第一章③

 そうこうしている間にも、辺りの空気が奇妙に張り詰め、息苦しさを覚える。

 不穏な予感がみるみる膨らみ、爽良は焦りに突き動かされるように右側の道へと足を踏み出した。たとえ間違っていたとしても、太い道を選びながら歩けばいずれは大通りに繫がるだろうと。──しかし。

 どんなに進んでも大通りに出ることはなく、一本道は延々と続いた。まるで同じ場所をぐるぐる回っているような気すらして、爽良はついに立ち止まる。

 辺りを見渡しても、普通はあるはずの住所の表示も見つけられず、人影もなければ車も通らない。

 まるで即席で作った箱庭のように、特徴のない無機質な街並みがひたすら続いている。

 爽良は途方に暮れ、その場に座り込んだ。

 そして、やはり違和感を覚えた瞬間に引き返すべきだったのだと、強行したことを心から後悔した。

 しかし、今さらそんなことを考えてもどうにもならない。

 爽良は、何度も恐ろしい目に遭ってきた過去を思い返しながら、どんなときもたった一人で耐え忍び、乗り越えてきたはずだと自分を奮い立たせた。

 目を閉じてゆっくりと深呼吸をすると、わずかに不安が落ち着きはじめる。

 そして、ふたたび目を開けた、瞬間。

 心臓が、ドクンと大きく鼓動した。

 爽良の目の前には、十歳くらいの少女が立っていた。

「え……」

 爽良が目を閉じていたのは、ほんの束の間。いくらなんでも不自然だと、額に嫌な汗が滲む。

 少女は水色のワンピースに黒いエナメルの靴を履き、いかにも育ちのよさそうないでちだったけれど、爽良を見つめる目はどこか空虚だった。

 この子はきっと人ではない、と。

 長年、培ってきた勘が、そう訴えていた。

 爽良がじりじりと後退りすると、少女は逆に、一歩距離を詰める。胸まである髪がふわりと揺れ、ツヤツヤに磨かれたエナメルの靴からコツンと小気味の良い音が響いた。──そして。

「どこにいくの」

 静まり返った街に響いた、抑揚のない声。

 爽良は、激しく動揺した。

 なぜなら、これまでに多くの霊と遭遇してきたけれど、これ程はっきりと、確実に自分に対して問いかけられたことなんて一度もない。記憶にあるのは、ひたすら苦痛を訴えるうなり声や泣き声ばかりだ。

