第10話 トレーニング / 鉄棒
2008年2月中頃の月曜日の朝 自転車通勤途中の私は 川沿いの道を進みながら 先週の会社の朝会時の社長の話を振り返っていました。
この頃 会社は 年々拡大する市場のグローバル化と 最近の急激な円高の影響を受けて経営不振が続き ついに内部留保が尽きようとしていました。
そのような状況の中 社長は 会社を存続させるために 固定費の大幅削減を目的とした 大規模な早期退職者募集を行うことを告げました。
社長は 早期退職者を募集するのに当たり 全社員に向かって「会社にぶら下がっている人は 手を離してください!」と言いました。
社長の言動は 多くの社員を震撼させ それは 私の脳裏にも焼きついていました。
「会社にぶら下がっている」自分の姿をイメージしながら自転車を漕いでいた私は 川沿いにある公園の一角にある鉄棒に目をとめました。
普段は鉄棒を気にすることも無く通り過ぎていましたが 社長の言葉を思い出すと 鉄棒にぶら下がった感触を確かめてみたくなりました。
私は 公園の入り口に自転車を止めると 鉄棒の所まで歩いて行きました。
鉄棒は 公園の道路側沿い近くにあり 120から180センチメートルまで4段階の高さのものがそれぞれ2つずつ横並びに配置されていました。
私は 一番高い鉄棒の1つに 両手を掛けて ぶら下がってみました。
体を伸ばすと足が地面につくので 両膝を曲げて 足を宙に浮かせてぶら下がりました。
足を浮かせると 両手の指先と腕と肩に ずしりと負荷が掛かりました。
もう長い間 こんな加重を受けたことがない私の両手は 直ぐに悲鳴を上げました。
鉄棒を掴む手は自重に耐えられずにずるずると下に方にずれていき 腕は重さに対抗して屈曲する力は無く 肩は落ちるのを待つだけとなり それらの部分は自重に抵抗できない状態になりました。
「もうだめだ!落ちる!」と言うと私は 地面に足をつきました。
「ぶら下がっている人は 手をはなしてください! 」と言う社長の言葉にリンクしたように手を離した私は 会社を首になるイメージと 自身の上半身の弱体化した現状に危機感を感じました。
5年前には2回から3回の懸垂はできていましたが いつの間にか筋力が低下していました。
対策が必要だと考えた私は 通勤日には 毎日 公園に寄って 鉄棒にぶら下がると決めました。
翌日 公園に自転車を止めた 私は 鉄棒の前に立つと 左右の指を絡めて動かし 手首を回し 肘を回し 肩を回して 体を解しました。
次に 順手で鉄棒を掴むと ゆっくりとぶら下がり体を伸ばして全身に違和感が無いか確認しました。
準備運動が終わると 私は 鉄棒にぶら下がり 体を前後に揺らして 振りを始めました。
足を伸ばすと 足先が付くので 地面の近くでは膝を曲げて 振りを繰り返しました。
一度 鉄棒を離して 指先を伸ばしたり 腕を回したりした後に また鉄棒にぶら下がると 懸垂にチャレンジしました。
しかし全力で体を持ち上げようとしても 両腕は90度までしか曲がらず 鉄棒の上に顔を持ち上げることはできませんでした。
ちょっと物足りない感じで この日の鉄棒のトレーニングを終えました。
でも スポーツジムでのウエイトトレーニングの経験から これまで使っていない筋肉に負荷を掛ける辰は 自分の体が その負荷に慣れるまで 無理をしてはいけないことを学んでいました。
次の週の月曜日に 公園に寄った私は ストレッチと 鉄棒の振りを行い その後 鉄棒に両手をかけて 膝を曲げてぶら下がり 大きく息を吸って 吐きながら ゆっくりと腕を曲げました。
私の体は 徐々に上がって行き なんとか鉄棒の上にあごを持ち上げることが出来ました。
たった1回の懸垂でも 先週までできなかったことが できるようになったことに 私は とても嬉しくなり 笑顔になりました。
それでも ここで無理をしないように この週の朝のトレーニングは ストレッチと 鉄棒の振りと 懸垂1回をだけ行うことにしました。
翌週は ストレッチと 鉄棒の振りと 鉄棒の懸垂2回を行い その次の週は ストレッチと 鉄棒の振りと 鉄棒の懸垂3回を行うといったように 毎週 懸垂の回数を1回だけ増していきました。
朝の鉄棒を始めて 1ヵ月近く経った頃に 私は いつもの様に 公園に立ち寄り いつもの鉄棒のトレーニングを始めました。
朝の新鮮な空気を吸って 鉄棒に捕まり 体を前後に振っていると 突然 右手の平に痛みを感じたので 足をついて 鉄棒を離し 手のひらを見ました。
すると 中指の付け根付近と 親指の第2関節の内側付近に 手の皮が直径1センチメートルくらいの丸い形でずれていました。
皮のずれた部分に ちりちりとした痛みを感じたので 私は 鉄棒のトレーニングを中断して 会社へ向かいました。
会社に着いた時には 右手の皮がずれた部分は 水がたまり丸く膨らんでいました。
私は 1週間程 鉄棒のトレーニングを止めることにしました。
朝の鉄棒を再開して 2ヵ月近く経った頃に 私は いつもの様に 公園により ストレッチと鉄棒の振りを行い 懸垂を始めました。
この日から 私は 懸垂の回数を 先週までの5回から上げることにしていましたが 6回目の懸垂の時に 右肩の付け根付近に軽い痛みを感じました。
