楽園へ 1

 今年の三月十五日を、なることはきっと生涯忘れない。満十五歳の誕生日であり、生まれ育った街の公立中学校を卒業した日。そして何気なく過ごしていた平凡な日常や、これから歩んでいくはずだった未来が前触れなく瓦解し、それまで静かだった日々の全てが一瞬で変わってしまった日だ。その日弥琴は生まれて初めて、当たり前のことなどこの世には一つもないのだと知った。

 絵の具よりも深い色をした大海原を一隻の小型クルーザーが行く。絶えず響く波音にスクリュー音を混ぜ、飛沫を上げながら最高速度で突き進む船は、白波と振動を常に伴って休むことなく航海を続ける。

 弥琴は舳先の手摺りにしがみつき、襲いくる揺れと喉元までせり上がる吐き気に必死で耐えていた。クルーザーが港を出てから約二時間。船酔いは刻一刻とひどさを増していく。舳先に出て風に当たればましになると思ったのに、どうやらとんだ見当違いだったようだ。

 ふいに音もなく近付いた気配が背後にしゃがむのを感じる。伸ばされた華奢な両手が、舳先の手摺りに危なげな姿勢で寄りかかる弥琴の肩にそっと置かれた。

「弥琴様」

 水音とスクリュー音に掻き消されまいと張った声が耳朶に届く。

「弥琴様、大丈夫でございますか」

 苦しげな呻き声とともに全身を強張らせた弥琴は、耳慣れない声の主がかけてくる言葉を無視しようと努めた。

「中に入りましょう、弥琴様。横になられたほうがきっと楽です」

 胃が痙攣し、耐えがたい不快感が体内で暴れる。弥琴はぎゅっと目を瞑り、心の中で彼女に思い切り悪態をついた。

 うるさい。誰のせいでこんな目に遭ってると思ってるの。

「弥琴様」

 うるさい。うるさい。何でこんなことになっちゃったの。あたしがいったい何をしたっていうの。

 後ろから抱えるように回された二本の腕に支えられ、弥琴は舳先から船室のソファまでよろめきながら移動する。そして差し出された水を飲む元気もなく、そのままずるずるとソファに体を横たえた。

 舳先にいた時とは違う形で、船の振動が全身の隅々まで鈍く伝わる。ひくひくと上下する胃から、また新たな吐き気が渦巻き出したようだ。横になったことで神経が少し弛緩したのか、たちまち瞼から力がゆるゆると抜けていく。

 縮こまった全身に、柔らかな感触のタオルケットがそっと掛けられる。それが合図となったかのように、体の奥のスイッチが音もなくすっと切られる感覚が生まれた。

「到着したらお声かけします。それまでゆっくりとお休みください。まだ三時間以上はかかる予定ですから、どうか無理なさらずに」

 憂いを帯びた気遣いの言葉に、弥琴の内心が船酔いとは別の意味で逆撫でされる。起き上がれる力があったなら、食ってかかってやりたいところだった。

 波と水飛沫の音。エンジン音とスクリュー音。いくつもの様々な音が鼓膜に張りつき、泥みたくねっとりとした睡魔が弥琴を眠りの底へといざなう。たくさんの音や声、言葉や景色が粉々になったモザイクとなって脳裏に散らばり、まどろむ思惟を小さくぐちゃりと掻き乱していった。



 三月十五日。昨日は中学校の卒業式の日であり、弥琴の十五歳の誕生日でもあった。

 誕生日と卒業式。二つの出来事が偶然にも重なったその日は、それまで過ごしてきた日々の中でも一、二を争うぐらい充実した一日だった。

 卒業式には両親も来てくれ、卒業生全員で『旅立ちの日に』を合唱した時は思わず涙が出た。最後のホームルームの後、クラスメイトや友人たちと写真を撮り合ったり、卒業アルバムにメッセージを書き合ったりして、中学生活最後の時間をみんなで賑やかに惜しんだ。

