第9話 トレーニング / 片足立ち

 2006年2月始め頃 スポーツジムに通いを始めて5年が経った頃 私の体は とても柔らかくなっていました。


 私は スポーツジムに通い ストレッチ ウエイトトレーニング エアロビクス 格闘技系エクササイズ 水泳 ヨーガのレッスンを一つずつ受けて 自身の体の反応を見てきました。


 自分の体と向き合い始めて3年が経った頃 私は自分の体に変化が起きていることに気付きました。


 それまで 固まっていた体の部位 肩周り 腰周り 膝周り 足首周り等は 私の呼びかけに答えて少しずつ伸びるようになり それまで出来なかった動きが出来るようになっていました。


 私は 自分の体の動きの変化を感じると そのことがモチベーションとなり その後もスポーツジムに通い続けて 今は 小学校の低学年の頃の様に柔らかい体になっていました。


 マットの上に足を延ばして前屈すると 足先に向かって伸ばした両手の指先は 両足の踵から先へ 30センチメートル伸ばすことが出来ました。


 マットの上で開脚すると 両足を前後や左右に開いた時の角度は 180度まで開くことが出来ました。


 私のストレッチの様子を見ていたジムの常連さん達は「ちょっと 気持ち悪くない。」「出たか たこ人間!」と言ってひやかしました。


 私は「もうちょっと違う表現があるでしょう。」と言い返しましたが それでも彼等の口調に 私のトレーニングのやり方に 一目置いていることを感じました。


 「強靭で柔軟な心身作り」の取り組みの中で 体の柔軟性には 進捗が見られた一方で 強靭さには手ごたえが感じられませんでした。


 ヨーガのレッスンを続けていても 片足立ちのポーズは 依然として 出来ませんでした。


 私は「強靭で柔軟な心身作り」の取り組みに 何か足りないものがあると感じていました。



 その頃に 勤め先の会社は 長い間低迷を続ける事業部の業績を何とか改善しようと 新しい方針を打ち出しました。


 これまで 会社のそれぞれの事業場は 市場のグローバル化に伴う製品価格の下落や 為替の急激な円高による輸出製品の利益の減少により苦戦を強いられ 業績は低迷していました。


 会社は 業績を改善しようと 新規事業の創出に力を入れましたが 思うようには行きませんでした。


 今回 会社は 見込みの無い新規事業に賭けるよりも 利益を生み出している事業に注力しようと「既存の事業で勝負しよう! 1本足立ちに磨きをかけよう!」と言う方針を打ち出しました。


 会社の方針を聞いた私は「これだ!」と思い「1本足立ち」に取組むことにしました。



 翌日午前6時頃に 職場で一番に出社した私は 誰も居ない作業室で いつもの様に屈伸と前屈と上体そらしをして準備運動をしました。


 その後 私は 今日から新規に「 1本足立ち」をやってみることにしました。


 私は 作業台の引き出しからデジタルタイマーを取り出すと 作業台の上に置き スタートボタンを押すと同時に 左足で立ち 目を閉じました。


 直ぐに体がふらつき バランスを崩して右足が床につくと 目を開けてタイマーを見ました。タイマーの表示は 7秒でした。


 私はタイマーをリセットして 同じことを 右足でやると 片足立ちの時間は 5秒でした。 


 私の利き足は右足でしたが 交通事故の後遺症により バランス感覚が悪くなっているようでした。

 


 この日から毎朝 私は 目を閉じての片足立ちを行い その時間を記録することにしました。


 夜に自宅に帰った私は パソコンを立ち上げてエクセルを開くと「片足立ち」と名づけたファイルを作成しました。


 ファイルのA列に 1ヶ月間の日付を記入し B列に左足立ちの時間を、C列に右足立ちの時間を、D列にコメント欄を作成しました。


 E列に翌月のカレンダーを記入し 以降の列は同様にして 1つのシートに半月分の記録枠を作成しました。


  「片足立ち」ファイルのシートを作成すると この日の片足立ち時間を記入しました。

 


 片足立ちを初めてから1年後に 私は その月の 「片足立ち」ファイルのデータを見ると 月平均の片足立ち時間は 左足が1分8秒 右足が1分12秒となっていました。


 月内の片足立ち時間には ばらつきがあり その原因は その日の体調や気分や 天候の影響等でした。


 湿度の高い日や 気圧が低い日は頭がぼんやりして 意識を集中できずに 片足立ちできる時間は短かくなり また 熱がある日や二日酔いの日も その時間は短かくなりました。


 人のバランス感覚は 目から入る周りのものの画像データと 内耳にある三半規管が感じる平衡感覚のデータを脳が処理して運動器官を動かすことにより保たれますが その割合は 目から入るデータに大きく依存するものでした。 


 目をつぶってのバランスは 普段あまり意識していない耳の平行感覚に頼るものなので バランス感覚の強化は 耳の存在やその仕事を意識して 耳の声に耳を傾けることが必要でした。

  

