第一章⑤

 御堂は少し考えた後、なにかを思いついたようにチェストを指差す。

「そういえば、もし君が尋ねてきたら棚の中の手紙を渡してほしいって、俺宛の手紙に書いてあったんだった。まあ、知りたいことが書いてあるかどうかはわかんないけど、とりあえず読んでみたら?」

「手紙、ですか……」

 言われた通りにチェストの一番上の引き出しを開けてみると、白い封筒が一通だけ入っていた。

 遺言状と一緒に遺されていた爽良宛の手紙と同じく、表に達筆な文字で「鳳爽良殿」と書かれている。

 開けてみると、丁寧に折り畳まれた二枚の便びんせんが入っていた。

 緊張しながらそっと開くと、最初につづられていたのは、爽良が鳳銘館を訪ねたことに対するお礼。それから、遺言だからと重くとらえずに、やりたいようにしてほしいという念押し。──そして。

「……だが、もし爽良が今生きづらいなら、ここに来れば心の自由を感じられるかもしれない……?」

 便箋の一枚目を締めくくるその言葉を、爽良は無意識に声に出していた。すると、爽良の脳裏で、記憶の中にある庄之助の声が重なる。

『──いつか、爽良が生き辛いと感じたときは、うちにおいで。そうすれば、きっと爽良の心は自由になる』

 さっきは思い出せなかった、ずっと昔に庄之助が爽良を抱き抱えて言った言葉の続きが、手紙を読んだ瞬間にはっきりとよみがえった。

「心が自由に……って、どういう……」

 ひどく抽象的な言い方だと思うのに、なんだか心がざわざわしている。まるで、ずっとその言葉を欲していたかのように。

「知りたかったこと、書いてあった?」

 ふいに、御堂が手紙を持ったまま固まる爽良の顔をのぞき込んだ。

 爽良はハッと我に返り、手紙をぎゅっと握りしめる。

「いえ……。でも……」

「うん?」

「……なんだろう、変な感じ……」

「談話室で少し話そうか。お茶れるよ」

 御堂はそう言うと、部屋の戸を開けた。

 爽良はいつたん手紙をバッグに仕舞い、部屋を出る。すると、御堂は玄関ホールの奥から左右に延びる廊下を左側に進み、一番手前にある両開きの戸を開け、爽良を中へと促した。

「ここが談話室。そこのソファで少し待ってて」

「お邪魔、します……」

 談話室は、大きなソファセットが印象的な広い部屋だった。右奥にはバーカウンターがあり、御堂はそこへ入ると慣れた手つきでケトルに水を入れる。

 予想はしていたけれど、談話室も他の場所と同様、異国情緒にあふれていた。

 なにげなく座ったソファもいかにも高価そうな深いブラウンの革製で、ひじけに飾りびようが打たれ、西洋の映画に出てきそうな雰囲気が漂っている。

 ひときわ大きな窓に掛かるボルドー色のカーテンが、左右で束ねられて美しいドレープを描いていた。

「談話室なんて、珍しいですね……。シェアハウスみたい……」

 なかば無意識につぶやくと、御堂の笑い声が響く。

「トイレや簡易的な洗面台は各部屋にあるけど、玄関もも共同だし、シェアハウスとそう変わんないよ。ちなみにこの部屋は元々サロンっていって、いわゆる応接室だったんだって。窓が大きくて雰囲気もいいし、改装するのがもつたいないからそのまま談話室にしちゃったんだとか」

「今も、住人の方が集まるんですか……?」

「まあ、ほとんど全員が顔見知りだしね。ごくたまにだけど、ここでんだりしやべったりしてるよ」

「庄之助さんもですか……?」

「もちろん。彼がいると人が集まったから。……どうして?」

「……いえ」

 爽良はこれまで、庄之助は孤独な人生を送ったのだと思い込んでいた。なぜなら、父から何度も「あんな変人は誰からも嫌われて避けられる」とか、「そうなりたくないなら、おかしなことを口にするな」と、繰り返し聞かされていたからだ。

