第37話 ごめんね
「ごめんね」
「ごめんねじゃなくて! それじゃ……わかんないよ! わからないの!」
「……俺はお兄ちゃんだから、瑞奈と一緒になって泣いたりできないんだ」
瑞奈ははっと目を見張って、二度三度、大きくまばたきをすると、手に握っていた帽子をぽそりと床に落とす。
悠己のその言葉に、まったくの虚をつかれたかのようだった。
瑞奈は息を呑んで黙り込むと、徐々に呼吸を荒げ始め、わなわなと体を震わせだした。その瞳には、今にも溢れてこぼれんばかりの涙が溜まっていった。
「……それって、やっぱり全部瑞奈が悪いんだよね。瑞奈のせいで……ゆきくんはずっと我慢して……。それなのに、瑞奈はうそつきでいくじなしで……嫌な子なの! ゆきくんの気持ちも知らなくて、一人じゃろくになにもできなくて……ゆきくんの邪魔ばっかり、お荷物で! だから瑞奈なんてほんとは、いなければいい。ゆきくんだってほんとは、そう思ってるんでしょ!」
堰を切ったように瑞奈の頬を大粒の涙がつたい、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
それを合図に、瑞奈はいよいよ声を上げて泣き出してしまった。
少し、焦りすぎたのかもしれない。
もう大丈夫、元気だよ。という瑞奈の言葉に、すっかり気が緩んでもいた。
――見ろ悠己、この石の輝きを。すごい力を持ってる人でね、仕事休んでわざわざ沖縄まで行ってきたんだぞ。
――いくらしたのかって? 金のことばかり言うな。母さんのことだって、話したらちゃんとわかってくれたんだぞ。
――いや! お母さんの作ったのじゃないと食べたくない!
――学校なんて行きたくない! お母さんのとこにいる!
突然倒れて、病院に運ばれて、あっという間の出来事だった。
心の準備なんて、する間もない。
一つの部品を無くしてずれた歯車。
それは大事な、とても大事な……二度と元通りにはならない、どうやっても替えのきかないものなのかも知れなくて……。
自分一人では、どうやったって……もうどうしようもないことなのかもしれない。
(大丈夫……大丈夫)
ふつふつと湧き上がる黒い感情を、そう言い聞かせて抑え込む。
きっと、大丈夫。大丈夫なはず。今までだってそうやってここまで、やってこれたんだから。
それは何の保証もない、自分だけの思い込みかもしれなかった。
たまたま偶然、うまくいっただけ。折れなかっただけ。
けれども今ここで、自分が頼りない、情けない声を上げるわけにはいかなかった。
悠己は大きく一度息を吐き出して、ゆっくり吸い込む。
そして身をかがめると、懸命に涙を袖で拭う瑞奈の耳元に顔を近づけて、優しくささやきかけた。
「ごめんね瑞奈」
「どうして、ゆきくんがあやまるの……?」
「もう無理に友達作れって、言わないから」
「また、そうやって……。ゆきくんは、彼女作ったのに……」
「違うんだよ。先に嘘ついたのは俺のほうだから」
悠己は一度唯李のほうへ目線を送り、再び瑞奈の目を見つめる。
「唯李は本当は、彼女なんかじゃないから」
「えっ……?」
瑞奈は微塵も疑っていなかったらしい。
驚いたように顔を上げて、かたわらにいた唯李をじっと見た。
勝手にばらしてしまって悪い、とは思ったが、どの道もう限界だろう。
ごめん、と目配せをしようと唯李を見上げる。
すると、ずっと黙り込んだまま成り行きを見守っていた唯李は、瑞奈を見て、悠己を見て……。
「――ふふっ、なにそれ。……やだなぁ急に変なボケかまして。悠己くん、嫌がらせかな?」
さもおかしそうに吹き出した。
いつものおどけた調子に、悠己は思わず目を見張る。
唯李は床に落ちた帽子を拾い上げて手で払うと、ぽかんとしている瑞奈の頭に乗せて、くすっと笑いかけた。
「このお兄ちゃんね、せっかくの彼女とのデート中も、瑞奈ちゃんのことばっかり心配しててね。さっきも瑞奈ちゃんのこと、必死に探し回ってたんだよ? 汗かいてるの初めて見た。だから瑞奈ちゃんがいないほうがいい、なんて、そんなこと絶対ないよ。あるわけない」
唯李の言葉を黙って聞いていた瑞奈は、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら口をへの字に曲げて、悠己を見つめてきた。
