第一章①

 予知夢は、色でわかる。

 それは、外で霊と出くわしたときとよく似ていて、視界がっすらとグレーがかっている。

 こういう色の夢はほとんどが不幸な内容であり、必ず近いうちに現実で同じことが起こる。

 父が交通事故に遭った前日も、叔父おじが死んだ前日も、まさに、会社で受付の女性の自傷事件が起きた前日も、爽良の夢はこの色だった。

 また予知夢か、と。爽良は夢の中でグレーがかった街並みを歩きながら、近々起こるであろう不幸な出来事を想像し、暗い気持ちになった。

 できれば身動きを取らずに目が覚めるまでやり過ごしたいが、そういうわけにはいかない。予知夢では自分の意思で行動することができず、まるでVR映像を観ているかのように淡々と目の前の出来事を受け入れるしかない。

 ただ、その日の予知夢は、少し奇妙だった。

 まず違和感を覚えたのは、目の前に広がっている街並みが、爽良の知らない風景だったこと。大きな家が並び、れいに整備された特徴的な住宅街だが、どこを見てもまったく記憶をかすらない。

 行き慣れた場所や身近な人間しか現れたことのない予知夢で、それは初めての経験だった。

 やがて、爽良が行き着いたのは、立派な洋館。

 それは三階建てのれん造りで、ずらりと並ぶ窓は幾何学模様の格子にところどころ色ガラスがめ込まれたステンドグラス風。重厚感のある玄関扉の前には煉瓦としつくいの玄関ポーチを構える、ぜいたくな外観だった。

 ただ、素直に洋館と表現するには、敷地を囲う生垣や庭木、玄関に続く石畳や窓枠の装飾など、どこか和を思わせる箇所も多くある。

 ただし、それらは絶妙なバランスで調和していて、屋敷そのものが、まるで芸術品のようだと爽良は思った。

 もちろん、この屋敷に見覚えはない。

 こんなこともあるのかと、爽良は予知夢であることを忘れてぼうぜんと眺める。──しかし、そのとき。

 ふいに窓ガラスの奥で赤い影がチラチラと揺れたかと思うと、突如、激しいごうおんとともに、屋敷が一気に炎を上げた。

 すべての窓ガラスが同時に割れ、粉々に砕けた破片がはじけ飛ぶと同時に、巨大な炎と真っ黒な煙がグレーの空へ立ち昇る。

 視界は、たちまち赤と黒で染まった。

 伝わらないはずの熱がじりじりと爽良の肌を焦がし、心臓がどくどくと不安定な鼓動を打つ。

 ああ、この美しい屋敷は燃えてしまうのか、と。

 爽良は、愛着なんてあるはずもない屋敷の喪失に、奇妙なくらいの寂しさを覚えていた。


    *


 父から「親父が死んだらしい」と聞かされたのは、不思議な予知夢から一週間が経った頃のこと。

 まるで世間話のような淡々とした温度感で実の親の死を話す父に、爽良は少し戸惑っていた。

 父が祖父・庄之助に一方的に絶縁状をたたき付けてから二十年弱。

 庄之助のことをほとんど覚えていない爽良が感傷的になれないのは仕方のないことだとしても、父もまたそうであるという事実が心をざわつかせた。

「お葬式はいつ……?」

「親父の知人が喪主をし、とっくに終えたらしい。たいして参列者もいないだろうに」

「終えたって、お父さんに連絡もなく……?」

「俺は縁を切ってるからな。死んでからもう一ヶ月が経つそうだ」

 父は庄之助の話をするとき、驚くほど冷たい目をする。絶縁した後は、やむを得ず話題に上ることがあったとしても、爽良が「おじいちゃん」と呼ぶことすら許さなかった。

 そんな父のことが、爽良はときどき怖い。

 もし秘密がばれてしまえば、自分も庄之助のように簡単に縁を切られてしまうのだろうという不安が、常に心のどこかにある。

「一ヶ月って……。どうせ連絡をくれるなら、もう少し早くてもよかったんじゃ……」

「死んだと連絡があったわけじゃない。……主な用件は、相続のことだ」

「相続?」

 まゆひそめる爽良を、父はダイニングテーブルの向かい側に促す。

 ただならぬ緊張感を覚えながら、爽良は父の指示に従い正面に座った。

 久しぶりに真正面から見た父の目は、逆に奇妙なくらいにいでいる。これは、怒りをこらえているときの、父の癖だ。

 ふいに嫌な予感がし、爽良はキッチンで夕食の支度をする母に視線を向ける。しかし、母はまるでなにも聞こえていないかのように、不自然なまでに規則的な包丁の音を響かせていた。

