第一章②

「実は」

「うん」

「遺言状が……」

 結局、爽良は庄之助の遺言のことを礼央に伝えることにした。

 口に出すことで処理しきれなかった様々な感情が整理され、最初は躊躇ためらいがちだった口調が徐々に軽くなっていく。

 ついには、庄之助とのおぼろげな思い出まで、まるでひとり言のように語っていた。

「爽良は、庄之助さんのことが好きだったの」

 ようやく言葉が途切れると、礼央からの静かな問いかけが響く。

「どうだろう。……私は幼かったし、あまりにも思い出が少なくて。だけど、思い出そうとするとすごく気持ちが温かくなる。庄之助さんとの時間は、居心地がよかったのかも」

「そう」

 短いあいづちを最後に、ベランダは静まり返る。

 日が落ち気温はぐんと下がったけれど、すべてを語り終えた爽良の心は、火がともったかのように温かかった。

 爽良は冷たい手摺りに額を寄せ、小さくめ息をつく。──そして。

「行ってみたら? その、鳳銘館っていうアパートに」

 礼央がそう口にした瞬間、爽良はひそかに確信していた。自分は、背中を押してもらいたかったのだと。

「……そう、だよね」

「うん」

「いいの、かな」

「自分で決めたいんでしょ」

「……うん」

 爽良は手摺りに顔を伏せ、何度もうなずく。

 確かに、このままなにもしなければ、とめどなく湧き上がってくる疑問が解消されることはない。

 なにより、あきれる程雑な手紙一通では、どちらに決断するにしても情報があまりに足りなかった。

 ならば、一度鳳銘館を訪ね、庄之助の手紙にあった管理人代理の御堂という人物に会ってみるのが一番早いだろう。

「私……、行ってみる。鳳銘館に」

「付き添い、いる?」

「……ううん。一人で大丈夫」

 今日の礼央はなんだか過保護だと、爽良は思った。ただ、その厚意に甘えるわけにはいかなかった。

 礼央はいつも涼しい顔で仕事をしているけれど、爽良はその仕事のハードさをよく知っている。

 たった一年とはいえシステム開発を手がける企業で働いていたし、当時、外注先のエンジニアリストにたまたま礼央の名前を見つけたことがあり、そのとき同僚から、礼央はこの業界では名の知れた、トップレベルのエンジニアだと聞いた。

 常識はずれなボリュームの依頼もキッチリ期日に納品してくるとのことで、社内のエンジニアの間では、上原礼央は睡眠を必要としないとか、いっそ人ではなくAIなのではという噂まで流れていたらしい。

 普段のぼんやりした姿を見慣れている爽良にとって、それは衝撃的な事実だった。

「そう」

 礼央は頷くと、くるりと向きを変える。

「爽良も部屋に戻って。風邪ひくから」

「うん。ありがとう」

 ガラス戸を開けながらかけられた声に頷いたものの、爽良の心に生まれた小さな熱は、まだ冷めそうになかった。

「鳳銘館か……」

 爽良は、静まり返ったベランダで無意識につぶやく。

 記憶にないはずの名が、まるで言い慣れたみの場所であるかのように、ストンと心の中に落ち着いた。


 鳳銘館の場所を知るのは、簡単だった。

 というのも、駄目元で「代官山 アパート 鳳銘館」でネット検索をかけると、意外にも多くの記事がヒットしたからだ。

 そもそもは不動産仲介業者が空室情報でも出していればという軽い気持ちだったけれど、実際に出てきたのは、主に個人によって発信された、建物の美しさを賞賛する記事だった。

 記事によれば、大正時代に建てられたという鳳銘館は、西洋の建築様式を取り入れた芸術的価値の高い建物なのだという。わざわざブログやSNSに記録をつける程建築に精通する人間が、こぞって鳳銘館は芸術そのものだと表現していた。

 個人が所有する建物とあってか、外観がわかるような画像は貼られていなかったけれど、その分場所に関しては丁寧に説明されていて、たいした苦労もなく見当を付けることができた。

