第8話 兄の日
「はい、なんでしょうか」
嫌に真剣なので、こちらも茶化さずに応えてやる。
瑞奈は少しうつむいて一度タメを作ったあと、さっと顔を上げ、まっすぐ目を見つめてにっこり笑いかけてきた。
「いつもありがとう。お兄ちゃん大好きだよ」
なんのてらいも恥ずかしげもなく、唐突にこういうことを言う。
いきなりの不意打ちに少し驚きはしたものの、悠己も慣れたものであからさまに顔に出すようなことはない。
同じく微笑を浮かべて、優しい口調で返してやる。
「俺も瑞奈のこと大好きだよ」
「うん。知ってる」
しかしこちらはあっさり返された。
こくりとうなずいた瑞奈は得意げに胸を張って、
「瑞奈はお兄ちゃんのこと何でも知ってるからね」
「何を?」
そう尋ねると、瑞奈はよくぞ聞いてくれました、とばかりに鼻を鳴らす。
「お母さんがいなくなっても、お父さんは相変わらずだけど。お兄ちゃんがすごくがんばってるの、知ってるから」
瑞奈の発言はどうにも言葉が足らない感じだったが、悠己はおおよそ言わんとしていることを察した。
父は昔から悠己たちのことは母にあれこれ任せきりで、仕事第一なところがあったが、本当に仕事が忙しいのだ。
商社勤務の父親の仕事が激務なのはわかっている。今の出張が終わったら、今度はアジアのほうに行かされるかもしれないと言っていた。
ただそんなだから、瑞奈は父にはあまりなついていない。
前に瑞奈に「給料だけはいいもんね」と煽られて、オレ転職しようかなと父に愚痴をこぼされた。
といっても瑞奈もかつての母の口癖を真似ているだけで、実際のとこはよくわかってないだけだったりする。
母が亡くなって辛い思いをしたのは、みんな一緒だ。
悠己は最後の別れ間際に母から「お父さんをサポートしてあげて。瑞奈には優しくね、お兄ちゃん」と言われた。
遺言のようなものだ。悠己はそれを律儀に守り、父になるべく心配をかけないよう、家のことはできる限り自分でやるようにしている。瑞奈の面倒も含めて。
今回も父の出張の話が出たときに「二人で大丈夫か?」と聞かれて、ちょっとやばいかも、と思ったけども「全然大丈夫」と返事をした。
「だから、お兄ちゃんありがとう」
正座をした瑞奈は床の上に指先をついて、一度うやうやしく頭を下げた。
それからゆっくり顔を上げると、
「瑞奈のためにがんばって慣れない料理してくれてありがとう」
「うん。でも瑞奈は高確率でなにかしら残すけどね」
自分一人ならまだなんとでもなるが、瑞奈の口に合わせるとなると難しい。
「お兄ちゃんズボラで、ぶきっちょだけど……お掃除とかお洗濯とか、いろいろがんばってくれてたの知ってるから」
「そう言うなら自分のパンツぐらい自分でたたもうか」
お年頃の乙女の下着が、部屋の洗濯ばさみにぶら下がったまま放置されている。
「これからは瑞奈も、家事とかがんばるから!」
「火事にはしないでね」
正直あまりコンロとか触らせたくない。この前もアイロンでカーペットを焦がされた。
「だから……お兄ちゃん、今までありがとうございました。お世話になりました」
「なんか最終回みたいだね。本当になんでもない日に」
「えっ、どしたのお兄ちゃん……泣いてるの……?」
「いや泣いてないけど」
無理やり感動の場面を演出しようとしてくるが、やっぱり片方が下半身パンツ丸出しではそうはならない。
そもそも脈絡がない。風呂に入ろうとしたタイミングで呼び止めてする話なのかどうか。
悠己の煮え切らない態度に瑞奈はついに我慢の限界に達したのか、おすまし顔をムキーっとさせて、グーにした両手をぶんぶんと振り回しだした。
「んもう! ゆきくんそうやってちゃかしてばっかり!」
「俺は客観的事実を言ってるだけだよ」
「とにかく! お兄ちゃんはもう今日で最後! 兄の日にゆきくんは生まれ変わるんです!」
「どういうこと?」
「だってゆきくんは瑞奈のせいで、友達も、彼女も作れないでいたんだもんね。瑞奈のことをあらゆるすべてに優先したせいで……かわいそうに」
お兄ちゃんのことは何でも知っているはずの瑞奈に妙な誤解をされている。
元からできなかっただけ、とはちょっと言いづらいが、完全に友達ゼロみたいな言い方もやめてほしい。
