第一章⑧

 確かにその通りだと、爽良は思う。

 霊なんて非現実的なものを父がどれだけ毛嫌いしているか、今の爽良は嫌という程知っている。

 けれど、幼い頃は、きちんと伝えればいつかわかってもらえるはずだと純粋に信じていた。

 もし、あの頃に礼央から明かされていたなら、おそらく爽良は、礼央が言う通り父に話していたし、礼央も庄之助と同じく爽良に悪い影響を与える人間として、交流を許されなかったかもしれない。

「そこまで考えて……」

「考えてっていうか、俺も子供だったから感覚で動いてただけだよ。おじさんは神経質だし、変なことは言わないに限るって、多分無意識に察してたんだと思う」

「視えて、怖くなかったの……?」

「俺には実害がないし、いてもいなくても同じだから」

 それは、礼央らしい言葉だった。

 唐突に、小学生の頃の記憶が爽良の頭をよぎる。

 それは、礼央の部屋で二人で遊んでいたときのこと。つけっぱなしにしていたテレビから、ふと、新種の虫が発見されたというニュースが流れた瞬間、礼央は「いまだにこうして新種が見つかるんだから、人間がまだ見たことがないものなんて、多分いくらでもいるよね」と言った。

 口数の少ない礼央が、なんでもないニュースの感想をわざわざ口に出して言うなんて珍しく、興味があるのか尋ねると、礼央は「いちいち構ってられないなと思っただけ」と答えた。

 その会話を、爽良は印象的に覚えている。

 今思えば、あのときの礼央の言葉は、爽良への励ましだったのかもしれない。礼央は感覚で動いていただけだと言うけれど、すべて気付かれていたことを知った今、礼央からもらった気遣いが、記憶の中にいくつも思い当たる。

「いいなあ……。いてもいなくても同じなんて思えたら、どんなに……」

 思わずこぼした愚痴に、胸が締め付けられた。口にした内容にではなく、生まれて初めて礼央に隠すことなく本音を話している事実が、感慨深かった。

 しかし、礼央は少し険しい表情を浮かべる。

「……さっき言ったけど、それはあくまで実害がない場合の話」

「え……?」

「なにがあったの。さっき部屋にいたのなに。……あんな危険な目に遭ってるなら、悠長な事言ってられない」

 礼央は、真剣だった。

 長年一緒にいたのに、爽良はこんな礼央を一度も見たことがなかった。

「……まだ隠すの?」

 思わず黙ってしまった爽良に、礼央は不満げに目を細める。

 爽良は慌てて首を横に振った。

「そうじゃ、なくて……。……今日はいろんなことがありすぎて、なにから説明したらいいか……」

「思いついたままでいいから、教えて」

 爽良はうなずき、礼央に促されるまま部屋へ戻ると、ひとまず深呼吸をして心を落ち着かせる。そして。

「今日、鳳銘館を訪ねたんだけど──」

 鳳銘館で見たものや御堂との出会い、庄之助も視える人間だったという事実、残された手紙の内容、そして、爽良に付きまとっているのは火事で亡くなった少女の霊であること、自分のことを庄之助だと思い込んでいることまで、すべてを礼央に話すことにした。

 礼央はとくにリアクションすることもなく、黙って聞いていた。きっと困惑しているのだろうと、爽良は話しながら徐々に不安を覚える。当の本人である爽良ですら、これをすべて信じろなんて無茶だと自覚していたからだ。

 しかし、すべて聞き終わった後、礼央が口にしたのは予想だにしない言葉だった。

「それで、会話は無理そうだったの?」

「え……?」

「女の子に、自分は庄之助さんじゃないって伝えろって言われたんでしょ」

 それはまるでたわいのない世間話をしているかのような、いたっていつも通りの落ち着いた口調だった。

 爽良はあつに取られ、礼央を見上げる。

「パニック状態だったから、無理だった……、っていうか……、信じるの……? こんなこうとうけいな話……」

「噓なの?」

「噓じゃ、ないけど……」

「なら信じる。庄之助さんからの手紙、見ていい?」

「…………」

 あっさり頷かれ、爽良は戸惑いながら庄之助からの手紙を渡した。

 礼央は黙ってそれに目を通すと、腕を組んで考え込む。

「もし生きづらいなら、か」

「え?」

「……爽良は、生き辛いの」

 まっすぐに見つめられ、爽良は思わず息をんだ。

 長いまつが影を落とし、いつもはあまり感情を映さない瞳が憂いを帯びて見える。

 こんなにきれいな人だっただろうか、と。そんな場合ではないと知りながら、爽良は思わず見とれてしまった。

「爽良?」

「え、あ……、ごめん。よく、わからない……」

「……あのさ」

「うん」

「今度、俺も一緒に行っていい?」

 どこに、なんて聞くまでもない。爽良は驚き、目を見開く。

「一緒に……って、どうして……」

「どうしてって」

 礼央は、愚問だと言わんばかりに首をかしげた。

 今日の礼央は、やはりおかしい。爽良は戸惑い、首を横に振る。

「私のことにこれ以上巻き込めないから……!」

「もう遅いよ。ここでシャットアウトされたら、逆に気になる」

「でも、ちゃんと報告するし……」

「爽良は多分しない。……それに、単純に興味がある。ここなら生き辛くないって自信満々に勧めてくる場所が、どんなものか」

「……礼央?」

 礼央の口調にいらちがにじんでいるような気がして、爽良は思わず礼央のそでをぎゅっとつかんだ。

 けれど、いだ表情からは、やはり感情が読み取れない。

 ただ、鳳銘館へ行くと言う意思はどうやら揺るがないらしく、爽良は渋々ながらも頷くことしかできなかった。


 約束の日、礼央との待ち合わせ前に、爽良は十五センチ髪を切った。

 自分で切ってみたけれど上手うまくいかず、美容院に駆け込んだ結果、胸の下まであった髪は肩にかかるくらいの長さになった。

 切った直後はしばらくその長さにも軽さにも慣れず、待ち合わせ場所で窓ガラスに映る自分の姿を何度も確認した。すると、時間通りに駅へやってきた礼央が、近寄るやいなや爽良の髪を一筋すくう。

