第13話 トレーニング / 前向きな死に方
人生の折り返し点を過ぎて 身体の機能の衰えを感じていた私は 「強靭で柔軟な心身作り」の取り組みに疑問を感じ始めていました。
その取り組みに注力しても 年齢とともに その目標が手の届かないものになってしまう時が必ず来ると考えると 日々の取り組みが無駄なことに思えて 暗い気持ちになっていました。
そんな時に 私は ふと 子供の頃に 実家の近くを流れる大きな川で亡くなった高齢者のことを思い出しました。
子供の頃に 私は 夏休みになると 仲間たちと 毎日 川へ行き 魚を取って遊んでいました。
川に潜ると そこにはハエ、ウグイ、フナ、コイ、ウナギ、カマツカ、鮎等の魚や 川えび、カニ、すっぽん等がいました。
私達は 石の下に隠れている魚を手づかみで取ったり 水中眼鏡を付けて 川底まで潜り 矛で魚を突いたりしました。
その頃は 川の上流にはダムが無く 大雨が降っても 数日経てば川は澄んで 潜ると 先のほうまで見通すことができました。
透明度の高い川だったので 川底まで日差しが届き 石の上にコケも良く育ち それを餌にする鮎も多く遡上し 大きく成長していました。
町では 毎年夏に アユ祭りと呼ばれる夏の祭りが行われ 催し物の1つに鮎つり大会が開かれていました。
鮎つり大会には 釣り自慢が集まり 釣った鮎の大きさを競い 優勝者は 米などの商品がもらえました。 優勝者が釣り上げた鮎は 大人の腕の太さくらいの大きさでした。
そのような大鮎を釣る人の中に 80歳代の名人と呼ばれる人がいました。
彼は いつも 川の本流の 一番深いところに縄張りを持つ 大鮎を狙って 川の中に立ちこんで竿を出していました。
ある日 私は 父から 名人が 川に流されて 亡くなったと聞きました。
父の言葉に 私は いくら名人と言えども 年と供に 体力が衰えていき 足腰が 水流に耐えられなくなり 流されてしまったのだろうと想像しました。
父は「自分の好きなことをやっていて亡くなったんだから 名人は幸せだったよ。」と言いました。
でも 私は 名人が幸せな死に方をしたとは思えませんでした。
名人は 川の流れに足を取られた時に「しまった。」と思っても「死ぬ。」とは思わなかったことでしょう。
しかし水の中に沈んで 水を飲み込むと 呼吸ができなくなり 意識が遠くなっていくと 死ぬかもしれないと思ったことでしょう。
もしかしたら 最後の瞬間に 年をとって 川に入ったことを後悔したかも知れません。
その様に想像すると 人は誰でも年をとり 気力や体力が低下した自分を見るとやるせない気持ちになるのだろうと思いました。
時が経ち 仕事に就いた私は 鮎竿を買って鮎釣りを始めました。
友釣りと呼ばれる釣法は 長さ10メートル程の竿を用いて 囮鮎を使って野鮎を釣る方法でした。
竿先から伸びた釣り糸の先には 囮鮎の鼻に通す鼻環が付けられ 鼻環から伸びた糸の先には 鮎の尾ビレに掛けるチ針と呼ばれる針が付けられ チ針から伸びた糸の先端には 野鮎を掛けるイカリと呼ばれる掛け針が取り付けられました。
釣り糸は 囮鮎が泳ぎ易いように 水の抵抗を少なくするために 細いものが用いられ 糸の動きが見えるように 途中に 幾つかの目印が付けられました。
このような仕掛けを使って 野鮎の縄張りに囮鮎を誘導して泳がせると 野鮎は囮鮎を追い払おうとして ぶつかってくるので 自ら 掛け針に掛かりました。
鮎は 川魚の中のサラブレッドであり 泳ぐ早さと力は 他に類の無いものでした。
野鮎が仕掛けに掛かると 野鮎は囮鮎を引っ張って 川下へ あるいは川上へ すごい勢いで走りました。
釣り人は 鮎竿を立てて 竿の強靭さと柔軟性で 走る野鮎に負荷を掛けて逃がさないようにしますが 大きな野鮎が 竿の弾力が効く範囲の外へ泳いでしまうと 鮎の引っ張る力が 糸に集中してしまい 糸が切れてしまいました。
そこで 釣り人は 糸が切れないように 野鮎の動きに合わせて 川を上ったり 下ったりすることになりました。
掛け針は 野鮎を傷つけないように返しがついておらず 糸を緩めてしまうと 野鮎は 針を外して逃げてしまうので 釣り人は 常に糸を張った状態で 川を上ったり下ったりして移動しなければなりませんでした。
それは 釣り糸の動きを常に注意して 竿を持つ手元に掛かる力を捉えながらの移動であり 細心の注意が必要でした。
さらに 川原や浅瀬を移動する時には 踏んだ石の動きやすべり具合をとっさに判断して 転ばないように体重を掛けていく運動能力が求められました。
鮎つりをしながら 私は ふと 以前 故郷の川で亡くなった 鮎釣り名人のことを思い出しました。
年を取ったとはいえ 鮎つりができるだけの運動応力を持ち ベテランの名人が 水の流れに足をとられることが あったのだろうかと不思議に思いました。
