第20話 居場所 / 職場
厳しい仕事環境の中で 自分を落ち着かせる居場所を確保することはできるのでしょうか。
2000年頃 勤め先の会社は 業績が低迷していて 本社と事業部の責任者等は 業績の回復を図るために 業務担当者一人ひとりの仕事の進捗を厳しく管理するようになりました。
組織の責任者等は グループ単位 チーム単位 また個別に 業務の進捗会議を設定するので 担当者は それぞれの会議に引っ張り出され それぞれの会議に向けて報告書を作成することになりました。
担当者は 報告書の作成と報告会への参加に多くの時間を取られて 肝心の仕事に掛けられる時間は少なくなりました。
実務の遅れから業務計画に遅延が生じると 報告会の数が更に増えて 仕事の進捗を厳しく追及され 更に業務計画の遅延を生むと言う悪循環に陥りました。
多くの業務担当者は このような状況尾が続くことに 会社の中で居辛さを感じていました。
ある日の午後に 上司との報告会の事前打ち合わせが終わり 会議室を出た私はストレスを感じていました。
報告資料のダメ出しをもらい 今日中に再提出を求められた私は 打ち合わせの中で上司が発した声が まるで不協和音のように耳の中で鳴り響いていました。
作業場に戻ると そこで作業していた職場のメンバーに「また再提出になりました。」と言いました。
彼等は 「そうなんですね。」、「またダメ出しですか。」、「勘弁してもらいたいですね。」と口々に言いました。
私は 彼等に打ち合わせの様子を話して 彼等の反応を受け取ると言う普通のやり取りで 少し肩の力が抜けて ほっとするような感じを受けました。
それは 上司と私を繋ぐ糸を通じて送られてきた信号が 私の中で不協和音を反響させているところへ 職場のメンバーと私を繋ぐ糸を通じて送られてきた信号が その反響を相殺してくれたようでした。
私は 職場のメンバーとのちょっとした会話の中に 自身の中に溜まっていたストレスを小さくする効果を感じると同時に そこに職場の中に自分の居場所を見出すヒントがあると感じました。
翌日御前8時に出社した私は 作業場へ行くと そこに集まってくるメンバーに声を掛けました。
「今日の10時の休憩時間は 作業場で お茶しませんか。」と言うと 「いいですよ。」、「それじゃあ 休憩時間に自販機でコーヒー買ってきます。」といった反応が返ってきました。
会社では 労使間の協定で 就業時間中に 午前10時から10分間と 午後3時から10分間と 午後5時以降の3回の休憩時間を取ることが認められていました。
これまで休憩時間になると 職場のメンバーは 離れた場所にある談話室へ行ったり 個別にお茶を飲んだりしていました。
呼びかけに応じたメンバーは 私を含めた男性社員6名で 私と同年代の40歳代後半の2名と 40歳代前半の2名と 30歳代の1名でした。
休憩時間になると メンバーのそれぞれは 自販機で買ったコーヒーやマイポットを持ち寄り 作業台の周りに椅子を持ってきて円陣を組むように座りました。
お茶を飲み始めると 誰からとも無く 話題が提供され それに応じて会話が始まりました。
話の内容は 最近の世の中の出来事や会社での出来事やそれぞれの趣味や家族のことでした。
お互いに話をしたり聞いたりしていると 10分間の休憩時間は あっと言う間に過ぎてしまいました。
お茶会を始めて 3日目に 私は それぞれのメンバーの存在を それまでより 少し近くに感じるようになりました。
彼等の普段の表情や話し方や話の内容に接することで これまで以上に彼等の存在を認識するようになり 私の意識の中で彼等のイメージが少し強くなったように感じました。
彼等と私を繋ぐ糸は少し太くなり その間に発生する張力は少し強くなり それらとの繋がりの中に 少しだけ自分自身を安定させる効果を感じ始めました。
お茶会を始めて 1週間後の月曜日の午前8時頃に 作業室に入った私は 入り口の横の台の上に 湯沸しポットとコーヒーポットとカリタとフィルターと粉コーヒーの缶が置いてあるのに気付きました。
作業室にいたお茶会メンバーの一人は「川緑さん 休憩時間にコーヒーをいれますね。次回はマイカップの持参をお願いします。」と言いました。
休憩時間になると 彼は コーヒーセットを使ってコーヒーを入れ始めました。
彼はマイカップと紙コップを作業台の上に並べると それぞれに入れたてのコーヒーを注ぎました。
