第45話 

 凛央は顔だけを窓枠の下から覗かせ、ちょっと来いと目で合図してくる。どうやらつながっているベランダの通路をたどってやってきたらしい。


 仕方なくうしろのガラス戸を引いてベランダに出ていく。

 しゃがみこんだ凛央が「ここに座れ」と手招きをしてくるのでそのとおりにする。


「今カンタンに人の名前出そうとしたわよね? しかも名前忘れてるとか」

「いや名前出すなとは言われてない……」

「何なの? 普通に考えたらわかるでしょ? いちいち命令しないと動かないロボットか何か?」

「ロボットをうまく使えない者もまた無能……」

「ああ? 言ったわね!? だいたい命令どおりに動いてないくせに!」

「エネルギー切れです。クオカードを入れてください」

「燃費悪すぎよこのポンコツロボ!」


 ぐいぐいと壁に追いやられ、近距離で顔を指差されまくしたてられる。

 その折に風で凛央の髪がなびいて、顔面をべちべちはたいてきた。


「うっ、やめてください」

「違うわよこれは風で髪が……そうやって被害者ぶるのやめてくれる?」

「追加のカードで手を打とう」

「ふざけないで」


 怒られた。

 さらに凛央の圧が強くなると、近くで変な音が聞こえてきた。


「じーーっ」


 何かと思えば唯李が窓からベランダを覗き込んで、訝しそうにこちらを見ていた。

 同じく唯李に気づいた凛央が、慌ててぱっと体を離す。


「……おふたり、仲良さそうね」 

「どっ、どこが!! そ、そもそもこの男が……!」

「凛央ちゃんって、意外に結構……へー。へー」

「だ、だから違っ……!」


 急に顔を赤くした凛央は言葉に詰まると、代わりに悠己を睨みつけてきて、


「べ、ベランダに出てふざけている人がいないか見回ってただけ」


 捨て台詞を残して身を翻すと、肩を怒らせてベランダを歩いていった。

 唯李はきょとんとした顔でその後ろ姿を眺めていたが、


「んー……凛央ちゃんも、ちょっと変わってるとこあるからねぇ」

「ちょっとどころじゃないよね」

「悠己くんに言われると相当だね」 

「あれって唯李のせいなんじゃないの?」

「……それはどういうこと?」


 やはり唯李のせいでおかしくなってしまったと考えるのが妥当だ。

 品行方正な優等生を変人に変えてしまうとは……隣の席キラー恐るべし。

 そして元凶である本人はしらばっくれる気満点だ。


「にしてもあの凛央ちゃんがね~……ふーん、ふ~ん……。あたしがどれだけ苦労したか知らないでしょ」

「何を?」

「悠己くんて、意外にコミュ強……」

「褒めても何も出ないよ」

「わかってる」

「あ、やっぱり帰りにハミチキおごってあげるよ。おかげで臨時収入あったから」

「……なんで急に?」


 異常なまでに警戒された。なかなかに猜疑心が強い。

 隣の席キラーの軍門に降った隣の席ブレイカー……邪魔が入ると何かと厄介な存在だ。ここは被害者の救済がさしあたっての急務か。大事の前にまずは小事を済まさなければ……。


(でもまあ、そう焦ることもないか)


 凛央からもらったカードを唯李に見せびらかしながら、悠己はそんなことを思った。





 二年四組の教室。

 午前の授業が終わって昼休みになると、隣の席にすぐさま数人男子生徒が集まってきて、うるさく騒ぎ出した。


「なあ今日外に食いに行かね?」

「しーっ、また校則守りなさいって怒られんぞ」

「ひぃ拘束がぁ~! 拘束守りますぅ、お許しください女王様ぁ~」


 一人がこれみよがしに言うと、ぎゃはははと一段大きな笑いが起き、さらに周囲からもくすくすと忍び笑いが聞こえる。

 凛央はそれに対し顔色一つ変えることなく、一瞥もくれることもなく、黙って静かに席をたって教室を出た。


 購買に向かってパンと飲み物を買い、その足で校舎の外へ出る。

 昇降口を出てすぐ校舎の裏手に回り、細い通路を抜けてやってきたのは、建物のくぼんだ箇所と塀に囲まれた四角いスペース。

 

 最初にここを見つけたのは偶然だった。ただ一人になりたくて、ふらふらとあてどなくさまよっていたら、いつの間にかこの場所に腰を落ち着けていた。

 昼食をとるにもここなら誰にも邪魔を受けない。雑音も入ってこない。

 我ながらすごくいい場所を見つけたと思う。


 突き出たコンクリートのへりに行儀よく腰掛ける。

 スマホを取り出して通話アプリの画面を開き、改めて通知がないことを確認した。

 一度「ゆい」と表示された猫のイラストアイコンをタップするが、何をするでもなくそのまま画面を大きくスワイプして、スマホをしまった。


 小さく息をついて顔を上げると、ちょうど視界の端で小さな影が動いた。

 猫だ。茶色い毛並みに薄く白が混ざっていて、しっぽをだらりと垂らしながら、のろのろと歩いている。


「ちっちっち。おいで」


 舌を鳴らして、指先で手招きをしてみる。

 猫は一度だるそうに首をもたげて凛央を見たが、すぐにさっと身を翻して早足で逃げてしまった。

 遠ざかっていくその後姿を見送ったのち、凛央は購入したパンの封を切って口に運び出す。

 今日選んだ惣菜パンは中身がスカスカで失敗だ。これなら何か作って持ってくればよかったかもしれない。

 

 食べかけのパンの残りを一息に口に押し込んで、飲み物で流し込む。

 用意した昼食が食べ終わるとほぼ同時に、足元でぽつ、と小さく音がした。


(雨……)


 予報では曇りのはずだったが、空を覆う雲はいつの間にか黒ずんでいた。

 ぼんやり空を見上げているうちにも、ぽつぽつぽつ、と雨音が迫ってくる。

 やがてみるみるうちに雨脚は強まり、ものの数分もせずに雨がざあざあと本降りになった。


 びたびたと雨がコンクリートを打ち付ける音がして、ぽたりぽたりと凛央のいる場所にも水滴がしたたり落ち、靴やスカートの裾に黒い斑点ができ始める。

 凛央は壁に背中を押し付けて座り直すと、膝を折り曲げて抱え込むようにして、身を縮こまらせた。


(大丈夫、こうすれば濡れない)


 雨が塀の壁を伝って落ちていく。

 それを眺めながら、凛央はただじっと時が過ぎるのを待った。

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