第一章⑨

 目の前で小さく揺れる炎をぼんやり見つめながら、爽良は、これはデジャヴだろうかと、いくつかのよく似た記憶を思い返していた。

 思い当たるのは、少し前に見た予知夢。そして、初めて代官山に来たときに目の前で起こったボヤ。

 もうろうとした頭では、これが夢か現実かすら判断できなかった。

 ふと視線を泳がせると、炎の向こう側に建っているのは見覚えのあるれん造りの建物。忘れもしない鳳銘館だ。

 ただ、鮮やかだったはずのステンドグラスに色はなく、景色は全体的にグレーがかり、唯一、炎だけが真っ赤に揺らめいていた。

 ──やっぱり、夢……。

 一度は、そう思った。

 けれど、炎が少しずつ大きくなっていく光景はやけにリアルで、見ているうちに心がざわめきはじめる。

 そして、そのとき。唐突に、背後から薄気味悪い気配を覚えた。

 それは、もう何度も遭遇した気配だった。

 まるで条件反射のように全身がこわり、どうが激しくなっていく。──そして。

『……どう、して』

 耳のすぐ傍で、少女の声が響いた。呼応するように炎が大きく揺れ、庭木に火の粉が移りチリッと音を立てる。

 どうやらこれは夢ではないらしいと、爽良の心をたちまち絶望が支配した。

 逃げたくとも、爽良の体には少女の髪がびっしりとまとわりついている。

『どう、して、……に、げるの』

 ふたたび響く、少女の声。

 爽良は混乱のなか、その問いを頭の中で繰り返した。

 頭をよぎるのは、少女は爽良を庄之助と間違えていると言った、御堂の話。

 どこか半信半疑だったけれど、確かに「裏切り者」も「どうして逃げるの」も、爽良には心当たりがなかった。

 ただ、それがわかったところで、会話ができなければ意味がない。そもそも声もうまく出ず、今の爽良には問いに答えることすら不可能だった。

 しかし、少女は次々と質問を重ねる。

『うらぎ、った、の……?』

「っ……」

『うそ、つい、たの……?』

 もしかすると、答えなんて求めていないのかもしれないと、爽良は思った。急にいなくなった庄之助を恨み、ただ呪い、やがて命を奪ってしまえば、それで満足なのではないかと。

 だとすれば、爽良にはどうすることもできなかった。

 炎は庭の草に燃え移りながら鳳銘館の方へ向かっていく。

 このままでは、いつか見た予知夢の通り、鳳銘館は燃えてしまうだろう。予知夢がゆうに終わったことなど、これまでに一度もない。──しかし。

 ついに鳳銘館に炎が届いた、その瞬間。突如、空気を震わせる程の深い悲しみが伝わってきた。

 爽良はふと違和感を覚える。

 なぜなら、その感情は、まさに今も恨みごとを繰り返している少女から醸し出されていたからだ。

 自分で壊しながらも悲しむなんて、矛盾している。

 そう思った瞬間、ふと、爽良の脳裏にひとつの仮説が浮かんだ。

「……本当は、鳳銘館のことが、好きなんじゃ、ないの……?」

 驚く程スルリと声が出た。

 そう思うに至る根拠なんてなにもなかったけれど、爽良がそう問いかけた瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。まるで、少女の動揺を表しているかのように。

