第75話 邪魔者


「今日から悪口禁止週間を始めます。誰かの悪口を言っている人を見つけたら、先生に言うこと」

  

 それがいつだったかはっきり定かではないが、小学生の時分、担任の教師が突然そんなことを言いだした。朝のホームルームでのことだった。

 誰かの悪口を言う者がいれば、先生に報告をする。報告された者は、みんなの前で悪口を言った相手に謝罪をする。


 今思い返せば他にもっとやりようがあるのでは、という疑問もわくが、当時の凛央は疑いなく教師の言葉を受け入れて、それに従った。

 もともと正義感の強い性質だった。それはかつて中学の教員をしていた母の影響か。

 男子女子の見境なく、あちこち首を突っ込んでは、ちょっとした悪口も取り上げて密告をした。

 うしろめたい気持ちなんてまったくなかった。それどころか、正義をはたした気でいた。教師にも褒められ、いいことづくめ。

 その一方で、周囲からは疎まれ始めていることには気づかなかった。


 いつしかそれがエスカレートしたのだと思う。

 きっかけは、クラスの男子がお菓子をこっそり持ってきて食べていた、だとかそんなささいなことだった。

 その子が誰かの悪口を言ったわけではなかった。むしろその逆で、クラスのムードメーカー的な存在。

 そもそもそのときには、悪口禁止週間はとっくの前に終わっていた。

 それを頭ごなしに注意して、告げ口した。


 ――勘違い正義女マジうぜーよ。 


 実はお菓子を持ってきたのはその子ではなかっただとか、友達にそそのかされて食べさせられたとか、凛央が教師に告げた内容とは違う事情があとになって出てきた。

 お菓子を食べていた、というのも凛央が直接見たわけではなく、当時一緒だった友達グループの女子から又聞きしただけ。

 その子は問題が持ち上がったとたんに、自分は関係ない、そんなことは言ってないと口をつぐんだ。

 気に入らない男子を陥れようとして、彼女が嘘をついたのではないかという疑念もあった。

 結局誰が本当のことを言って、誰が嘘をついていたのか、真実はわからなかった。

 残ったのは、凛央に対する悪評だけ。勘違い正義女というレッテル。

 孤立するのも時間の問題だった。気づけば周りからは人がいなくなっていた。それどころか陰口を叩かれだす始末。

 それでも凛央は逃げることはせず、真っ向から話し合いを求めた。

 

 ――なんであんな上から目線なの?

 ――偉そうに。調子乗っててマジうぜえ。

 

 自分が間違っているのなら謝罪する。相手が間違っているのなら謝罪させる。

 そのつもりで正面から話し合いをしようとしても、茶化されるばかりでもはや取り合ってはもらえなかった。

 それどころかあいつはまったく懲りていないと、凛央に対し悪態をつく声が、露骨に耳につくようになった。


 自分は間違ったことはしてないつもりだった。

 正しいルールがあるならそれを守らせる。従わせる。

 だけど、黒のものでも白、白のものでも黒、ときにはそう言うことが必要。

 頭ではわかっていたが、それでも自分を曲げることはしたくなかった。いや、できなかった。

 ここで迎合したら、自分がしてきた行為を、すべて自分で否定してしまう気がした。


 だからたとえ陰で何を言われても、自分はもともとそういう性格だからと、意地を通すためにそう自分に言い聞かせていたのかもしれない。

 凛央は早くに悟った。それには覚悟が必要だと。一人でもやっていく覚悟が。

周りになんと言われようと、自分を貫き通す強い覚悟が。


 その点凛央は強かった。優れていた。

 勉強や運動でつまづくことはなく、常に好成績をキープし、教師からの覚えもいい。

 陰口こそあれど、面と向かって敵対してくるような相手はいなかった。

 一人だってなんとかなってしまうことがわかってからは、より一層孤立が強まった。


 うまくできずに頑張っている子がいる横で、さらりとこなす。

 ときおり見てられなくなって、手を差し伸べたりもしたけども、そういう行動が上から目線で鼻につく、とすぐ悪評になる。悪循環。

 親切にしてあげたつもりでも、露骨に嫌な顔をされたりすることもあった。


 何をしても自分は嫌われる人間なのだ。

 そう割り切って、あきらめて、もうすっかり慣れていた。

 ずっと一人だって、自分は大丈夫だってわかって。

 これからも、そのつもりだったのに。


 ――花城さん、よろしくね! や~隣が女の子だと気が楽だな~。

 ――凛央先生お願いします! お願い! 次はちゃんとやってきますから!

