楽園へ 2

 船の振動が幾分かましになったことに気付いて、浅く不安定な眠りをたゆたっていた弥琴はゆるりと目を開いた。

 横になって少しだけでも眠ったおかげか、出港時と比べて船酔いはだいぶ楽になった気がする。しかし吐き気の名残のような不快感はまだ残っており、まどろみながらずっと泣いていたのか、乾いたはずの頬はまたしても涙でしっとりと濡れていた。

「弥琴様、大丈夫ですか?」

 斜めに位置するソファに座った菜子が、気遣わしげな眼差しで見やってくる。

「恐れ入りますが、あと三時間ほどご辛抱ください。ようやく折り返し地点を過ぎたところですから。白青島までは、一番近い島からどんなに急いでも船で六時間はかかってしまうのです。今日は天候もよく波も穏やかなので、それ以上かかることはないと思いますが」

「はくせい、じま……」

 ぼんやりとした意識のまま、弥琴はぐっと身を起こした。途端に胃が激しく揺れて口に手を当てるが、よろけた体を菜子がすかさず支えてくれる。弥琴は壁に凭れかかり、船酔いと何度も泣き続けたために腫れ上がった目で彼女を睨む。

「話して。全部。……船に乗ったら、教えてくれるんでしょ」

 胃全体を占める不快感のせいで、不覚にも声が喘鳴になった。菜子は眼差しで首肯すると、すぐ後ろの小窓を少しだけ開けて、潮の香りに満ちた涼やかな風を船室内に入れる。

「わたくしたちが目指している白青島は、わたくしが仕える織田家が代々所有する離島でございます。私有地なので地図に詳細は載っていません。その歴史は室町、江戸の頃まで遡ると言われています。白青島は、島そのものが白青学園という全寮制の中高一貫校で、日本最南端に位置する私立学校なのです。ですが、世間には白青学園のことは勿論、白青島の存在自体を一切公表しておりません。白青島と白青学園の存在について知る者は、国内でもごくごく限られた身分や階級の者に限られます」

「……つまり、お金持ちの家の子供が世間に隠れて通う名門学園ってこと?」

「左様。ですが、俗に言う富裕層の中でもトップクラス、この国や世界そのものを支え動かす力を持つ屈指の名家の子供のみが、この島を訪れ学園に在籍することを許されます。白青学園は創立当初からの決まりで、一般募集は一切いたしておりません。わたくしの主である織田晃一校長率いる理事会が、国内だけでなく世界規模で島を訪れるべき子供を選び、直々に彼らを呼び寄せるのです。それ以外の入学方法は、白青学園には一切存在いたしません」

「……要するに、あたしはその物好きな校長に選ばれたってわけ?」

「左様でございます」

 後方の小窓から流れ込む、太陽光を孕んだ潮風が頬を打つ。

「白青学園は世間一般の学校とは違います。共学ではありますが、学年ごとの人数はまちまちで、クラスや部活動といった縛りはございません。学園の教育方針は建学の精神に基づき、個々が秘める潜在的才能を国内最高レベルの特別教育で鍛え伸ばし、やがては国境を越えて活躍できる人材を育て上げること」

「……そんな超をいくつつけても足りないような大金持ち専用の名門学園に、どうしてあたしが勝手に選ばれて、強制的に連れていかれなきゃならないの? あたしの家はお世辞にも裕福とは言えない庶民家庭だから、名前すら知らない校長とやらに選んでもらえる心当たりなんてないんだけど。言ってる意味、全然分かんない。それにあたしは卒業後の進学先が既に決まってたのよ。なのに何でわざわざそんな、国どころか世界の果てみたいな陸の孤島に連れていかれなきゃならないわけ?」

「それは白青島に到着後、弥琴様が織田校長に直接お尋ねしてみればよいかと」

「校長に? 何それ、あなたが教えてくれるんじゃないの? あなた、明らか全部知ってるでしょう」

「わたくしより明確かつ適切に、校長はお答えになられるでしょう。あの方を差し置いてまで、わたくしにできることなどございません」

 苛立ちが一気に湧いた瞬間、胃を占める吐き気も激しくなった。起きていることに耐えられなくなった弥琴は、もう一度横になって今度こそ深く眠ることにする。

 神経を張り詰めたまま酔いと戦い続けるうちに意識はすうっと遠くなり、次に目を開けた時には、船は簡素な船着場のようなところに停まっていた。

 船室に菜子の姿が見えないことに気付き、弥琴は気持ちが悪いながらもゆっくりと起き上がり、ふらつく足取りでデッキへ出る。

「ああ、弥琴様。お目覚めになられましたか」

「……着いたの?」

「はい、長旅ご苦労さまでした。無事、白青島に到着しました。今、橋を架けます。もう少々お待ちください」

 菜子は陸と船の間に幅広の鉄板を渡し、一足先に陸地へ下りると、怖々と立ち竦む弥琴に手を差し伸べた。弥琴はその手を借りて船を下り、深呼吸を繰り返して荒れ狂う胃に新鮮な空気を送り込む。そうして顔を上げた瞬間、瞳に飛び込んできたのは青に満ちた景色だった。

 見渡すかぎりどこまでも広がる大海原。宝石をも凌駕するような純度と色合いをした水面は、雲一つない空で輝く太陽の光に燦々と照らされ、底まで見透かせそうなほどの透明感できらきらと揺らめいている。春とは思えない暑さの中、からりと風が吹き抜けて、彼方へ行くほど磨き上げられたように鮮やかになっていく青い海は、まるで歌にも似た軽やかさで波音をさやさやと奏でていた。

 なんて深く澄みきっているのだろう。こんな美しい青は見たことがない。絵画や写真集で見るそれよりも鮮烈な迫力を持って瞳に映る海の色。まるで命の源を目の当たりにしたみたいだ。これまでとはまるで違う意味の衝撃に、弥琴は心の底から打ち震えていた。

 生きとし生ける全ての命の奥底に秘められた原風景。そんな比喩が唐突に浮かぶほど、心がこの色に芯から揺さぶられている。感動なんて言葉ではとても足りない。衝撃や驚愕といった言葉をも超越する勢いで、白青島の海の青は弥琴の胸をひたすら圧倒した。

 懐かしい。そんな気持ちがこみ上げてきて、弥琴は知らないうちにほろほろと泣いていた。心が痛くて零れた涙ではない。まるで地の底からこんこんと泉が湧き出るみたいに、名前が到底思いつかない感情から静かに溢れた涙だった。初めて見た景色のはずなのに、初めてとは違う感触が胸を奥から満たしていく。

 出会ってしまった。いや、そうじゃない。やっとまた会えた。それだ。初めて踏み締めた土地を抱く海を見て、どうしてそんな感慨に駆られてしまうのか。自分でもさっぱり訳が分からないのに、涙ばかりがとうとうと溢れて洗うように頬を濡らす。

 ふわりと香る潮風が、肩に届くか届かないかぐらいの黒髪の間をさらりとすり抜ける。その風を吸い込んだ途端、神経や細胞といった体の隅々までもが瑞々しく澄み渡った気がした。本州では味わったことのない感覚が、頭上から爪先まで知らない爽やかさで沁みていく。

「美しいでしょう」

 振り返ると、クルーザーを見送った菜子が横に並んでいた。彼女の言葉で弥琴は我に返り、そして激しい自己嫌悪に陥った。来たくもない土地へ連れてこられたというのに、南の島の象徴ともいえる色をした海を見ただけで、こんな気持ちになるなんて。考えるよりも先に順応してしまった自分を、弥琴は内心で力のかぎり嘲り罵った。

