の人的被害になることはほぼ間違いない。


 ──今日未明、政府は自衛隊法第七十八条に基づき自衛隊創設以来初となる内閣総理大臣の命令による治安出動を発令した。これにより北部、東北、東部、中部、西部の各方面隊はそれぞれの都道府県警察と協力して国内の治安維持に当たることとなる。既に原子力発電所を始めとする電気・水道・ガスなどの重要なライフライン施設では自衛隊による先行した警備が行われているとの情報もあり、今後は武器の使用も含めて幅広い活動が認められる。また、政府は同日、大規模災害対策特別措置法を制定、即日施行し、国内に非常事態を宣言した。これにより事態が沈静化するまでの間、国内外の交通機関による移動を原則禁止に。JR、私鉄、地下鉄、バス、航空各社の路線は直ちに運行が停止され、駅、空港、学校および公共施設は一部を除いていずれも閉鎖された。さらに国民には外出禁止を呼びかける異例の声明を発表。この事実上の戒厳令とも言える対応には与党内からも強い反発が予想されたが、それを押し切って強行されたものである。


 この辺りから次第に記事内にゾンビという記述が散見されるようになっていく。所謂映画などでお馴染みのイメージからは多少かけ離れていても集団で人を襲う連中への呼び方にそれ以外適当なものが浮かばなかったためだろう。図らずも智哉の直感の正しさが証明された形だ。


 ──現在、世界各地で死者が甦り人を襲うという映画さながらの事態が進行している。これには政府公式見解である「殺人病罹患者」の他にもう一つ別種の呼び方があるのは周知の通りである。むしろ、こちらの方が広く人々の間で定着していると言って良い。ただし、これまで当ニュースサイトでは科学的学術的見地に欠けるとしてその名称を差し控えてきた。しかしながら、多数の客観的証拠から認めざるを得ないとの結論に達し、今後はこの呼び方に則ってお伝えしていく。人々はこれら甦った死者を映画と同様に「ゾンビ」と呼称。本来はブードゥー教の祭礼に基づく呼び名だが、それとは別に多くのフィクション作品で見られるような類似性が指摘されている。その一つがゾンビに噛まれて死亡した人間は一定時間経過後にゾンビとして甦るというものだ。これが被害を拡大している原因であることはもはや疑いようがない。また、不確定な情報ではあるが傷を負っても痛みを感じず、身体の破壊や破損に対しても強い耐性が見られる点もフィクションさながらである。ただし、幾つかの相違が見られることには注意が必要だ。まずゾンビと聞いて殆どの人が思い浮かべるであろう鈍重なイメージは間違いと言える。動きは普通の人間とほぼ変わりない。走る、跳ぶなどもできるので、不用意に近寄ることは絶対に避けなければならない。その一方でドラキュラやフランケンシュタインの怪物のような超常的なパワーを持ち合わせているわけではないので、その点は安心して貰いたい。体力はゾンビ化する以前と変わらないと推察されるため、普通の人間ができないことは彼らにもできないと思って差し支えない。例えば空を飛んだり素手でコンクリートの壁を打ち砕いたりといったことは不可能である。このことから現状でゾンビから身を護る最善の方法は、防犯シャッターなどを閉めきった自宅に立て籠ることと言えよう。店舗やビルなどの多くは玄関や窓ガラスといった開口部が大きく設計されていて侵入される危険性が高いので、避難にはお勧めできない。また移動は最もリスクが伴う選択で極力避けるべきであるが、どうしてもそうしなければならない時は主要道路を外れ、交通量の少ない道を行くよう強く推奨する。これは本来、移動や外出の自粛が呼びかけられているにも関わらず、多くの人々が一斉に都市部から避難しようとした結果、主要道路で多数の渋滞や事故が発生し通行が著しく妨げられていることに起因する。


 ──これまでの目撃証言からゾンビに受けた傷は些細なものでも致命傷になり得ることが判明している。この事実から感染した者は直ちに隔離することが望ましいが、特に被害に遭ったのが近親者などの身近な相手の場合、感情的な面で対応の立ち遅れが目立ち、新たな被害の拡大を招いている事例が数多く見受けられる。家族や肉親としては辛いところではあるが、更なる悲劇を防ぐ意味でも迅速な決断が求められるであろう。


 ──やはりゾンビには恐るべき生命力があるようだ。国立感染症研究所並びに厚生労働省が共同発表した最新の情報によると、ゾンビと呼ばれるウイルス性疾患もしくは薬物による集団汚染が疑われる殺人病の罹患者(原文のまま)は脳、それも生命維持の根幹ともいえる脳幹に一定の損傷を負わない限り、完全に活動を停止しないことがわかった。即ちゾンビを殺すには後頭部の上部頚椎や延髄から前頭葉に向けて何らかの破壊を行う必要があるが、一般人が銃を持たない日本社会において、我々がこれを安全且つ確実に実行するのは極めて困難であると言わざるを得ない。


