2 広美※

 目が醒めてからも暫くの間、横手広美は夢と現実の狭間を彷徨っていた。昨夜寝る前に服用した睡眠薬、正確にはベンゾジアン系睡眠導入剤の一種であるトリアゾラム──一般にはハルシオンという商品名で知られる──がまだ効いていて、身体がだるく、意識もはっきりとしていないため、自分が起きているのか、起きた夢を見ているのか、それともそのどちらでもなく死んで天国にいるのか、いずれの区別も付かなかった。天国だったらいいのにな、と広美は霞みがかった頭で考えた。起きていても時々、現実との区別が付かなくなるので、広美は眠っている間に見る夢が嫌いだ。そんなものは見なくなれば良いと思う。サヤカという源氏名でデリヘルに勤め出してからはその傾向も幾分和らいだが、眠るのは今でも苦痛に他ならない。元より夢のない世界なら何が起きてもありのままに受け容れるだけなので、現実かどうかと迷う必要はなく、目の前の出来事が幻覚かも知れないと恐れずに済む。そうなれば広美のことを頭がおかしいと口にする者はいなくなるだろう。

 だが、現実はそういうわけにはいかないので、広美はいつもの儀式としてそのまま三十分ほどをベッドの中で身じろぎ一つせずに過ごした。そうしていても一向に天使も悪魔も現れないのを確認して、漸く死んだのではないと納得し上半身だけで起き上がる。それでもまだここが覚醒した世界だという気はまったくしない。ハルシオンや別の睡眠導入剤であるロヒプノールに頼って寝た翌朝は大抵こうなる。自然に就いた眠りではないので、現実感を取り戻すのにいつも以上の時間がかかるのだ。その間ずっとこれが夢でないことを心の中で祈り続けなければならない。それでも何日も眠れなくて、次第に眠れないのではなく夢から醒めないだけではないかという不安に苛まれ、何度も確認のために自傷行為を繰り返さずにはいられなかったあの頃よりはマシだ。このところ徐々に薬の量が増えてきて、効き目も薄れているので注意しなければならないが、眠れているうちは少なくとも自分を傷つけずに済む分、有り難い。