 けれど、談話室で過ごす庄之助を想像すると、孤独という言葉とあまりつながらない。

 大きな窓から外を眺め、ふらっとやってきた住人と言葉を交わし、ゆったりとした時間を過ごす姿が、頭の中にやけにリアルに思い浮かんだ。

 ぼんやりしていると、ふいに漂う紅茶の香り。視線を向けると、御堂がテーブルに美しい柄のカップを並べ、正面に座った。

「……さて。おかしな出会いだったから順番がおかしくなったけど、ひとまず俺の自己紹介をしてもいい?」

 そう言われて改めて考えてみると、御堂吏という人物は謎だらけだった。

 霊が視えるとあっさり口にしたことにも驚いたが、庄之助との関係性もいまいちよくわからない。

 爽良がうなずくと、御堂は人懐っこい笑みを浮かべた。

「ざっくり言えば、俺は鳳銘館の住人だよ。住みはじめたのは十年くらい前だけど、うちの父と庄之助さんが友達だったから、庄之助さんのことは子供の頃から知ってる」

「ご実家は、さっきお寺だと……」

「そう。父は住職。ちなみに、庄之助さんの葬式を仕切ったのも父だよ」

「それは、ずいぶんご迷惑を……」

「いやいや、父と庄之助さんの間での約束だったし、息子たちの手を煩わせたくないっていう希望があったみたいだから、君が気に病むことはないんだ。……ちなみに、庄之助さんはうちの墓地に自分のお墓を用意していて、もうすぐ納骨だから、そのときは良ければ一緒に行こう」

「はい……、是非」

 もし庄之助が亡くなってすぐに連絡があったとしても、正直、父が葬式を出すとは思えなかった。

 おそらく庄之助にとっても、友人である御堂の父親に任せた方がずっと気が楽だったのだろうと爽良は思う。他人に任せてしまった自分たちを正当化したいだけの都合のいい憶測だとわかっていながら。

 なんとも言えない複雑な気持ちが、心に広がっていた。

「……で、話の続きだけど、庄之助さんはここに外部の人間が入るのを嫌うから、管理会社に任せたことがなくて、会計関連はもちろん、庭の手入れやら修繕やら掃除やら、もちろん入退去の手続きからお金の管理もろもろまで全部自分でやっていたんだけど……。なにせ高齢だからさ、俺が学生だった頃から少しずつ代理でやるようになって。……で、正式に管理人代理として働いてくれって言い出して、今に至るっていう流れ」

「なるほど……、そういうことだったんですね」

「うん。……ただ、もし君が鳳銘館のオーナーになる場合は、俺の処遇も含めて好きに決めていいからね。もちろん、普通に管理会社を入れてもいいし、その場合は俺はいち住人に戻るだけだから。ちなみに君が相続を辞退する場合は、遺言状によればうちの父に譲渡されるみたいだよ」

 急に具体的な話になったものの、爽良にはまだ、相続するということをいまひとつリアルに想像できないでいた。

 ただ、御堂の話を聴きながら、ひとつだけ気になることがあった。

「好きにしていいって言いますけど、……もし、私が……」

「うん」

「相続した上で売却するって言い出したら、どうするんですか……?」

 それは、通常なら十分に考えられる仮定だった。爽良には鳳銘館に対する愛着はないし、庄之助とも幼い頃以来会っていない。

 にもかかわらず、大切にしていた鳳銘館の行く末を爽良にゆだねるなんて、あまりにリスクが高すぎるように思える。

 しかし、御堂は動揺ひとつせず、平然と笑った。

「その場合は、俺が買うだけだよ」

 あまりにあっさりと言われ、爽良は面食らう。

「買うって……。ここは代官山ですし、あまり詳しくない私ですらとんでもない売価になることは容易に想像できるんですが……」

「大丈夫。大概の人は更地を条件にするだろうけど、俺は鳳銘館ごと、誰より高値で買う」

「…………」

「だから、どのみち鳳銘館は残るよ」

 爽良は、絶句した。ただ、この人はいったい何者なのだろうという疑問の陰で、ひとつだけはっきりしたことがあった。

 それは、鳳銘館を守るすべは、爽良に頼らずともいくらでもあるという事実。つまり、庄之助は爽良に、本来は必要のない選択肢を与えたことになる。

「どうして……」

 爽良はふたたび混乱した。

 軽い眩暈めまいを覚えて額を押さえると、御堂は慌てて立ち上がって爽良の手からカップを取り、背中を支える。そのかんぺきと言える手助けが、高齢だった庄之助との生活をリアルに想像させた。

