第一章⑦

 庄之助の意図を理解した今、心の自由という言葉には強い魅力を感じているものの、手放しで飛び込める程単純な話ではなかった。

 もし相続したいなんて言おうものなら、父がなんて言いだすかわからない。

 そもそも爽良自身の生活も大きく変えなければならないし、そうなると、まず頭を過るのは、これまでずっと爽良の心のり所だった礼央の存在。

 なにがあっても態度を変えない礼央が、どんなときも傍にいてくれたからこそ、爽良は誰にも理解されない苦しい日々を乗り越えることができた。

 鳳銘館には御堂のような理解者がいて、なにも隠さず生活できることは夢のようだけれど、それは礼央と離れる喪失感にかなうものなのか、よくわからない。

 なまじ、長い年月周囲をしながら生きてきたせいで、たとえ苦しくとも今の生活が爽良にとっては日常であり、やり過ごすすべを知ってしまっているぶん、簡単に結論を出すことはできなかった。

 ただ、たとえ爽良が現状維持を選んだとしても、逆に礼央が実家を出てしまえば二人の関係はおそらく終わる。

 礼央がフリーランスになったのはそんなに前のことではないが、すでに仕事は安定しているようだし、いつ実家を出てもおかしくない。

 だとすれば、現状維持といっても、結局はただの先延ばしだ。

 だんだん考えることに疲れ、爽良は深い溜め息をついた。──そのとき。

「噓……」

 強烈な違和感を覚えたのは、吐いた息が真っ白に曇った瞬間。

 階段を五階まで駆け上がり、すっかり息が上がっていたせいで気付かなかったけれど、部屋の中の空気は、常識では考えられないくらいにキンと冷え切っていた。

 心臓が、みるみる鼓動を速める。まるで、これから起こることを予感しているかのように。

 途端に脳裏を過ったのは、水色のワンピースを着た少女のこと。

 家まで付いてきてしまったのだろうかと、爽良はとつにベランダの方へ視線を向ける。──すると。

 ガラス戸は閉まっているはずなのに、突如、カーテンがゆらりと不自然に揺れた。

 そして、その隙間から見えたのは、ベランダに立ち、爽良をまっすぐににらみつける少女の姿。

「……っ」

 声にならない悲鳴が零れた。

 逃げなければと思うのに、体がこわって動けない。

 そして、ガラス戸が突如、音も立てずにスッと開いた。

 同時に、長い髪の毛がじりじりと部屋の中に侵入し、爽良の両手足に絡み付く。

「……、め、て……」

 もう、まともに声を出すこともできなかった。

 ここまで追い詰められたことは、過去に一度もない。少女の霊は、これまでに遭遇してきた霊と比べて執着も恐ろしさもけたちがいだった。

 やがて、コツンと靴音が響き、ただれた細い脚が爽良の部屋へ片足を踏み入れる。

 震えながら見上げると、焼けてボロボロのワンピースを着た少女が、がんしか残っていない目を爽良に向けた。

 もはや、爽良の頭の中は真っ白だった。

 少女はガクガクと膝を震わせながら、少しずつ爽良に近寄ってくる。

 体は相変わらず思うように動かないし、必死にあと退ずさりしたものの、背中はすぐに壁に当たった。

 少女は爽良の正面まで来ると、突如、ガクンと膝を折って床に崩れる。

 そして、枯れ枝のように黒く変色した腕を差し出し、爽良の目の前で手のひらをゆっくりと開いた。

 見れば、少女の手のひらの上では、小さな炎がともっていた。

 ふいに昼間のボヤが頭をよぎり、嫌な予感が頭を支配する。少女は、ここに火を放つ気なのだと。

「だ……、れ、か……」

 叫んだつもりが、のどつぶれて声にならない。

 どうすることもできない爽良の前で、少女は手の中の炎を徐々に大きくしながら、爽良との距離を少しずつ詰める。震える空気から、少女の煮えたぎるような怒りが伝わってきた。