「結構切ったね」

「どうせ、傷んでたから」

 昔から、礼央は人と話すときの距離感が少し近い。目が悪いくせにメガネやコンタクトがあまり好きではないらしく、裸眼のときはなお近い。

 お陰で、それを好意だと勘違いした女子たちを、爽良は数知れず知っている。高校生の頃は彼女らしき女性を何度か見かけたけれど、どれも長く続いた気配はなかった。

 それがなぜなのか、爽良にはだいたい想像できる。礼央は他人にとんちやくで無関心故に、来るもの拒まず去る者追わずの典型なのだろうと。

「じゃあ行こう。代官山でしょ」

「うん。待って、場所を携帯に送るから」

「もう入ってるから平気」

 礼央は携帯を掲げて見せると、早速駅の中へ入っていく。爽良はその後を追いながら、じりじりと込み上げる緊張を必死に抑えていた。

 ちなみに、御堂に二人でもう一度訪ねたい旨を連絡すると、あっさりと「了解」と返信がきた。

 ただ、「なにかあったらすぐ連絡を」という補足には、心がざわついた。

 御堂が言う「なにか」は、おそらく洒落しやれにならない。

 爽良は考え過ぎないようにと自分に言い聞かせ、やがて代官山駅に降りると、前回通った道へと向かった。──しかし。

「爽良、こっち」

「え?」

 礼央はそんな爽良を引き止め、まったく違う方向へ向かう。

 そして、なにごとかと驚く爽良になんの説明もくれないまま、人通りの多い道を選んで進んだ。

 不思議に思って礼央の手の携帯をのぞき込むと、地図に表示されていた経路は、大通りを経由する、所要時間がもっとも長いものだった。

 爽良は立ち止まり、礼央の腕を引く。

「かなり遠回りだけど……」

「だけど人が多い方がいいから。爽良が行きかけた道、なんか嫌な感じがした」

 嫌な感じがどういう意味なのか、尋ねる必要はなかった。含んだ言い方をしていても、今の爽良たちにとっては共通言語だ。

「私は、なにも感じなかった……」

「だったらこの道覚えて、今度からはこっち通って」

「……わかった」

 礼央はあまり視えないと話していたけれど、感覚は爽良よりもずっと鋭いような気がした。

 今思えば、少女が現れたあの日、礼央はわざわざベランダを越えて助けに来てくれた。

 あのときは混乱していて考える余裕なんてなかったけれど、隣の部屋から勘付いたとなると相当さとい。

 人のことを言える立場ではないが、よくここまで隠し通せたものだと爽良はしみじみ思った。

 やがて、礼央はしばらく大通りを歩いた後、ふいに立ち止まって一本の路地に足を踏み入れる。

「細い道にはあまり入りたくないけど、ここしかないから急ごう」

「うん……」

 礼央は爽良の手首を摑むと、足速に進んだ。

 いつも冷静な人間が焦る様子は、余計に不安をあおる。

「なにか、感じる……?」

「…………」

 黙っているのが不安で尋ねたものの、返事はなかった。しかし、手首を引く力はどんどん強まっていく。

「礼央、ごめん……、少し痛い……」

「…………」

「礼央……?」

 これは、──礼央じゃない、と。

 唐突にそう思った理由は、返事がないからではなかった。

 いつも通りの後ろ姿に、いつも通りのシャンプーの香りに、骨張った手に少し低めの体温と、──なにもかもが礼央のままなのに、なにかが確実に違っていた。

 鼓動が徐々に速くなり、爽良は不安に駆られて立ち止まる。

 すると、礼央の手がするりとほどけた。

「礼央は……、どこ……」

 おかしな質問だと、どこか冷静に考えている自分がいた。

 けれど、礼央の体になにかが起こっていると思うと、止められなかった。

 礼央は背を向けたまましばらく立ち尽くし、やがて、まるで機械のようにカクンと首を傾ける。──そして。

「……しょうの、すけの、もの、は」

 静まり返った街並みに響く、低い声。

 やはりこれは礼央じゃないと、爽良は確信を持った。

「庄之助……って……」

「庄、の、すけの、物は……、ぜんぶ、……ぜんぶ」

 強調するような途切れ途切れの口調が、恐怖をより煽る。やがて、礼央はゆっくりと振り返った。──しかし。

「っ……」

 その顔を見て、爽良は思わず息をむ。

 礼央の顔は半分が真っ黒に焼けただれ、うつろな目からは黒い涙が流れていた。

「れ……」

 あまりの衝撃に、爽良の思考が止まる。

 礼央はそんな爽良にぎこちない動作で手を伸ばし、頰に触れようとした、──瞬間。

「……全部、壊す」

 恨みがましい声が響いたのと、爽良の意識が途切れたのは、同時だった。

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