 最初から最後まで楽しさしかなかった時間が終わり、下校した頃には既に陽が沈みかけていた。帰宅すると、卒業式が終わってすぐ帰った両親は、午前中で学校が終わっているにもかかわらず、夕方過ぎまで帰ってこなかった娘を叱ることはなかった。弥琴はそれを不思議に思うこともなく、夕食までの時間は二階の自室でゆったりと気ままに過ごしていた。後輩たちからもらった色紙に目を通し、友人たちがくれた誕生日プレゼントを全て眺め終わった頃、壁時計の針が七時を少し廻ったぐらいに、一階から母の呼ぶ声が聞こえてきた。

 弥琴の家庭はごくごくありふれたものだった。会社勤めの父と専業主婦の母との間に生まれた一人娘。新興住宅地の中にある、お世辞にも大きいとは言えない一戸建てで暮らす核家族。裕福とまではいかないが、明日の生活に不安を覚えるほど貧しくはない。両親の愛に飢えることなく、近所や学校でもそれなりに平穏な人間関係を築き、特別大きな災厄に見舞われることなく今日まで来ていた。

 リビングに入ると、両親は既に食卓の椅子に座っていた。てっきり夕食だと思って下りてきたのに、テーブルには空のグラスが三つ並んでいるだけで、料理ができている雰囲気は全くなかった。

 室内に漂う硬い空気に戸惑いながらも、いつになく難しい顔をした父に勧められて、弥琴は己の席に着いた。両親がいつも以上に無口なので、弥琴は怪訝を越えて何だか怖いとさえ思っていた。今日は娘が無事に中学校を卒業し、十五歳の誕生日を迎えた日だというのに、食卓にはそんな祝いの空気がまるでなく、代わりに息が詰まるほどの沈黙が流れていた。

 母は無言で立ち上がると、背後のキッチンへそろそろと向かった。真正面に座った父が抑揚の欠けた語調で口火を切り、微塵も予想していなかった展開へと弥琴を強制的に運んでいった。

 父いわく。今までずっと黙っていたが、お前は私たち夫婦の娘ではない。私たちはある人に頼まれて夫婦となり、仕事としてお前の両親の役目を演じていた。だが、そんな生活も今日で終わる。お前は明朝この地を発ち、国内最南端の孤島にある全寮制の学園へ行くのだ。

「ちょっと待ってよ、お父さん。何それ、どういうこと。いきなり何を言い出すの。あたしはもう、春から通う高校は決まってるんだよ」

 電車で一時間ほどかかる距離にある私立女子高の音楽科声楽コース。弥琴は将来の夢を見据えて、音楽教育の伝統が名高い難関校を第一希望にし、死に物狂いでレッスンと勉強を重ねて、推薦入試の若干名の合格者枠へ飛び込んだ。入学手続は合格通知が来た二日後に済ませ、制服の採寸や教科書の購入も既に終わっていた。

 その高校への入学辞退手続はもう済ませてあると、父は能面にも似た顔で淡々と語った。

 明日の朝七時半に迎えが来る。その人に従って、お前はこの家を出なさい。お前は二度とこの地へ戻ることはないし、私たちが顔を合わせるのもこれが最後だ。私たちの家族生活は今日で終わったんだ。

「ちょっと待ってよ。何よそれ、いきなりどういうこと? 本当の親じゃないとか、国内最南端の学園に行けとか、訳分かんないことを次から次に並べられても、はいそうですかなんて言えるわけないでしょう。いったいどういうこと? 何でそんなひどい嘘つくの? たちが悪いにも程がある。エイプリールフールはまだ先だし、たとえエイプリールフールだったとしてもそんな冗談許されないわ」

 頬を真っ赤にして一気にまくし立てた弥琴の手元に、それまでキッチンで無言を貫いていた母がお茶の入ったガラスコップをすっと置いた。いつになく興奮したせいで喉が渇いていた弥琴は、礼を言うのも忘れてそれをぐいっと一気に飲み干した。

「だいたいね、今日はあたしの中学卒業の日で誕生日よ。それが卒業式を終えて帰ってきて、十五歳になった娘に親が言う言葉? 信じらんない。マジで意味不明。何でそんなこと言うの。ちゃんと一から説明してよ。いきなりそんなの訳」

 分かんないと口の中で紡いだ言葉は、しかし声に乗ることなく遠のき消えた。次の瞬間、目の前にあった父の顔がぐにゃりと歪み、唐突に生まれた激しい眩暈に、弥琴は全身の均衡を失って床に崩れ落ちた。脳裏が暗黒に呑まれ、意識がみるみるうちに沈んでいった。