 そして、少女は焼け爛れた唇を薄く開く。

『裏、切り、者』

 途切れ途切れの訴えが、爽良の恐怖をさらにあおった。

 数えきれない程恐ろしい目に遭ってきた爽良も、ここまで精神を追い詰められたことはない。

 ただ、──そんな極限の状態だというのに、そのときの爽良の心の中には、恐怖に潜むように、別の感情が生まれていた。

 この少女は、こんなに幼くして焼死してしまったのだと。──そのいたましく悲惨な死を思うと、あまりにも胸が苦しい。

 昼間の小さなボヤですら、爽良はパニック寸前だった。だからこそ、幼い少女がどれだけの恐怖と苦しみを味わったのか、想像しただけで辛い。

 もう亡くなってしまった命を救うことはできないけれど、もしかなうのなら、苦しみから解放してあげたいと、爽良は思いはじめていた。

 ──庄之助さんも、こんな気持ちで……。

 御堂は、庄之助がこの少女を可愛がっていたと言った。

 もう生きていない少女を可愛がるとはいったいどういうことなのか、爽良にはよくわからない。けれど、寄り添おうとした庄之助の気持ちが、今は理解できる。

 ただ、爽良には、少女を救うことはもちろん、寄り添う術も、気持ちを伝える方法すらもわからなかった。

 そうこうしている間にも、少女の手の中の炎はさらに勢いを増していく。

 熱に煽られて顔を背けると、火の粉が散り、爽良の髪の毛がチリッと音を立てた。

 焦りが込み上げるけれど、声も出ず、体も動かず、もはやどうすることもできない。

 髪が焦げる嫌な臭いが漂う中、やがて、自分はこのまま終わってしまうのだろうかと、──そういう運命だったのかもしれないと、徐々に心の中をあきらめが支配していった。

 ──しかし。

 突如、ガタンと大きな音が鳴り、勢いよくガラス戸が開く。

 視線を向けた爽良は、目を見開いた。

「れ……」

 そこに立っていたのは、礼央。

 礼央は部屋の様子を見て顔をしかめ、迷いなく部屋に足を踏み入れると、爽良の手首をつかんだ。

 その瞬間、硬直していた体はあっさりと動き、爽良は礼央に手を引かれるまま立ち上がった。

「なん……」

いつたんベランダに」

「れ、礼央……」

「大丈夫」

 わけがわからないのに、礼央の「大丈夫」が魔法のように気持ちを落ち着かせる。

 裸足はだしのままベランダに出ると、礼央は隣のリビングの様子をうかがいながら、唇の前で人差し指を立てた。

「ベランダを越えてきたから、おじさんたちに見つかるとまずい」

「で、でも、今……!」

 部屋が危険なのだと訴えようとしたものの、少女の霊が火をつけようとしているなんて言えるはずがなく、爽良は口をつぐむ。──しかし。

「大丈夫。……見て、もうなにもいない」

「……え……?」

 礼央が口にしたのは、まさかの言葉だった。

 確かに、さっきまでのまがまがしい気配はいつの間にか消えている。ただ、今の爽良にとって、重要なのはそこではなかった。

「なにも……、って」

「なにも」

「…………」

「いないでしょ」

「……礼央」

 爽良の頭に浮かんでいたのは、ひとつの仮説。

「……礼央には、視えるの……?」

 絶対にあり得ないと思っていながら、この状況では、否定する方がよほど難しかった。

 少し冷静になれば、礼央が突然駆け付けた理由も、ベランダに連れ出したことも、視えないならばつじつまが合わない。

 すると、礼央は爽良の髪を一筋手に取り、焦げた毛先に触れた。

「髪、結構切らなきゃ駄目かもね」

「そんなの、どうでも……」

「どうでもよくない」

「そうじゃ、なくて……!」

 この期に及んで、いたっていつも通りの礼央がもどかしい。

 礼央のシャツを摑んで顔をのぞき込むと、礼央はようやく爽良と目を合わせ、観念したようにゆっくりとまばたきをした。

「……多分、爽良程じゃないよ。かなり、ぼんやり」

「…………」

 肯定された瞬間、ガクンとひざから力が抜ける。

 礼央は爽良を支え、珍しく動揺した様子でひとみを揺らした。

「寒いから、部屋に戻ろう」

「待っ……」

「うん?」

「……私が視えてることにも、気付いてたってこと、だよね……?」

「うん」

「どうして言ってくれなかったの……、もし言ってくれてたら……」

「……もし、言ってたら?」

 ふいに返された質問の意図が、爽良にはよくわからなかった。──けれど。

「……心強かったと思うし、寂しさだって──」

 そう言いかけて、口を噤む。

 そのときの爽良の頭には、礼央と過ごした過去の記憶が巡っていた。

 確かに礼央は話してくれなかったけれど、それでも礼央の存在が心強かったことに違いはないし、礼央が傍にいれば寂しくなんてなかった。なのに、責めるような言い方をするのはおかしいと思ったからだ。

 すると、礼央は小さくめ息をつく。

「なに考えてるかだいたいわかるけど、俺が言わなかったのはそういうことじゃないから」

「え……?」

「なにも考えずに隠してたわけじゃないよ。爽良は素直だから、もし俺が話したら、きっとそれをおじさんにも話すでしょ。自分以外にも視える人間がいることを伝えたら、理解してもらえるんじゃないかって思って」

「それは……」

「でも俺、絶対にわかってもらえないと思ってた。むしろ、言ってしまえば、もう会うなって言われる気がした。……だから、黙ってた」

「礼央……」

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