第一部 脱出篇

1 羊達の群れ

「森田さん、起きてください。市の防災課の者です。聞こえていますか?」

 乱暴にドアを叩く物音と、けたたましく鳴らされる呼び鈴に二階の自室で寝ていた森田美鈴は目を醒ました。何事だろうとぼんやりした頭で考える。枕元に置いたスマートフォンに目をやると、時刻は午前一時を過ぎたところだった。

(こんな時間に何の用だというのだろう……?)

 非常識だと思えたが、それだけ火急の要件と気付いて、美鈴は急に不安を覚えベッドに起き上がった。急いでベッドサイドのテーブルライトを点ける。美鈴の家は住宅街の外れにあるごく普通の一軒家だ。一家の主である父親は海外から資材を輸入する商社に勤めるサラリーマンで、母親は美鈴が生まれたのを機にそれまでの勤めを辞めて家庭に入った専業主婦である。子供は美鈴の他に中学一年になる妹が一人いて、まさに絵に描いたような平凡な家族と言えた。それだけにこれまでこんな真夜中に人が訪ねて来るようなことは一度もなかった。慌ててパジャマの上からガウンを羽織って廊下に出ると、隣の部屋から寝ぼけ眼をした妹の加奈が顔を出し、何なのよぉ、と間の抜けた声で訊いてきた。美鈴は相手をせずに階下へと下りて行くと、玄関先でやはりパジャマ姿の父親が作業服を着た男達と何事か話しているのが見えた。邪魔をしないように静かにリビングに向かう。部屋の中では母親が不安そうな面持ちで立ち尽くしていた。

「何かあったの?」

 妹が後を追って来たのを横目で確認しながら、美鈴は母親にそう声をかけた。

「それがよくわからないのよ。突然、起こされて何が何だか……。今、お父さんが話を聞いているからすぐにわかると思うんだけど」

 ふと窓に目をやると、カーテンの隙間から赤い光がチラチラと覗くのに気付いた。カーテンを開いて確かめると、パトカーではなく普通の車に赤色灯を載せた車両が何台か行き交っていた。そのうち、本物のパトカーや消防車も掛けつけて、辺り一帯は急に物々しい雰囲気に包まれた。どこか近所でサイレンに混じってスピーカー放送も始まったみたいだ。耳を澄ますと、どうやら避難を呼びかける放送らしい。

(地震や台風ってわけじゃないだろうから、近くで大きな事故でもあったんだろうか?)

 例えば薬品工場から有毒物質が漏れ出したとかそういうことかも知れない。美鈴は暫く前にニュースを騒がしていた原発事故を思い出してそう考えた。しかし、この辺りには原発はもちろん、化学工場があるという話も聞いたことはなかった。事故ではないとすれば美鈴が思い付くことはもう何もない。

 家の外が騒然とし始める中、リビングに戻った父親が家族全員の揃っていることを確かめると、おもむろに口を開いた。

「落ち着いて聞きなさい。これからすぐに避難しなければならなくなった」

「あなた、それって一体──」

 母親が言いかけたのを片手で制して父親は話を続ける。

「今、市役所の人が来て話を聞いたんだが、近くで暴動が発生しているらしい。この辺りまで拡大する恐れがあるから、念のため安全な場所に一時避難してくれということだった」

「暴動? この近くで?」

 美鈴は信じられないといった口調で聞き返す。

「どうやらそうらしいな。お父さんも驚いたんだが、わざわざ市役所の職員が一軒一軒訪ねて回って避難を呼びかけているくらいだから間違いではないだろう。夜のニュースではそこまで大事になるとは言ってなかったんだが……」

 そういえば今朝から断続的にニュースが流れていた。確か全国各地で騒ぎが起こっていて、中には学校が臨時休校になった地域もあったらしい。原因は不明だが感染症やテロの疑いもあるとして現場付近には近付かないようにといった内容だった。