 1ヶ月の月内の片足立ち時間には 大きな進捗は見られませんでしたが それでも 1年間の片足立ちトレーニングは 少しずつ その効果を上げていました。


 トレーニングを続ければ 足腰を強靭化しバランス感覚を身につけることが出来ると確信しました。



 片足立ちトレーニングを初めて5年後の月平均の片足立ち時間は 左足が4分15秒 右足が8分10秒でした。


 両足共に 片足立ち出来る時間は長くなっていましたが 私は 両足が靴に頼ってバランスしようとしていることに気付きました。


 靴を履いて片足立ちした時に 自身のバランス感覚は 靴の弾力や剛性に助けられていることが分りました。


 片足立ちで体がふらつくと 足腰や上半身の色々な筋肉が 収縮したり弛緩したりしてバランスを保とうとしますが その時に 足の踏む力を 靴がサポートしていました。


 体の左右への揺れや前後への傾きを抑えようとする足の動きは 靴底の柔軟性と剛性により補強され 足を固定する靴の材質の強靭性により強化されていました。


 いつの間にか 私の両足は 靴に頼ってバランスを取ることを覚えて 自身の強靭さと柔軟性を高める努力を怠っていました。


 私は バランス感覚をより強化するために 靴は妨げになっていると思いました。



 翌日の朝5時に起きた私は 朝食の後 フローリングのリビングで 素足で片足立ちを始めました。


 片足立ちできた時間は 左足が1分4秒 右足が2分7秒であり 昨日の靴を履いての片足立ち時間から大幅に減少していました。


 これまで靴に頼って楽をしていた両足は 後ろ盾を無くし その実力があらわになりました。


 私は 左右の足と共に今の片足立ちの実力を受け止めると 今後は 自らの強靭さと柔軟性を求めるために素足で片足立ちを行うことにしました。



 片足立ちトレーニングを始めて 7年後の月平均の片足立ちできる時間は 左足が3分18秒 左足が6分9秒でした。

   

 この頃に私は バランスを取ろうとする意識とバランスの間に不思議な関係があると気付きました。


 それは バランスに集中しようとすればするほど バランスを崩してしまうことでした。


 バランスに集中しようとして 体の傾きを感じた瞬間に 体勢を立て直そうとして 足腰に力を入れると 体は 大きく逆の方向に傾いてしまい バランスを崩してしまいました。


 逆に 片足立ち中に 何かほかの事を 例えば 気に入っている曲のメロディを思い出したりしている時の方が 片足立ちの時間は伸びる傾向にありました。


 片足立ちは ある程度 自分の体に備わったバランス機能に任せてしまった方が良く バランスしていることに意識を向けることは バランス機能に余計な干渉を与えてしまうようでした。


 それは まるで 会社の仕事の現場で 手足の様に働く実務者が 一生懸命がんばろうとしているところへ 管理職の上司が 余計な口出しをして 仕事の進捗を妨げているかのようでした。


 私の両足は「任せてくれたら 仕事はちゃんとやるよ!」と言っているようでした。


 私は 片足立ちを行う時に CDプレイヤーを掛けて 流れる曲を聴くことで 自分の意識を両足から遠ざけて それらにバランスを任せることにしました。


 私は 曲の長さが6分20秒間の ヨハン・パッヘルベルのカノンを掛けて片足立ちを行うことにしました。



 片足立ちトレーニングを始めて8年後の月平均の片足立ち時間は 左足が4分13秒 右足は 曲が終わるまでの6分20秒間でした。


 右足は それ以上の時間 立っていることが出来ましたが 局の終わる時間を上限としました。


 CDを聞きながらの片足立ちのトレーニングは 徐々に バランスできる時間を延ばしてきた一方 同じ局を毎日聞いていると それに飽きて自分の意識が曲から離れてバランスの状態に向いてしまい 体がふらつきました。


 私は 自分の意識を バランスから 遠ざけるための新しい方法を考えました。


 私は 以前から 休日には 家の近くの川沿いの道を1時間程歩くのが習慣になっていました。


 川沿いの散歩道は 2級河川の両側の土手の上にあり 数百メートル毎に川に掛かる橋の所は 橋の下を通る道が整備されてあり 歩きやすいものでした。


 私は 川沿いの散歩道の様子や橋の形を記憶していて 片足立ちのトレーニングに 散歩道のイメージを取り入れることにしました。



 翌日の朝 私は いつもの様に CDプレイヤーを回しながら 目をつぶって右足で立つと 曲の流れに合わせて 散歩道の場面を思い浮かべました。


 家を出て 裏道を通って 川沿いの道に出て 川が流れる方向に歩いて行き 幾つかの橋の下を通り ある橋のたもとまで来ると そこから引き返し 来た道を通って 家に戻るまでをイメージしました。


 CDから流れる音楽のリズムを聞き取りながら 散歩道を歩く様子を思い浮かべると 自分が前に向かって進んでいくことを感じる事ができました。


 前に向かって進む感じは 曲のリズムと合わさって 片足立ちを続けさせる効果がありました。



 片足立ちトレーニングを始めて 9年後の月平均の片足立ち時間は 左足が5分30秒 右足は曲が終わるまでの6分20秒を維持していました。


 私は この9年間の片足立ちの記録を 振り返ると 確実に 片足で立てる時間が延びてきたことが分かり その伸び方に 規則性があることも分りました。


 片足立ち時間は 月初めの5日間程の間にその月のベストタイムがあり 片足立ち時間の月の平均値を押し上げていました。


 月初めには その月の平均の記録を伸ばそうという思いがあり それは記録に反映されていました。


 月の中頃になると 気持ちに体がついていかなくなり 月の終わり頃には ここでがんばっても平均値には効いて来ないというあきらめ感があり それぞれの思いが記録に反映されていました。


 片足立ちトレーニングの記録は 私に もし何か目標を立てたら 目標に至るまでに日々記録を取ることと 節目々々に途中経過をまとめて 再スタートを切ることが効果的なのだと思わせました。



 片足立ちトレーニングを始めて 10年後の月平均の片足立ち時間は 左右の足供に 曲が終わる6分20秒に達していました。

  

 私は 片足立ちの難易度を上げることにしました。


 左足で立つ時は 右ひざを曲げて足の平を左足の内腿に当てて立ち 右足で立つ時は 同様に左足の平を右足の内腿に当てて立つことにしました。


 難易度を上げた片足立ちの時間は 左足が6秒 右足が9秒でした。

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