「なんで……瑞奈のことなんて、もう放っておけばいいのに。ゆきくんは、ゆいちゃんと楽しくやればいいのに……」
「言ったでしょ、瑞奈が元気ならそれだけで幸せだって。でもそうじゃなかったら、誰と何してたってダメだよ」
瑞奈の体に腕を回し、背中をさすってやる。
熱い体温と、かすかな震えが手に伝わってきた。
「今までどこにいたの?」
「公園の、トイレと……スーパーの……トイレ」
「トイレまでは見なかったなぁ」
思い返せばその片鱗はあったのだ。
一人狭い個室にこもる瑞奈の姿を想像すると、胸が締め付けられるように苦しくなった。妹をそこまで追いやってしまった自分が情けなく思えてきて、二の句が継げなくなる。
そのとき横あいから伸びてきた手が、目の前で妹の頭を優しく撫でた。
唯李は腰をかがめて、瑞奈と同じ高さに目線を合わせて言った。
「あのね瑞奈ちゃん。昔はあたしもね、友達全然いなくって。つまんなくてうじうじしてて、もうお前いらんわっていうノーマルのハズレキャラだったの。でもそれが今ではいつの間にか、ギャグキレッキレ文句なしの星五つSSRキャラなんだから。大丈夫、瑞奈ちゃんも焦らないで、ゆっくり頑張ればいいよ」
――焦らないで、ゆっくり頑張ればいい。
瑞奈に向けられたその言葉は、まるで悠己にもそう言っているかのようだった。
その一言で体の強張りが取れて、すっと胸のつかえが下りたような気がした。
いったい何を焦っていたんだろう。
自分もそのつもりで、やってきたはずだったのに。
何があってもこの先ずっとそうすると、決めたはずだったのに。
「瑞奈に友達ができて、一人で大丈夫になって、俺のこと必要なくなっても……俺はずっと、瑞奈のお兄ちゃんだから。だから、兄の日なんてないんだよ」
「お兄ちゃん……」
瑞奈は悠己の胸元に顔を押し当てると、ぎゅっと二の腕を掴み、「ごめんなさい」と何度もしゃくりあげながら肩を震わせた。
瑞奈の体を抱きとめながら、唯李と目が合う。唯李はいたずらっぽく笑うと、「内緒ね」と唇の前で人差し指を立てて、片目を瞬かせた。
返す言葉がなかった。ただ呆然としていた。
何も口に出せないでいると、唯李はにこっと歯を見せて、底抜けに明るい声で言った。
「もう、悠己くんも、いつまでもそんな怖い顔してないで。真面目か! あたしこういう雰囲気苦手なんだよなぁ~……だんまりされると~……」
唯李は肩にかけたカバンから、メモ帳らしきものを取り出した。
どこかで見覚えがあると思いきや、よくよく見ればいつぞやの大喜利手帳だった。
唯李は手帳をパラパラとめくりながら、
「そんなときこそ、わたくしがここで一発面白ネタを……。あ、ちょうどいいのがあった。お題。無事高校デビューを果たしたケロ助くん。しかし日がたつごとに友達がどんどん去っていきます。なぜでしょう?」
突然大喜利が始まった。ぽかんとした表情の瑞奈と顔を見合わせる。
悠己たちの戸惑いをよそに、唯李は一人高らかにメモ帳を読み上げる。
「鳴き声が明らかにアヒル。ていうか鳴く」
「語尾にギョギョ? っていう」
「急にすごい飛ぶ」
「困ると『りょうせいっちゅーねん!』っていう」
「2D。Tシャツから出てこれない」
瑞奈はくすりともしない。悠己も同様に唯李の一人大喜利を見守っていると、唯李は少し焦りだしたのか、
「カエルだけど水虫! 切れ痔!」
だんだん雑になってきた。声だけは大きくなっている。
そのときちょうど入口のドアが開いて、若い男女がエントランスに入ってきた。ちらちら唯李を見ながら、脇を通りすがる。
「……切れ痔だって、くすくす」
「ち、違います、あたしは切れ痔じゃないです!」
唯李が顔を赤らめて必死に弁解をするが、愛想笑いをされて逃げられた。
瑞奈がぷっ、と吹き出す。赤い目をこすりながらくすくす、と笑い出した。
つられて悠己も笑う。唯李は不満げに口をとがらせたが、すぐに笑顔になった。しばらくの間、あたりには三人の笑い声が響いていた。
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