「でも日本で暴動なんて、あり得ないんじゃ……」

 尚も納得のいかない美鈴に父親は、そんなことはない、と答えた。

「お父さんも直接は知らないが、お前達のお祖父ちゃんが若い頃には学生運動も盛んでデモや暴動も珍しくはなかったと聞くし、今でもあまり大きなニュースにならないだけで一部の地域では時々起きているそうだよ。もっとも全国規模で起こるなんて話は聞いたこともないが……」

 父親の説明を聞いても美鈴はまだ半信半疑だった。現代っ子の美鈴には学生運動と聞いてもピンと来るものがない。ましてや暴動なんて、どこか遠い外国の出来事のように感じてしまう。日本で暴動が起きない理由は本当の意味での格差が存在しないからだ、とテレビで誰かが言っていた気がする。本当の意味での格差が何なのか、美鈴にはよくわからない。よくわからないが、少し前のように女子高生が高級ブランドバッグ欲しさに援助交際という名の売春をするような国では暴動や革命なんか絶対に起きないだろうと思う。

 だから今、暴動が発生したと聞いても俄かには信じられなかったし、仮に事実だとしても避難までするのはやり過ぎではないかと思った。それよりも美鈴にとっては二週間後に迫った定期試験の方が重大な関心事である。進路がかかった高校二年のこの大事な時期に、こんなことに煩わされて成績を落としたくはないし、勉強の合間の貴重な睡眠時間を妨げられたことも我慢ならなかった。とはいえ、幾ら美鈴が異議を申し立てても今更、行政の決定が覆るはずもない。否が応でも従わざるを得ないのだ。妹だけが呑気に、明日の学校は休みになるのかな、と母親に訊ねていた。

 とにかくすぐに着替えて必要最小限の荷物だけを持って集まるように、という父親の指示で美鈴は一旦、自分の部屋に戻った。動きやすい方が良いだろうとパンツスタイルに手早く着替え、押し入れからデイパックを取り出すと持ち出す荷物の吟味を始めた。最小限のものを、と言われて、真っ先に思い浮かぶのはちょっと前なら携帯電話で、今ならスマートフォンだ。パソコンなどには大して興味のない美鈴だが、これだけは何があっても手放せない。友達の中には携帯やスマホがないと生きていけないと公言する子もいるが、大袈裟ではあってもあながち嘘ではないと思う。美鈴の仲間内でスマホを持たない子は一人もいなかった。それで常に連絡を取り合うわけではないが、いざその時に知り合いの輪の中にいないと自分だけが取り残される感じがして不安だし、積極的に加わる姿勢を見せないとそれだけで仲間意識がないものと見なされて糾弾される。

 必要はないと思うが念のため充電器も用意して、他は予備の着替えやタオル、旅行用の歯磨きセットなどを詰め込んでいく。どうせすぐに戻れるだろうから、あまり大仰な荷物にしたくないと美鈴は思った。化粧道具は迷った末にアイメイクとリップだけを持って行くことにした。そうして自分の支度を済ませると、隣の妹の部屋を覗いてみる。そこにはベッドの上に所狭しと並べられた洋服を前にして、まるで初めてのお泊りデートに何を着て行こうと悩む女子大生かOLかのような妹の姿があった。

「加奈! あんた、何やってんのよ!」

 思わずそう怒鳴りつけて、ずかずかと部屋の中に押し入って行く。妹の抗議の声は無視して、とにかく目についた洋服から動きやすそうなものを選んでバッグに詰め込む。他の身の回り品が用意されていることを確認し、妹の手を取り引きずるようにして部屋を後にした。リビングでは既に父親と母親が準備を整えて待っていた。父親は日頃から常備してある防災バッグを背負い、それとは別に大きめのボストンバッグを手にしている。たぶん、母親の分と合わせた着替えや日用品が入っているのだろう。母親は小型のデイパックを両手に抱えていた。中身は財布やキャッシュカードなどの貴重品だから預けた際は目を離さないでと注意を受けた。

