第24話 単身赴任 / 不安
2001年7月中頃の金曜日午前10時頃に 私は会社の居室で 机について事務作業をしていると 社用の携帯電話に呼び出し音が鳴りました。
電話の受信ボタンを押して「はい。川緑です。」と言うと電話の向うから「宮崎の勝田じゃが 川緑君 君すぐに来てくれんね? 」と言う声が聞こえました。
宮崎事業所の勝田技術部長は 50歳代中頃 中背細身 浅黒い面長の顔に眼鏡を掛けた男性で 以前に 宮崎事業所で開かれた会議に同席していたことがありました。
これまで彼と直接に話をした事がなかったので 彼の言葉に驚いた私は「はあ?」と言うと 彼は「まず3か月間 来てもらえんだろうかと思うとる。この話は誰に通したらよいかね。」と言いました。
電話があって間も無く 私は 所属部署の責任者の指示を受けて 宮崎事業所へ派遣されることになり 新商品開発の支援をすることになりました。
翌週に 私は 単身 宮崎事業所の単身赴任寮へ向かいました。
山の麓にある単身赴任寮は 幹線道から離れ 周りに民家は無く 緑に囲まれた所にありました。
寮は 鉄筋コンクリート作り2階建てで 2棟あり 厨房と食堂のある平屋を挟んで 建っていて 寮の玄関横には ドアの上に「管理人室」と表示された部屋がありました。
「こんにちは。今日からお世話になります川緑です。」と声を掛けると ドアが開いて 70歳頃 小柄で腰の曲がった女性の寮母さんが出てきました。
寮母さんに案内された208号室は 10平米ほどの広さで 机とベッドが備え付けてありました。
彼女の話では 私の他に3名の住人がいて 平日の朝夕の食事は 彼女が用意してくれ 休日の食事は 各人に任せているとのことでした。
私は 新入社員の時に会社の独身寮に入った経験がありましたが 今回の入寮は それとは全く違ったものでした。
新入社員の頃に入っていた独身寮には 多くの寮生が居て 食事の時間や入浴の時間に 彼等とコミュニケーションをとることができ 彼等との繋がりの中に自身の居場所を見出すことができました。
今回の単身赴任寮には 数名の入居者が居ましたが それぞれの出勤時間や夕食の時間はまちまちで 彼等と顔を合わせることは殆どありませんでした。
単身赴任寮の生活が始まり 私は 午前5時に起きると 身支度を整えて 食堂へ行って朝食を取り 午前6時になると 歩いて寮を出ました。
通勤には 車の通る道を避け 林道を通って山を越える片道約6キロメートルのルートを選びました。
寮に居る時間と 通勤時間の間 私は 人と関わらずに孤立した時間を過ごすことになりました。
一方で 宮崎事業場の門をくぐった途端 私は 周りから注目を集めることになりました。
今回の派遣業務のミッションは 事業場の新商品開発を支援することでした。
事業場では この1年間 社運を掛けて超小型の電子部品の開発に取組んでいましたが 彼等の期待する物が出来ずにいました。
3ヶ月後には 新商品を製造する量産設備投資を行わないとビジネスチャンスを逃すので 事業場の責任者等は 私に 緊急の開発支援を要請していました。
新商品ができるかどうかは 私の肩にかかっていて 仕事の計画やその進捗は 周りから注視されることになり 私は 何とか事業部の要望に答えたいと思うのと同時に 強いストレスを感じました。
支援業務を始めて1ヶ月が過ぎた頃に 開発のゴールが見えない中で 私は 何とも不安で居場所のない感じを受けていました。
毎週木曜日の午前10時に開かれる開発進捗会議では 私は 開発品が まだ形になっていないことを報告することになりました。
新商品の量産設備投資の期限が迫る中 会議の参加者からは「新商品は 本当にできるのか。」、「新商品に多額の設備投資をしてもよいのか。」、「社運を賭けていいのか。」と言った声が聞かれました。
針のむしろの様な 会社で過ごす時間の反動か 私は 1日の中で 単身赴任寮にいる間と通勤の間の人と関わらない時間に これまでにない新鮮さを感じていました。
単身赴任寮の自分の部屋にいる時や 通勤時に林道を歩く時は 人の気配を感じることはなく 自然に 意識が自分の内側を向くようになっていました。
幹線道から離れ 木々に囲まれた単身赴任寮は 夜に 部屋の電気を消すと 光と音の無い世界になっていました。
光と音の無い世界に居ると 自分だけの閉じた空間に身を置いているような感じがして 自分自身を捕らえる神経が研ぎ澄まされていくように感じました。
また早朝と夜の林道は 静かで 自分の息遣いや足音のみが聞こえるので 私は 自分自身を強く感じました。
そのような感覚は これまでに経験したことの無いものであり 新鮮で奇妙に感じるものでした。
私は その新鮮で奇妙な感覚が ここでの仕事の助けになるものかどうか確認したくなりました。
早速 私は 寮に居る時間と通勤時間の間は 自身の内側に意識を向けることにしました。
翌日の朝 単身赴任寮のベッドで目覚めた私は 横になったままで体を伸ばすと ベッドの上に胡坐に座り 目を閉じて 両手のひらを上に向けて 膝の上に置きました。
首を大きく2回から3回し 大きく息を吸うと 暫くの間 ヨーガの呼吸を繰り返しました。
寝起きで 頭がぼんやりする中 呼吸に意識を集中すると 体は眠ったままで 意識だけが目覚めていくのを感じました。