 少し頭がすっきりしてきたことで、今が何時くらいだろう、と広美は気になり始めた。広美ほどの年の女性が一人で住むにはやや不釣合いな高級マンションの室内には時計はもちろん、オーディオデッキのデジタル表示に至るまで時刻を示すものは何一つ置かれていなかった。正確な時間に合わせて何かをするという生活習慣が広美にまるでないためだが、細かく刻まれる秒針の動きや数字の変化を見ると頭が痛くなるということもある。この部屋の中で時間を知る唯一の方法はベッド脇のサイドテーブルに置かれた携帯電話の時刻表示を見ることだけだったが、今は窓から射し込む陽射しの角度や強さから大体午後三時くらいだろうと当たりを付けるに留めた。それなら出勤までにはまだ大分余裕がある。普段は午後六時から七時頃までに事務所に顔を出せば良いことになっているからだ。仕事中は現実感を喪失したままだと何かとしんどいので、何とか今のうちに取り戻そうと広美は昨晩の出来事を思い出すことにした。夢は大雑把なことが多いため、ディテールまで細かく思い描ければそれが現実だとわかって安心できる。もっとも出勤までの過ごし方はほぼ毎日変わらず広美の中では常にいつの記憶なのか曖昧なので思い返すのはマンションを出てからということになる。昨日は確か早番の子に欠勤が出て、いつもより早めの出勤を頼まれた。それで五時頃には事務所に行くと、まだ芳江さん一人がいるだけだった。年の頃は五十を過ぎていると思われる芳江さんは風俗嬢ではなく女の子達の世話係兼電話番兼事務員なので、実質的には広美が一番乗りということだ。今現在、広美が勤めるデリヘルに在籍する女の子は全部で九名だが、常勤なのは自分を含め二人だけで、他は週に一日二日勤務するアルバイトである。彼女達の大半は昼間は学生や主婦やOLの顔を持ち、広美のようにデリヘルを専業にしているわけではないので、出勤も不定期になりがちだ。必然的にその分は広美ともう一人の子がカヴァーすることになる。ところが昨日は折角早出出勤をしたのに、殆ど指名が入らず、夜までに一人の客しか付かなかった。例の暴動騒ぎの影響らしい。それを広美は指名を待つ間のテレビニュースで知った。深夜になって漸く二人目の客に呼ばれたが、それは珍しくラブホテルではなく自宅らしき殺風景なマンションの一室だった。二十代後半から三十代半ばと思われるその客はデザイナーだと称していたが、本当のところはどうかわからない。客が職業を詐称するのはよくあることだからだ。つい先日もテレビ局のプロデューサーだと名乗っていたはずの男が、風呂場で射精した直後に油断したのかホテルの備品をうちの商品だと口走って危うく失笑しかけた。ただ昨日の客は自宅が仕事場を兼ねているらしく、目に付いたパソコンに話題を振ってやると、かなり詳しく仕事内容を説明されたので、たぶん嘘ではないだろうと広美は思った。丁寧に話す割には自慢めいた口調ではなく、どこか醒めた調子なのが珍しかったのを憶えている。大抵、仕事について話したがる客は自分が如何に優秀で上司や部下に頼りにされていて会社にとって必要不可欠な存在であるかを誇りたがるものなのだ。広美が一片の関心も抱いていないことにも気付かずに。そう、広美はこれまで客の素性に興味を持ったことなど一度もない。それでも大人しく話を聞くふりをするのは客商売であるというだけでなく、以前に一度似たようなカタカナ職業の客に当たり、そいつは一軒家をオフィスに改築したような豪奢な部屋にわざわざ風俗嬢を呼んで自分の仕事を見せびらかしたがるような下品な奴で、広美が飽きて生返事をしていると急に怒り出し、そんなことだから風俗なんかで働いているんだとか、親が禄でもない奴なんだろうとか、自分の娘には間違ってもそんな真似はさせないとか、その娘のような相手を金で買った自分のことは棚に上げて説教をし始め、親のこととかは別にどうでも良かったが、風俗で働くのを馬鹿にされたことまでは許せなかったので、てめえなんか蛆虫以下だ、と相手の目を見て勘違いしようのないはっきりとした言葉で教えてやったらさらにキレられて、事務所に電話すると言われ、裏ではヤクザも絡んでいるこの業界でそんな度胸が本当にお前にあるのかよと思ったが、組関係に知り合いもいると男が話し出したのを聞いているうちに本当かも知れないと怖くなって、何度も謝る羽目になり、辟易したことがあったからだ。それ以来、広美はカタカナ職業を名乗る客には身構えるようになってしまった。そうかと思えば、自分の仕事を恥じて嫌々働いているかのような客も大勢いて、どちらが真っ当なのかと考える。広美が理解しやすいのは自慢したがる客の方だ。全員が望んだ職業に就けるわけでないのはわかるのだが、生活のために嫌いな仕事を続けるという意味が広美には量りかねた。今の仕事を唯一無二の天職だと思っている広美にとって、世の中には自分の存在価値を一変させる職業もあるということを知らずにいる人間は皆不幸だと思える。夕辺の客がそうだったのかどうかはわからない。別に知りたいとも思わないし、他人の仕事のことなどどうでも良かったが、プレイ時間を裂いてまでお喋りしたがること以外は割と好みのタイプで、他の客のように、やらせろよ、としつこくせがむこともなく、触り方も心得ているみたいで気持ち良かったから、延長してくれたらやらせてやっても良いと思っていた。それなのにやたらと身の上話などを聞きたがるものだから最後は白けてしまった。ただ自宅に呼ばれるのはホテルと違いベッドや浴槽が汚れていることも多く本来憂鬱なのだが、昨日は思いの外、室内が清潔に保たれていて、シーツもきれいで気分が良くなったこともあり、思わずあのことを話してしまいそうになった。それは昔、男に殴られて失明しかかったというエピソードなのだが、広美の中では今でも輝かしい栄光の記憶として刻み込まれているので、初めて会った相手に軽々しく口にすべきではないと思い留まったのだ。どうせ話したところで理解されるはずもない。これまで広美のことを理解できた人間は男でも女でも一人もいなかった。両親でさえも物心がついてからは気味悪がって広美を遠ざけようとした。広美が他の子達と比べて発達が遅れていたとか特別に手が掛かる子供だったからというわけではない。むしろ、逆で両親を煩わせなかったことが却って良くなかったと言える。広美が暴れたり泣き叫んだりする子だったら早期にカウンセリングでも受けさせて問題の発覚を早めていただろうが、そうではなかったために周囲の大人が彼女の特異さに気付いた時には既に手遅れだった。広美には他人同士が通じ合うという意味がどうしても理解できなかったのである。話せばわかり合える、時間をかけて相手との信頼関係を築く、そういうことがさっぱり通用しない。だから人間関係が上手くいかないのは相手を知ろうする努力が足りないせいだ、そういう前提で接してこられると、まったく以て話に付いていけなかった。次第に何を言い聞かせても理解できない広美に対して両親は苛立って手を上げるようになったが、その方が広美にとっては自分が間違いを犯したことを正しく認識できて楽だった。ところが中学に上がる頃になって広美の身体に残る痣に気付いた近所の人の通報により両親の虐待が世間に知られ、事件にこそならなかったものの、定期的に児童相談所の職員が家にやって来るようになって、虐待が収まる代わりに批判を受けた両親はその後、娘の顔色を窺うだけの存在となってしまった。二人共広美とは目を合わせようともしなくなったため、自分が本当に存在しているのかどうかわからなくなった。幽霊にでもなったような気分だった。その原因が他人に認められないことにあると考えた広美は、中学の卒業を期に今までの人格を改めて、別の人間に生まれ変わることにした。わざわざ知り合いが誰もいない遠方の高校に進学したのもそのためだ。それまでの大人しく地味だったものから明るく活発な姿へと性格や容姿を一変させると、友人も増えて恋人もできたが、それで他人との距離が縮まったと感じたことは一度もない。広美にとって他人は依然として得体の知れない存在であり、理解し難い生き物であることに変わりはなかった。ただ、所々で共感したふりをしていれば生活する上では支障がないこともわかったので、それからの他人との接し方は幾分やりやすくなった。昨日の客にしても広美のあしらい方がもう少し上手ければ延長して貰えたかも知れない。あっさりと帰されたのは演技が足りなかったせいだろうと思う。