 準備はいいか? という父親の言葉に他の三人は頷く。

「避難ってどこにするの?」

 妹の加奈が訊ねた。父親は美鈴達姉妹が通った小学校の名を挙げた。

「とりあえず一旦そこに集まるそうだ。まあ、小学校ならこの辺の災害避難場所にも指定されているし、色々と都合が良いんだろう。そこで様子を見て、もしかしたらさらに別の場所に移るかもしれないと言っていたな」

 小学校までなら凡そ二キロほどの行程になる。普通に歩いても三十分はかからない距離だが、いつもの出かける癖で美鈴はガレージに向かおうとして、父親に呼び止められた。

「そっちじゃない。車は使わない。歩いて行くんだ」

「えっ? そうなの?」

「みんなが一斉に車で移動したらどうなると思う? 途端に渋滞が始まって身動きが取れなくなるぞ」

「でもさっき別の場所に移動するかも知れないって……」

「その時は市がバスを用意するそうだから心配は要らない」

 そうなんだ、と美鈴は納得して家族と共に家の外の道路に出た。高校は自転車通学なので、歩いて学校に行くのなんて久しぶりだ。もっとも日頃、高校のテニス部で鍛えて健脚には自信のある美鈴にとっては何ということのない距離に違いない。小学校よりさらに遠方の中学まで徒歩で通う妹も同様だろう。体力に自信なさげな母親だけが若干不安そうではあるが、疲れたら私が手を引いてあげる、と妹に言われ、今は軽い足取りで前を歩いている。少し離れた場所では近所の住人達が集まっていた。どうやら地区毎にまとまって移動するらしい。その中に見慣れた後ろ姿を発見して、美鈴は思わず駆け寄った。

「弘樹!」

 隣の母親らしき人と話していた長身の若者がその声に振り返る。

「何だ、美鈴か。お前のところも今から避難か?」

 と、わかりきったことを訊いてくる。だが、知り合いを見つけた軽い興奮で、美鈴はそのことに気付かない。美鈴が弘樹と呼んだ若者と並んだことで、自然と他の家族もその周りに集まった。

「何だか妙なことになっちまったな」

 その若い男、杉村弘樹は近くに住む美鈴の幼なじみだ。この辺りは十数年前に山林だった土地を切り拓いて作られた新興住宅地で、所謂バブル期に育った若い夫婦を中心に買われた。そのため、同年代の子供を持つ家庭が多い。その中でも弘樹は近所の悪ガキ達のリーダー的存在で、小中と同じ学校に通い、高校は私立の有名校に進んだ弘樹と、公立の普通科校に進学した美鈴とで別々になってしまったが、今でも顔を合わせれば軽口を叩き合う、そんな気の置けない間柄であることに変わりはなかった。

「集団登校なんて小学生以来だな」

 弘樹の冗談めかした言い草にも普段の美鈴なら呆れるところだが、今はそんな太々しい態度が頼もしく見えた。

「弘樹君。お父さんは?」

 弘樹は一人っ子で、両親と三人暮らしだ。弘樹の父親はこの辺りでは評判の良い歯科医で、経営する医院はいつも多くの患者で賑わっていた。弘樹もその跡を継ぐつもりで、歯学部への進学を希望している。その弘樹の父親の姿がどこにも見えないので疑問に思った美鈴の父親が訊ねたのだ。