 ――今日はもう完璧ですよこれ、どやぁ~。……えっ? ここ違う? あぁん、もう凛央ちゃんあたしとボディチェンジしようボディチェンジ!


 毎日毎日、隣で声をかけてきて、笑いかけてきて。

 いくら邪険にしても、まったく懲りもせずに、しつこく、うっとうしいぐらいに。


 だけど、本当はうれしかった。そのとき、改めて気づいた。

 まだそういう気持ちが、自分の中にあったのだと。

 いくらのけもの扱いされて、一人になって孤立しようとも……私は強いから、大丈夫。

 自分ではそう思っていた。思い込ませていた。

 けれども、思い知らされた。思っていたよりもずっとずっと、深いところまで、棘が刺さっていた。

 彼女のことで取り乱して、すっかり自分を見失ってしまうぐらいには。




「――なにおうちゃんゆいのぶんざいで! って言ってやったの。そしたら…………ねえりお? 聞いてる?」

「あ……うん、聞いてるわ」

「もう、どしたのさっきからぼうっとして! とにかく絶対ナイショだからね? 瑞奈にバレてるってわかったら、ニセ恋人やめちゃうかもしれないし。瑞奈はね、二人が本当に恋人同士になってくれたらいいなぁって思ってるの。なんとかくっつけてあげようと思ってるんだけどね~」


「でもなかなかうまくいかないんだよね」と瑞奈は無邪気に笑う。

 屈託のない笑顔を向けられて、胸を射すくめられたように体が強張り、息が詰まる。

 そんな事情もつゆ知らず、二人の仲を勝手に曲解して、邪魔をした。

 ここでもまた自分の、勘違い……勝手な思い込みで、あれこれと横槍を入れて……迷惑以外の何物でもない。


 いつもそうだ。あのときから自分は、何も変わってない。

 唯李を信じられていなかったのは、自分のほうなのだ。


(私のせいで……)


 うれしそうに唯李のことを話す瑞奈。

 彼女はここでも優しくて、愛されていて……もともと自分のような人間が釣り合うわけがない。関わりあいになるような人種ではない。

 席替えをしてたまたま隣の席になった。接点はそれだけ。偶然以外の何物でもない。


 うまく周囲と調和する彼女にひきかえ、他者との接触を避け、上っ面の正義を振りかざすだけの自分。

 それは弱さを覆いかぶすための、借り物の強さ。

 そんな薄っぺらい人間だということは、きっととっくに見透かされている。周りからバカにされて笑われるのも当然。


 結局こうなる運命なのだ。

 唯李のおかげで……唯李のせいで。そんな当たり前のことを忘れかけていた。

 やっぱり間違いだったのだ。彼女の……唯李の優しさに舞い上がって勘違いした、勝手な思い上がり。


(どうしたって、私は……)


 ただの邪魔者。どこまで行っても嫌われ者。

 それなら邪魔者は邪魔者で、嫌われ者は嫌われ者のままで。

 正義面した、ただの勘違い女は、もうこれ以上一緒にはいられない。一緒にいてはいけない。

 なぜならこんな調子では、いずれ……。


 ――ほんと邪魔。マジウザい。


 その言葉を、唯李の口からだけは、どうしても聞きたくなかった。

 そんなことになるぐらいなら、目を閉じて、耳をふさいで、一人でいるほうがずっといい。


 何も難しいことはない、簡単なことだ。

 ただ元に戻るだけなのだ。彼女と出会う前の自分に。

 あとはそれをはっきりと、面と向かって告げればいいだけ。


「それより早く準備準備!」と瑞奈は再び買い物袋の中身を取り出していく。

 そしてその中の一つ、取り出したお菓子の箱を手にして、ふと手を止めた。


「あっ、しまった! きのこしか買ってこなかった……。これじゃ戦争できない……。ちょっとまた行って買ってくるから、りおは準備して待ってて!」


 瑞奈はそう言い残すと、凛央を一人置いて慌ただしく部屋を出ていった。

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