「青い空、青い海、白い雲、眩い砂浜、豊かな緑、明るい陽射し……長い時を経ても絵に描いたような美しさのまま在り続けている。白青島を知る者は皆、この島を楽園と呼びます」

「楽園?」

「そう。ここは地上の楽園。選ばれた者だけが立ち入ることを許される、白と青の楽園です」

「楽園? 明るすぎる監獄の間違いじゃなくて?」

「いえ、楽園です。先程も申しましたとおり、この白と青の島には選ばれた者しか訪れることができません。つまり、弥琴様はその選ばれし者。十五の誕生日を迎えた日からこの楽園の住人になることは、いわば定められた運命だったということです」

 定められた運命。その言葉を弥琴は胸の中で反芻する。そうした瞬間、弥琴の脳裏で何かがぱんと音を立てて弾けた。

 まさか。そんなはずはない。ありえない。あまりにも突飛すぎるし、明らかに荒唐無稽だ。とても信じられない。しかし、いくらなんでもこれはおかしい。だけど、驚くぐらいよく合致している。こんなことってあるのだろうか。

 弥琴は打ちひしがれた面持ちで海を見ていたが、やがてその青からついと視線を外す。そして、今しがた胸に去来した感情を脳裏から全力で消し去った。何てことはない。これは単なる偶然だ。一度にいろんなことが立て続けに起こった上、飛行機と船を乗り継いだ長旅で疲れているし、いつになくひどい船酔いを経験したこともあって、心が麻痺しているだけだ。そう自分に言い聞かせて、先導する菜子の後についていく。

 白青学園の校門は、クルーザーが着いた小さな港から少し歩いた森の入口にそびえていた。弥琴が見るかぎり、白青島は森のように広がる常緑の木々に全体が囲われているようで、船着場や校門に立ってみただけでは、その奥にある島の内部はとても見通せない。

 緑深い森の入口にある校門といっても、その姿は常緑樹に隠されていて、船着場からは一切見えない。白亜の校門はギリシャ建築を思わせる荘厳な造りで、背が高くて趣ある門構えをしており、上に槍形の柵を設えた塀が左右に長く伸びている。恐らく脱走防止と不法侵入防止の役割を担っているのだろう。

 不可思議な紋様が象られたそれがゆっくりと軋み、二人がちょうど門の前で足を止めた絶妙のタイミングで開いていく。

「ようこそ、白と青の楽園へ。弥琴様、お待ちしておりました。今日からここはあなた様の楽園です」

 弥琴は一歩踏み出すことをひどく躊躇う。門の先へ進めば最後、今度こそもうどこにも戻れないし逃げられなくなる。弥琴は唇を一文字にきつく結ぶと、覚悟を決めて菜子が待つ門の中へと歩み入った。

 白亜の校門は二人が入ると驚くほどの早さで閉ざされた。厳つく不気味な残響が森にこだまする。

「こちらの校門を管理しているのは学園本部内にある守衛室。守衛室は学園だけでなく、白青島全体の出入りの管理や警備などを担っております。この門は船着場から学園へ繋がる唯一の入口で、ご覧のとおり全体を塀で囲われているため、各自が勝手に外へ出ることは叶いません。万が一の事態が起きれば柵に張り巡らされた赤外線警報装置が作動して、すぐに係員が駆けつけます」

「この島自体の入口となるのもさっきの船着場だけなの? 砂浜や崖や、着ける場所は他にもありそうだけど」

「砂浜や崖は島なので無論ございますが、どこも生徒の立入りは固く禁じられています。当然ながら、そこにも常に警備の目が光っております。白青島において、監視の目が届かない箇所は一つもございません。島全体は勿論、周辺の海域も常に監視・警戒されています。白青島と縁のない人間が不用意に立ち入ったり、島の存在を知って外部に漏らしたりすることのないように」

「変な話。それのどこが楽園なの? 勝手な理由で無理やり連れてこられた上、こんな陸の孤島での生活を三年も強いられるなんて。悪いけど、あたしには刑務所にしか思えないわ」

「それは実際にここで暮らしていけば自ずと分かります。今日からここが弥琴様の生きる場所となるのですから」

 空を隠すほど鬱蒼と茂る森を、二人は敷石を辿りながら歩いていく。

「この森は《始まりの森》と呼ばれています。校門から入ってすぐ広がるこの森を抜けないと学園へは辿り着けません。楽園への最初の一歩を踏む場所、ゆえに《始まりの森》」

 鮮やかな濃い緑が豊かにそびえる風景は、森を知らない弥琴の目にとても新鮮に焼きついた。テレビや雑誌でよく見る自然公園を歩いているみたいだ。だが、この森は人の手で整備されたというより、自然そのままの姿で息づいている印象がある。

「白青島には森が多くございます。島全体のほとんどが森と言っても過言ではありません。建物と建物の間、場所と場所の間には必ず緑深き森があります。これは自然を何よりも尊び、なるべく手を加えずありのままの姿で共生したいという、織田家代々のご意向に基づくものと聞いております」

 森の中に伸びる遊歩道には、くすんだ銀色の敷石が等間隔で整備されている。比較的茂みの少ない脇道は、天使や女神を模した石膏像や、熱帯地域特有の鮮やかな花で飾られていた。うららかというよりまるで真夏のような陽気に、弥琴は額から汗を零しながら、初めて踏む地の自然美に圧倒されていた。

「森には必ず道が整備されております。敷石を辿りながら標識に沿って行けば、必ず目的の建物まで辿り着けます。逆を申しますと、道がなければその先に建物はございません。森を行く際は、整備された道より脇に逸れることはなさいませんよう」

「逸れるとどうなるの?」

「立入禁止区域とされる場所に辿り着いてしまう可能性がございます。そうなれば校則違反とみなされ、懲罰規定によって罰則を受けることになります」

「道を間違えただけで随分と厳しいのね。迷子になることだってあるでしょうに」

「道から逸れるなと再三注意している以上、脇へ行って立入禁止区域に辿り着くのは本人の過失であり責任です。整備された道だけを歩いてさえいれば、校則に触れることなどないのですから、不当な処置ではございません。弥琴様もどうぞご留意くださいませ」

 やや乱暴な理屈に思えて、弥琴はつい目をすがめる。反論の余地などないと切り捨てるのと同時に、むやみやたらに好奇心や探究心など働かせるな、無意味かつ余計な真似はするなという警告のようにも受け取れた。

 《始まりの森》を抜けた途端、開けた大空から眩すぎる光が降り注いだ。それまで比較的涼しい道を歩いていたせいか、上空を遮るものが何もなくなった森の外は暑さがひときわ厳しい。

 校門から《始まりの森》を通ってさらに続く小径を行くと、そう歩かないうちに六階建ての大きな建物が姿を現した。チョコレート色の外観は年季が入っているが豪奢な佇まいで、ヨーロッパにありそうな古きよき時代の高級ホテルを連想させる。

「こちらは本館の《サザンクロス》と申す建物で、白青島の中枢となる学園本部でございます。総務、教務、医務、財務……白青学園の運営や生徒の生活支援、島全体の保安管理といったあらゆる機能がここに集約されています」