「責任者と会って話してくると言ってました。そろそろ戻って来るんじゃないかな」

 その言葉通り五分と経たないうちに弘樹の父親が戻って来て、美鈴達を認めると軽く挨拶を交わした。その後、今聞いてきたという話をみんなに伝えた。

「あと十分ほどしたら出発だそうです。市の職員が先導して、念のため警察官が何人か同行するようです」

 警察官、と聞いて途端に父親の表情が曇る。

「すると、道中は危険を伴うということでしょうか?」

 そう訊ねる声にも幾分緊張が混じっているように美鈴には感じられた。

「私もその点は気になって訊いてみたんですが、あくまで念のための予防措置ということで、心配はないそうです。ただ……」

「ただ?」

「いやいや。どうもあまり詳しいことは彼らにも伝わっていないようなんですよ。何を聞いても要領を得ないと言うか、今一つはっきりしなくて」

「こんな時にもお役所仕事っぷりは健在ということですか……」

 やれやれ、といった調子で父親が溜め息を吐く。

 父親達が話し込んでいる間、美鈴と弘樹は少し離れたところでその様子を見守っていた。そういえば、と弘樹が何かを思い出したように口にした。

「中村達から連絡が来てたぞ。あいつらも今から避難するってさ。俺達とは別のグループみたいだけどな」

 美鈴達とは別区画に住む共通の友人の名を挙げて、弘樹はスマホ画面を美鈴に見せた。それで美鈴も避難の準備に追われて、ここまでスマホの着信を確認していなかったことに気付いた。これだけの騒ぎだ。誰も連絡して来ないことはないだろうとチェックすると、思った通り複数の友人からメッセージが届いていた。どれも不安と不満を訴える内容だが、文面からは深刻さよりもむしろ面白がっている感じが伝わってくる。弘樹を含め真剣に成り行きを心配している者は誰もいなさそうだった。それまで頑なに事態の受け入れを拒否していた美鈴もここに来て漸く覚悟を決める気になった。ジタバタしても始まらないのなら、いっそのことこの状況を愉しんでやれという一種の開き直りの精神である。幸いにも隣には弘樹がいる。避難所に行けば他の知り合いとも会えるだろう。次第に同窓会の気分になりつつあった。弘樹は初めからそのつもりだったようで、先程からしきりに、向こうに着いたらみんなで何をする? と上機嫌で話しかけてくる。

 そうこうするうちに十組ほどの家族が集まったところで、作業着姿の市の職員が先頭に立ち、今から出発します、と言って美鈴達のグループは歩き始めた。集団の前後に一名ずつ制服の警察官が付き添っている。同じ地域に住むというだけで職業も年齢も性別もバラバラな人の群れは住宅街の脇道を抜け、大通りに出て尚も歩き続けた。よく見ると、前方や後方にも似たような集団が幾つかあって皆同じ目的地を目指しているらしかった。ペースはやや遅めの行進といった感じで、荷物がある分、楽勝とはいかないまでも子供や年寄りでも何とか付いて行けている。全員がほぼ等間隔で一定のペースを保ちながら歩いているのを見て、美鈴は不思議な感覚に捉われた。其処彼処で話し声はするので葬列のような陰気さはないが、かといってパレードほど華やかでもない。デモのように雄叫びやシュプレヒコールを挙げるわけでもなく、軍隊のような規則正しさがあるわけでもなかった。以前にニュースで観た聖地に向かう巡礼者の群れのようだと美鈴は思った。いつしか別々だったグループは追いつき追いつかれして、一つの集団と化していた。

 周囲は街灯と、この時間でも途切れることのない車のヘッドライトに照らされて足元がおぼつかなくなることはないが、昼間とは違う景色にやや戸惑いを覚える。美鈴は弘樹と並んで母親らの後ろを歩くうちに、ふと嫌な、それでいて妙に慣れ親しんだ匂いを嗅いだ気がした。それが時間を経た経血の匂い、例えば学校の女子トイレの汚物入れから漂うような匂いだと気付いた時、集団の前方から甲高い女の悲鳴が聞こえて、直後に行進がストップした。誰かが転びでもしたのだろうかと声のした方を注視していると、再び辺りに木霊する叫び声が届いて、それを合図としたかのようにざわめきや混乱があちらこちらで巻き起こり、瞬く間に美鈴達の周囲にも伝播した。