 爽良は、御堂が言った「言葉はちゃんと伝わる」という言葉の意味を、初めて実感していた。

「庄之助、さんは……、あなたを裏切ってなんて、ない……」

 続けてそう口にすると、周囲の空気がふたたび凍りつく。

『──噓、つき』

 爽良の言葉で、少女の怒りは明らかに増した。ただ、これまでと大きく違うのは、会話が成立しているということ。

 爽良はそのとき、今なら伝えられるかもしれないと、むしろこの極限の状態を切り抜ける方法なんて、それ以外にないのかもしれないと思いはじめていた。

 爽良はこぶしを強く握り締め、覚悟を決める。

「私は、庄之助さんじゃ、ない……」

 背後から伝わる気配が、さらに憎しみを帯びた。

「私は、孫なの……。だから、あなたは避けられてるんじゃ、なくて……、庄之助さんはもういな……」

『──噓つき』

 言葉を遮られると同時に、正面の窓が砕け散った。

 炎はさらに勢いを増し、壁を伝って一気に広がっていく。

「噓じゃ、ない……。可愛がってもらったなら、間違え、ないで……」

 少しでもひるんだ瞬間に心が折れてしまいそうで、無理やり絞り出した言葉は、ひどく震えていた。

 それでも、少女が納得してくれたようなごたえはない。相変わらず空気は重く張り詰め、炎の勢いも強い。

 ようやく会話がかなったところで、少女の怒りを鎮められないなら無意味だと、爽良は自分の無力さを悔やんだ。

 そして、──もし、幼い頃に人と違うことを受け入れ、視えることに向き合って生きていたなら、こういうときのすべを持ち得たのだろうかとふと考えた。人には視えない存在を可愛がっていた、庄之助のように。

 そんなのは今さらだとわかっていながら、頭に浮かぶのは庄之助の笑顔。

 ほんの少ししか触れ合うことができなかったけれど、本来ならば、爽良にとって貴重な理解者になるはずだった。

「庄之助、さんは……、優しくして、くれた……?」

 爽良は、なかば無意識にそうつぶやく。

 少女から、反応はない。

「……私はほとんど覚えていない、けど……、もし、子供の頃に、……不安だったときに傍にいられたならって、今さら考えてる……。きっと、すごく力になってくれたんじゃ、ないかって……」