「すごい綺麗……。随分と豪華な建物ね。まるで外国の美術館かホテルみたい」

「白青学園を築いた初代校長が、ヨーロッパ建築に造詣の深い方だったそうです。なんでも学園の建物の設計図は全て初代校長自らが書き起こされ、建築工事にも多岐にわたって深く携わられたとか。白青島は全体的に年季の入った建物が多いので、時機を見て修復工事を行ったりもしていますが、基本的にはどこも創建当時の姿のまま現在も機能しています」

「あっちの建物は何?」

 弥琴は《サザンクロス》の少し先に見える建物を指差した。

「あちらは校舎でございます」

「えっ、あれが? あんなお洒落な建物が校舎なの?」

 菜子が校舎と呼んだ建物は乳白色の外壁が美しい三階建てで、規模としては学園本部よりやや小さいと思われるが、外観の古めかしさや気品溢れる佇まいは負けていない。

「手前に見えますのが中等部校舎の《カストル》。その奥には高等部校舎の《ボルックス》が繋がっており、二つで一つの建物となっております。弥琴様は高校生ですので、来月から使われる学び舎は《カストル》の奥にある《ボルックス》となります」

 菜子は学び舎と言うが、弥琴にはどうしても地中海沿岸のパノラマにある由緒正しい建物を模したものにしか見えなかった。弥琴は言葉も忘れて唖然と立ち尽くしていたが、菜子が《サザンクロス》へと入っていくのに気付き、慌ててその後を追いかける。

 外国映画でしか見たことがない、歴史ある高級ホテルのロビーを彷彿させる回転ドアから入ると、床や壁が全て大理石で造られたただ広い空間が現れた。灼熱の太陽を浴び続けた肌が、途端に程よく効いた冷房に冷まされたことよりも、目の前に飛び込んできた景色の壮麗さに圧倒されて、弥琴は先程から開きっぱなしだった口がさらに塞がらなくなる。

 そこは三階まで吹き抜けとなったエントランスホールだった。中央に背の高い天使像がそびえ立つ噴水があり、その真上には金色にきらめく巨大なシャンデリアが吊り下がっている。壁沿いには美術品のようなテーブルやソファが置かれ、学校の施設というよりホテルやコンサートホールのロビーを思わせる高級感に満ちていた。

 想像の遥か上をいく豪華さに弥琴はぽかんとしながらも、周囲を怖々と見回しつつ歩を進める。シャンデリアの柔らかな光に満ちたエントランスホールは人影がまばらで、壁際のソファセットで語らう制服姿の女子たちが数人見えるぐらいだ。白亜の大理石で造られた噴水は、時間によって出る水の形が変わる仕組みらしい。

 噴水の横をまじまじと見つめながら通り過ぎ、変わらず菜子の後ろをついて歩いていた弥琴は、足下が大理石の床から深紅の絨毯に変わったことに驚いて足を止める。

 見上げると、そこは二階へと続く豪奢な大階段だった。両脇の手摺りはレトロな風情の黄金色で、大人数で記念撮影ができそうなほど横幅が広い。踊り場で階段が二手に分かれているという造りは、弥琴に一度だけ行ったことのある格式高いコンサートホールのそれを思い起こさせた。

 だが、弥琴はそれとは違うものにも目を奪われる。大階段の踊り場の壁の中央に、縦長の大きな絵画が飾られていた。弥琴は吸い寄せられるように大階段を昇り、真正面に立ってその絵画を呼吸も忘れて仰ぎ見る。

 それは一人の女性の肖像画だった。袖のない白のワンピースに赤のベルトを腰に飾り、アイボリーの日傘を差してこちらを見つめている。その年齢は見た目だけでは不思議と量れず、あどけなさの残る顔立ちだけを見れば少女のようにも思えるし、小柄だがすらりとした身のこなしといった全体的な印象からすれば、早熟の大人の女性にも見えてくる気がする。砂浜の波打ち際に立ち、濡れたように艶めく長い黒髪を風になびかせ、頬を柔らかな薄紅色に染めて微笑む彼女は、眩しい橙の光に照らされた海を背にしており、一見しただけでは、描かれている陽の光が朝と夕のどちらであるかは分からない。

 くすんだ金色の額縁の中に佇む彼女は、髪の長さや背丈、年齢層といった見た目の印象こそ違うが、弥琴と瓜二つとも言うべき面差しをしていた。

 自分とこんなにも同じ顔をした人間が巨大な絵画に描かれている。弥琴は茫然と絶句したまま、目の前に飾られた絵に見入っていた。

「この島の宝でもあります絵画、名を『黄昏』と申します」

 その声に我を取り戻して振り返ると、菜子がいつのまにか隣に立っていた。

「この学園に創設当初から伝わる絵と聞いております。白青島の主である織田家が家宝として大切にされている品で、この学園のシンボルであり、守り神でもあります。由来といった詳しいことは一切語り継がれておりませんが」

「この人は……誰」

「さあ。わたくしを始め、誰も知り得ておりません」

「だっておかしいじゃない。どうしてこんなに……あたしに似ているの」

「全くもって不詳でございます。ですが、この絵が、弥琴様が白青島に来られることになった理由の一つであると、それだけはお伝え申し上げます。それ以上のことは、わたくしの口からは申し上げられません」

「知らないと言っておきながら、実はよく知ってると言わんばかりの口ぶりね。なぜ隠し立てするの? 本当に知らないから? それとも言うなと口止めされているから?」

「どちらでも、弥琴様のお好きなように。いずれ時が来れば知ることとなるでしょう。しかし、それは今ではございません。胸中お察しいたします。ですがどうか、その時が来るまでご辛抱くださいませ」

 弥琴は真正面に向き直り、改めて巨大な絵画をじっくりと見つめ直す。

 美術の才に秀でた者が描いたのだろう。ぱっと見た時の第一印象では、アマチュアを思わせる要素は少しも見受けられない。弥琴は美術に全く詳しくないが、高名な美術館に飾られていても遜色ないくらい、とてもよくできた作品だと思った。人物や背景の描き方や色使いも美しいが、サインがないのでこの絵の作者が誰なのかは推察できそうにない。

 恐らく何の知識も持たずにこの絵を見たら、その質の高さにたちまち目と心を奪われるだろう。しかしそれは、モデルとなっている女性が自分とそっくりの顔をしていなければの話だ。ここまで自分とよく似た人物画を目の当たりにすると、感動めいた気持ちよりも薄気味悪さのほうが勝ってくる。

 頭上から不意にかたんと音が落ちてきた。目を瞬かせた弥琴がついと見やると、歪な形をしたくすんだ金色のボルトが絨毯の上に転がっている。弥琴は首を傾げながらも、落下してきたらしいそれを拾おうと、少し腰を落としてボルトに手を伸ばした。

 すると次の瞬間、がたんと大きな音が唐突に響く。何事かと思った弥琴が顔を上げると、それまで壁に飾られていた縦長の絵画が、真下にいる弥琴めがけて前のめりに落ちてくるところだった。

「弥琴様!」

 息を呑んで硬直するより早く、弥琴は菜子にぐいと思い切り腕を引っ張られた。派手な落下音がロビー全体にぐわんと響き渡り、がしゃんと何かがひび割れる音も同時に生まれた。ついさっきまで弥琴が立っていた場所を、ボルトが外れて落下した巨大な絵画が覆い隠している。それまで噴水の清かな水音だけが満ちていた空間に、不吉な轟音の名残が残響とともに立ち込めた。