 男の部屋を出たその後の記憶は曖昧だ。迎えに来た運転手が、今日は殆ど仕事にならなかったと愚痴っていた覚えがある。時間も遅かったのでそのまま直帰することにして自分のマンションまで送って貰った。たぶん、それからすぐに薬を飲んで寝てしまったに違いない。事務所に連絡を入れずに帰ったことを思い出し、出勤前に一度電話しておいた方が良いと思った。前に一回、それを怠って翌日も勝手に休んだら酷く叱られたことがあったからだ。叱られたと言っても怖い人が出てきてどこかに連れて行かれたりしたわけではない。芳江さんがまるで子供を諭すような口調で、静かに言い聞かせただけだ。

「サヤカさん、事務所に寄らずに帰った時は次の日でもいいから必ず連絡するようにとお願いしてあったでしょう。そうしていただかないとこちらとしても困るのよ。こういうお仕事ですからね。どこで何が起こるかわからないわけですから。心配するでしょう。もう少しで自宅の方まで誰かを見に行かせるところでしたよ。一人暮らしとはいってもあなたもそれは避けたいのではなくて? ご近所の噂になっても困りますものね。ええ、もちろん、今住んでいる場所は存じていますよ。それだけではなくてご実家の住所なんかも把握していますからね。その道に精通した方々が大勢いらっしゃいますから。ご家族やご親戚に迷惑をかけたくなければこれからはきちんとしてくださいね」