作業室に立ち込めるコーヒーの香りに誘われるように お茶会のメンバーが集まってくると 「うーん。香ばしい!」、「喫茶店が開店しましてね。」、「癒しの時間ですね。」と言った声が聞こえました。
コーヒーを準備した彼は「皆さん 交代で コーヒー当番をやりませんか。」と提案しました。
彼は 持ち回りで 粉コーヒーや用品を買うことと 休憩時間に みんなの分のコーヒーを入れることを当番制にしようと持ち掛けました。
「いいですね。」、「自販機に買いに行かなくていいし 仕事の効率も上がりますね。」、「コストメリットありますね。」との声が上がり 彼の提案は 全員一致で採択されました。
翌週に 当番が回ってきた私は コーヒーを準備しながら ちょっと楽しい気分になっていました。
報告会の資料の準備と比べると それは全く異なり 前向きな気持ちで取組める作業でした。
資料の準備は 報告会で追及される点を気にしながら行う 気を使う作業で その後の報告会の場面を想像すると 気分を暗くさせる作業でした。
一方 コーヒーの準備は 作業場のメンバーに喜ばれる作業で その後のお茶会の場面を想像すると 楽しくなる作業でした。
仕事の手を止めて お茶会に集まってきたメンバーは それぞれ棚に置いていたマイカップを取り出し コーヒーポットのコーヒーを注ぐと 近くの椅子に座りました。
彼等は コーヒーの香りに ほっと一息つくと 表情を緩ませて 誰からともなく 最近のニュース等の話題を提供しました。
ある日の午前10時の休憩時間に 私は コーヒーを求めてお茶会の場へ向かうと コーヒーポットの横に お菓子袋が置かれていました。
お菓子袋の中には 小さな袋入りの豆菓子が沢山入っていました。
私は 「これ どうしたんです?」と聞くと その日のコーヒー当番は「お茶には お茶請けが必要ですよね。」と笑顔で答えました。
お茶会に集まってきたメンバーは 豆菓子を手に取ると「こりゃあ いいですね。」、「お茶会 やめられないですね。」、「私 来週当番ですから 何か買ってきますよ。」等と言いました。
お茶会が始まり メンバーの話を聞く方に回ると 私は 豆菓子を食べました。
話をしていなくても 豆菓子を食べて口を動かすと 顔の筋肉の動きが 頭を刺激して 会話に参加しているような感じがしました。
私は 豆菓子を食べながら 昔からお茶会にはお茶請けが付き物なのは そういう理由からなのだろうかと想像しました。
豆菓子を食べて コーヒーを口にしながら私は 作業場のメンバーと自身とを繋ぐ糸を強くして 自身の居場所を確保するためのお茶会の取り組みは 逆に 作業場のメンバーによって その場が盛り上げられる展開に変わってきたと気付きました。
お茶会を始めて1年経った頃 私は お茶会が そこに集うメンバーのそれぞれに居場所を与える場となっているだけでなく 一人ひとりの知識や技術を共有し それぞれの仕事をサポートする場になっていることに気付きました。
お茶会は メンバーのそれぞれの得意なことや興味を持っていることを 他のメンバーが知る事が出来る場となっていました。
それぞれのメンバーが持つ知識や情報に触れることは お互いの仕事を進める上で助けとなることが多くありました。
私は 休憩時間のお茶会は そこに集うメンバーのメンタルヘルスに役立つだけでなく 会社の技術力を高めて 会社の経営に貢献するために必要な場だろうと考えるようになりました。
そんなことを考えていると 突然 作業室の入り口の扉が開き チームの上司が来客をつれてやってきました。
上司は 自分のチームのメンバー達が 豆菓子を食べながら コーヒーを飲んでいるのを見ると「あ!こら!何をやっているんだ。」と言いました。
休憩時間の飲食は 自動販売機が設置されている 指定の休憩室で行う事が取り決められていました。
上司は 何か言いたそうでしたが 来客の案内を優先して 彼等を作業場の奥へと誘導しました。
上司は来客を案内して 作業室にある設備を紹介して回ると 退室する時に 私に「後で話があるから 居室に来るように。」と言いました。
上司からの小言を予感しましたが 私は 今後も 作業室のお茶会の場を死守しようと思いました。
今や 私は 作業場のメンバーとの糸の繋がりが強力なものになっていて 上司の説教にも耐えて 反論できると感じていました。
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