第87話


 帰宅後、真希はまっすぐ妹の部屋に向かった。ドアの前に立って、中の物音に聞き耳をたてる。

 部屋で音楽を流しているようだ。それに合わせて、妹の歌声が漏れ聞こえてくる。

 家には誰もいないと思っているのかノリノリだ。ついニンマリと笑みがこぼれる。

 

 ゆっくりとドアノブに手をかける。この前までは完全に気配を遮断して侵入していたが、最近はあえて勢いよく入っていくのがお気に入り。

 ノックをすると同時にノブをひねり、ドアを開け放つ。


「ら~ら~~ひゅっ!?」

 

 身振りつきで歌っていた影が硬直する。唯李はベッドの上で変なポーズをしながら、目を見開いた。


「へえ、唯李ってこういうの聞くんだっけ? 珍し」


 部屋の真ん中で立ち止まり、音楽の流れるスピーカーを見おろす。

 いつも唯李が好んで聴くのはよくわからないアニメソングとかマイナーなバンドだとか、ちょっとひねくれたものが多い。


 しかし今流れているのは、メジャーなアイドルグループの曲だ。

 一緒になって口ずさもうとすると、唯李は慌ててスピーカーの電源を落とした。


「どしたの? 歌ってていいのに」

「……ねえ、そのいきなり入ってくるのやめてくれる? 本気で」

「だって唯李のリアクションがかわいいんだも~ん」


 うふふふ、と笑ってしなを作ってみせると、チっとこれみよがしに舌打ちされる。

 かわいい。荒んだ心が癒やされる。

 真希はベッドのふちに腰を落ち着けると、上目遣いに唯李を見つめる。


「あのね、お姉ちゃんちょっと嫌なことあってねぇ」

「それで人でストレス解消ですか」

「一度見たら忘れなさそうなきれいなお姉さんのことを、きれいさっぱり忘れてるってどう思う?」

「一度見たら忘れる程度のお姉さんなんじゃない?」

 

 にべもなく言い捨てた。唯李リサイタルを邪魔したからか、ご機嫌斜めらしい。

真希は眉を寄せて、口でへの字を作った。


「うわぁぁぁん唯李ちゃあああん!」

「寄るな暑苦しい」


 抱きつこうとしたら張り手ぎみに顔を押しのけられた。首が軽くグキっていった。

 ずいぶん反抗的である。出方によっては対応を変えようと思っていたが、そう来るならこちらも容赦はない。


「今日会ったわよ彼。なんていうんだっけ、名前」


 成戸悠己。

 名前はガッツリ覚えていたが、向こうに知らん顔をされたのでここでやり返す。 

 唯李はかすかに首を傾げて聞き返してくる。


「……もしかして、悠己くんのこと?」

「そうそう。成戸悠己」

「しっかりフルネーム出てきてるけど」

 

 唯李は何でもないふうを装いながら言うが、「……そ、それで?」とこちらの顔色をうかがってくる。

 やはり気になるらしい。かわいい。


「ん~とねぇ……なんかねぇ~~……さっき駅前でナンパされちゃった」

「ぶふぉっ!!」

 

 いきなり変な声で吹き出した。さすがにこれはちょっとかわいくない。


「そ、それってどういう……?」 

「ん? だから『そこのお姉さん、一緒にお茶でもどうですか~~?』って言ってきて」


(んふふ、こんなこと言ったらそりゃもうテンパりまくりでかわゆいだろうなぁ~)


 慌てふためく妹の姿を想像する。

 しかし一転して唯李は冷静な顔に戻った。


「それ違うね、人違いでしょ。そんなこと言うわけないから」

「え? なんでよ? 言うかもしれないでしょ」

「いや言わないから」


 どうやっても言わないらしい。謎の信頼感。

 少し脚色をしすぎたかとは思うが、ここまでそっけない反応をされると面白くない。


(何なのよもっと焦りなさいよ。ラブコメなら失格よこんなの)


 真希はスマホを取り出すと、通話アプリの画面を開いた。

 