 ふと、この少女は本当に霊なのだろうかという疑問が頭をよぎる。人と見分けがつかない霊があまりに多く、疑いすぎてしまっているのではないかと。

「鳳銘、館に……」

 爽良は、まっすぐ向けられる視線に誘い出されるかのように、なかば無意識に少女の問いに答える。

 すると、少女はさらに爽良との距離を詰めた。

「一緒に帰ろう」

「え……? 帰……」

 言葉の意味を理解する間もなく、少女は爽良の手首をつかんで歩きはじめる。

 その手は、まるで氷のように冷たかった。

「待っ……」

 やはり、違うと。

 これは生きている者の体温ではないと、爽良はその瞬間に確信を持つ。

 とつに振りほどこうとしたけれど、手首を摑む力は少女のものとは思えない程に強く、びくともしなかった。

 少女はなにも言わず、爽良が歩いてきた道をまるで機械のように淡々と進む。恐怖と不安で、爽良はもはやパニック寸前だった。

 しかし、──そのとき、ふいに小さな違和感を覚える。

 少女にはまったく見覚えがないのに、少女のまとう冷たい気配を、なぜだか爽良は記憶していた。

 そんなわけがないと思うのに、危うげで不穏なこの気配を知っていると、全身の感覚が訴えかけてくる。

 しかも、おそらくそんなに昔の記憶ではない。

 爽良は引きずられるように歩きながら、ここ最近の記憶を辿たどった。そして、ふいに思い出したのは、ついこの間、就活帰りに背後から感じた不気味な気配のこと。

 礼央から声をかけられた瞬間に消えてしまったけれど、少女の気配は、あのとき感じたものとよく似ている。

 もしかして、あのときからずっと目を付けられていたのではと、嫌な考えが浮かんだ。

 だとするなら、この少女は無作為にではなく、爽良を認識した上で、なんらかの目的を持って現れたということになる。

 そう考えた途端、これまでに経験のない恐怖が込み上げ、全身が震えた。

「どう、して……」

 自分の意思とは無関係に、心の声が口からこぼれる。

 すると、少女は突如立ち止まり、くるりと振り返った──けれど。少女の顔は、さっき見たものとはまったく違っていた。

「っ……」

 悲鳴は声にならず、爽良は息をむ。

 少女の顔は、もはや元の顔を思い出せないくらいに真っ黒に焼けただれていた。目があるはずの場所はえぐれ、ふたつのがんがぽっかりと空いている。

 水色のワンピースは元の色が思い出せない程に真っ黒に汚れ、焦げて灰になった髪が風にあおられてボロボロと散っていく。

 恐怖で思考が止まってしまった爽良に、少女はぐいっと顔を寄せた。そして、皮膚がえぐれた痛々しい唇を開く。

『──裏切り者』

 まるで心臓を直接摑まれたかのような激しいどうに襲われ、意識がフッととお退いた。爽良はがっくりとひざをつき、正面に迫る少女のおぞましい姿をただぼうぜんと見上げる。

 少女は爽良の目をとらえたまま、眼窩から黒ずんだ液体をどろりと零した。伝わってくるのは、激しくたぎる怒り。──そして。

『また、わた、しから、逃げ──』

 突如、これまでの淡々とした口調から一転して、苦しそうにそうつぶやいた。

 しかし、精神の限界をとうに超えていた爽良は、その言葉を最後まで聞くことができないまま、ついに意識を手放す。

 ただ、視界が暗転し、体が深く沈んでいく感覚を覚えながらも、少女が口にした「裏切り者」という言葉がいつまでも心の中に余韻を残していた。


 不思議な夢を見た。

 それは、知らないアパートの暗い庭で、小さくともる炎をただじっと見つめる夢。それはチリチリとかすかな音を立てながら、少しずつ勢いを増していく。

 心の中は空っぽで、揺れる炎を見て思うことはなにもない。

 やがて、突如吹き荒れた強風によって炎が大きく揺れ、辺りに火の粉が舞い散った。

 その瞬間、爽良はふと我に返る。

「──これ、夢じゃない……」

 現実であるとハッキリ自覚したのは、髪の毛が焼ける嫌な臭いをいだ瞬間。

 爽良は散った火の粉で焦げてしまった毛先に触れ、手についたすすを見てがくぜんとした。

 なにがどうなっているのか、状況がまったく理解できない。けれど、炎は目の前で少しずつ勢いを増していく。

 ここから離れなければと思うのに、膝が震えて立ち上がることができない。

「だ、誰、か……」

 人を呼ぼうにも、全身がこわって上手うまく声が出せなかった。

 そうこうしている間にも、炎は蔓延はびこる雑草に燃え移りながらさらに広がっていく。

 爽良は身動きひとつ取れず、その恐ろしい光景をただ見ていることしかできなかった。

 しかし、そのとき。

「──結構燃えてるじゃん……」

 突如響いた、妙に緊張感のない声。

 視線を向けると、立っていたのは声から想像する通りの軽薄そうな茶髪の男だった。

 まったく頭の回らない爽良を他所よそに、男は手にしていた消火器を構え、炎に向けてレバーを引く。すると、炎は噴射する消火剤に消しとばされるかのように、あっという間に鎮火した。

 辺りはしんと静まり返り、残ったのは灰と真っ白に広がる消火剤。

 爽良はほっとする一方で、突如現れた男の無駄のない動きにただただ驚いていた。

 ポカンと見上げると、男は爽良の正面にしゃがみ、肩に散った消火剤を払ってくれながらまゆひそめる。

「君、放火犯?」

「は……?」

 質問の意味を理解するには、時間が必要だった。

 けれど、放火犯と聞いた途端にネットで見た連続ボヤ事件の記事が頭を巡り、サッと血の気が引く。

 この状況では、爽良は明らかに不審者だった。まずもって不法侵入だし、目の前で起こったのはボヤ以外の何物でもない。

 犯人だと疑われても仕方がない窮地に立たされ、爽良はなにも言えなくなってしまった。

 しかし、男はしばらく爽良を見つめた後、突如人の悪い笑みを浮かべ、頭をぽんとでる。

「いやいや、違うなら否定して」

「え……?」

「そのポカンとした表情、庄之助さんにそっくりだわ。……君、お孫さんの爽良さんでしょ?」

「そうです、けど……」

 男の口から庄之助と自分の名前が出た瞬間、爽良はますます混乱した。

 しかし、男はなんの説明もくれずに爽良の腕を引いて立ち上がらせる。

「とりあえず、ここを離れようか。犯人だと疑われても面倒だし、防犯カメラはどうせショートさせてるだろうから平気だよ」

「させてる……? 誰が……」

「真犯人に決まってるじゃん。……ってか、行くんでしょ? 鳳銘館に」

「鳳銘館って……、あの、あなたはいったい……」

 尋ねながらも、男が鳳銘館と口にしたときから、爽良には問いの答えがわかっていた。

 鳳銘館の関係者で爽良の存在を知る人間なんて、一人しか考えられない。

 すると、男は爽良の腕を引いてアパートの敷地を抜け出し、なにごともなかったかのように涼しい表情を浮かべた。

「手紙、読んだんでしょ? 俺は鳳銘館の管理人代理をしてる御堂吏だよ」

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