大正幽霊アパート鳳銘館の新米管理人

竹村優希/角川文庫 キャラクター文芸

プロローグ

 後ろに、がいる。

 肌があわち、両手両足の先までじんと冷えるこの感覚は、何度経験しようと慣れることはない。

 まるで、リアルな夢を見ているようなグレーがかった視界の中、おおとりは自宅マンションへ続く坂道を早足で歩いた。

 後ろにいるのは、人ではない。

 それだけは、経験上、わかっていた。

 絶対に振り返ってはいけない。目を合わせたら終わる。

 心の中でそう何度も唱えながら、爽良はひたすら前だけを向いて無心に足を動かす。

 次第に激しさを増す鼓動に触発されるかのように、歩調はみるみる速くなった。

 駅に程近い住宅街の夕暮れ、人の往来は決して少なくない。けれど、一人として、背後の存在に気付く者はいない。誰もがじんも警戒を見せず、むしろここが安全であると疑いもしない様子で、それぞれの家へと向かっていく。

 ひどく不自然だと爽良は思った。

 こういうときはいつも、自分だけが違う時間を生きているような孤独感に襲われる。ただ、経験上、なぜ自分だけがという文句に意味がないことは、よくわかっていた。

 背後の気配は、冷たくじっとりとした空気を伴いながら、爽良に少しずつ迫っている。

 視えることに気付かれてしまったのだろうかと、これから起こる最悪な想像が頭をよぎると同時にひざが小刻みに震えた。

 それでも、爽良にはひたすら逃げる以外の選択肢がない。

 思えば、これまでも、逃げ続けるばかりの人生だった。


〝自分だけに視える者〟が存在することを認識したのは、物心がついて間もなくのこと。

 それが世間で〝霊〟と称され、多くの人にとって迷信や空想とされていると知ったときはがくぜんとした。

 霊は爽良の日常に確かに存在したし、目が合えばたちまち近寄ってきて、髪を引っ張ったり耳元でボソボソとささやいたりと、毎日のように嫌がらせをしてきたからだ。

 怖くて泣いて訴えても、両親はただ困るばかりだった。

 税理士事務所を構える父は生粋のリアリストで、迷信も空想も極端なまでに嫌い、目に見えないものを一切信用しない気質。母はそんな父を心から信頼していて、当時、霊を視るたび泣き叫んで逃げ惑う爽良は、父の計らいで何度もメンタルクリニックに連れて行かれた。

 ただ、改善するどころか、処方される錠剤の量がただただ増えていく一方で、それに比例するように母のめ息も増えた。当然ながら、薬を飲んだところでしばらく頭がぼんやりするだけで、なんの意味もなかった。

 今になって思えば、当時の爽良は統合失調症だと診断されていたのだろう。

 ある夜、ふと目を覚ますとリビングから両親の話し声が聞こえ、聞き耳を立てると、母が父に向かって、「医師やカウンセラーは私たちの虐待を疑っている」と、泣きながら訴えていた。

 幼かった爽良にその意味を理解することはできなかったけれど、母が泣いているのは自分のせいなのだろうと、それだけはわかっていた。

 そして、父もまた、徐々に精神的な余裕をなくしていった。

 空虚な笑みを浮かべ、「子供は想像力がたくましいから、現実と妄想の境がわからないんだよ」と母を優しく説き伏せたかと思えば、子供に向けているとは思えない憎しみに満ちた目で爽良をにらみ、「お前は異常だ」とか、「くだらない妄想で大人を困らせるな」と酷く怒鳴ることもあった。

 そういうときの父は、決まって「あの男と同じだ」とつぶやいた。

「あの男」が誰を指すのかが明確になったのは、いつも以上に爽良を強く𠮟りつけた直後のこと。

 父は突如、当時たびたび家を訪れていた自分の父親・しようすけに電話をし、激しい口調で二度と爽良の前に顔を見せるなと言い、一方的に絶縁した。

 お前が妙なことを吹き込んだせいだ、お前のせいでうちは不幸だ、お前のせいで──と、何度も繰り返される暴言を聞きながら、おかしくなってしまいそうな爽良の心を守ったのは、心に備え持った防衛本能。

 言い知れない危機感に追い詰められた爽良は、今後一切、なにがあっても自分が視たものを誰にも話すまいと心に誓った。そうしなければ、すべてが壊れてしまうと思ったからだ。

