第58話 ドラゴン唯李
「もういいから唯李は、バカなことやってないで」
「ば、バカ……?」
「それより凛央、これ教えて」
悠己は開いた問題集のページをとんとんと叩きながら、凛央を手招きする。
このインテリメガネを無視して凛央に声をかけるとは由々しき事態である。視力トレーニングなぞやっている場合ではない。
「ちょ、ちょ待てよ! だから何を普通に聞いてくれちゃってるの!」
「別にいいでしょもう」
「いやダメですよ、ちゃんとうちの事務所通してもらえます!?」
ばっと両手を広げて通せんぼをすると、「どいて」と脇のあたりをずい、と手で横に押された。ずいっと。
突然の急所へのソフトタッチに、片膝が崩れて「はぅん」と声が出そうになる。というかちょっと出た。
「これは一見ややこしそうだけど、こうやってあの形に持っていけば……」
その隙に結局凛央を連れていかれてしまい、インテリそっちのけで悠己の机で講義が始まってしまう。
凛央も凛央で断れやと思ったが、根っからの先生体質なのだろう、懇切丁寧に解説を始めてしまった。
「なるほどそういうことか。やっぱすごいなぁ凛央は」
「まあこれ、少し意地悪な問題だと思うけど」
「そうね~意地悪いよね~」
ハブられないように首を突っ込んでいって、とりあえず乗っかっていく。
するとうんうんと頷いていた悠己が、まるで偽物を見つけたと言わんばかりの視線を送ってきて、
「唯李も教えてもらいなよ、わからないところとか」
「わからないところ? べ、別に~? そういうのはないかなぁ」
ここで凛央に教えを請いなどしたら、インテリ唯李即敗北である。
「あっそ」と悠己は唯李を一瞥すると、問題集をペラペラとめくって別の箇所を指さしながら、凛央に向き直る。
「あとここなんだけど……」
今度は二人一緒になって、頭を突き合わせるように問題集を覗き込む。なんだかやけに距離が近い。
こっちのエセインテリにはもう用はないと言わんばかりである。
焦った唯李は一度距離を取ると、ポジションを微調整し窓から差し込む光をメガネに反射させて、
(くらえ光○力ビーム!)
悠己の目元に当てていく。
むっと顔をしかめた悠己は、急に立ち上がると唯李の目の前までやってきた。
相変わらずの無表情だが、なんとなく怒っているような雰囲気もする。非常にわかりづらい。
「……な、何よ」
「ちょっと来て」
そう言って悠己はいきなり唯李の腕を取ると、教室の戸口へ向かって歩き出した。
あまりに意外な、強引な行動に、唯李は軽くパニックになりつつもされるがまま引っ張られていく。
そのまま教室を出て廊下を進んで角を曲がって、人気の少ない渡り廊下へ連れてこられた。
そこでやっと悠己は手を離すと、やはりこころなしか硬い表情で唯李の顔を見つめて言う。
「ふざけてばっかいないで、ちゃんと凛央の相手してあげなよ。凛央は唯李と話したくて会いに来たんでしょ」
人目もはばからず腕を取って引っ張るなんて大胆。
男子にこんな強引にされるなんて、初めての経験……。
(これってインテリ効果ありやん? もしかして……)
「ねえ聞いてる?」
「は、はい?」
まずい全然聞いてなかった。
悠己は一瞬呆れ顔になったが、急にふっと強張りが抜けたように微笑を浮かべて、
「わかったよ、じゃあ聞くから。何か思うことあるなら言ってみて」
うってかわって柔らかい声のトーン。これは久々に優しいモード来た。
結局なんだかんだで優しいのだ。お兄ちゃんなのだ。
(これもういっちゃう? ここでインテリかわゆいモード見せちゃう?)
唯李はここぞとばかりに顎をこれでもかと引いて、上目遣いに悠己を見る。
すでに昨日鏡を使って、ちょうどいい感じにメガネが邪魔にならない角度を練習済みである。
「あ、あのね……」
(『他の子と仲良くしちゃイヤ』『あたしだけを見て』……なーんてこんなん言われたら即落ち不可避ですわ。もう奈落の底行きですわ)
これを惚れさせゲームの体で言うのだ。
からかい感を全面に出していけば恥ずかしくない、はず。
こっちはあくまで本気ではない感を保ちつつ、向こうはドキっとなってしまうという超絶高等テク。
これは勝つる。
(しかしでもだとしてもこんな奥歯ガタガタになりそうなセリフを言うのは抵抗ががが……)
だがここが千載一遇のチャンスでもある。
これをかわいく言えれば一発逆転勝利もありうる。
それだけの可能性がこのワードにはある!