 物腰や言葉遣いは丁重だが、言っていることは要するに逃げようとしても無駄ということだ。その気になれば実家や親戚の下にまで押しかけると脅しているに他ならない。広美の場合は両親や親類との縁はとっくに切れているので、大した脅迫にはならないが、家族や友人に内緒で働いている者にしてみたら効果は絶大だろう。実際のところ、表向きはごく普通のアルバイトとしている子が大半なのである。一日分の稼ぎを持ち逃げした程度でそこまでするかは疑問だが、広美は別にしても店に借金の肩代わりをして貰っている子は大勢いるので単なる出任せとは思えなかった。広美達が指名の入るまでを過ごす待機部屋と呼ばれるマンションの一室には、明らかにその筋の者とわかる人間が出入することはまずなかったが、裏でヤクザと繋がっているのは明白だ。芳江さんにしても元はどこかの組幹部の愛人だったというのがもっぱらの噂である。事務所には他に店長と呼ばれる気の弱そうなおじさんがいたが単なるお飾りで、実質的に取り仕切っているのは芳江さん、というのがここで働く女の子達全員の共通した認識だった。

 しかし、広美が恐れたのはそうした芳江さんの背景や脅しではない。慇懃無礼とも言える芳江さんの語り口自体が広美にとっては恐怖の的そのものだった。暴力には割と慣れているのでどちらかと言えば殴られたり蹴られたりした方がまだ耐えられる。だが、冷静に語りかけられると広美にはどうにも我慢し難い苦痛を感じるのだ。昔からずっとそうだった。長く話を聞けば聞くほどに目に映るものの輪郭は薄れ、次第に物事の定義は曖昧になって、誰が何について語っているのかも不明となり、最後には自分の存在すらあやふやに思えてくる。まるでぼやけたモノクロ映画でも観ている気がしてくる。その傾向が最も顕著に現れたのが小学生の時の学級会で、例えば誰かの持ち物が紛失したりすると必ず真っ先に広美が疑われ、実際に広美のロッカーや荷物から失くした物が見つかると話し合いと称した模擬裁判がクラスで開かれる。そこでは大抵の子は謝れとか弁償しろとかうるさく騒ぐだけだが、中には一人くらい決まって早熟で大人顔負けの利発さと冷静さで教師の歓心を買うような子がいて、何がどう悪くて糾弾されなければならないのかを事細かく言ってのけるのだが、肝心の広美には何一つ伝わらないということがよくあった。そういう時は根気強く耐え忍ぶしかない。反論しようにも意味不明なので、何も言い返せないのだ。やがて、そのことは広美にとって恐怖の対象でしかなくなった。教師を含め全員が広美には理解できない存在だ。その認識は大人になった現在も変わらない。だからこれまで付き合った男に対して広美は殴るのも蹴るのも構わないが冷静に語りかけるのだけは止めてくれと頼んできた。そう言うと大抵の男は本気で取り合おうとはせず、口では暴力なんて振るわないと笑い飛ばすのだが、数日もすればそれは嘘だとわかるので、あまり深刻にならずに済んだ。ただ、これまでに一人だけ本当にずっと広美に手を上げなかった男がいて、そいつが後に広美を失明させかけた張本人だった。その男とは半年ほどそいつのマンションで同棲していたが、その間に二度広美の浮気がばれて、一度は堕胎したことまでわかってしまい、これは絶対に修羅場になるだろうなと覚悟したが、そんなことがあっても男は涙ながらに自分が如何にショックを受けたかを訴えかけるだけで決して殴ろうとはしなかった。男が泣きながら、許すとかもう一度やり直そうとか言うのは気持ちが悪かった。殴らないのもフェミニストだからというより人生で一回も喧嘩をしたことがないような軟弱な奴だったので、殴り方を知らないだけだと思えた。広美はそいつのことを内心では皮肉混じりにカラテカと呼んでいたが、それは当時流行っていた格闘技イベントによく出場していた空手の選手に顔だけは似ていたからだ。その後、広美が新しい男を見つけて同棲先を出て行ったことでカラテカとは二ヶ月ほど会わなかった。だが、もうすっかり忘れかけていた頃にどこでどう調べたのか新しい男の下へカラテカから連絡があって、何故か広美が会う羽目になってしまった。厄介事を嫌った新しい男が問題を解決するまで戻って来るなと言ったためだ。その頃は新しい男のことが好きだったから捨てられそうになって、男のところに電話してくるなんてルール違反じゃねえかよ、と思ったが、元々は同棲先を出て行く時にカラテカの持ち物を広美が勝手に売り払っていたせいなので、警察沙汰にされたくなくて強気には出られなかった。その金の殆どは今の男との新生活に使ってしまっている。今更返せと言われても不可能で、渋々従う他はなかった。嘗ての慣れ親しんだ同棲場所である相手のマンションを訪ねて行くと、再開したカラテカは次のように広美に話した。