 爽良は、いっそ逃げ出したい気持ちを必死に抑え、テーブルの下で手を握り締める。

 すると、父は爽良の目をまっすぐにとらえ、重々しく口を開いた。

「親父は公正証書ごんを残していたらしく、俺に連絡をしてきたのは弁護士だ。遺言状には、相続してほしいものがあると書いてある」

 父が語ったのは、考えもしない内容だった。

 ただ、そんなことよりも謎なのは、父がわざわざ爽良に伝えた理由だった。

 庄之助のことを忌み嫌う父ならば、連絡があったことを誰にも言わず、すぐに相続放棄の手続きを取っていても不思議ではない。

 すると、父は爽良に一通の封書を差し出した。

 見れば、そこには達筆な筆文字で「鳳爽良殿」と書かれている。

「私あて……?」

「それは、遺言状に添えられていたものだ」

「どうして私に」

「遺言状には、とある不動産を譲りたいとあった。……俺じゃなく、爽良に」

「え? なんで私……」

「そんなこと、俺にわかるわけがないだろ。……とにかく、その手紙はお前宛だから読んでみろ」

 意味不明な展開に混乱しながら、爽良は父の不機嫌の理由を察していた。

 正式な手続きでのこされた遺言に相続人として爽良の名があったのならば、さすがに勝手に放棄するわけにはいかなかったのだろう。ただ、父の口調からは、不本意だという本音が嫌という程伝わってくる。

 厄介なことになったものだと思いながら、爽良は視線に促されるまま手紙を開封した。といっても、父が事前に検閲したのだろう、ろうで閉じられた封はきれいにがされていた。

 おそるおそる便びんせんを開くと、最初に目に飛び込んできたのは、行を完全に無視してつづられた、『ほうめいかんを相続してほしい』という大きな文字。

 さらにその横には、けてくれるのならば相続税が十分に払えるだけの遺産を残すと、そして、その場合は管理人代理を任せているどうつかさという男が具体的なことを説明するという一文が、ついでのように記されていた。

「読んでもよくわからないんだけど、そもそも鳳銘館って……?」

「放棄しろ」

「え……?」

「鳳銘館はだいかんやまにある古いアパートだ。そんなもの要らないだろう。……放棄しなさい。俺から弁護士に連絡するから」

 その言い方も、向けられた目からも、有無を言わせぬ圧力が感じられる。

 爽良はもう一度封筒に視線を落とし、庄之助が書いた自分の名前を見つめた。

 いつもの爽良ならば、父に従っておいた方が無難だと判断し、すぐにうなずいていただろう。けれど、なぜだか、そのときはそれができなかった。

 黙り込んでしまった爽良に、父はうんざりした表情を浮かべる。

「鳳銘館は、大昔、親父が没落した元ぞくから買い取った古い屋敷だ。俺が生まれる前の話で興味もなかったからよく知らないが、アパートに改装し、妙な知人ばかりを集めて安く住まわせていたらしい。どうせ家賃収入なんてほとんどないし、修繕費に管理費に毎年課せられる税金で、良くて相殺だろう。相続したところで、なんの得もない。そういうわけだから、売却するにしても、更地を条件に出されるだろう。場所は代官山だから資産価値は高いが、何十年も住んでる人間に退去の交渉をするのは骨が折れるし面倒しか──」

「お、お父さん……」

 さっきと打って変わって延々としやべり続ける父に戸惑い、爽良は思わず口を挟んだ。

 すると、父はハッと我に返り、ふたたび爽良を見つめる。

 おそらく父は、爽良があっさり放棄することを想定しているのだろう。実際、これまでの爽良は、どんなことでも父に従ってきた。──けれど。

「……そんな厄介な物件を、わざわざ正式な遺言状に、しかも私を名指しで遺すなんて不思議だなって思って……。少し、考えてもいいかな……」

 思ったままを口にしたのは、とても久しぶりだった。

 父の顔がこわり、母の包丁の音が止まる。

「親父がわざわざ正式な遺言状にして爽良を名指ししたのは、おそらく爽良に会わせなかった俺への当てつけだぞ。……あれは頭のおかしい男だ。絶縁状を叩き付けた俺を憎み、俺たちを困らせて面白がって──」

「だ、だとしても……」

「爽良……!」

 ふたたび言葉を遮った爽良に、父は不快感をあらわにした。

 大声で名を呼ばれた瞬間、子供の頃に何度も𠮟られた記憶がよぎり、指先が震える。

 爽良自身、なぜあらがってしまったのか、理由ははっきりわからなかった。ただ、奇行とも言える庄之助の決断を不思議に思い、純粋に理由を考えてみたいと思ったのは、本音だった。

