第23話 居場所 / 料理
家庭での居場所を確保するために 私は 家族とのコミュニケーションを図る目的で 幾つかの取り組みを行い その中で家族への夕食作りに何かヒントがあると感じていました。
そこで 休日になると 私は 午前中に食材の買出しに出て 午後4時頃になると料理を始めて 午後6時に夕食のテーブルに料理を並べることにしました。
食材の買出しは 近所の八百屋とスーパーを回り 野菜や果物や肉や魚や豆腐等の加工品を買い求めました。
料理のメニューは 買ってきた食材に合わせて決めることが多く インターネット上にある料理のレシピのサイトを見て参考にしました。
料理を始めて3ヶ月程の間 私は 料理を手順よく作ることが出来ずに 食事の時間が近づくと 納期に追われて仕事をする時のように 焦りと緊張を感じながら作業することになりました。
焦りと緊張は 作業のミスを誘い まな板でキャベツを切る時に 手を切ったり うっかり落とした包丁を あわてて空中で掴みそうになり ぞっとする目に遭いました。
それでも なんとか時間内に料理が出来上がると 私は ちょっとした達成感を覚えました。
この頃の私の料理の様子は まるで会社に入社した頃のようで 慣れない環境で仕事を覚えるためにあたふたしていた時のようでした。
スーパーに食材を買いに行っては 何が何処にあるのか分らず店内をうろうろすることになりました。
料理をする時は 調理器具のある場所が頭に入っていなくて それらを探すところから始めることになり 段取りよく作業を進める事が出来ませんでした。
作業が思うように進まないことは なんとももどかしい感じでしたが それでも 私は 料理を続けていこうと思いました。
それは 料理には 何か 作り手を引き付ける魅力があると感じていたからでした。
その魅力の正体は分りませんでしたが 料理を続けていたら 何か見えてくるだろうと思いました。
料理を始めて半年経った頃に 私は 料理を始めた頃に比べて 段取り良く 作業をこなすことができるようになっていました。
スーパーに食材を買いに行くと 何処の陳列台に どのような食材が並んでいるのかが 頭に入っていて 短時間に買い物を済ませることができるようになっていました。
これまでに作ったことのある料理は それらの料理を作るのに掛かる時間を把握していて 効率的に料理を作る順番も分るようになっていました。
買い物でも料理でも それに掛かる時間の感覚が身につくと 以前のように度々時計に目をやって時間を気にすることなく 料理に集中できるようになりました。
台所に立つことが習慣になると 家族は 私がそこにいることに違和感を感じなくなったようで 私は台所を自分の居場所として確保したと感じました。
料理を始めて1年経った頃に 私は 家族の料理の好みが判るようになっていました。
妻は 濃い味付けを好み 香りの強い食材を嫌い 長女は 濃い味付けを好みましたが 好き嫌いはなく 次女は 薄い味付けを好み レバー等の内臓系の食材を嫌いました。
私は 家族の好む定番料理を作り 時々創作料理を作りました。
創作料理を作るのは 仕事で新製品を作るのと似ていて 新しい原材料を用いて これまでにない香りや味や触感もった料理を作り上げる作業でした。
創作料理にトライするのは これまでに使ったことの無い食材を見つけたり これまでに経験のない調理方法をやってみる時でした。
私は 新しい食材を買って帰ると それを生かじりして 味や香りや機械的強度や水分量等を確認しました。
私は 感じ取った食材の情報を基にして 頭の中で幾つかの思考料理をやってみました。
生、焼く、煮る、蒸す、揚げる等の料理法を頭の中で考えて 食材を調理するために適したサイズを想定し 味付け調味方法を選択し 料理の出来上がりをイメージしました。
それらの料理の組み合わせの中から よさそうなものを選ぶと 実際に作ってみました。
試作品の出来上がりは イメージ通りにできないこともありましたが そのような思考料理や実践のプロセスは 私の物づくりの心をくすぐるものでした。
時に 試作品がイメージ通りの料理に仕上がると 私は 何かとても良い仕事ができたと感じました。
料理を始めて3年経った頃に 私は 料理に対する価値観が大きく変わり 料理に掛ける時間の割合が大きくなっている事に気付きました。
食材を買ったり 料理をしたりする時間以外に インターネットで食材や料理法に関する情報を検索したり 会社での仕事の合間に 頭の中で思考料理をやってみたりするようになっていました。
