第79話 唯李七変化

 遠ざかっていくバスを見送る。

 悠己は唯李と手を繋いだまま、無言のまま停留所に立ちつくした。視線は車道を向いている。

 やがてバスの姿が見えなくなった。もうこうしている必要はない。悠己は握っていた手を離すと、かたわらの唯李を促す。


「行こうか」


 今度は彼女を送らないといけない。駅へ向かって歩き出す。


「……はあ、なんかどっと疲れた」


 歩き始めてすぐ、唯李はため息交じりに口にした。

 言うとおり疲れたのだろう。妙にケンカ腰だった先ほどまでとは、別人のようにおとなしい。

 それきりただの一言もなく、肩を並べて黙々と歩き続ける。疲れたのは悠己も一緒だ。けれど二人して弱音を吐いても仕方ないだろう。

 横目で様子をうかがう。街灯に照らされた横顔は、浮かない表情をしていた。疲労とは少し違う感じがした。気になって声をかける。


「疲れた?」

「さすがにね」

「さっきまでうるさいぐらいにはしゃいでたのにね」


 すぐに言い返してくると思ったが、返ってきたのは沈黙だった。そうなると何も言うことがなかった。しばらくして、唯李は気を取り直したように言った。


「……まあさっきまでのもほら、周りに合わせるっていうか、唯李七変化よ七変化。あたしそういうのもできるから。でももう疲れて変身も解けちゃったかな。MP足りない」

「へえ、さすが名女優唯李」

「それやっぱりバカにしてるように聞こえるんだよね」


 今度はすぐ突き返してきたが、やはり語気が弱い。

 またしても沈黙になる。

 唯李は前を向いたまま、まるで独り言のように口を開いた。


「だから気遣ってさっきも、わざとゲーム負けてあげたりしてるわけ」

「ええ? 嘘でしょそれは」

「いやあのね、いくらなんでもそこまでひどくないからね言っとくけど。そもそもあたし、もとからたけのこ派だし」


 いやに真剣なトーンで言う。

 思わず顔を見てしまうが、唯李はにこりともせず視線を宙にさまよわせた。


「こういうときは立ち位置決めたほうが楽だから。……って言ってもおバカないじられ役だけど。瑞奈ちゃんも楽しそうだったし、やっぱりこの前のを見ちゃうとね……でもすごく元気になったみたいでよかった。それどころか、瑞奈ちゃんに助けられた感もあるしね。まぁ凛央ちゃんにあそこまでボロクソ言われるとは思わなかったけど……それで気が済んで笑ってくれるなら、あたしはぜんっぜんオッケー」


 そう言って唯李はわずかに口元を緩ませた。

 しかしすぐに目線を歩道の上に落とし、表情を固くする。


「……友達から嫌われるなんて、あたしだって嫌だよ。あたしの場合はそうならないように、無意識にバカやってご機嫌取ろうとしちゃうっていうか……正直言うと、あたしだって怖かったんだよ? 凛央ちゃんなんで怒ってるかわからなかったし……ヤバイあたしなんかしちゃったかなって、なんて言って引き止めらたらいいかわかんなくて頭真っ白で……もしかしてあれのことかな? いやあれかな? って。で結局これたぶん全部だなって、いろいろ積もり積もって」


 唯李はそこで一度言葉を詰まらせた。

 そして「あたしなんか一人でずっとしゃべってるね」と苦笑する。

 たしかにずいぶん饒舌だ。けれど悪いことだとは思わない。そう肯定する意味を込めて、悠己は相槌を挟んでやる。


「唯李は友達いっぱいだから、一人一人は結構いい加減なのかと思ったけど、いろいろ難しいこと考えてるんだなぁって。俺ほとんど友達いないからさ、そういう気遣いとかできないしわからないし、すごく尊敬する」