正直なところそれらがいなくても、たいていのことは瑞奈と済ませてしまうのでさほど不自由には思わない。
買い物に行ったり遊びに行ったり。それは瑞奈にとっても同じことだ。
瑞奈は家ではこれだけ騒がしいが、外に出るととんでもない人見知りで、友達を家に連れてきたこともなければ、誰々ちゃんがね~という話をすることもない。
「へへっ、今日は学校で一言もしゃべらなかったぜぇ!」みたいなことを得意そうにドヤ顔で言われたときは、さすがにちょっとだけ怒った。
ただ悠己自身、あんまり人のことも言えない。
「瑞奈のこと好きすぎるのはわかるけども……そういうのシスコンっていうんだよ。シスコンには人権がないのです。ご近所に白い目で見られてもしょうがないし、就職とかも不利だから」
「マジか」
「だからいい加減妹離れしないとね。瑞奈もこれから友達作るから、ゆきくんも彼女作ること」
「いやその理屈はおかしい。なんで俺は彼女なんだ」
「ゆきくんは年上だからハンデなの」
「とんでもないハンデだな」
めちゃくちゃ言われているが、そう言う本人は至って真剣である。
瑞奈は膝立ちをして前かがみになると、興味津々といった様子で悠己の顔を覗き込んできた。
「ねえねえ、ところでゆきくんは今好きな女とかいないの?」
「また言い方」
「なんか気になる子とか!」
そう言われて、とっさになぜか唯李の顔が浮かんだ。
というか単純に何らかの接触のある女子、となるともうそれしか思い浮かばないだけだった。
今日一日だけで、高校生活において他のどの女子よりも会話量が多い気がする。
「まあ、俺がどう思ったところで相手は俺のことなんて眼中にないからね。そもそもの格が違うというか」
「ってことはやっぱりいるんだ!」
「いや違う違う、そういうわけじゃなくて」
「へ~へ~」
何やら楽しそうだが、変に誤解されるとちょいと面倒なことになりそうなので、ぴしゃりと先手を打つ。
「いや、俺はそういうのいなくても幸せだよ普通に。瑞奈が元気なだけで十分幸せ」
「それぐらいで幸せって言ってたら、彼女できたら爆死しちゃうんじゃないの」
「なんで爆発するんだよ。瑞奈がこうやって、俺のこと気にしてくれるだけですごくうれしいよ。それでもうお腹いっぱいだから」
「えぇ~? そう言われると照れるなぁ、えへえへへ……」
瑞奈は恥ずかしそうに頭をかく。珍しく照れているようだ。
自然とこちらも笑顔になると、瑞奈は照れ隠しをするようにくるっと180度回転し、背中を寄りかからせるように押し付けてきた。
体を抱きとめてやると、瑞奈は首をひねって悠己の顔を見上げて笑った。
「ゆきくん。瑞奈は元気だよ」
「そっか。ならよかった」
「瑞奈はもう大丈夫だから。ゆきくんが幸せになってくれたら、もっと元気」
母を亡くしてずっとふさぎこんでいた瑞奈が、ここまで元気になった。
ろくにご飯も食べず、誰とも口をきかず、部屋に閉じこもって、学校にも行かなくなって……。
悠己はそれを根気よく見守った。母との約束だ。
瑞奈が泣いていたら、優しく抱きしめて、頭を撫でてあげた。笑顔が戻るまでずっと。
だからこれからも瑞奈には元気で、いつだって笑顔でいてほしいから。
「彼女……二次元とかでもいいかな」
「ダメに決まってるでしょ。と・に・か・く! ゆきくんは今日から生まれ変わるの! 兄の日おめでとう!」
「兄の日はやっぱなんか違うかな」
悠己は瑞奈の髪を優しく撫でつけながら言った。
とはいえ、難しいものは難しい。
◆ ◇
「ゆきくん、お背中流しましょーか?」
「いやいいって」
風呂場のドアごしに呆れ気味の兄の声がした。
今日こそちゃんと言えた。これでいいんだ。
大丈夫。わたしは、元気だ。元気で明るい妹なんだから。もう一人だって、大丈夫。
そう繰り返し、自分に強く言い聞かせることで、どきどきどきと鳴り止まなかった心臓の鼓動が、ようやく収まってきた。
(お兄ちゃん……)
瑞奈は風呂場の壁に背を向けて立ちつくしたまま、じっとシャワーの流れる音を聞いていた。
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