「弥琴様、お怪我はございませんか?」

 弥琴はこくこくと頷きながらも、たった今起きた出来事を呑み込みきれずにいた。

「咄嗟のこととはいえ、ご無礼をいたしました。大変申し訳ございません」

 菜子は慄き一つ見せず、沈鬱な面持ちで頭を下げる。しかし弥琴はすぐに言葉を返せなかった。数十秒ほど経ってからようやく息を吐き出して、弥琴は差し伸べられた菜子の手を借りて立ち上がる。

「大丈夫。……助けてくれて、ありがとう」

 突如起こった派手な音を聞きつけて、大階段の下には小さな人だかりができていた。白のワイシャツに黒のネクタイを締めた職員が二名、二人の元に泡を食った顔で駆けつけてくる。彼らは無残に落下した絵画を見ると、慄然とした顔で立ち竦んだ。

 菜子は弥琴の肩を抱いたまま、それまでにはなかった剣幕で彼らを一喝した。

「何をぼうっとしているのです! 早急に処理をなさい。これは事故です。不用意に騒ぎ立ててはなりません。他の者たちにもそう伝えなさい」

「はっ。畏まりました、牧野様」

「校長先生にはわたくしから報告いたします。迅速にこの場を直し、いたずらに生徒たちの不安を煽らないよう。この方はわたくしがお連れいたします。質問や他言は一切許しません。さあ、早く後始末を」

「仰せのままに」

 二人の職員は菜子に最敬礼すると、すぐにてきぱきと動き始めた。菜子は未だ固まったままの弥琴に優しく笑いかけ、

「弥琴様、どうかお気を確かに。この度は大変失礼をいたしました。もう大丈夫です。さあ、まいりましょう。引き続き、わたくしがご案内いたします」

 菜子に手を引かれ、弥琴はよろよろと大階段へと一歩踏み出した。そしてふと顔を上げた時、先程まで数人だったはずの人だかりが、ほんの短い間で一気に数十人に増えていることに気付く。

 そのいでたちから、彼らは皆この学園の生徒だとすぐに分かった。集まった生徒たちは男女問わず、大階段を囲むようにしてざわざわと群がり、大階段を下りる弥琴の顔を不躾に眺めてはこそこそと囁き合う。それらの眼差しはどれも、まるで異形の化け物と相対したかのような、見事なまでの畏怖や蔑視、戦慄や好奇に満ち満ちていた。問答無用でそれらの対象となった弥琴は、眺めてくる彼らをあからさまに不快げな顔で睨み返す。

 なんて失礼な子たちだろう。不快感というよりも腹立たしかった。弥琴は何もしていない。ただあの時、突然落ちてきた絵画の前にたまたま立っていただけだ。弥琴が触れてもいないのに、あの絵画はいきなり落下してきた。そんなものの下敷きになりかけた自分は、誰の目から見ても明らかに被害者であるはずだ。それなのになぜ、悪事を起こした犯人のような目で見られ、顔も知らぬ者たちのもの言いたげな視線を浴びねばならないのか。

「道を空けなさい」

 徐々に増えていく野次馬に、弥琴の肩を抱いて進む菜子が鋭い声を飛ばす。集まり来る生徒たちの間を縫うようにして、弥琴は菜子に連れられ本館サザンクロスを後にした。

 冷房のよく効いた建物を出た瞬間、からりとした熱気が一瞬で体感温度を逆にした。菜子は校舎の建物が見える方向に広がる森へ、弥琴を引き連れてすたすたと進んでいく。

「こちらの森は名を《学びの森》と申します。学び舎である《カストル》と《ボルックス》の最も近くに位置する森という意味でその名がつけられたそうです。わたくしたちが今から向かいますのは、その《学びの森》から次の森へと繋がる先にある特別な場所」

「ねえ、さっきのあれは何?」

「不測の事故でございます。どうかお気にならさぬよう」

「そういうこと言ってるんじゃない。あの絵のこともそうだけど、野次馬みたいに群がってきた生徒たちのことよ。何なのよ、あれは。人の顔を不躾に、まるで幽霊でも見たみたいにじろじろ眺めてひそひそ話。不愉快なんてもんじゃない、失礼にも程があるでしょう。あたしはあの絵に触れちゃいない。たまたまあれが勝手に落ちてきただけよ」

「左様でございます。弥琴様に非は全くございません」

「あんな大きな絵がこっちめがけて急に落ちてきたら、誰だってびっくりして当たり前じゃない。危うく下敷きになるところだったのよ、あたしは。なのに集まってきた子たちの反応。あれじゃまるで逆にあたしが悪いみたいじゃない」

「弥琴様が不快に思われるのも当然です。学園の者たちが大変失礼な真似をいたしました。彼らに代わり、深くお詫び申し上げます」

「ああ、むかつく。超がつくお金持ちの子供って、ただお金が有り余ってるだけで、礼儀や気配りなんて言葉を知らないんじゃないの」

「返す言葉もございません。彼らには校長を通じて、後ほどきつく灸を据えておきます。どうかお許しを」

「適当なことばっか言わないでちゃんと教えてよ。あの絵は何? モデルになってる人は誰? 他の子たちのあの反応は何? あたしね、ここに連れてこられてからずっと全く訳が分かってないの。いい加減ちゃんと全部説明してよ」

 菜子は何も言わない。どんな文句や悪態も泰然と受け流す静かな背中は、これ以上どう食ってかかっても無駄だと言外に告げているようだった。弥琴は凛と構えたその背を、精一杯の険を込めて睨みつけるしかできなかった。

 二人は《学びの森》を抜けて一続きに建てられた校舎の横を通り過ぎるなり、またしても緑深い森の中を歩いていた。太い幹の木々が立ち並ぶ隙間から、真っ白のきらめきを放つ砂浜がちらちらと見える。その無垢な輝きに、弥琴は目が惹きつけられた。

「ねえ。あそこの砂浜、とても綺麗ね。あたし、海って遠くから眺めたことしかないの。砂浜ってテレビや写真でしか見たことなかったけど、白砂青松って本当にある景色なのね」

「あちらに行ってはいけませんよ。あの場所、《白の浜》は立入禁止区域の一つです」

「砂浜で海を眺めるのもだめなの? 何で?」

「水難事故に遭う恐れがございます」

「呆れた。随分と大袈裟ね。別に泳ぐんじゃなくて、ただ行って海を眺めるだけじゃない。こんなに綺麗なビーチを持ってるのに、校則が厳しすぎるのはどうかと思うわ。楽園とか言いながら、あれがだめとかこれもだめとか多すぎない?」

「規則を正しく守ってこそ、楽園の恩恵を享受できるというもの」

「上っ面だけの大人の理屈ね。建前ってやつ? ばかみたい」

「守らねばただ己で己の首を絞めるだけのこと。わたくしたちはそんな茶番を望んではいません。どの世界のどの場所でも、ルールの遵守は最低限のマナーであり、それによって保たれる秩序がございます。白青学園の校則は、白青島で暮らす生徒たちが楽園の恩恵を惜しみなく享受するために定められたもの。決して無意味な縛りではございません」

 打ち寄せるさざ波の軽やかな音が聞こえる。その澄みきった美しさに直に触れたいと思った時、嫌だと抗いながらも島の空気に順応していく弥琴の中で、またしても嫌悪感の嵐が吹き荒れた。