 父に内緒な以上、場所を聞くなんて絶対にできなかった爽良にとって、それはとても幸運だった。

 ただ、ヒットした検索結果の中には、代官山に関する少し気になる記事も紛れていた。

 それは、このたった一ヶ月の間に、住宅街で三件のボヤが発生しているというもの。現場の状況的に不審火の可能性が高いとあるが、不審者の目撃情報は今のところないという。

 いたるところに防犯カメラが設置されているこの時代に、その事件はなんだか気味悪く感じられた。

 そんな、なんとなくモヤモヤした感情を抱えたまま、地元のたが駅から電車を乗り継ぎながら、三十分弱。爽良は代官山駅で降り、印を付けた地図に従って通りを歩いた。

 正直、爽良はこれまで代官山を少し敬遠していた。

 代官山には、雑誌に載るようなカフェやおしゃれなアパレルショップなどのこだわりの強い店が多く、意識の高い若者が集まるイメージがある。だから、自分のように流行はやりに疎い人間はきっと浮いてしまうだろうと、苦手意識があった。

 ただ、実際に訪れた代官山は、思っていた雰囲気とは違い、ずいぶん静かな街だった。駅前や大通りを除けば人の気配もそう多くなく、緑も多い。

 隣駅はしぶ、徒歩圏内に寿という立地とは思えない落ち着いた雰囲気に、爽良は意外にも居心地のよさすら感じていた。

 しかし、異変を感じたのは、間もなくのこと。地図通りに十分程歩き、閑静な住宅街に差し掛かったところで、急に足がずっしりと重くなった。

 代官山には坂道が多く、運動不足のせいだろうと深く考えずにいた爽良も、やがて頭に鈍痛が走り、ついには呼吸までつらくなってきて、なにかがおかしいと思い始める。

 あまりの不調に一度は引き返すことも考えたけれど、地図には鳳銘館まであと三分と表示されていたし、悩んだ結果、爽良はそのまま足を進めた。

 そして、悪化の一途を辿たどる頭痛をこらえながら、緩い坂道を上ること三分。

 爽良は、T字路の突き当たりに位置する、周囲を高い生垣に囲われたやたらと広い敷地の前で足を止めた。地図を見れば、現在地と目的地のピンが重なっている。

「え……、ここ……?」

 ついひとり言がこぼれた。ここが鳳銘館であることに間違いはなさそうだが、明らかに地価の高い代官山の住宅街で、かなりぜいたくに土地を使っていることに驚きを隠せなかった。