 さよなら、弥琴。

 意識が完全に途切れる寸前、そう小さく呟いた声が鼓膜にほんの少しだけ触れた気がした。だけど今思えば、そうあってほしいと願う心が生んだ幻聴だったのかもしれない。

 目が覚めたら、弥琴は自室のベッドに寝かされていた。鈍い頭痛に顔をしかめながら上体を起こした時、己の目と正気を心から疑ってしまうほどの驚愕に打ち抜かれた。

 室内からは弥琴が眠っていたベッドを除いて、何もかもが忽然と消え失せていた。愛用していた家具や、飾り窓に並べてあったぬいぐるみ、壁に貼ってあった何枚かのポスターや、卒業式の後に友人たちや後輩たちからもらったプレゼントといった、室内に存在していた全てのものがなくなって、ただのがらんどうの空間に変わり果てていた。

 それは他の部屋も全部同じで、家の中は文字どおりもぬけの殻と化していた。カーテンさえも取り払われたリビングを朝陽が照らし、剥き出しになったフローリングは埃一つない輝きを放っていた。

 自分が眠っていた間に、世界は全て変わってしまった。そんな大袈裟な感慨さえ、弥琴にとっては笑い飛ばせないぐらいに重い現実だった。

 愕然とするあまり、リビングの真ん中で膝が砕けた弥琴は、背後のドアに現れた人影に全く気付いていなかった。言葉もなくへたり込み、ふと空気が動いた気がして振り返ると、ドアのすぐ横に一人の女性が立っていて、弥琴は動揺と恐怖を隠さずに思わず飛び上がった。

「お初にお目文字仕ります、弥琴様。わたくしははくせい学園理事長兼校長こういちの秘書兼織田家のメイドをしておりますまきと申します。我が主織田晃一の命を受け、弥琴様をお迎えに上がりました」

 鈴のような声で恭しく一礼し、ゆっくりと顔を上げた彼女は、白のブラウスに裾の広い黒のワンピースという、メイドのイメージそのままのいでたちをしていた。歳は二十代前半と見え、漆黒の髪を編み込みのアップスタイルで器用に纏め、手鞠のように小さな顔と長い睫毛が目を惹いた。

「お目覚めになってまだ間もないと拝察いたします。わたくしはここでお待ちしておりますので、どうぞお召し替えを。お召し物は寝室にご用意してあります。申し訳ありませんが、飛行機の関係があり、そう多くお時間を割くことができません。さあ、どうぞ」

「ちょっと待って、何でそんないきなり。あなたは誰? これはいったいどういうことなの」

「わたくしの名は先程申し上げたとおり。そしてお話は、昨夜のうちに二人からお聞き及びかと存じますが」

「違う、そんなことを訊いてるんじゃない。それにこれは何? 何でうちから家具が全部消えてるの?」

「昨夜、弥琴様がお休みの間に、我が主の命を受けた者たちが全て撤去いたしました。両親役を務めてきた二人も今はおりません。十五年の長きにわたる役目を終え、昨夜のうちに引き上げましたので。さあ弥琴様、どうぞご支度を」

「ちょっと待って。どうしていきなり、そんな」

「さあ、早くご支度を。飛行機の時間が迫っております」

「ちょっと待って。嫌よ、絶対に嫌。あたしはそんなところに行きたくないし絶対に行かない。訳分からないことばっかり並べられて、はいそうですか、分かりましたって素直についてくわけないでしょう。あたしは嫌。嫌よ、絶対に行かない!」

「もしどうしてもお嫌と申されるなら、昨夜と同じように眠り薬を使い、わたくしたちの手で御身を島まで運ばせていただきます。それがお嫌ならば、今すぐにご支度を」

「何それ、脅し? そんなこと言われたって、じゃあ仕方ないですねなんて言うと思ってるの? 嫌がる人間を無理やり見知らぬ場所に連れていくのって誘拐よね。今すぐ警察を呼んで」