「ほ、ほっ……」
「ほ?」
そのときタイミング悪く予鈴が鳴った。
はやる気持ちを抑えつつ、とりあえず鳴り終わるのを待つ。
(早く言わねば早く……)
もう時間がない。
唯李はごくっと一度息を呑んで、
「あ、あた……」
「予鈴鳴ったぞ、教室もどれー」
「ほあたああぁっ!?」
突然背後から大きな声をかけられて、カンフーの達人みたいな叫びが出てしまった。
現れた男性教師はいきなり奇声を上げた唯李に「な、なんだ……?」と恐れおののくように目を丸くしている。
ヤバイ、と思った唯李はとっさに百パーセントのスマイルを作って、
「あ、あぁっ、三浦先生今日もスーツ決まってますね!」
「お、おう……。早く教室戻れよ」
「は、はぁ~い」
なんとかしのいだ。
去り際不審そうに二度見されたがしのいだ。
(危ねーっ、先生にほあたぁするとこだった!)
他の子と仲良くしちゃイヤ、あたしだけを見て。略してほあたぁ。
(ぶふっ、リーさんマジヤンデレ)
ほあたぁ言いながら拳を振り回している人を想像して、唯李が一人で勝手にツボに入っていると、悠己が怪訝そうな顔で覗き込んでくる。
「何をにやにやしてるの?」
「いっ、いやこっちの話……」
慌ててふぅ、と額を拭う。
ふと気づけば、悠己がじっとこちらを見つめていた。
「唯李……」
「は、はい?」
悠己は何やらポケットを探っていたかと思うと、手を伸ばしてきて、唯李の腕を取った。
またも予期せぬ不意打ちに、いやがおうにもドキドキと心臓の鼓動が高鳴りだす。
「ゆ、悠己くん……?」
「これはちょっと高いやつだから」
そう言って、悠己はぎゅっと手に何か握らせてきた。
それは丸くて、硬い石のような……。
「じゃ、トイレ行きたいから先に戻るね」
悠己は渡すだけ渡すと、足早に廊下を去っていった。
自分よりトイレを優先されたことはさておき、一人残された唯李は手のひらを広げて渡された物体を見た。
「こ、これは……」
いつぞやのパワーストーンによく似ていた。というか絶対にそれ系の石である。
ちょっと高いやつ……つまり高級なストレス解消ストーン。
(やっぱりメンタルヤベー女だと思われてるやんけ!!)
「ほあちゃあぁっ!」
唯李は石を握りしめた拳を壁に叩きつけた。
ペチン、と壁を叩く音が廊下に虚しく響く。
「鷹月さん?」
それにわずかに遅れて、ゆったりとした女性の声がした。
はっと振り返ると、書類の挟まったファイルを片腕に抱えた担任の小川が、不思議
そうな顔で立っていた。
「おはようございます」
「おはようございますじゃなくて、こんなところで何してるの? もうHR始まりますよ」
「ちょっとハエが壁に」
「ハエ? いないみたいだけど……もしかして何か困ってることとかある? 勉強のストレスとか」
「いっさいありません。毎日が幸せです」
「ふぅん? 今は時間ないから、あとでゆっくり話しましょう。昼休み職員室来れる?」
「それはちょっと難しいかもです」
神経質かつ心配性の小川の話は無駄に長い。執拗と言ってもいい。
その優しげなルックスも相まって男子生徒の間では天使だ癒やし系だともっぱら評判なのだが、メガネをかけた姉に見た目がちょっと似ているので個人的には少し、いやかなり苦手なのだ。
「あら、メガネ……」
小川はいつもはかけていない唯李の伊達メガネに気づいたのか、顔をやたら近づけてきてまじまじと観察し始めた。
「それ……度入ってる?」
「かなり怒入ってます」
「ちょっと見せて」
「ダメです、変身が解けますので」
「やっぱり放課後にしましょう。そっちのほうがたっぷり時間取れるから」
(ぐぬぬぬぬ……)
ホームルーム始めるから行きましょう、と小川に優しく背中を押され、唯李はそのまま教室に連行された。
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