 ほとんど記憶にないのに、庄之助のことを思うと奇妙なくらいに胸が締め付けられた。まるで熱にうかされているかのように、思考がぼんやりしていく。

「あなたは、いいじゃない……。可愛がってもらったんでしょう……?」

 これではまるでしつだと、妙に冷静に考えている自分がいた。なのに、どうしても言葉が止まらない。

「私は、孫なのに……、庄之助さんのこと、全然知らな──」

 最後まで言い終えないうちに、ふいに、視界が真っ白になった。

 鳳銘館も炎も消え、風や気配すらもない。

 なにが起きたのかわからず、爽良はぼうぜんとする。──すると。

 正面に、ぼんやりと浮かぶ誰かの影。

「──こっちへおいで」

 優しい呼びかけと、伸ばされる大きな手。

 それは、まぎれもなく庄之助の姿だった。

 庄之助は鳳銘館の玄関ポーチにひざをつき、優しく目を細め、爽良へ向かって手招きしている。

 けれど、爽良には、そんな思い出はなかった。

 そもそも、庄之助が家を訪ねてくることはあっても、爽良たちから庄之助を訪ねたことは一度もない。

 もっと庄之助を知りたかったという思いが、勝手に思い出をねつぞうしてしまったのだろうかと、爽良はその温かな光景をぼんやりと眺める。

 すると、突如、自分の意思を無視し、足が勝手に動きだした。

 驚いて足元に視線を落とすと、目に入ったのは、見覚えのある黒いエナメルの靴。

 その瞬間、この記憶は自分のものではないと、──少女のものなのだと爽良は直感した。

 少女はこわごわと庄之助に近寄り、少し距離をあけて立ち止まる。

「なにもしないから、そんなに怖い顔をするな。つらいことがあるなら、私が話し相手になるよ」

 ふたたび響く、庄之助の声。

 爽良には、少女の戸惑いが伝わっていた。

「吏に追い回されたのかい? 私から言っておくから、もう怖がらなくていい。だが、火をけるいたずらはよくない」

 庄之助はそう言うと、ゆっくりと腕を伸ばして少女の手を握る。手にふわりと優しいぬくもりが広がった。

 やがて、少女の戸惑いは少しずつ落ち着き、庄之助の手をぎゅっと握り返す。

『──みんな、いなくなった』

 小さく響く、少女の声。

 庄之助はうなずき、いとしげにその頭をでた。

「……君は一緒に行けなかったのか。……まだ幼いから、迷ってしまったのかもしれないね」

『……捜してるのに、どこにもいない。……わたしを、置いていった』

 そう口にした途端、心の中に寂しさと苦しみがじりじりと広がっていく。次第に、庄之助に握られた手が黒くただれはじめた。

 しかし、庄之助はまったく怯むことなく、少女の手を握る手にさらに力を込める。

「心配しなくても、いつか会える。……それまでは、私と一緒に遊ぼう」

『おじさんも、どうせ、いなくなる、くせに』

「私の名前は庄之助だ。覚えてくれるかい?……まあ、そんなに長くは生きられないが、死ぬまでは君の傍にいるよ」

『……噓、つき』

「噓じゃない。──約束する」

 庄之助の声が響くと同時に、視界はふたたび真っ白になった。

 ふと我に返ると、目の前には鳳銘館。

 ただ、ついさっきは勢いよく広がっていたはずの炎はなく、庭には燃えた形跡がまったくない。割れたはずの窓も、元通りだった。

「……なんで……」

 爽良は混乱し、呆然と鳳銘館を見上げた。夢だと片付けるにはあまりにリアルだったし、燃えさかる炎も熱も、少女から伝わった怒りも悲しみも、すべてをはっきりと覚えている。

 爽良はずいぶん長い間、座り込んだまま放心していた。

 ふと気付けば、そこらじゅうに満ちていた少女の憎しみも感じられない。また消えてしまったのだろうかと、爽良は後ろを振り返った、──瞬間。

「っ……」

 真後ろに少女が立っていて、心臓がドクンと跳ねた。

 たちまち緊張が込み上げるけれど、少女からは奇妙なくらいになんの感情も伝わってこない。

 ただただ、まっすぐに鳳銘館を見つめていた。

「あの……」

 爽良は、思わず声をかける。

 すると、少女は眼球だけを動かし、爽良を見下ろした。

 その表情はあまりに恐ろしく、爽良は息をむ。──しかし。

『こんなに、おんなじ、なのに』

「え……?」

 少女は爽良を見つめたまま、抑揚のない声で呟いた。

『おんなじ、なのに。……庄之助じゃ、ないの』

 爽良は今も、自分と庄之助が似ているという意味がよくわかっていない。

 見た目の話でないことはわかるけれど、庄之助のことをよく知らないぶん、なおさらだった。

「……ごめんね」

 だから、なぜ謝ったのか自分でもよくわからなかった。

 すると、少女は寂しげに目を細める。

 その表情を見ていると、酷く胸が痛んだ。

 幼くして火事で死に、両親に会えないまま彷徨さまよってしまった少女の悲しみを思うと、同情せずにはいられない。

「庄之助さんは、死んじゃったから。……だけど、もし、……もし、話し相手がほしいなら……」

 いったいなにを口走る気なのだと、心の奥の方で、衝動に必死にあらがう自分がいた。

 けれど、なぜだか、止められなかった。

「──私が、話し相手になる、から……」

 辺りは、しんと静まり返る。

 少女は表情を変えず、爽良をじっと見つめていた。沈黙の時間はずいぶん長く感じられ、爽良の額に汗がにじむ。──しかし、そのとき。

 なんの感情も映さない少女の目から、ぽろりと涙がこぼれた。

 爽良は驚き、目を見開く。

「……どう、して……」

 問いかけながら、自分が口にした「話し相手になる」という言葉は、庄之助が少女にかけたものと同じだと、ふと思った。

 もしかしたら、別人だと理解してもなお、少女は爽良から庄之助の面影がぬぐえず、今も重ねて見ているのかもしれない。

 そう思うと、より切ない気持ちが込み上げてくる。

「そんなに、好きだったんだ」

 爽良がぽろりと零した言葉に、少女の目が大きく揺れた。

「仲良しだったんだね。……あなたが、少しうらやましいな」

 不思議と、心を支配していた恐怖はすっかり消えてなくなっていた。

 少女はなにも言わないけれど、爽良を見つめる目には、ほんのわずかに子供らしい輝きが宿っている。

「……私も、庄之助さんのことを、いろいろ教えてほしい」

 返事はないが、少女は手をそっと差し出し、爽良の頰に触れた。ひんやりした感触を覚えると同時に、意識がふっととお退く。

 頭の中が真っ白になり、爽良は無抵抗に意識を手放した。

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