「別に、そんないっぱいってわけでもないよ。ふつーよふつー。それに全然うまくやれてないし、今回だって。はぁ、やっぱダメだなぁ~~あたし」


 唯李は空を見上げて、大きくため息をつく。珍しく落ち込んでいるようだった。

 ついさっきまで部屋で遊んでいたときの、やかましく怒ったり笑ったりしていた姿は見る影もない。


「……今だから言うけど、あたしこの前のときもすごく怖かったんだよ? 瑞奈ちゃんが帰ってこなくて、あたし一人で部屋で待ってて、どうしようどうしようって。瑞奈ちゃんが泣いちゃったときも、あそこであたしなんかが下手に口だして、わかったふうな口聞くなよってなったらどうしようって……あたしだって泣いちゃいそうだった。でも、なんとかしなきゃって思って……」


 そこまで言うと唯李は口を閉ざして、押し黙った。

 歩きながら、また横顔を盗み見る。街灯が途切れて、今度は表情がよく見えなかった。

 悠己は歩くのをやめて、立ち止まっていた。

 今日は疲れた、なんて思っていた自分が、急に情けなくなった。

 自分は知らずに、彼女に負担を強いてしまっていたのではないだろうか。

 唯李は……唯李なら、大丈夫。なぜ、そう思い込んでしまっていたのか。


「ごめん、俺……」  


 そのあとの言葉が、何も出てこなかった。

 落ち込んだ彼女を励まして、元気づけるような、格好いいセリフ。

 考えてもいなかったことが、とっさにすらすらと出てくるほど器用な頭をしていない。


 絞り出した謝罪の言葉。

 それすら彼女の耳には届かなかったのか、唯李は立ちつくす悠己を置いて、一人先を進む。 

 一歩、二歩、と歩みを続ける彼女との距離が、しだいに開いていく。

 わずか数歩の距離。けれど今は、それがとてつもなく遠い隔たりのように思えた。  

 情けない自分を置いて、彼女はこのまま一人、立ち去ってしまうのではないか。

 

 そんな予感が、脳裏をかすめた。

 それも仕方のないことだと、頭の中で別の誰かが言った。すました顔で、悟ったような顔で、何もかもわかったふうな顔で。

 けれど急に、怖くなった。置いていかれることが。取り残されることが。

 声を上げられなかった。体が動かなかった。もしかしたら自分は、何も変わっていないのかもしれなかった。

 大切な人を亡くす前の自分と。その代わりとなる決意をする前の自分と。


 先を行く影が、ぴたりと立ち止まった。

 ゆっくりと、振り返る。

 影はとん、とん、と軽く飛び跳ねるように近づいてきて、目の前に立った。

 腕が伸びてくる。手のひらが頭に触れて、悠己の髪を撫でた。優しく手を撫でつけながら、彼女はいたずらっぽく笑った。


「もう、悠己くんまで泣くのやめてよね。お兄ちゃんだから、泣いたりしないんでしょ?」


――悠己はもうお兄ちゃんなんだから。瑞奈の前でも、そうやって泣いてちゃだめよ。

 

 まだ瑞奈が生まれて間もない頃。

 そう声をかけながら頭を撫でてくれた母の手は温かくて、優しくて、元気が出た。

 何かきっと不思議な力があるのだと思った。

 だから瑞奈をなだめるときも、そうやって真似をした。

 その力が母の半分でも、いや十分の一でも、伝わればいいと思って。


 そんなことを思い出していた。忘れていた優しい手の感触。

 だけど、母は母であって、唯李は唯李。もうどこにもいない、まったく別の存在。

 それに今は、自分だって何もできない小さな子供ではないのだ。これ以上彼女に負担を……頼るような真似をしてはならない。


 小さく頷いて、まっすぐに唯李の瞳を見つめた。お互いの目と目が合う。

 安心させてあげないといけない。言葉を探る。選ぶ。

 そうして悠己が口を開こうとした、そのとき。

 頭に触れていた唯李の手が、ぱっと素早く離れた。

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