第一章⑥

「……ところでさ」

「え……? あ、はい……!」

 突然話しかけられ、爽良はハッと我に返る。

 すると、御堂は少し真剣な表情を浮かべた。

「君が今日会った女の子のことなんだけど……、君が狙われる理由は、君を庄之助さんと勘違いしてるからだと思うんだよ」

「はい……?」

「似てるからね、かなり。もちろん見た目じゃなくて、気配が」

「気配、ですか……」

「同じ血筋だから似るのは普通なんだけど、それにしても異常に似てる。だから、君を庄之助さんだと思い込んで、急にいなくなったことへの怒りをぶつけているんじゃないかと」

 それは、奇想天外な話だった。

 これまでに数々の霊を視てきたけれど、霊たちの感情や抱える背景のことなんて、考えたこともない。

 ただ、強烈に覚えているのは、少女が口にした「裏切り者」というひと言。庄之助と勘違いして口にした言葉だとすれば、御堂の話とつじつまが合う。

「そういえば……、少し前に、同じような気配に追われたことがあります」

「噓、あの子君の家まで行ったの?……庄之助さんの気配が残る遺言状にひっついてたのかもな……。で、そっくりな君を見つけたってところか」

「あの……、大丈夫なんでしょうか……」

「大丈夫……ではない」

「え……?」

「向こうからすればようやく目的の相手を見つけたわけだし、付きまとわれるだろうなぁ。しかも、経験上、行動はどんどんエスカレートする可能性が高い」

 最悪なことをあっさり言い渡され、爽良はがくぜんとした。今日以上に恐ろしい目に遭うなんて考えたくもないし、万が一にも自宅で出くわしてしまえば、両親の前で動揺せずにいられる自信がない。

「そんな……」

 あまりのショックに、爽良は思わず立ち止まった。

 すると、御堂は少し先で足を止め、ゆっくりと振り返る。そして。

「……ちゃんと伝えればいいだけなんだけどね。自分は庄之助さんじゃないんだってことを」

 それは、冗談のような提案だった。普段ならふざけないでと文句を言うところだが、御堂の表情は口調とは裏腹に真剣で、爽良は黙って続きを待つ。

「これまでの君は考えもしなかったんだろうけど、霊だって元は普通に生きてた人間なんだから、言葉はちゃんと伝わる。……っていうのが、庄之助さんの口癖」

「伝わるって言われても……」

「言えばいいんだよ。納得させられたら、彼女の怒りもきっと鎮まるから」

「霊を説得しろってことですか……?」

「……まあ、俺はそんな危険なことせずにさっさとはらいたい派だけど。でも君ならできるんじゃない? 庄之助さんの孫だし」

「そんな……」

 御堂はそう言うが、庄之助の孫だからという根拠は、爽良にとってはあまり説得力がなかった。

 とはいえ、御堂に文句を言うのはさすがに筋違いだと、爽良はどこにもぶつけようのない不安と絶望感を心の中に押し込めたまま、ふたたび駅へ向かって歩きはじめる。

 代官山駅に着くと、今後のためにと御堂と連絡先を交換して別れ、一人になった爽良は、帰りの電車に揺られながらそっと溜め息をついた。

 心は相変わらずざわざわと落ち着かない。

 いろんなことを知りすぎてしまったせいで、心の中に、もうこれまで通りの日常は送れないのではないかという漠然とした不安が広がっていた。

 ただ、鳳銘館を訪ねたことが間違った選択だったとは、不思議と思えなかった。

 やがて世田谷駅に着くと、爽良は自宅へ続く坂道を足早に歩く。父より遅く家に帰れば、求職中の身でどこへ行っていたのだと、小言が飛んでくるのが目に見えているからだ。

 スーツで出掛けていればしも利いたのにと、爽良はそこまで頭が回らなかった今朝の自分を悔いた。

 ふと、いっそ礼央の家で就職の相談に乗ってもらっていたことにすればめないのではないかと思いつく。礼央の家は父子家庭で、会社を経営する父親は忙しくてほとんど家にいないし、礼央さえ黙っていればバレることはない。