「何も君を訴えようと思って呼び出したわけじゃないんだ。もちろん、そうしようと思えば幾らでもできたわけだけどね。一度は愛し合った仲なんだし、僕としてはできればそんなことはせずに穏便に済ませたいと考えている。でも何も罰則を与えないというわけにもいかないと思うんだ。それは僕自身のためというより、君のためにならないんじゃないかという気がしているからだ。正直に言って君が僕の部屋から持ち出した物についてはもう諦めているんだ。君が腕時計や靴に興味があるとは思えないからもう売ってしまったんだろうね。中には単に高価というだけじゃない。僕が大学の合格祝いに初めて父親から買って貰った時計だってあったんだぜ。ロレックスのデイトナ、と言っても君にはわからないだろうけどね。時計の中じゃ高級品とは言えないまでも想い出は金で買えるものじゃないだろ? けど、それはもういい。本来なら弁償して貰うのが筋には違いないだろうが、少し高めの慰謝料と思えば我慢できなくもない。恐らく君もそのつもりで持ち出したんだろう。でも、だったら何もこんな泥棒みたいな真似はしないで最初からそう言ってくれたら良かったんだ。僕だって金銭的な支払いを考えないわけじゃない。自分では気付かなかったけど、僕の方にも落ち度はあったと思うからね。しかし、それとこれとは別で犯罪は犯罪だ。君がしたことは社会的にも法律的にも許されることじゃない。それはわかっているはずだよね。今は平気かも知れないけど、いつか君が犯罪者として罪の意識に苛まれるんじゃないかと僕は思っている。例えば子供ができた時とかだ。悪いことをした自分に母親となる資格が本当にあるのか、みたいに後悔するんじゃないかな。僕は君にそんな風に苦しんで貰いたくなかったんだよ。だからね、これはチャンスだと受け取って欲しい。僕は君に謝る機会を与えようと思ったんだ。何も難しく考えなくたって良い。君が僕に心から謝罪をしてくれれば、僕は気分良く君を許す。只、それだけだ。他に何かを要求しようっていうんじゃない。もちろん、よりを戻せなんて言わない。それで何もかもがすっきりと解決する。僕が警察に訴えることもなければ、君が捕まるかも知れないと怯える心配もいらなくなる。この先、君が何かの拍子に後悔するようなことにもならなくて済むんだ。新しい彼氏とだってその方が心置きなく付き合えるんじゃないか。もちろん、僕だってまた新しい恋人は作る気でいるよ。君とは色々あったけど、それも今となってみれば酷いことばかりじゃなかった。少なくとも君とは何かを共有できた気でいたし、そういう想い出は大切だと思わないか? それらを全て否定してしまうのはとても淋しいし、悲しいことだよね? だから僕はどれだけ傷つけられたとしてもできるだけ相手の多くを許そうと決めたんだ。その気持ちはきっと君にも理解して貰えると思う。誰だってわだかまりを抱えたまま生きていくは辛いからね。だから君にはひと言で良いから僕に謝って欲しいんだ。簡単なことだろ?」

 嫌な予感には必ずそうなるための予兆があって、最初それは決まって小さな波長として現れる。性欲よりもずっと微かなその兆しは、余程注意深く観察していないとすぐに見逃してしまいそうなものだが、その時はカラテカが話し始めた瞬間に発生したのがわかり、あっという間に広美の中で大きくなって、目の前で相手が話し終えたところでピークを迎えた。

