白の夢幻に青き奏でを

咲原かなみ

序章

 ここを世界の果てと呼ばずに何と呼ぼう。

 濡れたように艶めく常緑の茂みを抜けた先にある、岩肌をごそりと歪に削り取った崖の淵。見渡すかぎり広がるこの景色に名前をつけるなら、きっとその比喩が一番ふさわしい。

 豊かに泡立つ白い雲。底まで見えそうなほど澄んだ青い海。その狭間に佇む空は海よりも淡く、白よりも濃い色で、人の手がとても及ばぬ遠くまで続いている。

 目を瞑る度、瞼の裏で鮮やかに蘇る雲の白と海の青。この色を忘れることはきっとない。初めてその二色を瞳に映した時、そんな予感が真実よりも重い楔となって胸を刺した。もし忘れてしまうことがあるとしたら、それはこの命が尽きて魂が肉体から離れる時だ。そう思っても有り余るほど、この地に息づく白と青は何よりも美しくきらきらとしていた。

 随分と遠くから風で運ばれてきた、ささやかすぎる潮騒が鼓膜に触れる。空の深みまで呑み込んだかのような海は、南国独特の熱と鋭さを纏う陽光を一身に浴びて、宝石にも劣らぬ眩さで規則正しく静かに揺らめく。遥か彼方まで見晴るかしても、紺碧の海面を行く船影は見当たらない。威風堂々と両腕を広げた地平線に、黒点よりも小さく見える鳥がほんの時折、気紛れな軌跡を描いては消えるだけだ。

 世界を切り取った、いや、世界そのものから切り離されたような場所だ。地図や時間という概念から、誰一人として気付かないさりげなさで、ぴんと弾き出された断崖絶壁。完成前のパズルの最後の一ピース。古びた名画から剥がれ落ちた絵の具の残滓。

 誰も知らない。海を行く船は一つも見えず、飛行機すらこの空の上を飛ばない。ここを知る術は恐ろしく限られていて、訪れる手段はそれよりもさらに少ないという。

 まるで自分とイコールだ。そんな自嘲が微かに浮かぶ。尤もここを知らない人には、こんな感情は単なる病的な妄想、もしくは危うい独り言にしか思えないだろう。多くの人にとってこの島は、存在そのものがきっと、まずありえない夢物語と同義なのだから。

 だけど、ここには確かに命がある。両足を地に着け、空と海の先の先まで目を凝らし、両手を掲げて全身を光に晒し、鼓動を鳴らし生きている存在がいる。しかし、世界がそれを知る余地は全くない。ただそれだけのことなのだ。

 もし誰かがいつかこの島を訪れたとしたら、それはある種の黎明となるだろう。己が暮らす国の最南端にこんな場所が存在していたと、その人は生まれて初めて知るのだから。

 ここは多くの人が未だ知らぬ、だが知ればきっと誰もが羨む地上の楽園だ。写真や絵画よりも美しい空と海に抱かれ、溢れんばかりに降り注ぐ太陽の光に彩られた理想郷とも呼んでいい。

 しかし裏を返せば、決して逃げられぬ最果ての監獄でもある。情報過多な世界から見事なまでに隔絶され、周りにはどこまでも広がる空と海しかない孤島だからだ。

 だからこそ、この島に流れる時間は重く、また何物にも代えられない価値を持つ。一秒一秒がやけに長く感じられる上、そのどれもが濃密なまま、過去へと変わっていくのだ。

 それはきっと、ここにしかない尊さだろう。どれだけの語彙力を駆使しても、その感覚は決して語りきれない。肌と心で感じ取るしかないそんな本質に触れた時、この島は初めてその人の前に本性を表す。

 だが、そんな感傷すら、今となっては他人事よりも遠く軽い。この瞳に映るのは、白と青が果てなく交わり続ける世界だけ。しかし、それさえもはや心に触れない。その価値を改めて思い知ろうにも、器となるこの心は、あまりにも壊れすぎていた。

 陽光に熱された風がからりと吹き、首筋に張りついた長い黒髪の湿気を飛ばす。さらさらとなびく髪から見え隠れする肌は、常夏の島には似つかわしくないほど白かった。

 深い色と輝きを孕んだ海には終わりがない。しかしその頭上には、幾層にも綿を重ねたような雲が、水面より澄んだ空全体へゆるゆると増殖していく。大きく膨らんだ白濁の雲の僅かな隙間に、太陽とは違うきらめきで閃く光の矢が見えた。先ほどまで青しかなかった海に、どことなく陰鬱な灰の色がじわりじわりと宿り始める。

 もうじき夕立が来る。そう本能が告げていた。嵐と勘違いしそうな雷雨が緑を殴り、波が叫ぶように荒れ狂い、剥き出しの岩肌に容赦なく高波が浴びせられる未来が、すぐそこまで忍び寄ってきている。

 今だけだ。何も知らぬまま、光の中で微笑んでいられるのは。あと少しだけ時の針が進めば、きっと骨の髄まで思い知らされる。世界とはこんなにも狭く、小さく、冷たく閉鎖的だったと。救いなど、出口など、初めからあるはずがなかったと。

 淡い水色のワンピースの裾が、風を孕んでふわりとはためく。微かに湿り気を帯びてきた空気を吸い込むと、あははと笑うような朗らかさで歌い出した。自分だけが知る慰めの形で、人知れず嵐に怯える島を宥めるように。それは決して誰もが使える魔法ではない。その起源を知る自然にだけ語りかけるつもりで、誰もいない崖の淵の立ち、両手を広げて腹の底から声を響かせた。

 言葉を紡ぐ。旋律を奏でる。白と青しかない世界を臨む絶壁で、その歌声は高らかに響き渡っていた。



うたかたの祈りは見果てぬ夢幻むげん

ダイヤモンドの鐘が響く 淡いとばりのかたわらで

凛と奏でる秘密の音色 白い空と三月のデュエット

永遠を爪弾く月の竪琴 春を祝う星屑のアリア

瑠璃色の海に惹き合う それはまるで天上のコーラス

はじまりとおわりだけを摘む 生まれたての光を愛でた


橙の夕凪が寄り添う孤独の果て

刹那の優しさと終わらない夢を掴んだら

ルカの翼は空の余韻を懐かしむ

あなたはわたしの至福の海

夜明けに咲いた双葉 黄昏に零した二粒 三度みたびの夏もずっとずっと

彩り変えていざなう海鳴り ただあなただけを想う歌


一抹の孤独と悲しみに あなたが添えてくれた花束

枯れることなどないと信じた祈りがここにある

約束しましょう 遥か果てより遠いあなたと

海原を染める青の深く さざめく波に託す言の葉

終わりを汲むひとひらに背き ゆらり揺れる夢をたゆたう

歌いながら 奏でながら ずっとあなたを待っています


白の夢幻に青き奏でを ただ愛し あなただけ

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