「電話機は全て撤去しております。無論、弥琴様がお持ちだった携帯電話も解約及び処分済みです」

「なら叫ぶわ。大声で叫ぶ。助けて、変な人が来てるの、殺されるって大声で叫んでやる。そしたらきっと近所の人が警察を」

「そうなさる前に、弥琴様には強制的に眠っていただきます。先程申したとおり薬も用意しておりますし、わたくし自身、武道の心得も多少はございます。この場で弥琴様に気絶していただくことなどとても容易いこと。お分かりになりませんか? 弥琴様にはもはや選択肢などないのですよ」

 射抜くような瞳に気圧され、弥琴は何も言えなくなった。これ以上の反抗は無意味だと本能的に悟ったからだ。薬や武道といった脅し文句も、決してはったりなどではない。なおも抵抗すればまた眠らされ、意識は当然ながら意思も奪われる。そんな目に遭うのは御免だと思った。

 弥琴は菜子にきつい一瞥を投げつけて自室に戻り、言われたとおりに服を着替えた。用意されていたのは、つい最近母に買ってもらった橙色のワンピースだった。着替えて一階に下りると、玄関で菜子がぴんと背筋を伸ばした美しい姿勢で待っていた。

「まいりましょう、弥琴様。表に車を待たせてあります」

 彼女の言うとおり、門の前に黒塗りの車が停まっていた。弥琴が玄関を出るなり、菜子はすぐさま門扉に鍵を掛ける。呼び鈴と表札は既に外されており、その様を見た弥琴は激しく泣き崩れたい衝動に駆られた。

「ねえ、お願いがあるの。あたしがこの地をどうしても離れなきゃいけないことは分かった。でも、行く前に友達のみんなに会わせて。どうしてもあたしが別の場所に行かなきゃならないなら、自分の口で事情を説明してちゃんとお別れを言いたいの」

「なりません。どなたにも会うことなく島まで来るようにと、我が主晃一様はご命令です」

「昨日の今日で、あたしがいきなりいなくなったって知ったら、仲良かった子はみんなきっと驚くはず。今度遊ぶ約束してる子もいるし、近所に幼なじみの家もあるの。みんなと会って、ちゃんと話してお別れしたいの。お願い」

「なりません」

 にべもなく却下され、弥琴は湧き上がった怒りのままに菜子の肩をどんと殴った。

「この人でなし! 冷血人間! 何でよ、どうして会わせてくれないの。理由も話さず、誘拐同然に人を連れていくくせに! ねえお願い、会わせて。みんなに会わせて。お別れも言えずに連れていかれるなんて、そんな残酷なことってないわ。あなたには情ってものがないの? こんなのひどすぎる。あんまりよ。あたし警察に行くわ。それが無理でも、近所の人に助けを求める。こんなひどいことってない。あなたがあたしの願いを聞いてくれないなら、あたしだってあなたの思いどおりになんかならないわ」

 ぐしゃぐしゃの顔でそう叫ぶなり、弥琴はその場から駆け出そうとした。しかし次の瞬間、菜子の手が弥琴の腕をものすごい力で掴み、思わずのけ反った肩を車の後部座席へ突き飛ばした。そして身を起こした弥琴の退路を塞ぐように、菜子は後部座席のドアを押さえて体を屈めた。

「いい加減聞き分けてくださいな。誰にも会わせず島までお連れしろというのが晃一様のご命令。申しましたでしょう? 弥琴様にはもはや選択肢などないのだと。このまま聞き分けのないことばかり申されるのなら、今すぐ薬で眠っていただきます。それに、騒いだところでどうにもならないとお気付きになりませんか? 弥琴様が申される警察やご近所の存在など、わたくしどもには障害にすらなりません。弥琴様がただご自分の行くべき道をご理解くだされば、全ては穏便に済むのです。下手に騒ぎ立てて、何の関係もないご近所の方々に危ない思いをさせるのは、忍びないとは思いませんか?」

 菜子が言外に匂わす事柄に気付いて、弥琴はぞっとして言葉を呑んだ。菜子は弥琴に奥へ詰めるよう促して、自分は運転席の後ろ側に乗り込みシートベルトを締める。

「出してください。思ったより時間を使いました。空港までなるべく急ぐように」

 車はなだらかに加速していった。弥琴はドアに力なく凭れ、声を殺すこともできずに咽び泣いた。

 もう二度とこの地に戻ることはない。弥琴はそんなことを唐突に予感した。溢れる涙は余計に止まらず、流れる車窓の景色は歪んだまま形になることなく、次から次へと現れては消えていった。こんな現実、嘘であったならどれだけいいか。今すぐ逃げ出したい。信じたくない。元いた場所に帰りたい。呪文のように心の中で何度も繰り返し、この短い時間でどれだけそう強く願ったか分からなかった。