「何事だ……?」

 美鈴の真後ろを歩いていた父親が怪訝そうな声を上げる。次の瞬間、二十メートルほど先で、前方から狂ったように引き返す人の群れと、わけがわからず立ち尽くす人垣の間に将棋倒しが発生した。

「あいつら、何で戻って来てんだよ」

 弘樹の言葉を遮るかのように、逃げろという怒号や絶叫が周囲に飛び交う。誰かが誰かを突き飛ばし、あるいは背中を押されて、運悪く倒れた者は容赦なく踏みつけられていく。幾重にも折り重なるように圧し掛かられ、ひと度下敷きとなれば起き上がるのはほぼ不可能だった。気が付くと、その騒乱の渦に美鈴達も呑み込まれていた。避けようにも押し寄せる人波に周りを取り囲まれて、身動きもままならなかったのだ。だが、歩道の中央付近にいた美鈴達はまだ幸運な方だったと言える。不幸にも車道側を歩いていた何人かは群集に押し出される形で植え込みから道路に投げ出されて、その予期せぬ出来事にドライバー達は避ける間もなく次々と車で跳ね飛ばしていく。その光景を美鈴は茫然として眺めていた。悲鳴も上げられなかった。さらに後続のトラックがアスファルトに転がった人間を水風船のように轢き潰し、何本もの赤いラインを道路上に描いて急停止する。そこに別の車が突っ込み、多重衝突事故を招いた。一部の車はそれを避けようと歩道に乗り上げ、新たな人々を巻き込む。一瞬で辺りは修羅場と化した。

「こんなの嘘だろ……」

 唖然とした面持ちで弘樹が呟く。その脇を必死な形相をした警察官が人ゴミを掻き分けて前に進もうと奮闘していた。たぶん騒ぎの元に駆けつけようというのだろう。もう一人の警察官の姿はどこにも見当たらない。やがて、前方に向かおうとしていた警察官も人波に呑まれて見えなくなった。