私は 自分の中で料理の占める割合が大きくなってきたのは 一体どうしてなのかと思い その理由を分析しました。
分析に当たって 私は 最も多くの時間を費やしている仕事と 料理とを比較しました。
会社での仕事は 料理とよく似ているところがありました。
電気製品の製造メーカーで技術系の仕事に従事していた私は 会社の新商品に搭載する材料やデバイスの開発を手がけていていました。
これまで 新商品の開発が始まると その性能や品質を確保するために必要な材料やデバイスの開発に取組みました。
開発を始めるに当たり 私は いつも 開発品の完成形をイメージして それに至るための設計思想を立てました。
設計思想が固まると 次に それを具体化するための方針を決めました。
更に 設計思想を具体化していく時に 開発の方向が正しいのか また 元々の設計思想が間違っていないかを確認するためのモデル実験を行いました。
このような設計思想と方針を基に開発した材料やデバイスは 求められる性能や品質を満足して 新製品に搭載され市場へ供給されました。
開発品が世に出て行ったことは 私の設計思想が正しかったことを示していました。
正しい設計思想を立てられるかどうかは 開発担当者の技術力にかかっていて 技術者の腕の見せ所となっていました。
このような仕事の考え方や開発のプロセスは 料理と良く似ていました。
その日の夕食のメニューを決めると 私は 料理の出来上がりをイメージして それに至るまでの設計思想を立てました。
次に 設計思想を具体化するための方針を決めました。
更に 設計思想を具体化していく時に 料理の方向が正しいのか また 元々の設計思想が間違っていないかを確認するのに 料理の触感のチェックや味見をしました。
私の設計思想と方針を基に作られた料理は 食卓に上がり 家族に食されることで その評価を受けました。
料理作りには その設計思想が重要で 設計思想の良し悪しが料理の出来不出来を分けました。
正しい設計思想を立てられるかどうかは 料理人の技量にかかっていて 料理人の腕の見せ所となっていました。
このように仕事と料理のプロセスを比較すると それらはよく似ていました。
また 仕事と料理には 大きな違いもありました。
この頃 勤め先の会社は 長く続く業績の伸び悩みを背景に 社内のそれぞれの部署では 担当者等は 会社の責任者等に 仕事の成果を強く求められていました。
会社のトップから業績改善の指示を受けた職場の上司は 実務担当者の仕事の進捗を厳しくチェックするようになっていました。
仕事の進捗会議等の場で 目先の売り上げに拘る上司は 担当者の考える仕事の進め方を否定し 彼の設計思想や開発の方針を却下するので 担当者は反発しました。
しかし 組織の中では弱い立場にある担当者は 上司の指示に従うしかなく 良い仕事ができなくなることを覚悟せざるを得なくなりました。
一方 夕食の場は 家族間に利害関係が生じるものではありませんでした。
家族から 私の作る料理に対する要望はあっても 料理の出来不出来は 家族が気にするほどのものではなく 料理をすることは むしろ喜ばれるものでした。
なにより 料理は その設計思想を家族に邪魔されること無く 自由に描く事ができて それを具体化するプロセスも 自由に選択することが出来ました。
料理に引き付けられる理由を 仕事と比較して分析した私は 料理には 自由な発想で設計思想を立てられることや 料理のプロセスを自由に選べることにあるからだと気付きました。
料理を実践しながら 私は そこにある これまでに経験したことが無い世界を感じていました。
料理は 色々な食材に その成り立ちを考えさせられ それが持つ栄養素や人を引き付ける味覚を感じさせるものであり 料理は それらの食材を 人の全ての感覚を駆使して 対応すべき作業でした。
調理の作業は 目で食材を見て 手での触感を感じ 鼻でその香りを知り 耳で焼き音を聞き 頭で料理時間の経過をカウントするものであり 人の全ての感覚器官を総動員して対応すべきものでした。
料理は 食材の種類や加工法や調理法から無限の組み合わせがあり 料理に取組む度に 新しい発見をもたらし 奥の深さを感じさせるものでした。
ひょんなことから始めた料理でしたが それは とても自然で自由で興味深いことで そこに ここちよい居場所を与えるものでした。
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