 しかし次の瞬間、愕然とさせられた。逃げられる場所などありはしない。信じるものは最初から全てまやかしだった。そして帰る場所さえもはや存在しないのだ。奪われてしまった。壊されてしまった。変えられてしまった。いくら抗ったとしても、もうどうにもならない。今まであったはずの全てを失い、弥琴は独りぼっちになってしまったのだ。

 空港に到着して二人を降ろすなり、車はすぐに走り去っていった。乾いた涙でぱりぱりになった頬を引き攣らせ、弥琴は目を真っ赤に腫らしてとぼとぼと、春休みで賑わう空港ロビーを見渡す余裕もなく、また何かを言う元気もなく菜子の後をついていった。

 菜子は後ろを歩く弥琴がいなくなっていないか常に気にしながら、実にてきぱきと搭乗手続を済ませていった。菜子の荷物は肩から斜めに提げたポシェット一つで、弥琴は初めから手荷物など持っていない。何かしらの荷物を抱えた人々が行き交う空港の中で、特に菜子の絵に描いたようなメイド姿は周囲の視線をやたらと無駄に惹きつけた。しかし弥琴には叫んで周囲に助けを求める余力も残されておらず、菜子の後をおぼつかない足取りでついていくので精一杯だった。

 搭乗ゲート近くの案内板を見上げると、弥琴たちが搭乗手続を済ませた飛行機は、沖縄県の離島に向けて飛び立つものだと表示されていた。

「ねえ、あたしは今からあそこに行くの?」

「ええ。一番最寄りの島まで飛行機で飛び、それからは船に乗り換えます」

「乗り換えてどこまで行くというの?」

「それは今この場ではお教えできません。こちらで用意したクルーザーに乗ってから、わたくしからお伝えできることはお話しいたします。これから向かう場所は公にはされておりませんし、我が主も、何の関係もない他の方に知られることを望まれてはおりませんから」

「嫌がる人間を無理やり引っ張ってきて、飛行機に乗せて離島まで飛んで、その上船に乗り換えるまで行先は秘密……それって誘拐以上の犯罪なんじゃないの? あたしを無人島にでも幽閉するつもり?」

「お気持ちはお察しいたします。ですがどうか、今は何卒ご辛抱くださいませ。詳しいことは飛行機を降り、船に乗り換えたら必ずお話しいたしますので」

 沖縄県の離島を目指す小型の飛行機に乗り込んで、弥琴は窓際の席に座ることになった。ここまで来たらもう逃げられない。逃げられないという以上に、抗っても己のためにならないと分かっていた。生まれて初めて乗った飛行機に感動や興奮は微塵も感じず、それよりも鉛みたく重い絶望が改めてのしかかってきて、溢れる涙をまた堪えられなくなった。

 二時間以上のフライトの後、初めてやってきた南の島は、春なのにむせ返るほど暑かった。晴天の陽射しは真夏のように眩しく、気温は本州より十度は高いと温度計を見ずとも分かる。思わずくらりとしそうな明るさの中、逃げ出すことはもはや諦めてしまった弥琴は、菜子の後ろをひたすらついて歩いた。慣れ親しんだ本州を一人離れ、遠い南の地まで来たという感傷が生まれる間もなく、空港まで迎えに来ていた黒塗りの車と合流すると、今度は小型船舶がたくさん停泊する名も知らぬ港まで連れていかれた。

 二人はそこでクルーザーに乗り込んだ。明らかに漁業用ではない真っ白なクルーザーは、形こそ小さいが決して安物ではないと一目で分かるものだった。クルーザーに乗ったのは操舵手と菜子と弥琴の三人だけで、全員が乗り込むなり船は港を出発した。そして肌だけでなく網膜まで焼きそうな太陽の下、本州にはない色で広がる海を行く六時間以上の船旅が始まったのだった。

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