「お父さん、私はもう大人だから……。自分宛に遺されたものなら、自分で考えたい……」

「大学まで出してやったのに、あっさり仕事を辞めて実家に居候するような奴のどこが大人だ」

「その通りだと思う。……ごめん。でも私」

「──お父さん」

 突如、割って入ったのは母だった。そんなことは滅多になく、爽良たちは同時に視線を向ける。

 すると、母自身も戸惑った様子で、包丁を置きひとみを揺らした。そして。

「……爽良に決めさせてあげたらいいんじゃない……? お義父とうさんはもういないんだから、もうあなたを苦しめることはないでしょう……?」

 長い、沈黙。

 父は、まるで時が止まってしまったかのように微動だにせず、母をまっすぐに見つめていた。

 爽良は黙って様子をうかがいながらも、父が怒りだしてしまうのではないかと、内心気が気ではなかった。けれど。

「……お前がそう言うなら」

 父は拍子抜けする程小さな声でそうつぶやくと、背もたれにぐったりと背中を預けた。

 しかし、爽良に向けられる視線はまだ鋭い。

 おそらく、もう出て行けという意味だろうと察した爽良は、慌てて立ち上がると、庄之助の手紙を握りしめて部屋へ戻った。

 戸を閉めた瞬間に全身から一気に力が抜け、そのまま床にへたり込む。

「庄之助さん……、どうしてこんなこと……」

 届くはずのない愚痴が、静まり返った部屋に響く。

 ただ、久しぶりに声に出した祖父の名は、心に懐かしく響いた。

 庄之助との思い出は、決して多くない。けれど、まったくないわけではなかった。

 おぼろげな記憶を辿たどると、最初によみがえってくるのは公園の風景。そして、目を細めて笑う、穏やかで優しい表情。

 いくら幼くとも、向けられる愛情の大きさは伝わっていたし、父親に𠮟られてばかりの爽良にとって庄之助と過ごす時間は大きないやしだった。

 庄之助に抱かれてブランコに乗ったときのぬくもりや、大きな手や、優しい声の記憶を手繰り寄せながら、爽良はそっと目を閉じる。──そのとき。

『──爽良、ごめんよ』

 突如脳裏に蘇る、庄之助の言葉。

 頭の中にあまりにはっきりと再生されたせいで、爽良は一瞬、庄之助が傍にいるような錯覚すら覚えた。

 そして、同時に浮かぶ疑問。

「ごめんって、なに……?」

 必死に記憶を辿ってみるものの、庄之助が謝る理由には、まったく心当たりがなかった。

 ただ、庄之助の言葉が蘇った瞬間、──なにかが始まろうとしているかのような、胸騒ぎがした。

 なんだか少し怖くなって、爽良はガラス戸を開けベランダに出る。

 外の空気をめいっぱい吸い込むと、ふいに、隣のベランダからよく知る気配を覚えた。

 ベランダから身を乗り出して隣をのぞき込むと、デッキチェアに座ってノートパソコンを開く礼央の姿。

 礼央は大手企業にシステムエンジニアとして入社した後、二年で退職しフリーランスになった。それ以降、家にいることが増え、よくベランダで仕事をしている。

 いつもとなんら変わりない光景に、爽良の気持ちがスッと落ち着いていく。

「寒くないの? まだ四月だよ」

「全然」

 急に声をかけたというのに、礼央は相変わらず動揺ひとつしない。

「そう」

 爽良はりにぐったりともたれかかり、夕暮れの空を見つめる。

 カタカタと規則的に響く礼央のタイピング音が、少しずつオレンジがかっていく幻想的な風景と意外にもマッチしていた。

「……どうしたの」

 タイピング音が止まったのは、辺りがすっかり暗くなった頃。

 ぼんやりしていた爽良は、声をかけられて途端に我に返った。これではまるで話しかけられるのを待っていたみたいだと、少し気まずさを覚える。

 しかし、礼央はいつも通りのまったく感情が読めない表情で、パソコンを閉じて横に並び、爽良の顔を見つめる。

 おそらく、質問の返事を待っているのだろう。

 とはいえ、遺言状のことなんてあまりにも重いし、話したところで礼央を困らせるだけだと、爽良はとつに別の話題を探した。

「……就活が思うようにいかなくて、疲れたなって」

「そう」

「うん」

「……それと?」

「それと……って」

「おじさんの声が聞こえたから」

 どうやら、したことを見透かされてしまったらしい。ただ、礼央がこんなふうに追及することなんて滅多になく、思わず動揺してしまった。

「あ……、ごめん、うるさかった……?」

「ううん。けんした?」

「そうじゃない、けど……」

 礼央のまっすぐな視線にとらえられると、迷惑だとわかっていても、いっそすがってしまいたい気持ちが込み上げてあふれそうになる。

 爽良は、ポケットの中の庄之助の手紙にそっと触れた。

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