第26話 単身赴任 / 釣り

 2002年の1月中頃の日曜日 午前5時に 宮崎事業所の開発チームの池本技師は 単身赴任寮へ私を迎えにやって来ました。


 30歳代中頃 中肉中背 まじめなタイプの彼は 寮の玄関に待機していた私を見つけると 会社では見たことの無い明るい笑顔で「おはようございます。」と言いました。


 池本さんは 私と供に新商品開発に取組んでいましたが 昨年末に新商品の量産化の目処が立つと 休日には休めるようになり この日に 私をルアー釣りに誘っていました。


 新商品開発の責務から来るストレスから開放された私の心は それまでの内側を向いたものから外側へと向きを変えていて どこかへ行きたいと思う私には 彼の誘いは渡りに船のようなものでした。 


 池本さんは ルアー釣りの経験がない私に 釣りの道具をすべて用意してくれていました。



 ミニバンタイプの車で向かった先は 単身赴任寮から15分くらいの所で 一ツ瀬川の河口から南へ数キロメートル程の距離にある石崎浜というところでした。


 車を道路脇に止めると 池本さんは 後部のハッチ式ドアを開けて 二人分の釣具を取り出しました。 


 釣り竿には 既にリールが取り付けられていて ロッドガイドに通された釣り糸の先端には ルアーを取り付けるための金具が取り付けてありました。


 彼は 道具箱の中から 15センチメートルくらいの長さの魚の形をしたミノーという種類のルアーを取りだし 金具に取り付けると「川緑さん これで釣ってみてください。」と言って釣り竿を手渡しました。



 日の出前の真っ暗な中 二人は 頭にバンドで取り付けたライトの明かりを頼りに 波打ち際まで歩いて行くと お互いに20メートルくらいの間隔を取り キャストを始めました。 


 暗闇の中に立った私は 仕事の帰りに通った暗い林道のことを思い出しましたが 緊張して周囲を警戒することは無く むしろ神経が弛緩して周囲の闇に溶け込んでいく感じを受けました。