 殴って頂戴、と広美はカラテカに言った。あなたは怒っているのでしょう? だったらいいのよ、私を殴って。

 何を言っているんだ、君は、とカラテカは驚いた様子で答えた。僕の話を聞いていなかったのかい? 謝ってくれたらなかったことにすると言っているんだよ。

 広美はその言葉を無視して、立ち上がるとカラテカの隣に行き、もう一度、お願いだから私を殴って欲しい、そう頼んだ。

 カラテカは広美の真意を量りかねているみたいだった。これまでにも何度かこうした場面はあったのだが、どうせ只のポーズだろうと本気にしてこなかったのだ。今回もそうだと考えて、初めはこんな時にまでふざけるなんてと呆れていたが、あまりにしつこく広美が迫るので、やがてこれまでのことも今度のことも演技ではないのだとやっとわかったらしく、次第に怯えた顔つきになっていった。

「殴っていいのよ。私がそうして欲しいって言ってるんだから誰もあなたを責めないわ。謝れなんて嘘よね。本当はずっとそうしたかったんでしょ? 今まで我慢してただけなのよね。でも我慢なんて最低の男がすることよ。みんな我慢して我慢して我慢して最後にはおかしくなるの。だから、あなただけじゃないから安心して。さあ、殴りなさいな」

 尚も嫌だと渋るカラテカに、広美はキッチンから刃渡り十五センチほどのペティナイフを持ち出して、殴らないつもりなら自分で刺す、と腹部に押し当てた。切っ先が数ミリではあったが広美の白い肌に喰い込んで血が滲み出すのを見て、やっとのことでカラテカは泣きながら初めて広美を殴った。事前に本気でやらなければ殴ったとは認めないと警告しておいたのでカラテカは全力で拳を振るうと、それまでに人を殴った経験など恐らく皆無だったろうことから力加減がわからずに顔面へクリーンヒットさせてしまい、広美の左眼窩底を骨折させ、もう少しで失明するところだったと後に医者から聞いた。

 結局、左眼は完全に元通りには回復しなかったが、カラテカの支払いで怪我の治療を済ませた時、広美の中で何かが変わった。生まれたと言っても良い。奇妙な誇りと自信が芽生えていることに気付いた。痛みや傷は恐怖を中和させ、自分にはそれを発生させる力があると知ったからだ。ただし、本物の暴力はコントロールが難しいとわかったので、それに代わるものが必要だと悟った。そうして巡り合ったのが今の職業だ。風俗で働くのが苦痛というわけではない。そこで出逢う男達は皆、


【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】


故にこの仕事は広美の天職だった。そこまで思いを巡らせて広美は漸く気分が落ち着いたので、起き上がる決心をした。サイドテーブル上の携帯電話に手を伸ばし、今度は正確に時刻を確かめる。午後三時四十七分。この時間ならもう事務所には芳江さんがいるはずだ。広美は電話をかけてみるが、呼び出し音は鳴っているのに誰も出ない。スピーカーに切り替えて暫く放置しておいたが、やはり繋がらないので諦めた。まあいい。一応、連絡はしたのだから言い訳は成り立つ。指名が重なったり女の子が急な休みで足りなくなったりした時は、電話を取らないことはよくあるので、たぶんそれだろうと思った。だとすれば早めに出勤すれば喜ばれるかも知れない。とりあえず全身にこびり付いた倦怠感を洗い流すために広美はシャワーに立った。何か表が騒がしい気がしたが、現実なのか幻聴なのかはっきりしないので無視する。確認してそれが現実でなかった場合、調子が良くないことがわかって仕事に行くのが憂鬱になるからだ。今はまだ身体の奥底から湧き立つような性欲は感じられないが、幸いにもじわじわとこみ上げてくる兆候はあるので、シャワーを浴びて身体が温まればいずれ向こうから訪れるだろう。後はそれを夕方まで上手にキープしてやれば仕事もやりやすくなるに違いない。性欲がない時に限って面倒な客に当たるので困る。今夜はそうした心配も要らなさそうだった。