「なんか疑ってるみたいだけどほら。一緒にお茶した流れで連絡先も交換しちゃった~」


 画面を見せつける。顔色をうかがっていると、唯李は不思議そうにまばたきをした。


「あれ、名前マキになってる。マキマキやめたの?」

「なにがマキマキよしょうもない」


 見るのはそこじゃない。

 それは触れるな、と連絡先にある成戸悠己という文字を指をさす。


 すると唯李はスマホの画面を食い入るように見つめはじめた。動かぬ証拠があるとなると、さすがに動揺を隠せないようだ。


「こっ、こ、これ……」

「そうそうなんか友達と一緒だったかな~? それにくっついてくる感じで。それにしてもナンパとか、あんまり素行がよろしくないようねぇ?」

「マ、マジ……? な、なんで交換したの?」

「そりゃ向こうが交換したい、って言うから? ちょっと年下も視野に入れていこうかな~なんて。ほら、選択肢は多いに越したことはないじゃない?」

「えっ、ちょっ……て、てめーふざけんなよ!」

「なんていう口の聞き方するのこの子は」


 ふぅふぅ、と肩で息をはじめた唯李の頭を撫でてなだめる。

 顔を真赤にしていてかわいい。しかしちょっといじめすぎたかと反省する。


「やだなぁ冗談よ、取ったりしないわよもう~~。あのね、なんか勝手に唯李は惚れ込んじゃってるみたいだけど、私はまだオッケーだしてないの。わかる?」

「……なんでお姉ちゃんのオッケーがいるわけ?」

「いるに決まってるでしょ?」


 こういうときは逆にそうなのかと思わせるぐらいに強気に言うのがミソ。

 唯李は一度たじろぎかけたが、負けじと腕を組んで鼻を鳴らした。


「マキマキさんはそもそも誤解してるよね。惚れ込んじゃってるっていうか、見てるとどうにも危なっかしいんで気になっちゃってるだけっていうか」

「この期に及んでまだそんなこと言ってるわけ? はっきり言ってお姉ちゃんはどうかと思うのよね~。だいたいね、この私をコケにするなんて百万年早いわけ」

「なにそれ? どうかしたの?」

「こっちの話よ」

 

 少し唯李の気持ちがわかったかも、などとは言えない。

 もし仮に唯李とそういった仲に……となった場合、自分までいじられ側になってしまうのはよくない。非常によろしくない。

 いったいどういう人間なのか、しっかり見極める必要がある。


「だからちょっとテストさせてもらうわ」

「どこぞの中学生の女の子と同レベルなこと言ってるね? だいいち、料理も掃除もろくにできない人がテストとかちゃんちゃらおかしいんですけど?」

「違うわよお姉ちゃんはね、できないんじゃなくてやらないの。その代わりお願いして誰かにやってもらうスキルが高いから」

「クソみたいなスキル構成だよね」

「女の子がクソ言うな」


 どんどん口が悪くなっていく。

 こうして自分と話しているうちはある程度許容はできようものの、学校ではこんな調子なのかと心配になってくる。


「お姉ちゃんも夏休みで暇……じゃなくてちょっと時間があるから。ふっふっふ……楽しみね」

「何その笑い。いっつも暇なくせに」

「ふぉっふぉっふぉ……」

「出たな宇宙忍者……」

 

 唯李は警戒心たっぷりに立ち上がった。足を開いて両手を構え、ゆっくりファイティングポーズを取る。 

 ならば久しぶりに発育チェックでもするかと、真希は両腕を上げて立ちふさがった。


◆  ◇


 数十分にわたる攻防の末、唯李はなんとか怪獣マキマキを部屋から追い出した。ひとりベッドに寝転んで、天井を見上げる。


 できることなら今すぐ「ナンパってどういうこと?」と電話で悠己を問い詰めたいが、その行動は危険である。


 姉の言っていたことはおそらく八割がた嘘だと思ったほうがいい。

 なぜかと言えばそういう人なのだからとしか。常に頭を冷静にしていれば騙されることはないのだ。

 

 そうでなくても悠己がイケイケでナンパする姿がまったく想像がつかない。

 しかし真希と連絡先を交換していることは事実であるからして。


(もしや夏休みになってはっちゃけちゃっている系……?)


 夏休みに入ってからというもの、悠己とは顔を合わせるどころか一度も連絡すら取っていない。

 なんだかんだで向こうから遊びか何かの誘いが来るかも……? と期待して待っていたのに、本当に何もなかった。かといって、結局自分から誘うことはできないという体たらく。


(これマジで相手にされてないのかも……)


 いろいろあって悠己とはそれなりに仲良くなった……つもりでいた。なのにこの仕打ちはいかがなものか。


 唯李が頭を悩ませていると、脇に置いてあったスマホが振動した。届いたのは瑞奈からのメッセージだった。


『ゆうきくんがさびしがってるよ』

『こんどうちに遊びにきなよ!』


(クックック、そっちの動向は筒抜けなんだよなぁ……。なるほどなるほど……こいつはとんだ恥ずかしがり屋さんだぁ)

 

 にんまりと頬が緩む。

 何やかや言って彼も思春期の男子だ。

 おいそれと自分から女の子を遊びに誘う、というようなことはしづらいのだろう。


 しかしよくよく思えば、瑞奈の前ではニセの彼女、ということになっているので、休みだからといってまったく接触をしないわけにはいかないのだ。


(けどそのこともう忘れてねえかあいつ……)


 夏休みに入る前から、ニセ恋人を演じようという気が微塵も感じられなかった。 向こうがそんな調子だから、もしかしてとっくに瑞奈にニセ彼女がバレているんのではという予感すらある。


(でもそしたらナンパだのなんだのって……ウチのお姉ちゃんだったからまだいいものの、完全なる浮気ですよこれ? どう申し開きするつもりよ)


 なぜ自分を誘えずに、そのへんの女には声をかけられるのか。そのあたり一度真意を確かめばなるまい。

 唯李はベッドの上で寝返りをうつと、『まったくしょうがないなあ~』と瑞奈への返信を作成し始めた。

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