「こちらの建物は図書館と実技棟でございます。右が図書館で名を《スピカ》、左が実技棟で名を《ポラリス》と申します。実技棟は地下一階から地上二階までが運動施設、三階から五階までが個人用の実技施設となっております。二つの建物は地上と三階にございます連絡橋で繋がっており、相互の行き来が可能でございます」

 建物のちょうど真裏に広がる森を歩いているため、その正面を直接目にすることはできないが、どちらもまるで古代ギリシャの神殿を思わせる荘厳さだと感じた。白亜の壁の眩しさやその規模から、後面を歩きがてらに眺めただけでも、他に勝るとも劣らない豪奢な建物であることは容易に分かる。

 図書館と言われた右の建物は、弥琴がよく通っていた地元の公立図書館よりも大きかった。実技棟と呼ばれた左の建物も、同じく地元にあった総合体育館とは比べ物にならない規模だ。

 ごく限られた者しか暮らせない陸の孤島に、こんな豪華で巨大な設備は果たして必要なのだろうか。そんな疑問が素直に浮かんでしまうくらい、今まで弥琴が生きてきた世界の価値観と、この島に広がる現実はあまりにかけ離れている。

 先程の動揺がすっかり冷めた弥琴は、菜子の横を歩きながら白青島の景色を観察していた。少し前まで見えていた砂浜は遠ざかり、代わりに黒色で背の高いフェンスが延々と伸びている。恐らく下は崖なのだろう。岩壁に打ち寄せては砕ける波の音が絶えず聞こえてくる。

「わたくしたちが今歩いておりますのは、校舎の裏から始まり《スピカ》、《ポラリス》に沿って広がる森。名を《奏での森》と申します。この森は先程ご案内した《始まりの森》より深く広く、そして断崖絶壁に近く、危険な箇所も他に比べて多くございます。そのため《奏での森》は立入制限区域で、守衛室を通じて校長の許可を得た者のみ立入りが一時的に許される仕組みになっております。弥琴様は今回あらかじめ許可を賜っておりますのでご安心ください」

 すたすたと歩いていた菜子がいきなり立ち止まり、倣うのが遅れた弥琴はその背中にどんとぶつかった。

「いきなり何よ!」

「到着しました。こちらです」

「はあ?」

 痛む鼻を押さえて前を見ると、そこには丸くて大きな池があった。緑深い森の開けた場所にあるそれは、池というよりごく小さな湖といったほうが正しい気がする。濁りなき翡翠色の水面は落ち葉一つなく、水晶のごとき透明感と底知れぬ深さをたたえていた。池の真ん中には人工の島が浮かび、人一人分の幅の桟橋が一本だけ架けられている。

 その人工島にあるのは、鳥籠の形をした瀟洒なサンルームだった。建物に外壁はなく、壁と呼ぶべき側面の七割はガラス張りになっていた。尤もその全てを白のレースカーテンが包んでいるので、外から内部を詳細に窺うことはできない。

「この池は森の名にちなみ、《かなでいけ》と呼ばれております」

「池? 湖じゃなくて? どう見たって池より大きいでしょ」

「島にある建物の名は《アルクトゥールス》。校長がご自身専用に造られた私的なサロンでございます。校長はこちらでお待ちです」

「えっ」

 ここに白青島を牛耳る校長がいるのか。無理やり連れてきた新入生との対面の場に、校長室や会議室ではなく個人用サロンを選ぶ。弥琴にはまず浮かびそうにない発想だった。

 丸太を磨いて作られた桟橋を渡り、胡桃色をしたサロンの扉の前に立つ。少し離れた位置で怖々と立ち竦む弥琴に構わず、菜子は慣れた仕草で呼び鈴を鳴らした。りんと洒落た音が長めに響き、数秒後にマイクを通して応答が返ってくる。

〈はい〉

 ぞくりとするほどなまめかしい響きをした男性の声が聞こえた。弥琴は思わず固唾を呑んでさらに竦む。

「菜子です。遅くなりまして申し訳ございません。弥琴様をお連れいたしました」

〈待っていたよ。どうぞ中へ〉

「はい、失礼いたします」

 菜子の言葉が終わった瞬間、胡桃色の扉が自動で開いた。

「さあ、どうぞ」

 唖然としていた弥琴は、菜子に促されてはっと我に返る。このまま彼女に従い入るべきか否か。弥琴は躊躇を払うように首を振ると、意を決してサロンの中へと足を踏み入れた。

 驚くほど広いというわけではないが上品な玄関と、鮮やかな木目が目を惹く廊下を抜けると、そこには眩いまでの白い光に満ちた空間が待っていた。ガラス張りの天井は見上げるほどに高く、その半分にだけレースカーテンが引かれ、クリスタル製のシャンデリアが吊り下がっている。

 あまりの眩さに思わず顔を手で隠した弥琴は、大きな円形のガラステーブルの向こうに佇む男性に気付くのが遅れた。

「やあ、初めまして」

 明るすぎる光が溢れた室内に目が慣れてきて、弥琴はようやく校長と呼ばれる人間と相対する。

 賛美の言葉以外浮かばないほど、実に見目麗しい男性だった。彫刻みたく無駄のない体躯に、男性の中でもずば抜けて長身の部類に入るだろう背丈。漆黒のスーツを華麗に着こなす様はまさに紳士で、癖のない黒髪に面長の顔は、完璧を越えてもはや芸術美の域だった。

 これほどまでに、男性に見惚れてしまったのは初めてだ。生まれてからこの方まで、欠けた部分などあったことがないと言わんばかりの容貌からは、その実年齢などはとても量れそうにない。二十代後半、三十代、四十代、そのどれもがぴったりと当てはまる気がする。

 サンルームの扉のすぐ側で彼と相対した弥琴は、開いた口が塞がらないまま瞬きばかりを繰り返していた。同じ人間という種族の中に、こんなにも美しい男性が存在するなんて。しかしその反面、あまりに隙がなさすぎてかえって怖い。

「ようこそ、白と青の楽園へ。弥琴」

 彼は流麗な仕草で一礼した。二人の視線が絡み合い、弥琴は思わず身を引きかける。彼の眼差しの引力は凄まじく、一度惹きついたら二度と離れないのではと怖くなるほどだった。それは魅力というより、もはや一種の才能だろう。黒曜石のようなその瞳は、弥琴の視線を惹きつけてやまないだけでなく、あらゆる人の嘘や真意、思惑や打算を瞬時に見抜いてしまう力をも秘めている。単に見た目が整っていて目力があるのとは訳が違う。

 ひときわ秀でた洞察力と、己の言葉や主張を周囲に是とさせるだけの実力を備えた辣腕の実業家。それが、弥琴が彼に抱いた第一印象だった。これが大袈裟や誇張なら、むしろそのほうが幸せだったかもしれない。そう思ってしまうぐらい、彼が放つ目力とオーラはあまりに強烈だった。

「私は織田晃一。この白青島を有する織田家の当主であり、白青学園の校長兼理事長を務めている。どうぞよろしく」

 織田はテーブルの向こうから歩み寄り、怖気づく弥琴にすっと手を差し出した。弥琴は応えるべきかどうか逡巡するが、彼が醸し出すオーラに半ば気圧される形でおずおずとその手を握り返す。織田の手は弥琴のそれより一回り以上は大きく、思いの外強い力で握られて戸惑った。