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幾分すっきりすると、広美はシャワールームを出た。バスタオルで身体を拭いてレースの下着を身に着ける。今夜は何か良いことが起きそうな予感がするので、七着ある仕事用衣装の中から広美が最も上品に見えると思っている濃紺のワンピースと、少し時期は早いが一番高価なビキューナのコートを着て行くことにした。足許もそれに合わせたレザーのショートブーツをチョイスする。これならどんな一流ホテルに呼ばれても恥ずかしくはない。売春のために訪れたとドアマンに悟られることもないはずだ。その後四十分ほどをかけて全身の身支度を整えた広美は五時前に部屋を後にした。エレベーターで一階に降りると、ホテル張りの豪勢なエントランスを抜けて、正面玄関から表通りに出る。普段より人や車の流れがまばらに感じたが、元々自分の感覚に自信があるわけではない広美は大して気にも留めずに歩き始めた。タクシーを拾いやすい大通りに向かう。最初の角を曲がった時、道路を挟んだ向かい側の歩道にいた女がこちらを振り返るのが見えた。思わず視線が合ってしまい、慌てて広美は目を逸らした。一瞬、心臓が凍り付きそうになる。チラリと顔を上げてもう一度女を確認すると、広美に向かって真っ直ぐに駆け寄って来るのがわかった。反射的に逃げ出したくなるのをぐっと堪え、広美は早足でその場を立ち去ろうとする。女の異様な表情や奇妙に外側へ捻じれた足首や首筋から肩に滴る鮮血は広美の眼中にはない。同世代の女に注目されたことだけが広美の頭を占めていた。年齢が近い相手を見ると昔の、小中学校時代の知り合いではないかと疑って、必要以上に意識してしまうのだ。街頭アンケートなどで無遠慮に声をかけられて街中で悲鳴を上げてしまい周囲から奇異の目で見られたことも一度や二度ではない。そうしたことから今では同世代の相手を見かけても必死で冷静さを保つように努力している。この時も、自分には関係がない、関係がない、と繰り返し心の中で呟いてやり過ごそうとした。今の自分はあの頃とは似ても似つかわないはずだ。第一に昔の自分を憶えている同級生がいるとも思えない。逆に広美の方はクラスメイトを誰一人として忘れていなかった。どこで見かけてもすぐに気付いて立ち去れるように必死で憶え込んだのだ。従って、知っている顔なら例え何十年経とうが広美にわからないはずがなかった。女は知らない相手に間違いない。たまたま広美の近くを歩く知り合いでも見かけて声をかけようとしているのだろう、そう結論付けて急ぎその場から離れるために前を向き歩き続けた最中だ。突然、背後から激しく抱き付かれるような衝撃を感じて、広美は反射的に振り返り、目の前に女がいるのを見て咄嗟に片手で口許を覆って悲鳴を防ぐと、開いたもう一方の手で思わず相手を突き飛ばした。間近で見てもやはり女に見憶えはなかった。きっと誰かと勘違いしたに違いない、そう自分に言い聞かせて再び進行方法に向き直り一歩踏み出しかけたところでよろめいた。いつの間にか顔の右半分が焼けるように熱くなっている。手で触れてみるとヌルっとした感触が伝わった。右耳にあったはずのピアスも無くなっていることに気付く。さっきの衝撃で落としたのだろうか……? 立ち止まって探すことも考えたが、再度女と顔を合わすのが嫌で諦めた。お気に入りのピアスだったが仕方がない。また新しく買おう。無意識に右耳があった辺りを手探りしながら広美はそう考えた。それよりも今は一刻も早くこの場からいなくなることが先決なのだ。

 ふらつく足取りで大通りに向かいながら広美はいつか老紳士に遭った時のために自分も絵を習おうかと考えた。上手くなれなくてもいい。描いてみることが大切だ。その間はクスリに頼らず眠るようにしよう。そうして描いた絵を老紳士に見せることができたら最高だと思えた。

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