ある年の6月1日 鮎つりの解禁日に 私は 子供の頃に遊んだ川に 鮎釣りにやってきました。
川沿いの道を車を走らせながら 川の様子を見ると 両岸に多くの釣り客が竿を出していました。
私は 釣り人の入っていない場所を見つけると 道路わきに車を停めて 川に下りていき 囮鮎が2匹入った囮缶を川に沈めて 仕掛けを準備しました。
数日前に 雨が降って やや水量の増した川は 薄にごりしていました。
上流に大きなダムが出来て以降は 雨が降ると 川は濁り 以前の様に きれいに澄み渡ることはなくなっていました。
私は 釣竿に仕掛けを付けると 川に入り 片膝を付いて 釣竿を首に掛け 竿の手尻を 右手の肘の内側に掛けて 両手を使えるようにしました。
囮鮎に自分の体温を当てないように川の水に手を漬けて冷やすと 囮鮎をタモに取りだし 左手の親指と人差し指の腹で鮎の目を覆うようして優しく掴むと 右手で鼻環を持ち これを鮎の鼻に通し チ針を打って 手を離し 囮鮎を泳がせました。
私は 首に巻いたタオルで手を拭くと 立ち上がり 竿を立てて釣り糸を張り 野鮎がいそうな大きな石のあるところへ囮鮎を誘導しました。
果たして釣れるのか 私は 高まる期待感と緊張感に包まれ 釣り糸の見印の動きに集中しました。
囮鮎が周りを気にせずに泳いでいる時は 目印はスムーズに移動しますが もし野鮎に追われると囮鮎の動きは不自然になり 目印は急に止まったり小刻みに動いて 囮鮎の状況を知らせました。
私は川面を移動する釣り糸に意識を集中していると 目印の動きが急に止まりました。
それを見た瞬間 全身にざわつくような感触を覚えながら 囮鮎の動きに全神経を集中しました。
目印が震えながら下流へ下るのを見ると 私の心臓は その時を待っていたかのように強く拍動し血液を体中に送り始めました。
私は 膝の深さくらいまで水に浸かった状態で 川下へと動きました。
川の中には大小さまざまな石が転がっていて 踏むと動く小石や 滑りやすい大きな石がありました。
私は 足の下の石の動きに注意しながら 川下へと動きました。
野鮎の動きが落ち着いたところで 私は 竿を立てて 慎重に 鮎を寄せると 腰に掛けていたタモを左手で持ち 鮎を取り込みました。
川に両膝をついて腰を落とし タモを水に漬けると タモの柄を腰のベルトに通して固定し 竿を首に掛け 竿尻を右肘の内側に掛け 両手をフリーにすると 囮鮎から鼻環を外し 囮缶に移しました。
「よし!釣れるぞ!」と思うと 私の血が騒ぎ 心臓は鼓動を早めました。
早まった鼓動は 私の頭に血液を送り込み 脳裏に 今晩の夕食の様子を思い描かせました。
それは 家の外で七輪に炭火を起こし 釣れた鮎を焼きながら 親兄弟が集まり 今日の釣果に祝杯を上げている場面でした。
そのようなことを想像しながら 私は 今釣れた野鮎を左手で掴むと 鼻環を掛けて 囮鮎を交換しようとしました。
その時に 風が吹いて 長い竿が傾いたので 私は 右肘に力を入れて 竿を押さえました。
竿はたわみタオルを巻いた首に重く圧し掛かったので 私は動きを止めて風が治まるのを待ちました。
風が治まると 私は 野鮎に チ針を打ち 新しい囮鮎を 川に泳がせました。
「よし! 次の野鮎を掛けるぞ!」と勢い込んで 立ち上がった瞬間に 私は 頭がふらつくのを感じて 前のめりに倒れそうになりました。
右足を一歩踏み出して倒れるのを防いだ時に 私は「ああ これだったんだ!」と思いました。
川で亡くなった鮎釣り名人も 同様に 野鮎を釣って興奮し 逸る気持ちで 勢い立ち上がった時に 立ちくらみを起こして 前向きに倒れていったのに違いないと推測しました。
私には 名人の死の瞬間の様子が 想像しいていたものとは全く違ったものに見えてきました。
名人は 野鮎を釣り上げて興奮状態にあり 釣った野鮎を肴に 仲間と一杯やりながら 釣果を語ることを思い描きながら 意識を無くして 前向きに倒れていったのだろうと推理しました。
死の真相を推理した私は 名人は死の間際まで幸せに生きたのだろうと思いました。
私は 名人が高齢になっても 川に立ち込んで野鮎を釣ることのできる「強靭で柔軟な心身」を作り上げていて その事が彼の幸せで前向きな死の瞬間を迎えることに繋がったのだろうと思いました。
名人の死の様子は 「強靭で柔軟な心身作り」の取り組みに疑問を抱いていた私に その取り組みが「幸せで前向きな死」を迎えるために必要なことだと確信させました。
もしかしたら名人は 川に倒れこんだ後に 自分が死んでしまったことに気付かずにいたのかもしれません。
そして 彼が次に 気付いた時は 三途の川で鮎つりをやっているのかもしれないと思うと なんだか嬉しい気持ちになりました。
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