 織田はコーヒーカップが置かれたガラステーブルの向こうの席に戻り、立ち尽くす弥琴に優雅な微笑を向ける。

「遠路はるばるよく来てくれたね、弥琴。待っていたよ。さあ、座りなさい。君のためにとっておきのものを用意させたんだ。弥琴、ケーキは好きかい?」

 菜子が手前の椅子をすっと引き、棒立ちの弥琴に座るよう促した。勧められるまま腰掛けた弥琴は、真向かいに座る織田と改めて向き合う。曇りなきガラステーブルの中央にはベビーピンクのバラが飾られ、弥琴の前には鮮やかで瑞々しい輝きを放つ苺タルトとティーポットが並べられている。

「本州からここまでは遠かっただろう。自家用セスナを使えればよかったんだが、生憎と今は定期点検中でね。民間航空に長時間の船旅と、実に酷なことをさせてしまった。弥琴は苺が好きだそうだね。甘いものを食べると疲れがなくなるよ。さあ、召し上がれ」

 弥琴はタルトと織田を交互に見て深く熟考する。艶やかで可愛らしいスイーツの誘惑はものすごく捨てがたいが、素直に礼を言ってうきうきと口をつけるのは何だか癪だった。脳裏で渦巻く百万語のどれを最初にぶつけるかを考えるためにも、目の前のタルトをひたすら睨みつけて押し黙る。

 織田は優美に両肘を突き、組んだ手に顎をそっと乗せて弥琴を見つめる。菜子は弥琴のカップに香り高い紅茶を注ぐと、会釈をして静かに奥へと下がって気配を消した。

 爽やかな陽光に満ちた沈黙は、まるで忍耐力の勝負のようだ。織田は自ら口火を切る気はないらしく、黙ったままの弥琴をじっと見つめて待っている。

「あの」

 口を開いた瞬間、織田の唇の端に僅かな微笑が宿る。それを見た弥琴は、延々と続きそうだった沈黙の重さに負けたことをたちまち深く後悔した。

「これをいただく前に、訊きたいことが山ほどあります。答えてくれますか?」

「現時点で答えられることならば」

「……どういう意味?」

「そのままの意味だよ。答えられることには嘘偽りなく答えるが、答えられないことをそのまま答えることはできない」

「何ですか、それ」

「要は、私は嘘をつかないということだよ。君の訊きたいことは何?」

 程よく冷房の効いた空気のおかげで、沸騰しかけた思考が音もなく冷まされる。弥琴は紅茶とタルトには手をつけず、まっすぐに織田を見据えて言葉を紡いだ。

「あたしの両親は誰ですか?」

「育ての親は、養育係として君と今まで暮らしてきたあの二人だ。だが、彼らからも聞いているとおり、あの二人は君の生みの親ではない」

「じゃああたしの実の両親は? この島にいるんですか?」

「今は答えられない。答えがないわけではないよ。今がその時期ではないというだけだ」

「時期って何ですか? 答えられない疚しい事情でもあるんですか?」

「それは君の想像に任せよう。私の言葉を信じるも信じないも、受け入れるも疑うも全ては弥琴の自由だ。今私から君に告げられるのは、君の生みの親は君がよく見知ったあの二人ではないということ、それだけだ」

「あたしはなぜこの島に来ることになったんですか? いったいいつ、誰がそう決めたんですか?」

「それが君の宿命だからと言う以外他にない。君が十五の誕生日を機に白青島へ来ることは、君が生まれた時から既に決まっていた。そして、それを十五の誕生日まで秘密にしておくことも」

「決めたのは誰ですか?」

「我々織田家だよ。遥か昔にこの白青島に住み着き、白青学園を作った私の祖先がそれを決めた。私はそれに従って君を呼び寄せたまで」

「じゃあ、あたしを呼ぶと決めたその人と会わせてください」

「白青島の現最高責任者は私だよ。したがって、君をここへ呼び寄せると最終的に決めたのも私。今この島には、私より上の地位と権力を持つ者はいない」

「あたしは故郷のあの街で生まれて以来、ずっとあそこで育ちました。こんな場所は知らないし、来たこともありません。この島に来ることがずっと前から決まっていたといきなり言われて、ああそうですかって素直に納得できると思いますか?」

「納得するしないは君の自由だよ。私は納得しろと強制する気はない。しようがしまいが、君がこれから三年間、この島で暮らしていく事実には何ら変わりがないのだから」

「じゃあ話を変えます。学園本部と呼ばれる建物にある、大きな肖像画に描かれた女の人は誰ですか? 怖いくらい、あたしとそっくりですよね」

「ああ、よく似ているね」

「菜子さんに訊いても答えてはくれませんでした。でもあなたは絶対知ってますよね」

「知っている。だが、今はそれを教える時期ではない」

「あの絵、あたしが見てたらいきなり落ちてきました」

「ほう」

「言っときますけど、あたしは触ってません。だから、あたしのせいじゃないはずです」

「そんなこと、私は微塵も疑っちゃいないよ」

「だけど、周りにいた人たちはそうじゃなかったみたい。片付けに駆けつけた職員の人はものすごく青い顔をしてました。物音を聞きつけて集まってきた生徒たちもみんな、お化けでも見たような顔であたしのことをじろじろ見ていて。まるでお前が落としたんだ、気持ち悪いとでも言わんばかりに。正直言ってものすごく不愉快で腹が立ちました」

「彼らの非礼は私が詫びよう。恐らくいきなり大きな物音がして、彼らも驚いたんだろう」

「でもそれだけじゃないですよね。あの絵と同じ顔をした女が落ちた絵の前にいたから、みんな気持ち悪い、怖いと思ったんですよね」

「彼らは狭い世界で暮らしているためか、些か思慮に欠けた一面がある。それ以上の他意はないよ」

「あの絵に描かれた女の人は誰ですか? あたしはあの人に似ているからここに呼ばれたんですか?」

「それは今答えるべき事柄ではないね。いずれ時期が来れば知ることになるだろう」

「はぐらかさないでください!」

 弥琴は両手でガラステーブルを思い切り叩いた。湯気の消えた紅茶が耳障りな音を立ててソーサーに零れる。

「いい加減にして。人の気も知らないで、適当なことばかりぬけぬけと。満足な説明もなく無理やりこんな陸の孤島に連れてこられて、事情も教えられず、理解も納得もできないままここで暮らせと? 冗談じゃないわ。あたしは好きでこんな場所に来たわけじゃないの。あたしには今までちゃんとした生活があったのよ。親がいて、友達がいて、春から通う学校もちゃんと決まっていて、好きな街で好きな人たちと、この島ほど豪勢じゃなくても、楽しく幸せに暮らしていたの。それをいきなりぶっ壊されて奪われて、冷静でいられるわけないでしょ。いくら訊いてものらりくらりかわされて。あなたは教えたつもりかもしれないけど、何一つ教えてもらえてないのと一緒よ。ふざけないで。今すぐあたしを帰して。この島で暮らしていく気なんてない。こんなとこ、いたくない!」

 興奮して肩を震わす弥琴を、織田は実に冷涼な眼差しで見つめていた。織田は胸ポケットから煙草を一本出して、銀色のジッポで火を点けると、煙を深く吸い込んで弥琴を見据える。