 ──拡大する一途のゾンビ禍に対して自殺者が後を絶たない模様だ。現在、警察・消防・自衛隊が協力して各地で避難活動が進められているが、それでも多くの国民が自宅などに孤立して取り残されているものと推測される。こうした中には精神的に追い詰められて自殺や心中を図る者も少なくないと見られる。感染前に死亡した場合はゾンビとして甦ることはないことが知れ渡り、一種の尊厳死として捉えられているようだ。


 ──いよいよこのサイトを継続していくことも難しくなってきた。インターネット回線は近いうちに通じなくなる可能性が高く、この編集部でも私以外のスタッフは誰も残っていないことを正直に告白する。従って、これを最後の更新としたい。必要とする情報はあまりに多く、お伝えできることはあまりに少ないと認めざるを得ない。本来なら一つでも多くの情報を提供すべきであろうが、この記事自体が如何ほどの人の目に触れるか甚だ心許ない状況では、個人的な心情を吐露することをお許しいただきたい。もはや健全な社会生活と呼べる日常は過去のものだ。私が知る限りにおいて安全な場所はどこにも残っていない。多くの人達と同様に私自身もこうなる以前は平凡な暮らしがそれほど貴重なことだとは思いもしなかった。気付いた時には遅過ぎたというのはまさにこのことだ。果たしてどれほどの人間が生き残っているのか私に知る術はもうないが、それらの人々にいつの日か平穏な暮らしが戻ることを切に願ってやまない……。


 記事はそこで終わっていた。読み終えて智哉は改めて現在の状況が呆れるほど現実離れしていることを思い知らされた。大掛かりなドッキリであると知らされた方がまだ信憑性がある。それにも関わらずさして抵抗なくこの事態を受け容れている自分がいることに気付きもしたが、驚きはない。普通なら到底受け容れ難い現実に違いないはずだ。それをあっさりと肯定してしまうのは、やはり涼子との死別とその後の精神的退廃が影響していると認めざるを得まい。自分はどこか壊れているのだ。それならそれで構わないと言えた。むしろ、この状況では正気を保っていることの方が辛いのではないかとさえ思える。そうは言っても簡単に諦めるつもりもなかった。まだこの世界でやり残したことがあるような気がする。今は何か皆目見当も付かないが、それがはっきりとするまでは死ねない。可能な限り抗って、この世界がどうなっていくのかその行く末を長く見届けたいと思った。それは涼子を失って以来、初めて智哉の裡に芽生えた明確な目的意識と言えよう。

 そのためにはもっと情報を集めて現状を正確に把握することが必要だった。例えば避難計画のようなものは実施されているのか、実施されているのならどこに行けば良いのか、あるいは警察や消防や自衛隊といった組織の活動はどうなっているのかなどを知ることが重要である。記事を鵜呑みにすればゾンビは異常に高い生命力を除けば体力は常人並であるという。それなら一時的に身を護ることはさほど難しくはないと考えられる。記事が言っていたように一般的な住居、それもマンションの高層階のように外部から侵入するのが困難な場所に潜んでいれば事は足りるからだ。現に智哉はそれで丸三日間、まったくの無防備であったにも関わらず無事だった。電気や水道が未だに使えていることを考慮すれば身動きが取れないだけで、各々個別に生き残っている人間は案外大勢いるのではないかと思った。問題は誰も外に出られないということだ。表に出た途端、ゾンビ化した住人に襲われることは先程見た通りであろう。かといって引き籠っていてもいずれ食糧は尽きるだろうし、電気や水道がいつ止まっても不思議ではない。それまでに救助の手が差し延べられれば良いが、そうでなかった場合、危険を冒してでも結局は表に出て行かなければならなくなるのは自明の理だ。そこまで考えが及ぶに至って、智哉は改めてさっき無計画に食糧に手をつけたことを悔やんだ。今更どうにもならないとはいえ、今後は些細な見落としや判断ミスが致命的な過ちになりかねないことを肝に銘じておく必要がある。失敗を取り戻す意味でも室内に食糧はないかと探したが、冷蔵庫にも食品棚にも腹の足しになりそうなものは何も残っていなかった。部屋の持ち主はあるいは食糧が尽きたことで出て行ったのかも知れない。

 食べ物に関しては自分の部屋に戻ってから再考するとして、智哉にはもう一つ気がかりな点があった。記事ではゾンビに傷を負わされた者はその程度如何に関わらず感染して死亡した後、ゾンビとして甦ると書かれていた。だとすると、自分は何故噛まれても平気なのだろうか? それとも智哉を襲った男はゾンビとは無関係に、たまたま狂っていたというだけのことなのか? そんな偶然が重なるとは信じられないが、いずれにしてもこの部屋でやれることはもう何もなさそうだった。必要ならばまた来れば良いと考え、今後の対策を練るためにも一旦自分の部屋に戻ることにした。外に出て、無人の廊下を引き返し、途中エレベーターの前を通り過ぎようとした時、ギョッとして思わず足を止めた。エレベーターの階数を示すランプが目の前で六階から五階へと変化した。

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