 それは、こんな父の姿を見るくらいなら怖い思いをした方がずっとマシだと、明確に、そして奇妙な程冷静に判断した瞬間でもあった。

 その日以降、鳳家には表向き平和な日々が戻った。ただ、爽良を取り巻く環境が変わったわけではなかった。

 唯一、爽良自身に取ることができた対策は、霊と目を合わせないこと。視えることに気付かれさえしなければ、向こうから関わってくることはなかった。

 ただし、相手が人なのか、そうでないかを見分けることは、大概の場合困難だった。それらのほとんどが、人の中に上手うまく溶け込んでいたからだ。

 小学校に上がってからは、廊下で児童とすれ違うたびにビクビクしたし、知らない顔が大勢集まる全校集会や運動会などでは、いつも挙動不審だった。

 当然ながら、そんな爽良と仲良くしてくれる子どもはおらず、友達はできなかった。けれど、爽良は一人ぼっちではなかった。

 爽良には、爽良が突然叫ぼうとも急に走り出そうとも動揺ひとつしない、細かいことにとんちやくで多くのことに無関心な、二つ年上のおさなじみがいた。


「──爽良」

 背後の気配を振り切ろうと必死に歩く爽良に声をかけてきたのは、うえはら

 爽良が幼い頃からマンションの隣の部屋に住んでいて、出会ったときから今に至るまで、思春期など知らぬとばかりに常に同じ距離感で爽良に接してくれる、唯一の友人だ。

 礼央の顔を見た安心感で、爽良の張り詰めていた心は一気に緩んだ。同時に、背後の気配がスッと消え、爽良はおそるおそる振り返って確認する。

「いない……」

 思わず呟くと、礼央はこてんと首を傾げた。

 涼しげな目に見つめられ、爽良はあいまいに笑う。

 挙動不審だったことは自覚しているし、普通なら事情を問い詰められてもおかしくない状況だが、礼央はそんなことをしない。

 すための言葉を用意していても、いつも無駄になる。

 それくらい、礼央のマイペースぶりは群を抜いていて、ひと言で言うなれば、変わり者だ。

 現に、礼央はいたって平常通りの様子で、自分が乗っていた自転車の荷台を指差した。

「乗れば」

「え……?」

「後ろ」

 なかなか消えない恐怖の余韻を抑え込みながら、爽良は、必要最低限しか発さない礼央の言葉を脳内で補完する。

 人のことは言えないけれど、昔はよく、こんなに言葉足らずで人との交流は大丈夫なのだろうかと心配したものだが、どうやら問題はなかったようだ。

 なにせ、礼央は、顔が整っている。あくまで爽良の主観ではあるが、学生時代の多くの女子たちにとって美形こそ正義であり、少々の言葉足らずは交流の障害にならないらしい。

 現に、中学生の頃なんかは、礼央が女子生徒に囲まれているところを校内で何度も目撃している。

「乗らないの」

 つい昔のことを回想していた爽良は、ハッと我に返った。

「こっ……」

「こ?」

「……この、坂……、急だから。……遠慮しとく」

 慌ててそう言うと、礼央は自転車を降り、爽良の横に並んで歩く。

 そして、ふいに爽良の手からバッグの持ち手を抜き取り、自転車のカゴに放り込んだ。

かばん、すごい重いけど」

「……ありがとう。就活中だから、いろいろ入ってて」

「決まりそうなの」

「……まだ」

 仕事を辞めたのは、つい一ヶ月前。システム開発を主とするIT企業に新卒で入社し、まだ一年しか経っていなかったけれど、爽良には辞めざるを得ない事情があった。

 まず、研修後に配属された支社はとても古いビルにオフィスを構えていて、まさに、人ならざる者のそうくつだった。

 大抵の場合、建物の古さとみつく霊の数は比例する。そして、長年彷徨さまよった霊程、タチが悪い。

 それらはただ傍にいるだけで気力を奪い、体調を悪化させ、下手すれば精神までむしばんでしまう。

 そのせいか、オフィスには、体になんの影響も受けずに働いている者の方がむしろ少なかった。

 爽良は配属されてから退職を決めるまでの短い期間に、なんの前触れもなく社員が倒れる現場を何度も目撃したし、受付の女性が業務中にペーパーナイフで自分の腕を刺すという異常な事件を目の当たりにした。

 このビルは呪われているのだと、大量の霊に囲まれながら面白おかしく噂する社員たちが、爽良にとっては少しこつけいだった。

 やがて、日々神経をり減らし続けることに限界を感じた爽良は、父に散々嫌味を言われながらも退職を決め、今に至る。

 ただ、早く職を決めなければと焦る一方で、爽良は自分の抱えるハンデの大きさに絶望していた。

 なにせ、爽良が普通に生きていける環境は、あまりにも限られている。

 たくさんの企業の情報を収集し、転職説明会に積極的に顔を出し、表向きは熱心に転職活動をしながらも、どこか虚無感をぬぐえない自分がいた。

 無意識にめ息をつくと、礼央がチラリと視線を向ける。

「焦ってる?」

「……早く家を出たいから」

「なんで」

「……なんとなく」

「そう」

 どんなに曖昧に誤魔化そうとも、礼央が必要以上に追及してくることはない。

 よほど興味がないのだろうと少しむなしく思う一方、追及されても答えられないことが多い爽良にとって、礼央の薄い対応は都合よくもあった。

 ただ、なにもかもに興味を示さない礼央との友人関係が、家が隣だからこそ成り立っているということも、よくわかっている。

 いずれどちらかが家を出てしまえば、礼央の頭の中では、これまでの長い年月すらもあっさりと白紙に戻ってしまうのだろう。そういう礼央だからこそ、なんの疑問も持たずに爽良と一緒にいられたのだ。

 友人というものの正しい形を、爽良はよく知らない。ただ、絶対に言うことができない大きな秘密を抱えた関係性が、世間では希薄と表現されることを知っている。

 あきらめることに慣れた心が、小さくうずいた。

 けれど、その痛みを端っこに追いやり押しつぶしてしまうこともまた、爽良は得意だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る