第1話 隣の席キラー
机にカバンを置き、椅子を引いて腰掛けるなり、隣でスマホをいじっていた唯李が、こちらを見て軽く笑いかけてきた。
「おはよ」
「……おはようございます」
「うふふ、なんで敬語?」
「そんなに仲良くないですし」
「仲良くないって……クラスメイトじゃん」
「クラスメイトだけど、今までしゃべったことなかったですし」
「じゃあ、もうしゃべったからタメ口でいーよ」
唯李はくすくすと口元をほころばせながら、どんどん懐に入ってくる。
このクラスになってからおよそ二ヶ月がたったところだが、これまで彼女とはあいさつ含め一切の会話をした記憶がない。
お互い席も遠く、それ以外でもまったく接点がなかったというのもあるが、それが隣の席になった途端これだ。
もちろん悠己の中身が変わったわけでも、ただのクラスメイトという関係性が変わったわけでもない。
どうやら隣の席キラーという異名は伊達ではないようだ。
ちなみに悠己は隣の女子とは基本しゃべらない習性がある。
相手から話しかけられでもしない限り、用もなしに自分から話しかけるようなことはない。
来るもの拒まず、去るもの追わずのスタンス。そんなだからクラスの中でも若干孤立気味だ。
あいさつもそこそこにカバンの中身を机の中に詰めた悠己は、それきり黙って文庫本を取り出して読み始める。
なんとなく横から視線を感じたが気にせずにいると、不意に隣の唯李がこちら側に軽く身を傾けて声をかけてきた。
「ねえねえ、何読んでるの?」
「本」
「なかなかだねぇその返事、ベルリンの壁そそり立ってるねぇ~」
「もうとっくに崩壊してるけど」
「たとえが古かったか。じゃあ今は無防備な感じ?」
「壁はまだあと二つある」
「誰が巨人だよ」
唯李はおかしそうに笑ったあと、少し意外そうな顔になって体ごと悠己のほうへ向き直った。
「へ~。成戸くんって意外に拾ってくれるんだ」
「待った、ココ」
悠己は腕を伸ばして、机の数センチ横に指で線を引いてみせる。
「だいたい机のこのへんからが俺のゾーンだと思うんだけど」
「ゾーン? なるほど成戸ゾーンですか……。そこにうっかり入ってしまうとどうなるの? 吸い寄せられる?」
「俺が『……えっ?』てなる」
「……なにそれ。さてはその本……いかがわしい本かな?」
急にそう言われて内心少しぎくりとしてしまう。
しかし表面上はあくまで本を注視したままでいると、唯李はいきなり身を乗り出して手元を覗き込んできた。
「うぉえっ」
「ちょっ、何いきなりえづいてるの?
」
唯李の突然の行動に「えっ?」の最上級が出てしまった。
かすかに茶色く波がかったミディアムヘアがふわっと揺れて、独特の甘い香りが鼻をつく。
彼女は距離をキープしたまま、まるで一緒に読むように本に視線を落としてくるので、悠己はぱたんと本を閉じて机の上に置いた。
唯李は「あ、閉じられた」と言って自分の椅子に座り直すと、
「ツァラストラかく語りき……? なんかむずかしそーなの読んでるねぇ。もしかして成戸くんて、哲学青年ってやつ?」
「いや断っておくけど俺は、普段こんな本読まないから」
「……なんでそんないやらしい本でも見つかったみたいな言い方?」
ある種非常にいやらしいとも言える。
なんだかよくわかっていないのに「まぁね」なんてカッコつければ、あっという間に痛い人のできあがりである。
「これはその、なんか偉そうに持ち上げられてるから何がそんなにすごいのか気になって」
「……なんか恨みでもあるの? それで何がすごいのかわかった?」
「いやさっぱり。意味不明でイライラする」
「……じゃ読むのやめれば?」
彼女に言われたからというわけではないが、このまま読み続けるのはどうにもやりにくい。
悠己はすごすごと本をひっこめて机の中に押し込む。
すると唯李は少し悪いとでも思ったのか、カバンをゴソゴソとやって中から一冊の文庫本を取り出した。
「ねえねえ、あたしちょうど読み終わった本あるんだけど、貸してあげよっか、これ。『君の肝臓を破壊したい』」
「それは猟奇殺人小説? それかアル中の話か」
「と思うでしょ? 実は読んでびっくり感動の恋愛ストーリーだよ」
「俺そういうの読めないから。無理」
「え~なんでなんで~。貸してあげるから読みなよ、面白いよ」
「他人からもらったものは喉を通らない体質なんだ」
「それどこの忍び? ていうか食べる気?」
恋愛という単語を聞いただけで自然と拒否反応が起こる。
厳密には拒否反応というか虚無反応というか、生まれてこの方彼女どころか女友達すらできたことがない悠己には、まさに縁のないものだ。
唯李が無理やり本を押し付けてこようとするが、悠己は腕組みをして断固拒否の姿勢を取る。
「娘はやらん、出直してこい!」
「勝手に変なアテレコしないでくれるかな」
「くすくす、だって言いそうなんだもん。成戸くんて変わってるね」
「変わってないよ、普通だから」
俺ほど普通で平凡なやつもいない。
そう思っている。
「よかったぁ。隣が面白い人で」
「いや全然、面白くないから」
俺ほどベタでありきたりなやつもいない。
そう思っている。
「うふふ……。じゃあ、改めてよろしくね」
唯李がかすかに首をかしげて、笑いかけてくる。
このとき、初めて悠己は間近で正面から彼女の顔を見た。
かすかにアーチを描く眉にさらりとかかる前髪。くるくると大きな瞳に末広の二重まぶた。
すっと筋の通ったやや小ぶりの鼻と、色つやのよい唇はほころんだ口元によく映える。
(なるほどこれが……)
クラス一……いや学内でも指折りの美少女と評判の隣の席キラー……というやつか。
ここまで来るともはや優劣どうこうではなく、タイプというか好みの問題だろう。いわゆる美人系ではなくかわいい系。
そんな子が、すぐ近くで屈託のない微笑みを向けてくる。
「ん、どうかした?」
「いや……」
視線に気づいたのか、唯李はぱちぱちと瞬きをして不思議そうに尋ねてくる。
目をそらした悠己の目線は、彼女の目元から口元に移っていた。
(歯並びがいいなぁ。うらやましい)
他人事のようにそう思っていると、ちょうど予鈴が鳴ってすぐに担任が姿を現した。
悠己がぱっと教卓のほうへ顔を向けると、唯李は「なんだよ~気になるなぁ」と笑いながら、同じように前を向いて座り直した。
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