 父は鳳銘館をずいぶんこき下ろしていたけれど、ここは文句なしの一等地だ。

 爽良は少しひるんだものの、とにかく訪ねてみようと、生垣が途切れている正面入り口まで歩く。

 そして、そっと敷地の中をのぞき込んだ瞬間、目の前に広がった光景に、思わず息をんだ。

「噓……」

 敷地の奥にあったのは、れん造りの立派な洋館。

 美しいステンドグラス風の窓に、しつくいと煉瓦の玄関ポーチ、そして、玄関に続く和風の石畳。

 それは、数日前に予知夢で見た洋館とまったく同じだった。

「だけど……、ここって……」

 強烈に覚えているのは、激しい炎に覆われる光景。

 ふと、ネットで見た連続不審火の記事が頭をよぎり、背筋がゾクッと冷えた。爽良の予知夢がゆうに終わったことは、これまでに一度もない。

 おそらく鳳銘館も、近いうちに標的になってしまうのだろう。そして、今度は間違いなくボヤ程度では済まない。

 しかも、鳳銘館はアパートであり、予知夢のような激しい火事が起こってしまえば、多くの被害者が出るかもしれない。

 考える程に焦りが込み上げ、一刻も早く知らせてあげなければと、爽良は衝動任せに敷地に足を踏み入れた──ものの。

 それをいったいどう説明すればいいのだろうと、ふいに過った疑問に動きを止めた。

 火事が起こる予知夢を見たと伝えたところで、普通は信じる者などいない。頭がおかしいと思われ、笑われるのが関の山だ。

 爽良はその場に立ち止まったまま、頭を悩ませる。──そのとき。

「ワン!」

 すぐ傍で犬の鳴き声が響き、ハッと我に返った。

 見れば、大きな真っ白い犬が正面からゆっくりと近寄ってくる。警戒をにじませた鋭い視線でにらみつけられ、爽良は硬直した。

 しかもその犬は、いかにも凶暴な見た目にもかかわらず、どこにもつながれていない。

 爽良は恐怖に息を吞み、じりじりとあと退ずさった。

 すると、ふいに、背後に気配を覚える。

 振り返ると、着物姿の年配の男が、石畳沿いの植木の根元を地面にいつくばってあさっていた。

 ついさっきは誰もいなかったはずなのにと小さな違和感を覚えたけれど、今の爽良には、そんなことを気にしている余裕はなかった。

「あ、あの……、住人の方ですか……?」

「──無い……やはり無い……」

 よほど集中しているのか、男は爽良の声に反応せず、必死に地面をいじっている。生成り色に細いたてじまの入った美しい着物のすそが地面に着いているのに、気に掛ける素振りもない。

 そうこうしている間にも、犬はじりじりと距離を詰めてくる。

「す、すみません……、い、犬が……」

「……池……か……。やはり、池……」

「あの……! 御堂さんって方は……!」

 爽良は半ばパニックに陥り、大声を出した。

 すると、男はぴたりと動きを止め、ようやく上半身を起こす。そして、目も合わせずに敷地の外を指差した。

「あっちに……、いるんですか……?」

 返事はない。

 しかし、もはや待っていられず、爽良は男にぺこりと会釈をすると慌てて敷地の外に出た。

 犬が追ってくる気配はなく、爽良は鳳銘館から離れてほっと息をつく。

「出てきてしまった……」

 冷静になった頭で改めて考えてみると、鳳銘館でほんの数分の間に起きたことは、なんだかどれも奇妙だった。

 予知夢通りの洋館に、繫がれていない大型犬、そして、話を聞いてくれない住人らしき男。

 男は、御堂の所在を尋ねると指を差してくれたけれど、それも本当かどうか怪しいものだ。むしろ、出ていけという意味だった可能性もある。

「だいたい、方向だけ教えてもらっても……」

 ブツブツと文句を零しながらも戻る気にはなれず、爽良は、男が指し示した方向へ向かってしばらく歩いた。

 とはいえ、相変わらず頭痛がひどく、足取りも重い。ついにはまいを感じ、爽良は道の端でしゃがみ込んだ。

 ひざに顔を伏せ、目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返す。──そのとき。

『──いつか、爽良が生き辛いと感じたときは──』

 唐突に脳裏を過った、庄之助の言葉。

 あまりにもハッキリと響いたことに驚き、爽良は勢いよく顔を上げた。

「……庄之助さん……?」

 もちろん姿があるはずはなく、爽良はもう一度顔を伏せる。

 ──生き辛いと感じたときは……?

 その先はどうしても思い出せなかった。ただ、心の奥の方には、それをどうしても求めてしまっている自分がいる。

 私はずっと生き辛かったのかもしれない、と。

 幼い頃からこれまで、目をらすことにすっかり慣れてしまった本音が、庄之助の声が引き金となって心の中に広がりはじめていた。

 しかし、今さら、しかもこんなタイミングで向き合う余裕はなく、爽良はすべてを振り払うように首を横に振る。

 そして、止まっていても仕方がないと無理やり立ち上がった瞬間、目の前に広がる住宅街の景色に、ふと違和感を覚えた。

 視界が、なんだかグレーがかっている。

 それは、妙なことが起こるときの前兆のひとつだ。

 たちまち嫌な予感が込み上げ、爽良は来た道を戻ろうと振り返った。──しかし。

「あれ……?」

 背後に延びていたのは、さん。鳳銘館を出てからひたすら直線を歩いて来たはずだが、細い道がささくれるように枝分かれしているせいで、逆から見ると、自分がどこからきたのかわからなくなってしまった。

 爽良は方向音痴ではないし、むしろ地図を読むのは得意な方だと自負していたけれど、目の前に延びる道は、どちらも通った覚えがない。

 いつたん落ち着いて地図を開こうと、爽良はポケットから携帯を取り出す。しかし、ディスプレイは真っ暗で、電源ボタンを押してもなんの反応もなかった。

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