 釣りを始めて間もなく 池本さんは 私のところへやって来ると「小さいですけど 釣れました!」と体長40センチメートルくらいのシーバスを見せました。



 日の出が近づくと 東の水平線付近の空が明るくなり その明かりに照らされて 南北方向に一直線に伸びる海岸線と 180度の角度範囲に広がる水平線が現れました。


 外の世界を求めていた私は 自身が幻想的な世界の境界線に立っていると感じ それまで暗闇の中に溶け込んでいた心が開放されていくような 不思議な感覚に包まれました。 


 暫くすると 東側の水平線からひょうたんのような形に変形したオレンジ色の太陽が出てきました。


 まだ弱い陽の光は 冷えた私の体を温めることはありませんでしたが 開放された心を明るく照らしているように感じました。



 日の出から1時間程経った頃に 池本さんは 釣果の無い私に気遣って「まだ 元気ありますか?」と聞きました。


 次のポイントは、最初のポイントから 北へ8キロメートル程行った所でした。


 良い天気 風も無く 波も無い海を見ながら のんびりとした気分に浸って キャストを続けました。 



 午前10時頃に そろそろ上がりの時刻かと思いながら 私は キャストして リールを3回くらい巻き取った時に 手元に大きな抵抗力を感じました。


 流木に掛けたと思った私は それを引き寄せる事ができるかどうかを確認しようと 竿を立てました。


 すると 曲がった竿先が指す方向の海面に 大きな魚が跳ねるのが見えました。


 その姿を見た瞬間に 私は 心臓が激しく動き出すのを感じて 強い緊張感を覚えました。


 魚がヒットすることを予想していなかった私は 何がどうなっているのか分りませんでした。


 それでも 私は 池本さんに 大声で「釣れましたー!」と叫ぶと 後ずさりしながらリールを巻き取り 獲物を砂浜まで引きずり上げました。 


 上がってきたのは 体長60センチメートルのシーバスでした。


 獲物は 流線型の体型に銀色のうろこの勇ましい外見とは対照的に大人しい目をしていました。


 獲物を絞めて 氷水が入ったクーラーボックスへ入れると 二人共 俄然ファイトが湧いてきました。



 それから間もなく キャストすると ルアーが着水した近くの水面に小さな波紋が立つのが見えました。


 同時に 先程に比べると小さい当たりがあり 私は竿を立てて 軽く合わせを取ると ゆっくりとリールを巻きました。


 リール巻く時に大きな抵抗はありませんでしたが 上って来たのは体長約60センチメートルのサワラでした。


 獲物は 鮮明な青い体色と直線的なスタイルをしていて 奇妙で魅力的な生き物に見えました。


 その後 池本さんは 体長40センチメートルの鰭が黄色い黄鰭チヌを釣り上げました。


 彼は 獲物を持って 私の所へやってくると「ぼちぼち上がりましょうか。」と言いました。



 釣り道具を片付けて 車に積み込む時に 池本さんは「川緑さん 良かったら 釣り道具を貸しますよ。こちらに居る間に 使ってみませんか。」と言いました。


 私は「ありがとうございます。ぜひ使わせてください。」と答えました。


 帰りの車の中で 私は「池本さん 今も感動と興奮で 頭がぼーっとしています。」と言うと 彼は「そうでしょう。自分も 最初に大物が釣れた時はそうなりました。」と答えました。



 私は 子供の頃から 魚釣りが好きで 家に近くの川で 鯉やハエやウグイや鰻等を釣って遊んでいましたが 今回程 その釣果に 感動と興奮を覚えたことはありませんでした。


 私は 今の感動と興奮は 何がそうさせているのかと思い 感動と興奮に至った要因の分析を始めました。


 要因の1つ目は 事業所から請け負った仕事で 5ヶ月間程 ストレスを受け続けていた状態から解放されたことでした。


 社運をかけた新商品開発の責務から来るストレスは 重圧となり私を押しつぶしていましたが その状態から開放されて 仕事以外のことに興味を持てる状態にありました。


 要因の2つ目は 今までに見たことの無い雄大な自然を目の当たりにして 不思議な開放感を覚えたことでした。


 それは 闇の中でルアー釣りをしていて 西の空が白み始めて見えた180度の角度に広がる水平線や 南北に直線的に伸びる海岸線を見たことで その中にいる自分が開放されて行く感覚でした。


 要因の3つ目は 予想もしていなかった釣果に恵まれたことでした。


 自然の中に開放されている自分を感じながら 無意識に釣りを楽しんでいた時に 獲物がヒットして 突然の興奮状態に包まれたことでした。 


 これらの3つの要因を 順番に経験することは それまでにない大きな感動と興奮を得られるものと考えられました。 



 感動と興奮の分析結果は 求める「強靭で柔軟な心作り」のためのヒントになりました。


 今回の事例は ストレスの掛かるタフな仕事環境下に置かれた時に 参考になる考え方でした。


 きつい仕事や嫌な仕事等のストレスで圧縮された心は 仕事をやり遂げた後に 外の世界へ向かおうとします。


 その時に 何か新しい世界に飛び込んだり やってみたかったことにトライすれば それまでに経験したことの無いような開放感と感動と興奮に包まれた最高の気分を満喫できるのです。



 そう考えると 今後 ストレスの掛かるきつい仕事が回ってきた時は 最高の気分を満喫できるチャンスになると思えました。


 また そう考えると その仕事にも耐えられるだろうと思えました。


 でも そのためには 普段から 自分のやってみたいことを調べて その項目をリストアップして その時がきたら 直ぐに取り掛かれるように準備しておく必要があると思いました。



 単身赴任寮に戻った私は 直ぐに ノートを取り出すと これからやってみたいと思っていることを 書き出しました。


 私は ノートの最初の行に「狩猟に行く。」と書き込みました。

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