「帰る? どこに? 今の君にはもう、戻る場所などないだろう」

 弥琴は瞠目して言葉を呑んだ。

「君にとってあの街はもはや過去だ。あそこはもう君を覚えてはいないし、君の両親も帰る家もありはしない。通うはずだったという学校も、名簿から君の名は既に抹消されている。今更あの街に戻ったとして、君の居場所などもうないよ。それは弥琴、君が一番よく知っているはずだ。分かるかい? 君はここでしか生きられないんだ。君の生きる場所はこの島以外他にない。納得しまいが抗おうが、ここで生きていく他ない現実は変えようがない。それでも君は足掻くかい? それこそ無意味だろう。海を渡って逃げ出せるなら話は別だが、君もここに来るまでで経験しただろう? 白青島は文字どおり陸の孤島だ。他の島へ行くには船や飛行機以外に方法がなく、船ならば他の島へ行くのでも最低六時間はかかる。そんな航路をその身一つでなど、聡明な君なら無謀どころの話ではないと分かるはずだ」

 弥琴は浮かしかけていた腰を落とし、両手でぐしゃりと頭を抱えた。突きつけられた言葉が胸を締め上げる。叫びたいのに声は出ず、泣き方さえ分からなくなってしまう始末だ。

 こんな日が来るなんて、思ってもみなかった。

「……どうすれば、いいんですか」

 どれだけ思い巡らせても、それ以外の言葉が浮かばなかった。情けないほど震える唇から漏れたそれは、力ない命乞いよりも弱々しく響いた。悔しさとやりきれなさで今にも胸が張り裂けそうだ。

 だが、たとえ相手が己を刺す敵だったとしても、生き抜く術を知っているなら縋る他ない。そうしなければ、底まで沈んだ心は道を鎖されてしまう。死ぬほうがましだという錯覚すら唯一の希望に見えてしまうのは絶対に嫌だった。

「簡単なことだよ。私に全てを託すといい。私は君をここへ呼び寄せた。君をあるべき未来へと導くためだ。私は決して君を裏切らないし、何があっても見捨てない。弥琴、君は歌が好きだろう?」

「え……」

「君は幼少時から音楽に親しんできたそうだね。四歳の頃からピアノを嗜み、七歳からは並行して声楽も習ってきた。コンクールなどへの出場経験はないが、地道かつ不断の努力によって培われた才能と、ダイヤモンドの原石のごとく目覚ましい可能性を秘めているという評価を聞いている。君は将来、プロの歌手になるのが夢だそうだね。ポップスではなくクラシック、世界で通用するソプラニストに」

「どうして知ってるの……」

「私が君について知らないことは何もないよ」

 不敵な微笑でさらりと言い切る織田に、弥琴は背筋に氷塊が滑り落ちるのを感じた。表情が引き攣った弥琴に、織田は柔らかな笑みを浮かべて語りかける。

「これからの三年間、君にはその夢を叶えるための教育を存分に受けてもらう。音楽理論や実技といった音楽系専門科目は主に個別レッスンで。君が進学予定だった私立高校音楽科のレベルを遥かに超えた、世界トップレベルの講師と内容を用意してある。学内で日頃の成果を披露する機会も充分にあるよ。必須の五教科は勿論、世界で活躍するために必要な幅広い知識と語学を学ぶための授業も最上級のものだ。いわば君だけのために組んだ特別カリキュラムだよ。三年間この学園でたゆまぬ努力を続ければ、海外留学に赴いた際にも充分通用するだけの実力を身につけることができる」

「海外留学?」

「世界で活躍する歌い手になるためには留学が必須だ。学園卒業後、君はパリの伝統ある一流音楽学校へ特待生として留学することになる。素晴らしい音楽家たちを世界に輩出してきた名門校だよ。既に枠は確保してあるんだ」

 弥琴は先程とはまるで違う意味で衝撃を受けた。

 幼少の頃からずっと音楽が好きなのは事実だ。世界を舞台に活躍するソプラノ歌手への夢も、小学校低学年からずっと温め続けてきたものだ。夢を育てたいからピアノや声楽を習い、中学校では合唱部に所属して歌う機会を増やした。将来への布石として、音楽教育に名高い私立高校音楽科への進学も決めた。そこで専門的な知識と実力を磨き、卒業後はさらにレベルの高い音楽大学に進めたらと思っていた。

 だが、海外留学はそのさらに先の話だ。今の弥琴には夢のまた夢のようなもので、機会があればいずれ挑戦したいが、現実的なものとして考えたことはまだなかった。そう簡単に叶えられる道のりではないと常々思っており、自分のような未熟者は口にするのも恐れ多かったのだ。

 そんな憧れを将来の約束事として与えられた。こんなうまい話があっていいのか。簡単に信じてしまうのはあまりに恐ろしかった。

「無論、全ては君が努力し続けることが前提になる。君が今までどおり不断の努力を続け、夢を叶えたいと心底願いながら歩み続けるならば、学園はそれ相応もしくはそれ以上のバックアップを約束しよう。勿論、卒業後や夢を叶えた後の支援も惜しまない。どうだい? 決して悪い話ではないだろう。君はここで生まれ変わり、夢を掴むために歩き出す。私はいわばそのサポート役というわけだ」

 脳がキャパシティオーバーを起こし、弥琴は先程とは違う意味で頭を抱えた。

 確かに決して悪い話ではない。織田の言葉は嘘偽りなどを吹き飛ばす、真実にも匹敵した強さを持っており、弥琴に話したことをそのまますぐ現実にできる力もあるというのは、深くまで問わずとも察せられる。目の前の人物はそれだけの手腕や知識に秀でており、その地位や権力、資産や人脈も豊富どころかきっと世界規模なのだろう。

 だが、その言葉を鵜呑みにするには、弥琴はあまりに無知で子供だった。奪われたものと引き換えに与えられた将来の保証への喜びより、骨の髄まで見透かさんばかりに見つめてくる男への空恐ろしさで思考が埋め尽くされる。

 永遠と紛うような沈黙の後、行き着いた答えは初めから一つしかなかった。

「拒否権や選択肢はない、のよね」

「そうだね」

「じゃあ抗っても意味ないわよね。だってここに来た今となってはもう、全部が全部あなたの掌の上だもの」

「自虐的になってはいけないよ、弥琴。私は君を導く者だ。この島で暮らす三年間、全てのことを私が保証しよう。だが君は君だ。どんなことがあっても君自身を見失ってはいけない」

 どの口がものを言うのか。弥琴は腹立たしさのあまり織田をきつく睨みつけた。しかし織田の物腰はあくまで変わらない。

「この先、いろいろなことがあるだろう。だが君は決して独りではない。独りだと勘違いしてはいけない。ここは白と青の楽園だ。ここには君を守る者がいて、君は全てを守られている。今は思うこともあるだろう。だが、それに囚われて真実を見失うようなことがあってはならない。今は意味が分からずとも、私の言葉をどうか忘れないで。全てを知る時はいずれ来る。それまで君は耐えなさい。白と青の楽園は、君を決して裏切らない」

 無視しようと心を固く閉ざしても、織田の言葉は水のように弥琴の心に浸透した。まるで呑まれていくみたいだ。弥琴は頷くことも答えることもしなかった。ただひどく喉が渇いたので、冷めた紅茶を一口だけ啜る。ふわりと甘く優しい林檎の味がした。