私は目を閉じたまま 左手の指先から左肩までのそれぞれの部位に意識を向けて それぞれの部位を少し動かして その状態を確認し 右手も 同様に 意識を向けて その状態を確認しました。
私は 同様の操作を足、腰部、腹部、胸部、首回りについて行い 最後に頭部に意識を向けました。
私は 頭頂部と後頭部と側頭部と顔面部に 順に意識を向けて それぞれの部位に違和感が無いことを確かめました。
その後 私は自身の意識の塊をイメージして それが頭の上の空間へ移動していくのを想像しました。
私は 意識の塊が天井近くに浮いている状態をイメージして その意識が 胡坐に座っている自身を見下ろしている状態を想像しました。
その意識は 座っている自身に「大丈夫だよ。ちゃんとやっていけるよ。」と声を掛けました。
自分自身に意識を向ける操作を終えた私は 静かに目を開けて ベッドから起き上がりました。
朝6時になると 寮を出て 事業所へ向かう道は 山越えの林道で そこを通る人も無く 涼しい風に吹かれ 新鮮な空気を吸いながら歩くのは 爽やかな気分になり 前向きに歩ける気がしました。
事業所での一日が終わると 私は 技術チームのリーダー課長等に仕事が終わったことを伝えて 退社すると 暗い夜道を歩いて 単身赴任寮へ向かいました。
仕事がうまく進まなかった日には 「一体 何が悪かったのか。 明日の仕事はどうしようか。」等と考えながら歩いていると その足取りを重たいものになっていました。
幹線道から脇へそれて林道に入ると そこは朝の景色とは異なり 街灯の無い道は 直ぐ先の方が闇に消えてしまっていて その上にある山は 巨大な黒い塊となって圧し掛かってくるように見えました。
月か星が出ていれば 木々の間から差し込む明かりに 林道がぼんやりと見えましたが 明かりがない夜には 懐中電灯で道を照らさないと 進むことが出来ませんでした。
闇夜の林道の暗がりの中に入った瞬間に 私は 何とも言えない心細い感覚に包まれて ついさっきまで考えていた仕事のことは頭から消え去っていました。
林道を抜けて 街灯に照らされた道に出ると 私は ほっとして肩の力が抜けるのを覚えました。
事業所に通い始めて2ヶ月程経った頃に 私は いつもの様に 夜の林道を歩いて単身赴任寮へ向かっていました。
懐中電灯の明かりを頼りに 林道を上っていき 山の頂上付近の道分かれているところへ来ました。
分岐点には 街灯が灯る1本の電柱が立っていて その横に看板が立ててあり 右手側にゴルフ場があることを示していました。
ゴルフ場への道を横目に見ながら 街灯のない林道を下り始めて間もなく 左手の林の中で 何か「かたかた」という音が聞こえました。
私は 音のする方へ 懐中電灯の光を向けると 木々の間を 白くぼんやりと光るものが道に平行に動いて行ったように見えました。
その瞬間に 小学生の頃に 同じクラスの男子が見たと言った妖怪の話しを思い出し 背筋に悪寒が走り 体に痺れるような緊張感を覚えました。
その子は 妖怪が「シロコンボウズ」と呼ばれるもので 白い人の形をしていることと 人に危害は加えないと言ったことを思い出しました。
いまさら来た道を戻るのもためらわれ 前に進むことにしましたが 下り坂を降りる時は 勝手に足が動いていくようで 何かに引き寄せられている気がして より緊張感を強めました。
緊張感が増していく中 私は 毎朝のイメージトレーニングを思い出し 意識を林道の周りのことから 自分自身に向けることに集中しました。
自分の意識の塊をイメージして それを頭上の空間に持って行くことをイメージして 上空から 自身と周りを見渡すことをイメージしました。
そして上空から自分自身に「だいじょうぶだよ。ちゃんと見ているよ。」と声を掛けました。
自分に掛けた言葉に やや落ち着きを取り戻した私は 体は緊張しているものの 意識ははっきりした状態で 山のふもとまで降りて行きました。
車の通る道に出ると そこには街灯があり その周りを明るく照らしていました。
明るく照らされた路面を見ると 私は 緊張が解けて全身の力が抜けていくのを感じました。
単身赴任寮に辿り着いた私は 先ほど林道で感じた不安感と緊張感を振り返りました。
その感触は 仕事中に感じる 不安感や緊張感とは質が異なり 短期的でインパクトがあり その緊張感が解けるとなんとも言えない清涼感を覚えるものでした。
緊張感と清涼感のキーワードに 私は お化け屋敷や遊園地のジェットコースターを思いだしました。
以前より 私は それらの施設や乗り物には あまり興味が無く なぜ多くの人がそこに集まって 悲鳴を上げて楽しむのか疑問を感じていました。
この日に体験した恐怖感は 奇妙な興奮を呼び起こし その後に 何とも言えない清涼感を覚えさせるもので 彼等の気持ちも少しは分ったような気がしました。
この日の自身の変化に興味を持ち それがここでの仕事の支えになるかもしれないと思いました。
私は 夜の林道を歩くことが 求める「強靭で柔軟な心作り」に効果があるものかどうかを検証することにしました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます