第25話 単身赴任 / 恐怖心

 2001年7月に 会社の宮崎事業場から新商品開発の支援依頼を受けた私は 事業場へ派遣となり 事業場の単身赴任寮に入り 開発支援活動に取組んでいました。


 私のミッションは 3ヶ月後に新商品開発の可否判断を下すことで もし可能な場合には新商品の開発支援を行うことでした。


 慣れない土地で 見知らぬ人達の中にいて 責任の重い仕事を納期に追われながら進めることは 私の心身に大きな負担とストレスを与えていました。



 圧し掛かるストレスは 自然と 私の意識を自身の内面に向けさせました。


 毎朝 単身赴任寮のベッドで目を覚ますと ベッドに胡坐になり 瞑想を行いました。


 目をつぶり 深い呼吸をしながら 体の隅々に意識を向けた後に 自身の意識の塊を 自分の外側に持って行くイメージをして そこから自身を見つめました。


 通勤時間には 人と会うことの無い山越えの林道を歩き 自分自身に意識を集中しました。


 朝の爽やかなで静かな林道を一人歩いたり 帰りに暗闇の林道を歩くと 自身の呼吸音や足音を聞く事が出来きました。


 自分自身を客観的に見つめる取り組みは 自分自身の存在を感じることに繋がり 仕事のストレスを幾分開放し 落ち着かせる効果があるように思いました。



 その様な取り組みを続けていたある日の夜 単身赴任寮への帰り道 私は暗い林道を通っている時に妖怪を見たと思い 強い恐怖を感じました。


 不安と緊張感に包まれて 暗い林道を抜けた時に 私は 脱力感と同時に爽快感を覚えました。 


 私は この時の脱力感と爽快感が「強靭で柔軟な心身作り」に効果のあるのかどうかを見極めようと思いました。


 もし効果があるのなら それは何処から来るものなのか そのメカニズムはどのようなものかを検証することにしました。


 翌週の月曜日の夜の仕事の帰り道 私は 圧し掛かってくるような大きな山陰を見ながら 奇妙な期待感を持って林道へ入っていきました。


 ところが 期待に反して 林道を通る時に 先日受けたような恐怖感を覚えることは無く また 林道を抜けた後の何ともいえない開放感と清涼感を感じることもありませんでした。  


 私は 期待感が大きかったので 拍子抜けして 肩の力が抜けるのを感じました。



 その翌週の月曜日の夜に 私は 仕事が終わると いつもの様に 暗い林道へ向かいました。


 山の頂上付近に来ると そこには右側へ向かう分かれ道があり 分岐点に立った街灯が ゴルフ場への案内看板を照らしていました。


 明かりは 付近の道を照らしており 私は 懐中電灯の明かりを消して 街灯の所まで歩きました。


 街灯の真下まで来ると 突然 明かりが消えて 周りは真っ暗闇になり 私は立ち止まりました。


 その瞬間 私は 背中から頭上へ 冷たい空気が抜けるような感覚に襲われ 鳥肌が立ち 全身にぞくぞくする感じを受けました。


 「きた きた きたー!」と小声で言うと 私は 懐中電灯を点けて 周りの気配をうかがいました。


 不意の出来事に 恐怖を感じながら 私は 足元を照らし 歩き始めました。


 明かりの消えた街灯を背にすると 私の全神経は 背後に向けられ 何か追って来るものがいないか警戒しながら歩きました。

 

 下りの道は 膝にがくがくする振動を与え その振動が 私の恐怖心とぞくぞく感を増幅させました。


 林道を歩き下る間 私は 得体の知れないものに対する恐怖心と緊張感に包まれて 他に何も考えることができない状態になっていました。


 張り詰めた意識のままで 林道を抜けて 舗装された道路にでると 私は「はーっ!」と声を上げて 大きく息をつきました。


 私は 安心するのと同時に全身の力が抜け落ちるのを感じましたが そこから単身赴任寮まで歩く間 後頭部に ぴりぴりとした電気が走るような刺激を感じ続けていました。



 翌日の会社の帰りに 私は 昨日のことを思い出し 緊張感を覚えながらも 私の足は 大きな山陰に消えていく林道へ向かって行きました。


 山の頂上付近までやって来ると 私は 分かれ道の街灯の様子が気になり 心拍数が高まるのを感じました。


 坂道を上がり 街灯が見える所まで行くと 明かりは消えていて 辺りは暗くなっていました。


 私は 昨日に街灯が消えたのは たまたま その時に電球が切れのだろうと思いながら 街灯の下までやって来ると 今度は ここで街灯が点いたらどうしようと思い ぞくぞく感と緊張感に包まれました。


 この日は 特に変わったことも無く 私は 林道を抜けました。



 それから10日程経った日の会社の帰りに 私は いつもの様に 暗い林道へ入って行きました。


 暫く前から 山頂の街灯は 再び点灯していましたが 私は また明かりが消えた時のことを想定して 懐中電灯をつけたままで 街灯の下を通り過ぎました。


 暫く山を下ると 左手の林の奥の方で「がさがさ」という音が聞こえました。


 音が聞こえた方向に懐中電灯の明かりを向けた途端 その付近から「ぎゃおー!」と言う ねこ科の大型動物のような泣き声が聞こえました。


 あわてて明かりを足元の道に戻した私は「これは またー!」と小さくつぶやくと これまでとは違う恐怖と緊張を感じていました。


 「逃げると追われる」という根拠のない考えが頭に浮かんだ私は 駆け出したい気持ちを抑えて 音を立てないように坂道を降り始めました。


 歩きながら私は 山の左手の方に意識を集中して 何か追ってくるものがないか警戒しました。


 林道を抜けると 私は 後ろを振り返り「助かったー!」と声を上げました。



 翌日 私は 職場で 昨夜の動物の泣き声の話をすると それを聞いていた一人が その声の主が 孔雀であることと 林道の近くで飼育されていることを教えてくれました。


 私は 気を取り直して 林道歩きを 続けることにしました。



 その年の年末に 新商品開発は峠を越えて 事業場は新商品の量産化を決定し 大型設備投資に踏み切りました。 

 

 私のミッションは 新商品開発支援から量産化支援へとフェーズを変えて 私の業務は 新商品の製造仕様や検査項目を決めることに変わり これまでと比べると重圧の少ないものになりました。


 新商品の量産化のスケジュールが決まると 私の支援業務は終わりが見えてきました。


 私の仕事の量は減少し これまでとは異なり 休日には休みを取れるようになりました。


 それまで私に圧し掛かっていたストレスは 急に軽減したのを感じました。



 ストレスが無くなると 私の「強靭で柔軟な心作り」の取り組みにも変化が生じていました。


 仕事のストレスを感じなくなった私は あえて暗い林道を通り 恐怖を体感したいという気持ちが無くなり 仕事の彼リには 山を迂回して街灯のある明るい道を歩くようになりました。


 暗い林道とその上に圧し掛かる山陰を見るだけで怖くなり 私の足は その方向に向かうことができなくなっていました。


 心境の急激な変化に戸惑いを覚えた私は 単身赴任寮への帰り道に 「一体なぜ 自分は そんなに臆病者になってしまったのか。」と自問して その理由を考えました。



 自身の心境の変化を振り返った私は 夜の林道歩きの取り組みが 仕事のストレスから自身を解放するための 場合の手法であり 相撲の取り組みのようなものだと気付きました。


 私の心の土俵の西から 仕事の「ストレス」と言う名の力士が上がってくると これにはかなわないと思い 私は正面から対決することを避けました。


 私は 心の土俵の際へ向かうと自身を行事の立場に移し 東から正体不明の「恐怖」という名の力士を登場させました。


 「ストレス」と「恐怖」とを戦わせ その戦いを 土俵際で傍観することにより 私は 自身の居場所を心の土俵の中に確保していました。


 「ストレス」は 重い突き押しで 相手を土俵際へ押し込むのが得意であり 一方 「恐怖」は 切れの良い投げ技で 相手の攻撃をかわすのが得意でした。 


 私は 自身の土俵を逃げ出すことなく また 「ストレス」と「恐怖」の攻撃を直接受けることなく 間接的に関わることで自身の居場所を確保していました。  



 ところが年末になると 仕事がうまく行って 私の心の土俵から仕事の「ストレス」が居なくなりました。 


 「ストレス」が土俵を降りていくと 今度は 残った「恐怖」が私の方を振り向きました。


 「恐怖」と一対一で向き合うのは 「ストレス」と向き合っていたのと同様に 耐え難いものでした。


 このような心理状態の変化があって 私は 仕事の帰りには 暗い林道を避けて 街灯のある道を選ぶようになったのだと分りました。



 街灯が照らす道を歩きながら 私は 今度の休日に何をしようかと考え始めていました。


 私の意識は これまでの内側を向いたものから 外側へと向き始めていました。


 これまで私を抑圧していたストレスが無くなると 肩は軽くなり 自由で開放感に満ちた気分になり 外へ出かけたくなっていました。


 私の感じた開放感は 仕事の難所を乗り越えたことだけに拠るものではありませんでした。


 単身赴任中の私は 家族から離れていて 何者にも囚われることがない環境にいました。


 そのことが 私の開放感を 増大させていました。

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