 ただ、二十三歳にもなっておさなじみの名を借りなければならない自分のふがいなさには、さすがに嫌気がさした。

 足取りはいつも以上に重く、見上げれば、坂の上にそびえ立つ無機質なマンションが見える。

「鳳銘館、素敵だったな……」

 ふいにこぼれるひとり言。

 建築やインテリアの知識をまったく持たない爽良ですら、鳳銘館には特別な魅力を感じたし、なにより包み込まれるような優しい雰囲気があった。

 庄之助のことに相続にと、複雑なことをすべて抜きにすれば、シンプルに、住んでみたいとすら思う。

 あの美しい玄関ホールで「ただいま」と口にする生活はどんな感じだろう。

 ステンドグラスを通過する朝日を浴びる目覚めは、どんなに幻想的だろう。

 少しずつ膨らんでいく妄想が、心を小さく震わせていた。──しかし、そのとき。

 突如、背後に覚えたのは、それらを一気にぬぐい去る程のまがまがしい気配。

 たちまち周囲の空気が張り詰め、全身の肌があわつ。視界はグレーがかり、街灯はどんよりと曇って見えた。

 後ろに、がいる。

 爽良は、はっきりと気配を感じていた。

 伝わってくるのは、勘違いで済ませるにはあまりにも強すぎる存在感。

 今立ち止まったらまずいと必死に歩き続けたものの、鼓動がどんどん速くなるにつれ、脚が震えて思うように前に進めない。

 これまでなら、たとえ異様な気配を覚えたとしても、その存在に気付かぬふりをしていればいずれは消えてくれた。なのに、今日に関してはむしろ逆で、逃げれば逃げる程背中に感じる圧がどんどん強くなっていく。