 その間も至るところから叫び声が上がっていた。心なしか悲鳴の中心が徐々に近付いて来ている気がする。

「お前達、早く逃げろ!」

 背後から父親の声が届くが、振り向いて姿を確認している余裕はない。その時、美鈴は誰かに手を掴まれた。

「聞いたか? 走るぞ」

 父親の言葉で我に返ったらしい弘樹が、美鈴の手を引いて後方に駆け出そうとしていた。そうだ、ぼんやりしている場合ではない、と美鈴も気を取り直した。いずれにしてもこのまま立ち止まっているのは危険である。もういつ何時群衆が暴徒と化してもおかしくはない。弘樹に引きずられるようにして来た道を戻りながら美鈴は周りに家族の姿がないか、探した。しかし、とても見つけられるような状況ではなかった。弘樹と離れ離れにならないようにするのが精一杯で、見渡す限りの人の群れの中で自分が今、集団のどの位置にいて、あとどれくらい後退すれば抜け出せるのかも定かではなかった。ひたすら人垣を掻き分けて、少しでも後方に下がることに意識を集中する。時折足許からアスファルトとは明らかに違う柔らかな弾力が伝わってきて、そのたびに美鈴は自分が何を踏んだのかと想像して戦慄を覚えたが、後進を止めるわけにはいかなかった。それでもまったく途切れない人波によって、徐々に弘樹とも引き離されていく。辛うじて手だけは繋いでいたものの、濁流のように二人の間に人が雪崩れ込むと、それも維持できなくなった。手を離した途端、弘樹の姿を見失う。目の前にいるのは背の低い痩せた老人で、誰かの名前を懸命に呼んでいるが、周囲の喧騒で殆ど聞き取れない。その横ではハーフコートを着た中年女性が右目を押さえて泣き叫んでいた。誰かに殴られたらしい。息ができないのか人ゴミから少しでも顔を覗かせようと必死に足を伸ばす男の子もいた。それらの人々と共に美鈴は四、五十メートルほど押し流されたところで、漸く視界が開ける場所に出た。狭い歩道から突然、交差点の真ん中に投げ出されたのだ。周りを取り囲んでいた人垣が一斉に崩れる。それぞれが来た方向とは別の三方へ散っていく中、美鈴も交差する通りの一つに駆け込もうと前を向いた時だ。視線の先に一人の若い女の姿を捉えた。もっとも若いと言っても美鈴ほどではない。それでも二十代前半とおぼしき女は、茶色く染めた髪を振り乱し、爪にしたピンクのマニキュアは半分以上が剥げ落ちて、逃げている最中に靴を失くしたのか足許は裸足だった。だが、確かに無残な出で立ちではあったが、奇妙だったのはそこではない。皮膚はすぐ下の血管が浮き出るほど青白く透き通り、顔にはまったく精気といったものが感じられずに、視点は常に宙を彷徨い続け、何よりも首筋から鎖骨にかけて大きく抉られたような傷口があった。衣服が真っ赤に染まっているのはそのせいだろう。既に出血は治まっているようだが、素人目にも重傷とわかるその傷にも女は動じる様子もなく、絶えず口許をクチュクチュと動かして、時折唇の端からは人間の指のようなものが見え隠れする。口全体で咀嚼するというより、頬や顎の筋肉だけが勝手に動いているかのようだ。その女と目が合った瞬間、不意にそれまで定まらなかった視線が突然美鈴を凝視し始め、いきなりこちらに迫って来た。驚いているうちに女の目と口は限界まで開かれた。あまりに大きく開けたため、口の端が切れて血が赤い涎のように垂れている。それを見ても美鈴はその場で凍り付いたように動けなかった。息がかかりそうなほど間近に女が迫ったその時、危ない、という叫び声と共に美鈴は誰かから背中を思い切り突き飛ばされた。前のめりになって地面に転がる。擦り剥いた膝の痛みも忘れ、慌てて顔を上げた美鈴が見たものは、今し方自分が立っていた場所で女に馬乗りになられている父親の姿だった。柔道有段者で優に七十キロはあろうかという父親を一体どこにそんな力があるのかと思える細身な身体で女は地面に押さえつけている。何とか女の口を喉元から遠ざけようとしている父親の腕には、たった今負ったばかりと思われる真新しい傷口が開いていて、拭き出る鮮血を頬に滴らせていた。

(噛まれたんだ)

 悲鳴が上がりかけるのを美鈴は辛うじて呑み込んだ。自分を庇って負った怪我であることは一目瞭然だった。言葉にならない絶叫が喉の奥からこみ上げてくる。私のせいだ、私を護ろうとして父親は負傷したのだ、その思いが一瞬、美鈴に恐怖を忘れさせた。

(何とかして助けないと)

 そう決意して立ち上がった刹那、背後から聞き覚えのある声がした。

「お姉ちゃん!」

 振り返ると、顔面を蒼白にして立ち竦む妹の姿があった。すぐ傍らでは父親と同じようにして襲われている人がいる。よく見ると交差点のあちらこちらで同様の光景が繰り広げられていた。幸いにもまだ妹に危害を加えようとする者はいないようだが、急いでこの場を離れなければ自分達も巻き込まれる恐れがあることは明白だった。しかし、それでは父親はどうなる──。

「加奈を連れて逃げろ。早く」

 父の切実な声が美鈴の耳許に届く。こんな時いつもなら適切なアドバイスをくれる母親の姿はどこにもない。自分で判断して決めるしかなかった。

 意を決して美鈴は父親の傍を離れると、妹の下へ駆け寄った。その手をしっかりと握り締めて、父親が倒れているのとは正反対の方向に走り始める。後ろを見てしまえば立ち止まってしまうことはわかっていた。だから一度も振り向くことなく、全速で夜の闇の中へ駆け込んで行った。

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