「そりゃ驚くよね。急に相続してくれだなんて。ただでさえ庄之助さんは変わり者だし。……ってか、手紙は全部読んだ?」

「あ、そういえば……」

 そう言われて思い出したのは、読みかけだった手紙。爽良はバッグに仕舞った封筒から便びんせんを取り出し、二枚目に視線を落とす。

 そして、早速一読し、ふたたび頭を抱えた。

「どした?」

「なんか、また変なことが……」

 爽良は首をかしげる御堂に便箋を渡す。

 二枚目は、「もし爽良が鳳銘館の主人になった場合は」という前置きから始まっていた。──そして。

「どうか、私の大切なものを見つけてほしい……?」

 御堂が最後の一文を読み上げ、まゆひそめる。

 これまで以上にぼんやりした内容に、爽良はめ息をついた。

「大切なものって……。それこそ、御堂さんに頼んだ方がいいんじゃないでしょうか……。庄之助さんが大切にしていたものなんて、私にわかるはずがないですし……」

「いや、俺だってそんなの聞いたことないよ。……ってか、見つけてほしいってことは、失くしたってことかな」

「だとしたら、なにを失くしたかくらい書いてくれても」

「確かにね。……じゃあ、隠したのかも。君宛のなにかを」

「え……?」

 考えもしなかった推測に、爽良は目を見開いた。

 もしそうなら、あえてせ物の正体を明かさない理由も、わざわざ爽良に頼む理由にも納得がいく。

 わからないのはその目的だけだが、ただ、それがもっとも肝心だった。

 爽良は背もたれにぐったりと脱力し、天井を仰ぐ。

「なんだか、頭がいっぱいすぎて、よくわからなくなってきました……」

 すでに、思考能力は限界だった。

 思い返せば、今日はあまりにいろんなことがあった。少女の霊に遭遇して恐ろしい目に遭い、御堂に助けられ、しかも自分と同じく霊が視えることを知り、鳳銘館では生前の庄之助の気配を感じ、頼み事をされた。

 ひとつひとつの出来事が濃密すぎて、とても処理しきれない。

「まあ、そんなに急いで考えることもないから。君が重荷だと思うなら全部放棄したっていいんだし、すべて忘れて元通りに生活しても誰も君を責めない。ゆっくり考えたらいいよ」

「……そうします」

 爽良は頷き、ソファから立ち上がる。気付けばもう夕方で、窓から差し込む光は少しオレンジがかっていた。

「ごそうさまでした。……今日は帰ります」

「送るよ」

「え、でも」

「いいから。君、狙われてるし」

「…………」

 そう言われると断る気になれず、爽良は素直に頷く。

 御堂は可笑おかしそうに笑い、爽良の肩にぽんと触れた。

「さ、行こうか」

 鳳銘館を後にし、駅に向かって歩きながら、爽良はぼんやりと庄之助のことを考えていた。

 庄之助も視える人間だったという事実には驚いたものの、少し冷静になれば妙にしっくりくる。

 庄之助のことをあまり知らないまま会う機会を失い、ほとんど記憶を持たない爽良はあまり考えたことがなかったけれど、父が異常なまでに嫌っていた理由はまさにそれなのだろう。

 頭の固い父が、見えもしない存在のことを語る庄之助を嫌うのは当然であり、自分の娘が同じようなことを言い出したとなれば、庄之助の影響だと考えても不思議ではない。

 絶縁という方法を選んだ父を極端だと思う一方で、父に視える体質がまったく遺伝しなかったことは、考えようによっては不幸なのかもしれないという気持ちも生まれていた。

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