公園を出て会社に着く頃には 肩の痛みが酷くなり 右手が上がらなくなっていました。
ここ暫くの間 鉄棒のトレーニングで肩周りと上腕に張りを感じていましたが この日の鉄棒で 三角筋の付け根付近に肉離れを起こしてしまいました。
この日から 1ヶ月間 私は 鉄棒のトレーニングを中断することにしました。
1ヵ月後に 公園に戻った私は 以前やってたように ストレッチを行い 両手を鉄棒にかけると ゆっくり体重をかけていき 両足を地面から離して ぶらさがりました。
肩に違和感がないことを確かめると 体を揺らして 振りを5回行いました。
その後 鉄棒につかまり 肩周りを十分に動かすと 鉄棒を 握りなおして 体重を預けて ゆっくりと懸垂を1回だけ行いました。
懸垂は 痛めていた肩に意識を集中して 違和感を生じないか確認しながら行いました。
肩に意識を向けると 肩の筋肉周りを這う神経網が 肩に異常が生じないかを監視していて 何かあったら直ぐに痛みの警戒信号を送る準備をしているように感じました。
翌週に 私は ストレッチと 鉄棒の振りと 鉄棒の懸垂2回を行い その次の週には ストレッチと 鉄棒の振りと 鉄棒の懸垂3回を行い 毎週 懸垂の回数を増していきました。
朝の鉄棒を再開して 2ヵ月近く経った頃に 私は いつもの様に 公園により ストレッチを行った後に 鉄棒の振りを始めました。
この日は 湿度が高い日で 手が滑らないように手のひらの汗をハンカチで拭いて 鉄棒につかまり ましたが 振りをはじめると グリップが効かずに 手が滑りそうになりました。
思わず 両手に力を入れて 鉄棒を握ると 右手の中指の第2関節付近に痛みを感じました。
鉄棒から手を離して見ると 右手の中指が 固まって曲がらなくなっていて 指関節の筋が延びてしまったと分かりました。
この日から 1ヶ月間 私は また 鉄棒のトレーニングを中断することにしました。
1ヵ月後に 公園に戻った私は ストレッチを行い 両手を鉄棒にかけると 肩周りをよく動かし 指先を十分に伸ばして ゆっくり体重をかけていき 両足を地面から離して ぶら下がりました。
ぶら下がりながら 私は 右手の指に意識を集中し 指に違和感がないことを確かめながら 少しずつ体を揺らして 振りを5回行いました。
指に意識を向けると 指周りにある神経繊維が 加重に耐えられるかどうかを監視していて 何かあったら直ぐに警戒信号を送る準備をしているように感じました。
翌週から 私は これまでにそうして来たように 懸垂の回数を増やしていきました。
朝の鉄棒を再度再開して 3ヵ月近く経った頃に 私は いつもの様に 公園により ストレッチを行い 鉄棒の振りを始めました。
以前に比べて 大きな振りができるようになり 体が鉄棒の高さで 地面と平行になるまで振り上げる事ができるようになっていました。
体を大きく振り上げると 空の高いところが見えて 最高点に達すると 一瞬 重力を感じなくなり 自分の体が宙にういているような感覚を覚えました。
これまでに 指や手や肩の故障を経験し それらの故障を克服して よく動くようになった体は 宙に浮いたときに これまでにない開放感を覚えて 私を心地良い気分にさせました。
懸垂を15回できるようになると 以前に比べて肩周りと上腕に力がついたことを実感しました。
その後 私は 風の強い日も 雨の日も 雪の日も 公園に通いました。
冬の寒い日は よく冷えた鉄棒を掴むと 手が凍りつきそうになるのを感じました。
そういう時は 両手のひらを合わせて 強くこすり合わせ 手を温めて 深呼吸すると「よし!やるぞ!」と合を入れて 鉄棒を掴みました。
気合を入れることは 私の指や手や肩に 事前の合図を送り 怪我をしないように注意を促すことに繋がりました。
朝の鉄棒を始めて 3年経つと 鉄棒トレーニングは 私の生活のリズムを作るようになりました。
いつも同じ時間に公園に来て 同じことをやっていると 近所に住む 高齢者の人たちが 鉄棒の近くに集まってくるようになりました。
彼等は 毎日 鉄棒にぶら下がる私を 見慣れてくると 私に声をかけるようになりました。
彼等は「やー!どーも。」 「これから仕事ですか。」 「若いのは いいですなー。」と言いました。
私は「おはようございます。運動不足解消に鉄棒をやってます。」と答えました。
彼等の一人は「わしも 昔は 懸垂が出来たんですが もう無理ですなー。」と言いました。
私は 彼の言葉に 自分もいつかは 年を取って 体力が落ちて 鉄棒にぶら下がることもできなくなるのだろうと思い ちょっと暗い気分になりました。
でも 私は 直ぐに その思いに疑問を持ちました。
彼は 年を取っていく間のどこかの時点で 体と対話することを怠ってしまって 共に体を動かすのを止めてしまったではないかと思いました。
もしかしたら 彼は 今からでも 自身の体と共に懸垂をやってみようと思えば それは出来ることではないかと思いました。
そう思うと 私は いつまで鉄棒にぶら下がることができるのか続けてみようと決意しました。
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