 織田は煙草を灰皿に押しつけ、コーヒーを持ち上げて一瞬口をつける。

「白青島のことを話そう。菜子からどれくらい聞いた?」

「どれくらい、と言われても」

「白青学園は全寮制の中高一貫校でね。一般公募ではなく、我々が選び認めた子供のみ入学が許可される」

「それは聞きました。選り好み激しい校長が牛耳る、超がつくお金持ち学校ってことよね」

「君の比喩はとても面白いな」

 精一杯の嫌味を見事にかわされた上に笑い飛ばされ、弥琴はむっと顔をしかめて黙る。

「白青学園にクラスは存在しない。よって、クラスごとの授業も行っていない。授業は全て生徒個人による選択式だ。個々の将来と学力、性格や適性を鑑みて学校側が提示したカリキュラムを、本人の意思で選んで受講する形を取っている」

「よく分からないけど、たとえるなら大学みたいな単位制ってこと?」

「近いものはあるが、必ずしもそうとは言い切れない。あくまで白青学園独自のやり方だ」

「クラスがないってどういうこと?」

「一般的に言うクラスの枠を取り払っているという意味だよ。学年は存在するが、あくまで年齢の違いという意味合いだけのものだ。白青学園ではクラスがない代わりに、全生徒を少人数のグループに振り分けている。我々はこれをコミュニティーと呼んでいる」

「コミュニティー?」

「白青学園独自のシステムだよ。学園が全生徒の適性と相性を判断し、学年も男女の数もランダムに、五名以上十名以下のコミュニティーに振り分ける。一般の学校で言うクラスは二十名から四十名以下の集合体を指すらしいが、白青学園ではそれがぐっと少なくなって十名以下だ」

「それって要するに、クラスを縮小しただけってことじゃない」

「君が言うクラスと白青学園のコミュニティーは違うよ。根本的な発想がそもそも違う。白青学園のコミュニティーはクラスじゃない。まあ習うより慣れよ、実際に暮らしてみれば分かるよ。コミュニティーはいわば学園における家族のようなものだ」

 弥琴は言葉の意味が分からず訝しむ。

「君のコミュニティーは既に決定している。だが理事会の承認がまだでね、正式な通知まであと少しだけ待ってほしい。コミュニティーにおける全決定権は理事会にあるから、形式上とはいえ手順を踏む必要があるんだ。今日のところは《ベガ》に入ってくれたまえ」

「《ベガ》?」

「女子寮だよ」

「でも、日用品とかはどうすればいいの? あたし、文字どおり体一つでここに連れてこられたんだけど」

「日々の生活で必要な物は全て学園に揃っている。足りなければすぐ揃えることもできるから、その点に関して心配する必要は全くない」

 織田はちらりと目配せする。それまで気配を消して奥に引いていた菜子がすっと現れた。

「菜子、弥琴を《ベガ》へ案内しなさい」

「畏まりました」

 弥琴は立ち上がろうとしたが、ふと思い出したように瞬きして織田を見返す。

「あの、電話を貸してもらえませんか」

「電話? 何のために」

「地元で仲良かった人たちに連絡を取りたいの。何のお別れも言えずに来ちゃったから。きっとみんな、進学先は別だけど、春からもあたしがあの家で暮らしてると思ってるはず。落ち着いたら遊ぼうって言ってた子もいるし、ずっとお世話になっていた音楽教室の先生にも何の挨拶もしてないし、会えなくてもせめて自分の口から事情を話したいの」

「残念だがそれは叶えてやれない。外部への連絡は校則で一切禁止している。生徒が私的に利用できる電話は一切ないし、職員が言付けを受けて外部との仲介役になることも禁じている。携帯電話の持込みは厳禁。パソコンメールも白青島ではできない。一親等の危篤または死去の場合のみ職員立会いの下、時間制限つきで親族との電話が許可されているが、それ以外は全て禁止だ」

 弥琴は静まりかけていた怒りが再び湧き出すのを感じた。

「そんな。あんまりだわ。いきなりこんなとこに連れてきておいて、誰とのお別れも許してくれないなんてひどすぎる」

「今更話すことなど何もないだろう。君はここにいる時点で既に白青島の一員。三年間島を出ることはないから、外部と話す機会など生まれることもない。それにこの白青島は存在そのものが秘匿。この島で見聞きしたこと全て、いかなる場合でも外部に漏らすことは一切禁じられている」

 弥琴は愕然と言葉を失った。

「言ったろう。あの街にとって君はもはや過去の産物。君にとっても既に過去のものだ。君は今日からこの島で暮らし、やがて世界へと翼を広げる。あの街に住む者たちと君とでは、生きていくべき世界が違うんだ。二度とまみえることのない過去の者たちに対して、別れを惜しむ意味も感傷に浸る価値もありはしない。心配せずともそう遠くないうち、全て忘れてしまうだろう。弥琴、君は今日この島で新たに生まれ変わったんだ。思い出などという意味のないがらくたは早々に捨てて、新たな君を生きなさい」

 弥琴はきっと織田を睨みつける。瞳が潤んで前が霞むが、泣くのはすんでのところで堪えた。弥琴は唇を強く噛み締めて目を拭うと、すくっと立ち上がって椅子をしまう。

「もう行きます。これ以上あなたと話して、あなたを殴らない自信なんてないので」

「ほう、面白いね。腕っ節が利くのかい」

 菜子が扉を開けて玄関へ促す。弥琴はその後に続いていたが、ふと立ち止まってサンルームに戻ると、先程まで座っていた椅子を渾身の力で蹴り飛ばした。歪な音とともに椅子が床に倒れ、振動でテーブルの中央に飾られていた花瓶が割れる。

 優雅な仕草でコーヒーカップを持ち上げていた織田が、揺らぎ一つない瞳で弥琴を見つめ返した。

「弥琴」

 弥琴はきっと織田を睨みつけた。

「君は今日新たに生まれ変わった。今までの君、成瀬弥琴はもはや存在しない。今から君はただの弥琴だ。それを忘れないように」

 弥琴は真っ赤な顔で肩を震わせ、生まれて初めて渾身の力で心から他人を罵倒した。

「この人でなし! 極悪成金亡者! 冷血サイボーグ! この島も学園もあんたも、みんなみんな海に沈んで地獄に堕ちろ!」

 弥琴は扉を思い切り蹴って出ていく。そして玄関で待っていた菜子が唖然としているのを完全に無視して靴を履いた。

 積もりに積もった感情を一気に爆発させた弥琴を目の当たりにした菜子は、最初こそ呆然としていたものの、弥琴が桟橋を渡っていく後ろ姿を見届けると、玄関からサンルームの扉へと戻って、

「相変わらずお人の悪い。子供相手に大人げありませんわ。もっと他に言い方があったでしょうに」

 やんちゃが過ぎた子供を諌めるような菜子の言葉に、織田は少しも懲りたそぶりもなく笑い返す。

「面白くていいじゃないか。それに、私は別に間違ったことは言ってないよ。ただ弥琴の反応が面白くて、少し興が乗ってしまっただけだ。次からは気を付けるとしよう」

 口ではそう言いながらも、実はそんな気などさらさらないことを、言われずとも菜子はちゃんと読み取っていた。菜子は織田に一礼すると、池の向こうでなおも怒りに肩を震わす弥琴の元へと急ぐ。

 玄関の扉が閉まり、白く眩い光に満ちた空間に織田だけが残される。織田は新しい煙草をまた一本くわえると、愉快そうな笑みを滲ませながら静かにひとりごちた。

「賽は投げられた。この先どう転がっていくか……見ものだな」

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