 あまり経験のない感覚に、心の中にはみるみる焦りと不安が広がっていた。

 やがて恐怖に耐えられなくなり、もう無理やりくしかないと、爽良は坂道を駆け上がる。──けれど。

 突如、足首になにかが絡まる感触を覚え、爽良は勢いよく倒れ込んだ。

 体のいたるところに激しい痛みが走るが、そんなことに構っていられず、慌てて体を起こして足首を確認し、──思わず、息をむ。

 絡まっていたのは、街灯に照らされてつやめく黒い束。

「これ……、髪の毛……?」

 そう認識した瞬間、背中にゾワッと悪寒が走った。

 振り払おうと足を引き寄せると、ブチブチと髪の毛が切れる不気味な感触が伝わってくる。

 爽良はパニック寸前で、絡まる髪を無我夢中で引きちぎってなんとか立ち上がった。──そのとき。

 ふいに覚えた、刺さるような視線。

 おそるおそる周囲を見渡すと、十メートル程後ろの脇道の角に立つ、ゆらりと動く人影に気付く。

 それは、ブロック塀に体を半分隠したまま、爽良をまっすぐに見ていた。

 同時に、辺りに突如漂いはじめる、なにかが焦げるような嫌な臭い。それをいだ瞬間、代官山で遭遇した水色のワンピースを着た少女のことが頭をよぎった。

 爽良を狙っているのは、あのときの少女で間違いない。いたましく焼けただれた顔を思い出すと、全身に震えが走る。

 付き纏われるという御堂の予告が当たってしまったことに、爽良は絶望していた。

 しかし、同時に思い出したのは、「言葉はちゃんと伝わる」という助言。きちんと話して納得させれば、怒りは鎮まると御堂は言った。──しかし。

「……そんなこと、できるはずない……」

 恐怖で追い詰められた極限の状況の中、とてもじゃないが、会話を試してみようと思える余裕なんてあるはずがなかった。

 ただでさえ、少女が爽良に向ける視線からは強い怒りが伝わってくる。会話のかなう相手とは、とても思えない。

 だとすれば、今の爽良に選択肢は一つしかなかった。

 爽良は震える足をなんとか動かし、マンションへ向かって必死に走った。

 幼い頃から、霊と目が合い追われたときには、ひたすら走って逃げる以外に方法はなかった。

 そうやって必死に逃げて拒否し続けていれば、ほとんどの霊はいずれ爽良から興味をなくし、解放してくれた。

 今回はいつもと違うとわかっていながら、それ以外の方法を知らない爽良は、夢中で坂を駆け上がる。

 やがて、ようやくマンションのエントランスに辿たどり着くと、爽良はオートロックの扉の前でいつたん立ち止まり、おそるおそる後ろを確認した。

 少女の影はどこにもないが、漂う空気にはまだ違和感が残っている。

 爽良はバッグからかぎを取り出して扉を開け、エレベーターのボタンを連打した。けれど、狭い密室は危険な気がして、すぐに思い直し非常階段の扉を開ける。

 爽良の家は、五階。まだ違和感の残る外の空気に気付かぬフリをしながら、一気に階段を上り、ようやく家の前に着くと、ひとまずほっと息をつく。

 そして、息切れしながら勢いよく戸を開けた瞬間、廊下に立つ父と目が合った。

「……爽良。……そんなに慌ててどうした」

 その目は、明らかに爽良の様子をいぶかしんでいた。

 たとえば霊が視えたとき、必死に隠そうと挙動不審になる爽良に、父は必ずこんな目を向けた。

 その表情を見た瞬間、まるで条件反射のように心がスッとぎ、爽良は首を横に振る。

「なんでも、ない……。む、虫が、いたから……」

「……くだらない」

「部屋に、戻るね」

 逃げるように部屋に入ると、爽良はまずガラス戸の鍵を確認し、隙間がないよう注意深くカーテンを閉め、ようやくその場にへたり込んだ。

 静かになると、リビングからかすかに両親の話し声が聞こえてくる。伝わってくる声のトーンは、やや険しい。おそらく自分のことを話しているのだろうと、爽良は重いめ息をついた。

 帰る前に懸念したように、爽良が真面目に就活しているのかどうか母に問い詰めているのかもしれないし、さっきの爽良の様子を不審に思い、また庄之助への文句を言っているのかもしれない。

 前者ならまだマシだと思いながら、爽良はひざを抱えて顔を伏せる。

 そのままゆっくりと呼吸を整えていると、ふいに、これまでにあまり経験のない感情がじわじわと込み上げてきた。

 それは、こんなとき、怖いと素直に言える相手がいたならどれだけ気が楽だっただろうという、無理だと決めつけて望んだことすらなかった思い。

 急にそんなことを考えたきっかけは、言うまでもなく、今日の出会いにあった。

 ──『大丈夫、全部信じるから。君に視えるものは全部、俺にも視える』

 御堂がさも当たり前のように言った言葉が、今も爽良の心に印象的に残っている。

 あの瞬間、爽良は、自分が受け入れられる世界が存在するという可能性を知ってしまった。

 相続などの複雑な問題は置いておいても、あの場所にいればこういう苦しみからは解放されるのかもしれないと、心が勝手に求めはじめている。

「庄之助さん……、心が自由になるってそういうこと……?」

 爽良はバッグの中から庄之助の手紙を取り出し、もう一度読み返した。

 すると、最初はまったく理解できなかった庄之助の思いが、力強い筆文字からじわじわと伝わってくる。

 庄之助が、父に絶縁されて連絡する方法を断たれてからもなお、ずっと爽良を気にかけてくれていたことは、この手紙を読めば言うまでもない。

 その理由は、自分の不思議な力が遺伝してしまった爽良の心を案じたからだろう。

 だから、唯一の理解者となり得る自分の死を察したときに、遺言を残すという形で、鳳銘館を相続する選択肢を与えてくれたのだと考えると、「もし爽良が今生きづらいなら」という前置きも含め、すべてがしっくりくる。

「でも……」

 爽良は、手紙を握りしめてうつむいた。

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